第2回/黄いろの女
三つの影は、城を去らなかった。
翌朝、ジェーンが東の回廊へ出ると、城門の外、街道のわきの空き地に、彼らの姿があった。荷車が一台、痩せた驢馬が一頭。色のくすんだ布で組んだ粗末な天幕。そこに旅の者たちが居を構えていた。煮炊きの煙が細く立ちのぼり、朝の風に流れて消えていく。
ジェーンは窓辺に立ったまま、しばらくそれを眺めていた。昨日の声が、まだ耳の奥に残っていた。
その日の午後、彼女は城を出た。
施しをするのだと、自分に言い聞かせた。領主の妻として、門前の貧しい旅人に施すのは当然のことだった。誰に咎められることでもない。籠に白パンといくらかの銭を入れ、侍女を遠ざけ、ひとりで坂を下りた。
外の空気は、思っていたよりずっと冷たく、そして広かった。城のなかの、いつも同じ温度に均された空気とは違う。風が頰を打ち、土と煙と、馬の匂いがまじって鼻をついた。足もとの地面はでこぼことして、薄い靴底ごしに小石の固さが伝わった。歩くたびに、自分の体の重みを、生まれて初めて感じるようだった。
天幕の前に、女がひとり、地に座っていた。
齢のほどはわからなかった。陽に灼けた肌に、いくつもの細い皺。けれど目だけが、奇妙に若かった。乱れた黒髪を、色あせた黄いろの布で無造作に束ねている。膝には繕いかけの上衣。針を持つ手は止まらず、こちらを見もしない。
ほかの二人――昨日歌っていた男たちは、少し離れた火のそばにいた。
「あの」とジェーンは言った。声が、思ったより小さく出た。
女は顔を上げなかった。
ジェーンは籠を差し出した。「これを。パンと、それから――」
「いらないよ」
女の声は、低く、乾いていた。針を動かす手も止めずに、それだけ言った。
ジェーンは籠を持ったまま立ち尽くした。差し出した手の行き場がなかった。施しを断られるということが、彼女の知る世界には、なかった。城の者は皆、彼女の差し出すものを、頭を垂れて受け取った。受け取り、礼を言い、退がっていった。それが当たり前のことだった。
「でも」と彼女は言った。「お困りでしょう。何か、いるものがあれば」
「あんたに困らされちゃいないさ」
女の手が、ようやく止まった。顔を上げる。その目が、まっすぐにジェーンを射た。陽に灼けた顔のなかで、その目だけが、深い泉のように暗く澄んでいた。
ジェーンは、見られている、と思った。
それは奇妙な感覚だった。城のなかでも、彼女は始終、人の目にさらされていた。侍女の目、夫の目、客人の目。けれどそれらの目は、いつも彼女の「美しい伯爵夫人」を見ていた。髪を、衣を、佇まいを。誰も、その奥を見ようとはしなかった。
この女の目は、違った。衣も髪も飛び越えて、その奥の、何か裸のものを覗き込んでくる。ジェーンは思わず、籠を胸の前で抱えた。隠すように。
「あんた」と女は言った。「何が欲しいんだい」
風が、二人のあいだを抜けた。煙の匂いが揺れた。
ジェーンは口を開いた。けれど、言葉が出てこなかった。
何が欲しいか。そんなことを問われたのは、いつ以来だろう。いや――問われた覚えが、ひとつもなかった。城では、彼女が欲しがる前に、すべてが与えられた。望みは、口にする間もなく叶えられた。だから彼女は、欲しがるという作業を、長いあいだ、していなかった。
その筋肉が、どこかで、こわばって動かなくなっていた。
「わたしは」と彼女は言いかけた。「わたしは……何も。足りないものは、何も」
「そんなこと訊いちゃいない」女は遮った。「足りてるかじゃない。欲しいものを訊いてるんだ」
足りていることと、欲しいもの。
その二つが別のものだということに、ジェーンはこのとき初めて気づいた。胸の奥の、昨日疼いたあの場所が、また、かすかにうずいた。
彼女は答えられなかった。緑の瞳が、わずかに揺れた。
女はそれを見て、ふっと、唇のはしを動かした。笑ったのか、ただ息を吐いたのか、わからなかった。そして再び針を取り、繕いものに目を落とした。もう用は済んだ、とでもいうように。
「お名前を」とジェーンは言った。せめて、それだけでも掴みたかった。「あなたの、お名前は」
女は答えなかった。針が布を抜ける、かすかな音だけがした。
「教えてくださらないの」
「名なんざ」と女は言った。顔は上げなかった。「持ってどうするのさ。あんたみたいに、立派な名を持って、それで何が変わった」
ジェーンの胸を、その言葉が貫いた。
レディ・ジェーン・ハミルトン。キャシリス伯爵夫人。立派な名だった。誰もがその名を知り、その名に頭を垂れた。けれどその名は、彼女のものでありながら、彼女のものではなかった。父が与え、夫が冠した名。彼女自身が選んだものは、そのなかに、何ひとつなかった。
返す言葉がなかった。
ジェーンは籠を抱えたまま、坂を上った。施しのパンも銭も、籠のなかに残ったままだった。
城へ戻ると、いつもの温度の、いつもの空気が彼女を迎えた。暖炉の火、整えられた寝椅子、湯気の立つ乳。何ひとつ足りないもののない、彼女の世界。
その夜、ジェーンは眠れなかった。
掛布は重く、温かかった。けれど目を閉じるたびに、あの問いが耳の奥でよみがえった。乾いた、低い声。何が欲しいんだい。
彼女は暗い天井を見上げ、答えを探した。けれど、いくら探しても、見つからなかった。探し方そのものを、忘れていた。
窓の外で、風が鳴っていた。その向こうの、街道のわきに、小さな火が灯っているはずだった。彼女はそれを、見ることができなかった。窓は、固く閉ざされていた。




