第3回/先回りの檻
朝の光が、まだ芽吹かぬ庭に差していた。
ジェーンは久しぶりに、自分から城を歩き出た。あの女の問いが、胸の奥で消えずにいた。何が欲しいか。
答えを探すうち、ひとつ、小さな望みが芽生えていた。庭だ。
城の南に広がる庭を、自分の手で変えてみたい。隅に薬草を植え、垣根を一本、好きな場所に移したい。
たいした望みではなかった。けれど、自分で見つけた望みだった。
それだけで、足の運びが、いつもより軽かった。
庭へ出ると、土の匂いが立ちのぼった。湿った、濃い匂い。ジェーンは膝をつき、地面に手を触れた。冷たく、しっとりと指に吸いついた。ここに薬草を、と思った。日当たりのよいこの隅に。垣根は少し東へ寄せて、朝の光を通せばいい。頭のなかで、庭が組み変わっていく。胸が、かすかに高鳴った。
「お気に召しましたか」
背後で、庭師の声がした。年老いた男が、帽子を取って頭を垂れている。
「ここに薬草を植えたいの」とジェーンは言った。声が弾むのを、抑えられなかった。「日が当たるでしょう。それから垣根を――」
「薬草でしたら」と庭師は言った。「もう、西の囲いに揃えてございます。伯爵さまのお申しつけで。奥さまがいつかお望みになるだろうと」
ジェーンの指が、土の上で止まった。
「西の、囲い」
「はい。よく茂っております。日当たりも、風よけも、考え抜かれた場所でございます。垣根のことも――」庭師は東のほうを指した。「先月、伯爵さまのご指図で、あちらへ移してございます。朝の光がよく通るようにと。奥さまの寝室から、ちょうど望める向きに」
ジェーンは立ち上がった。膝についた土が、衣の裾に黒く残った。
東を見た。垣根は、すでにそこにあった。彼女が、たった今、頭のなかで動かそうとした、まさにその場所に。朝の光を通す向きに。彼女が望むより先に、望むとおりに、整えられていた。
胸の高鳴りが、すっと引いていった。あとに残ったのは、うまく名づけられない、冷たい何かだった。
彼女は礼を言わなかった。言葉が出てこなかった。庭師は怪訝そうに頭を下げ、退がっていった。
その日の午後、ジェーンは刺繍の枠を取り出した。
鳥の図案。翼が、まだ半分だった。残りの羽を、彼女は今日こそ自分の手で縫おうと思った。一針ずつ、ゆっくりでいい。下手でもいい。自分の指で、この鳥を空へ飛ばしてやりたかった。
針に糸を通す。指先がかすかに震えた。久しく、自分の手で何かを仕上げたことがなかった。最初のひと針が、布を抜けた。その手応えが、奇妙にうれしかった。糸を引く。少し歪んだ。かまわない。次の針を――
「奥さま」
侍女が入ってきた。両手で、布をささげ持っている。
「お仕上がりです」
ジェーンの手が止まった。「何が」
侍女が布を広げた。あの鳥だった。翼が、両方とも、完璧に縫い上げられていた。一分の歪みもない、見事な羽。羽の一枚一枚に、繊細な陰影まで施されている。彼女の歪んだ半分とは、比べるべくもない、職人の手だった。
「伯爵さまが」と侍女は言った。「奥さまがいつまでもお仕上げにならぬのを、お気にかけて。腕のよい者に頼まれました。これで肩の凝るお仕事から解放されますでしょう、と」
ジェーンは、自分の膝の上の枠を見下ろした。針が一本、布に刺さったまま、糸を垂らしていた。たった一針。彼女が今日、縫った、たった一針。
それすら、もう、いらないものになった。
「ありがとう」と彼女は言った。
その言葉が、口から、ほとんど勝手にこぼれ出た。長年、彼女の唇に刻まれた音。差し出されたものへ返す、ただひとつの返事。ありがとう。ありがとう。それ以外の言葉を、彼女はもう、どう使えばいいのか、わからなくなっていた。
侍女が退がったあと、ジェーンは枠から布を外した。縫いかけの、歪んだ半分の翼。それを、たたんで、櫃の奥へしまった。仕上がった完璧な鳥は、侍女が壁に掛けていった。
彼女は窓辺に立った。
夕暮れの庭が見えた。東に移された垣根。西に揃えられた薬草。どれも美しかった。よく考え抜かれ、よく整えられていた。彼女がこの庭に望んだことは、もう何ひとつ残っていなかった。望む前に、すべてが叶えられていたから。叶えられたものに、人は、もう手を伸ばせない。
これは愛なのだ、と彼女は思った。疑いようもなく、これは愛だった。彼は彼女を案じ、彼女のために考え、彼女が口を開くより先に動いた。世界じゅうの妻が羨むだろう。これほど尽くす夫を。
それなのに。
胸の奥の、あの場所が、また疼いた。ジェーンは自分の手のひらを見た。何も持っていない、空いた手。差し出されるばかりで、掴むことのない手。この手で、最後に何かを自分のものにしたのは、いつだったろう。
夕食の席で、伯爵は機嫌がよかった。
「鳥の刺繍、見事に仕上がったでしょう」と彼は言った。やさしい目で。「あなたが気に病んでいたから。これで安心です」
「ええ」とジェーンは言った。「ありがとう」
魚は骨が抜かれ、果実は皮が剝かれていた。彼女はただ、口へ運んだ。
その夜、寝室へ戻る前に、ジェーンは庭へ降りた。侍女の目を盗み、ひとりで。
東の垣根のそばに、雑草が一本、伸びていた。整えられた庭の、たったひとつの乱れ。庭師が見落としたのだろう。明日には抜かれてしまうに違いなかった。
ジェーンは、その雑草の前にしゃがんだ。細い、名もない草。誰も植えず、誰も望まなかった草。けれど自分の力で、整えられた地面を破って伸びていた。
彼女は、それを抜かなかった。
指先で、そっと葉に触れただけだった。冷たい夜気のなかで、その葉は、かすかに湿っていた。生きている、と思った。誰の手も借りず、誰の許しも得ず、ただ生きている。
風が吹いた。城の向こう、街道のあたりに、小さな火が見えた気がした。ジェーンは長いあいだ、その雑草のそばに、しゃがんでいた。




