第1回/城門に三つの声
夜明けの城は、いつも先に目覚めている。
レディ・ジェーンが瞼を開くより早く、寝室の暖炉には新しい薪がくべられていた。橙の火が石壁を舐め、部屋のすみずみまで均された温みが満ちている。寒さを覚える間もない。掛布は羽毛の重みでやわらかく胸を押さえ、その上にもう一枚、彼女が肌寒さを訴える前に、ひざ掛けが足されていた。枕もとには湯気の立つ蜂蜜入りの乳が置かれ、銀の匙が縁に添えてある。匙の柄は、握りやすいように、ほんの少しだけこちらへ傾けてあった。
すべてが、彼女が望む前に、そこにあった。
「お目覚めですか」
伯爵の声だった。寝椅子に腰かけ、彼女が起きるのを待っていたらしい。藍の上衣に皺ひとつなく、灰のまじりはじめた髪はきれいに撫でつけられている。やさしい目だった。村の誰に訊いても、この人ほど妻を大切にする領主はいないと答えるだろう。実際、そうなのだ。
「窓のそばが冷えますから、寝椅子はこちらへ移させました」と彼は言った。「昨夜、あなたが少し咳をなさったので」
ジェーンは咳をした覚えがなかった。けれど、たぶんしたのだろう。彼が言うなら、したのだ。
「ありがとう」
その言葉は、もう何千回も口にしてきた。朝、彼女の唇からこぼれる最初の音は、たいていこの五文字だった。蜂蜜の乳をひと口含む。甘い。少しも熱すぎず、少しもぬるすぎない。彼女の舌が好む、ちょうどその温度。
身支度のあいだ、侍女が三人がかりで髪を編み、襟を整えた。鏡のなかの女は美しかった。亜麻色の髪、白い額、深い緑の瞳。誰もが羨む伯爵夫人がそこにいた。ジェーンはその顔を、まるで他人のもののように眺めた。
朝の食卓では、彼女の皿に好物ばかりが並んだ。林檎を煮たもの、やわらかい白パン、塩を控えた魚。果実は種を抜き、皮を剝き、ひと口の大きさに切り分けてあった。手を汚すことも、骨を選ることもない。彼女はただ、用意されたものを口へ運べばよかった。
「今日は刺繍の続きをなさるとよい」と伯爵が言った。「あなたのあの、鳥の図案。あれは見事です」
ジェーンは頷いた。鳥の刺繍は、まだ翼の半分しか縫えていなかった。いつか自分の手で仕上げたいと思っていた。そのことを、なぜか口にはしなかった。
食後、彼女は東の回廊を歩いた。これが、一日のうちで彼女がひとりになれる、わずかな時間だった。長い窓がいくつも並び、磨かれた床に朝の光が長く伸びている。回廊の窓はどれも閉ざされていた。隙間風が入らぬよう、いつも固く。
その窓の一枚に、ジェーンは指先を当てた。硝子は冷たかった。外では春のはじまりの風が、まだ芽吹かぬ木々を揺らしているはずだった。けれど音は届かない。厚い硝子と石の壁が、外のすべてを遠ざけていた。
ふと、いつかの夜のことを思い出した。寝床で、彼女は何の気なしに言ったのだ。「雨の音が好き」と。ただそれだけ。深い意味はなかった。すると伯爵は静かに立ち上がり、開いていた窓を閉めた。「冷えるといけません」と。彼女の体を案じて。やさしさから。あの夜以来、雨の音を、彼女は寝床で聞いていない。
なぜあの時、自分はもう一度「開けておいて」と言わなかったのだろう。
指先の冷たさを硝子に預けたまま、ジェーンが小さく息をついた、そのときだった。
歌が、聞こえた。
はじめは風かと思った。けれどそれは、たしかに人の声だった。閉ざされた窓を、厚い壁を、なお越えてくる声。低く、地を這うような声がひとつ。その上を、高く、空へ駆けのぼるような声がひとつ。二つの声が、もつれ、ほどけ、また絡みあう。
ジェーンの指が、硝子の上で止まった。
何の歌かはわからなかった。言葉も、節も、聞き慣れぬものだった。けれど、それは彼女がこれまで城のなかで聞いてきた、どんな音楽とも違っていた。整えられていない。磨かれていない。誰かのために形を直された音ではない。生のまま、むき出しのまま、風に乗って投げ出された声だった。
胸の奥の、長く触れられずにいた場所が、ふいに疼いた。
彼女は窓へ顔を近づけた。硝子に額がつくほどに。眼下の城門のあたりに、人影が見えた。三つ。色のくすんだ布をまとった旅の者たちが、門の前に立っている。そのうちのひとりが、顔を上へ向けていた。回廊の窓を――いや、その窓辺に立つ彼女を、まっすぐに見上げているように思えた。
声が、また高くのぼった。
ジェーンは気づけば、窓の掛金に手をかけていた。固く閉ざされたそれを、開けようとしている自分の指を、彼女は他人のもののように見下ろした。掛金は冷たく、かたかった。長いあいだ、誰も開けたことのない窓だった。
「奥さま」
背後で侍女の声がした。「こちらは冷えます。お部屋へお戻りを」
ジェーンの手が、掛金から離れた。
「ええ」と彼女は言った。「そうね」
侍女に従い、回廊を戻りながら、彼女は一度だけ振り返った。窓の外の声は、もう遠かった。けれど、消えてはいなかった。
部屋へ戻り、刺繍の枠を膝に置いても、彼女の指は針を動かさなかった。鳥の、縫いかけの翼。半分だけの羽。
耳の奥で、まだ歌が鳴っていた。
歌はとうに止んでいるはずだった。三つの影は門の前を去り、声は風に紛れて消えたはずだった。それなのに、低い声と高い声のもつれあいが、彼女の内側で、いつまでも、ほどけずにいた。
その夜、ジェーンは蜂蜜の乳を飲み干したあとも、なかなか眠れなかった。掛布は重く、温かく、足もとのひざ掛けは少しも乱れていなかった。何ひとつ、足りないものはなかった。
何ひとつ。
窓の外で、風が木々を揺らしていた。その音さえ、厚い硝子の向こうの、遠い出来事だった。




