第5回/召使いの娘
ベスは、夜明け前に起きる。
城じゅうの暖炉に火を入れるのが、彼女の務めだった。十五になったばかりの、いちばん年若い召使い。冷たい灰をかき出し、新しい薪をくべ、火を熾す。指はいつもあかぎれ、爪の奥には炭がしみついていた。けれど寝室の暖炉を熾すとき、ベスはいつも、ほんの少し、息をのむ。
奥さまの寝室は、城でいちばん美しい部屋だった。
羽毛の寝具、銀の燭台、磨き上げられた鏡。薔薇水のかすかな香り。ベスは火を熾しながら、いつも盗み見た。眠る奥さまの、白い額を。亜麻色の髪を。なんて美しい人だろう、と思った。なんて、満たされた人だろう、と。
ベスの母は、去年の冬に死んだ。咳の病で。薬を買う銭はなかった。父は畑を耕し、弟は腹を空かせて泣いた。ベスはこの城に奉公に上がり、わずかな給金を家に送った。だから、わかっていた。奥さまの世界が、どれほど遠く、どれほど恵まれているか。
雨の漏らない屋根。飢えの心配のない食卓。骨まで愛してくれる夫。
奥さまには、欲しいものが、何ひとつないはずだった。
それなのに、とベスは思う。最近、奥さまの顔が、変わった。
以前は、いつも穏やかに微笑んでいた。波のない、凪いだ湖のような顔。けれど、このごろは違う。ふとした拍子に、遠くを見る。窓の外を、何かを探すように見つめる。微笑みの奥に、ベスには名づけられない、別の何かが揺れていた。
ある日、回廊を拭いていたとき、ベスは奥さまを見た。
奥さまは、閉じた窓のそばに立っていた。指先を硝子に当て、外を見ていた。城門の外、街道のあたりを。その横顔を、ベスは雑巾を握ったまま、見つめた。
奥さまの目に、見たことのないものが宿っていた。飢えだ、とベスは思った。それから、自分の考えに驚いた。飢え。満たされたものに、飢えなどあるはずがない。けれど、ベスはその目を知っていた。母が、薬を買えなかった冬に、何度も浮かべた目。手の届かないものを、それでも求めずにいられない、あの目だった。
ベスは、ぞくりとした。
奥さまは、何を飢えているのだろう。すべてを持っているのに。
その答えを、ベスは、見てしまった。
ある晩のことだった。ベスは厨房の残り火を確かめに、裏庭へ出た。すると、小門が、わずかに開いていた。掛金が外れている。ベスは閉めようと近づき――そして、坂の下に、人影を見た。
奥さまだった。外套を羽織り、ひとりで坂を下りていく。城を、抜け出していく。
ベスは息を止めた。
坂の下、街道のわきには、旅の者たちの焚き火があった。あのジプシーたちだ。城門で歌い、それから空き地に居ついた、流れ者。奥さまは、その火のほうへ、まっすぐに歩いていった。
ベスは、小門の陰に身を隠した。心臓が、激しく打った。
火のそばに、女がいた。黄いろの布で髪を束ねた女。奥さまは、その女のそばに座った。二人は、何か話していた。声は、ここまでは届かない。けれど、ベスには見えた。火明かりのなかの、奥さまの横顔が。
その顔は、城のなかで見るどの顔とも、違っていた。
凪いだ湖の顔ではなかった。微笑みの仮面でもなかった。火に照らされた奥さまの顔は、生きていた。怯えと、喜びと、何かを欲しがる激しさとが、むき出しのまま、そこにあった。ベスが、ただの一度も、城のなかで見たことのない顔だった。
ベスは、わかってしまった。奥さまが何を飢えていたのか。
それは、薬でも、パンでも、屋根でもなかった。あんなふうに――火のそばで、誰かに見つめられ、自分の顔をむき出しにできる、そのことだったのだ。城のなかで、奥さまは飢えていた。満たされながら、飢えていた。
ベスには、それが、恐ろしかった。
なぜなら、ベスにはわからなかったからだ。すべてを持つ人が、なぜ、あんな流れ者の火のそばで、あんな顔をするのか。ベスの母なら、奥さまの寝具一枚で、冬を越せたかもしれない。奥さまの食卓のパン一切れで、弟の腹は満ちたかもしれない。それほどのものを持ちながら、奥さまは、なお飢えている。
その飢えは、ベスには贅沢に見えた。同時に、ひどく、まっとうなものにも見えた。
ベスは、わからないまま、小門の陰で、震えていた。
やがて奥さまが立ち上がり、坂を上ってきた。ベスは慌てて厨房の壁にへばりついた。奥さまが小門をくぐる。その顔は、もう、いつもの穏やかな顔に戻っていた。けれど、ベスは知ってしまった。その仮面の下に、何があるかを。
奥さまが通り過ぎたあと、ベスは長いあいだ、動けなかった。
翌朝、ベスは奥さまの寝室の暖炉を熾した。
奥さまは、目を覚ましていた。寝椅子に座り、窓の外を見ていた。ベスが火を熾す音に、振り返った。
「ベス」と奥さまは言った。「早いのね」
「はい、奥さま」
「火を、ありがとう」
奥さまの声は、穏やかだった。けれどその目は、ベスをまっすぐに見ていた。ベスは、火かき棒を握る手に、力をこめた。見たことを、言うべきだろうか。伯爵さまに。城の誰かに。奥さまが、夜ごと城を抜け出していることを。
それが、召使いの務めかもしれなかった。
「奥さま」とベスは言った。声が、かすれた。「あの――」
奥さまが、ベスを見た。その目に、かすかな怯えが走った。見られている、と知っている目だった。ベスに、見られていたと、わかっている目だった。
二人の視線が、絡んだ。火が、ぱちりと爆ぜた。
ベスは、母のことを思った。手の届かないものを求めた、あの目を。それから、火のそばの奥さまの、むき出しの顔を思った。
「あの、火の加減は」とベスは言った。「これで、よろしいでしょうか」
奥さまの肩から、力が抜けた。
「ええ」と奥さまは言った。「ちょうどいいわ。ありがとう、ベス」
ベスは頭を下げ、退がった。扉を閉める間際、もう一度だけ、奥さまを見た。奥さまは、また窓の外を見ていた。街道のほうを。
廊下に出て、ベスは胸に手を当てた。心臓が、まだ速かった。
わたしは、何も見ていない。ベスは、自分にそう言い聞かせた。何も見ていないし、何も言わない。なぜそう決めたのか、自分でもわからなかった。ただ、あの火のそばの顔を――あんなにも生きていた顔を――消してしまうことが、できなかった。
それが、罪なのか、情けなのか、ベスにはわからなかった。
窓の外で、朝の光が、街道を照らしはじめていた。空き地の焚き火は、もう、消えていた。




