第4回/二度目の歌
その夜、ジェーンは城を抜け出した。
侍女が寝静まるのを待ち、外套を羽織り、裏の小門から。掛金を外す指が震えた。咎められたら、何と言おう。けれど誰も来なかった。門は、思いのほかあっさりと開いた。長いあいだ閉ざされていたはずのものが、こんなにも容易く開くことに、彼女は驚いた。
外は、闇だった。
城のなかには、いつも灯りがあった。蠟燭が、暖炉が、夜じゅう部屋を照らしていた。けれど外の闇は、底がなかった。月は雲に隠れ、足もともおぼつかない。冷たい空気が肺の奥まで入り込み、ジェーンは思わず立ちすくんだ。これほど深い闇のなかを、ひとりで歩いたことはなかった。
それでも、火が見えた。
街道のわきの空き地に、小さな焚き火が揺れていた。その光だけを頼りに、彼女は坂を下りた。草の露が裾を濡らし、冷たさが足首を這い上がった。一歩ごとに、自分の心臓の音が聞こえた。
火のそばに、女がいた。
黄いろの布で髪を束ねた、あの女。膝を抱え、火を見つめている。男たちの姿はなかった。女はひとりだった。ジェーンが近づくと、顔も上げずに言った。
「来ると思ったよ」
ジェーンは火のそばに、少し離れて座った。炎の熱が、頰の片側だけを温めた。反対の頰は、夜気に冷えたままだった。半分が熱く、半分が冷たい。その感覚が、奇妙に生々しかった。城の、どこも同じ温度の空気とは、まるで違う。
女は、低く歌いはじめた。
言葉のない歌だった。節だけが、火の粉のように、闇へのぼっていく。低く、地を這い、それから不意に、高く跳ねる。あの日、城門で聞いた声。整えられていない、むき出しの声。近くで聞くと、その声には、かすれや、震えや、息継ぎのあとが、はっきりと刻まれていた。完璧ではなかった。完璧ではないからこそ、生きていた。
「あんたも歌いな」と女が言った。歌の合間に。
ジェーンの体がこわばった。
「わたしは――歌えないわ」
「声はあるだろう」
「ええ。でも」彼女は火を見つめた。「歌い方を、知らないの」
それは本当だった。城では、彼女のために楽人が歌った。客人のために、彼女は微笑んで聞いた。けれど自分の声を、自分のために響かせたことは、一度もなかった。彼女の声は、いつも誰かに向けられた礼や、応えや、頷きのためにあった。喉の奥に、自分だけの声が、あるのかどうかすら、わからなかった。
「知らないんじゃない」と女は言った。「忘れたんだ。長いこと、誰かのために黙ってきたからさ」
ジェーンは女を見た。火明かりのなかで、その横顔は、年老いて見えたり、若く見えたりした。
「あんた、欲しがるのが、こわいんだろう」と女は続けた。火を見たまま。「欲しがるのは、罪じゃないよ」
「罪だなんて――」
「思ってるさ。顔に書いてある」女は短く笑った。乾いた笑い。「これだけ与えられて、まだ何か欲しがるのか。そう自分を責めてる。誰に教わったんだい、そんなこと」
ジェーンは答えられなかった。
誰に教わったのでもなかった。ただ、いつのまにか、そうなっていた。これほど尽くされて、これほど満たされて、それでも胸の奥が疼くなら――悪いのは、きっと自分のほうだ。足りないものなど何もないのに飢えを覚えるのは、自分が強欲だからだ。そう思い込むことで、彼女は長いあいだ、自分の渇きに蓋をしてきた。
「欲しがることは、罪じゃない」女はもう一度、ゆっくりと言った。今度は、ジェーンの目を見て。「ただ、こわいだけさ。欲しがれば、いまあるものを、手放すことになるからね」
火が、ぱちりと爆ぜた。火の粉が舞い上がり、闇に消えた。
ジェーンは、口を開いた。声を出してみようとした。けれど喉は、やはりこわばっていた。代わりに、こぼれたのは、問いだった。
「あなたの名を、まだ聞いていない」
女は答えなかった。ただ、また歌いはじめた。
その歌に、ジェーンは耳を澄ませた。やがて、ほんのわずか、彼女の唇が動いた。声にはならなかった。けれど、喉の奥で、何かがかすかに震えた。長く眠っていた筋肉が、ためらいながら、目を覚まそうとするように。
女の歌が止んだ。
「あんたたちは」と女は言った。「もうじき、いなくなるのね」
ジェーンが訊いたのではなかった。女が、ひとりごとのように言ったのだった。一族は、土地に長く留まらない。風のように来て、風のように去る。それが彼らの生き方なのだと、ジェーンにもわかった。
胸が、締めつけられた。この火も、この声も、いつか消える。そう思うと、なぜか、城のどんな宝を失うよりも、こわかった。
「行かないで」と、思わず言いそうになった。けれど、その言葉は飲み込んだ。引き留める権利が、自分にあるとは思えなかった。
帰り道、ジェーンは闇のなかを、ひとりで上った。
足もとは見えなかった。それでも、不思議と、転ばなかった。冷たい風が頰を打ち、草の匂いが鼻をついた。生きている、と全身で感じた。半分熱く、半分冷たかったあの感覚が、まだ頰に残っていた。
城が近づいたとき、彼女はふと、立ち止まった。
そして、声を出してみた。小さく。誰にも聞こえないほど、小さく。
「ジェーン」
自分の名だった。父が与え、夫が冠した名。けれど、いま、闇のなかで、自分の喉から、自分のために響かせた、その音は。
はじめて、自分のものに、聞こえた。




