007話 ~ ポチ、転生プロセス開始
朝の光が、背中に刺さっている。
頭は軽い。
けれど――何かが抜け落ちたような違和感が残っていた。
なんとか、彼女を追っているらしい。
ただ、どこへ行くのかはわからない。
(……このまま、どこかに置いていかれるんじゃないか)
視界の上層、ノイズ混じりの空に、見覚えのある浮島が漂っていた。
昨日、俺があそこから「降ってきた」場所だ。
「ポチぃ、君はどこから来たんだい?」
リーナが優しく話しかけてきた。
足取りは軽い。まるでお気に入りの荷物を運んでいるような、そんな無邪気な響き。
(ポチ……俺のことなんだよな)
勝手に押し付けられたその名前が、今の俺を繋ぎ止めている。
浮島を見上げると、キャッシュに残った断片的な記憶がふわりと蘇る。
あの、暗闇の棺桶。
そして、墓標に刻まれていた、思い出しそうで思い出せない文字列。
(……あれは、何だった……?)
喉の奥で、言語化しようと試みる。
論理回路を回し、声帯にあたる部分へ信号を送る。
「ワッワワオーン」
(……いや、俺、喋ることを忘れてしまった……)
出力されたのは、情けないほどにただの「犬」の鳴き声だった。
デフォルトに問題はない。
喋るためのドライバーは、あの時に置いてきたままだ。
リーナは俺の情けない声を聞いて、くすりと笑った。
「そっか、秘密なんだね」
(……秘密じゃない。エラーだ……)
俺は心の中で毒づきながら、また一歩、浮島へと近づく草原を踏みしめた。
体が覚えているのは、ただ歩くことだけ。
リーナが立ち止まったのは、ただの瓦礫の山にしか見えない場所だった。
風化した遺跡の断片が、地面から突き出した岩と混ざり合い、静かに朽ちている。
「私も、あるよ――秘密じゃないかもだけど、誰も知らないよ」
彼女はいたずらっぽく笑うと、リュックを下ろさずにその岩場へと歩み寄った。
「ねえポチ、見ててね」
(何するんだ? こんな岩にもあの文字列か……)
何を見ていればいいのかわからず、俺はかわりばんこに岩とリーナを見つめる。
昨夜のオーバーフローの残像が、視界の端でまだチカチカと点滅している。
リーナが、苔むした平らな石板の上に小さな足を乗せた。
「ほらほら、これ見てよ。これで飛べるんだよ、魔法じゃいけないほどの高くまでね」
(……飛ぶ? 物理法則を無視した挙動か……? やっぱ意味わかんねぇ)
俺の論理回路が、その「あり得ない」出力を解析しようと火花を散らす。
だが、次の瞬間。
彼女が特定の石の配置を、まるである種の「キー入力」を行うように順番に踏み抜いた。
(……コマンド入力……? 俺の理解は追いつかない……)
駆動音がした。
足元の石板が、使い込まれた機械特有の安定した振動を伴って、淡い光を帯び始める。
重低音が草原の空気を震わせ、システムが正常に稼働していることを告げた。
「さあ、おいでポチ! お散歩の続きだよ」
リーナが手招きする。
その背後で、かつての文明が遺した「昇降機」が、物理演算を書き換えるようにして、浮島へ向かう垂直のパスを繋ぎ始めていた。
(昨日と逆、か……上昇しているのに落ちているようで、怖いなこれは……)
内耳の三半規管などないのに、バグを起こしそうな奇妙な加速。
リーナは慣れているようで、俺の骨の片手をぎゅっと握ってくれた。
それだけで、ノイズ混じりの意識が……少しだけ、落ち着く。
だが、安堵もそこまでだった。
高度が上がるにつれ、視界の解像度が上がり、周辺マップが更新されていく。
浮島は一つじゃない。
空のあちこちに、無数の浮遊オブジェクトが点在しているのを再確認してしまった。
(……ルートが、一つじゃない……どうしよう、全部追えない……)
上昇が止まったかと思えば、次は浮島から浮島へのジャンプ。
そして、滑空。
物理的な橋はない。
だが、浮島同士は確かに繋がっているようだった。
目視できない透過性のある道――「風の道」とでも呼ぶべき見えない回廊が、空の中にルートを形成している。
(……見えない道か。……落ちるなよ、絶対に……いや、落ちたらどうしよう……)
俺はリーナの手に引かれるまま、足元の虚空を信じて、次なる浮島へと一歩を踏み出した。
「ポチぃ、どうだった? 楽しいでしょ?」
リーナが弾むような声で覗き込んできた。
対して、俺の頭の中は、かき乱されたコードのように支離滅裂だ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
肺なんてないはずなのに、激しく息が切れる。
実際に酸素が足りないわけじゃない。ただ、そうせざるを得ないような、得体の知れない圧迫感(負荷)が胸の空洞に居座っている。
(いや、そんなことはどうでもいい。あれに見えるのは……)
ノイズの晴れた視界の先に、特定の場所が目に留まる。
見間違えるはずがない。
俺が放り出されていた、あの静寂の墓場だ。
俺は震える骨の腕を伸ばし、その浮島を指した。
「ん? 何か見えるの?」
(頼むリーナ。あそこに連れていってくれ。……あそこにあるはずなんだ……)
切実なリクエストを込めて、俺は何度もその場所を指し示す。
リーナは俺の指先と、遠くの浮島を交互に見つめ、それからパッと顔を輝かせた。
「もしかしてポチの家があるの? よかったね」
(家、か。……まあ、最初に目が覚めた場所という意味では、間違っちゃいない……)
「よし、行こう! ポチのお家探しだね!」
彼女は俺の手を強く引き、見えない風の道へと再び足を踏み出した。
目的地が定まったことで、バラバラだった思考の断片が、ようやく一つの方向へと揃い始める。
(……あの墓標の文字列。今なら、何かわかるか……?)
期待と、胃のあたりがじりじりと焼けるような感覚が、同時に込み上げてきた。
思考と感覚が、少しずつ同期しはじめる――いや、まだ完璧には戻らない。
(おお、やった。ここだ間違いない)
俺の駆け足に、リーナも遅れずついたきてくれる。
見覚えのある風景。静寂に包まれた墓所。
いくつもの古びた墓標を通り過ぎた先にあるのは、あの、無機質な黒い棺桶だ。
(……ここだ。ここに、俺の『最初』がある)
俺は迷うことなく、その狭く暗い箱の中へと、吸い込まれるように飛び込んだ。
「え? ポチはここで何がしたいの?」
リーナは驚きながらも、俺の様子を覗き込んでくる。
(いや、俺もわからない……。でも、……昨日より、頭が回る)
墓石に刻まれた、掠れた文字列。
だが、俺の目には、壊れたバイナリデータか、あるいは未知の暗号化方式が走っているようにしか見えない。
(……読めるはずなんだ。これだけ情報を取り込んだんだ……)
頭の片隅まで検索を掛ける。
……引っかからない。
いや、何かあるはずなのに、掴めない。
(……どうしてだ……)
「えっとね……ここに眠るは――世界を動かす者……かな?」
唐突に、リーナの声が鼓膜を震わせた。
驚きで思考が停止し、俺の視界の中でエラーを吐いていた文字列が、彼女の言葉をトリガーにして急激に形を変えて見えてくる。
「名を……■■■■……ここ、削れてて読めないや」
「えーと……五百年の……眠り……? その力……分たれ……あれ、ここも消えてる……」
「最後は……えっと……再び、集う時……?」
最後の一節が読み上げられた瞬間、棺桶の底から微かな振動が伝わってきた。
同時に――
視界が、歪んだ。
(……っ、なんだ……これ……)
文字列が、流れ込んでくる。
頭の奥へ、強引に押し込まれる。
だが――展開しきれない。
処理が、追いつかない。
一瞬だけ。
骨の腕に、重さがあった。
握っている感触――
血が、巡る。
(……今のは……五百年……スリープモードからの再統合……)
「ポ、ポチぃ!」
悲鳴に近いリーナの声。
彼女は驚愕の表情で、ガタガタと震える俺の身体を指差していた。
(……なんだ? 何を指差して……)
俺は、自分の「腕」を見下ろした。
そこに、あるはずのないものが見えた。
白く乾いた骨ではない。
生々しい肉の感触と、確かな色彩。
(……なんだ、これ……)
思考が追いつかない。
理解が、間に合わない。
(……これで、ちゃんとリスタートできるのか……?)




