006話 ~ メモリ・リフレッシュ:頭が軽くなる朝
視界が、ぐちゃぐちゃだ。
頭の中に流れ込んだ「何か」が、俺の意識とぶつかって、熱い。焼け付く。
(……クソ。……)
耐えきれず、俺は地面に両手をついた。
頭の奥からせり上がってくるそれを、どうにかしたくて、気づけば四つん這いになっていた。
気づけば、泥を頭に擦りつけていた。
眼窩に、押し込むように。
「大丈夫だからね――ポチ」
柔らかい感触が、俺の汚れた頭蓋骨を包み込んだ。
リーナが隣に跪き、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。
「……あ、……う……」
「気分が悪いなら、水でもだすよ」
リーナが呟くと、掌の上に小さな水の球がふわりと浮かび上がった。
喉を鳴らそうとするが、まともな音にならない。
中に溜まっていたものが、溢れる。止められない。
眼窩からどろりと零れ落ちたそれに、俺は重い頭を振った。
ぱちゃり、と湿った音。
泥に混ざる。
そのたびに、頭の奥の熱が、ほんの少しだけ引いていく気がした。
「村のみんな、ありがとうって言ってたよ」
リーナが、俺の頭をそっと撫でた。
その小さな手は、泥と返り血で汚れた俺の骨を、まるでお気に入りのぬいぐるみを扱うように優しく、丁寧に扱ってくれる。
「ポチが悪い人たちを追い払ってくれたから……」
(……ありがとう、か)
四つん這いのまま、視界の端に転がっている「残骸」を見る。
さっきまで俺の口を借りて、傲慢な言葉を吐き散らしていた「何か」の残響が、まだ耳の奥でノイズのように響いている。
(……強烈な二日酔いみたいだ)
そこへ、遠巻きにこちらを伺っていた村人たちの影が寄ってきた。
助かった安堵よりも先に、彼らの瞳に宿ったのは、得体の知れない「モノ」への明白な恐怖感だった。
「……リーナ、そいつをどうにかしろ。それ、ポチじゃねえだろ……」
一人の男が、俺の眼窩から零れ落ちた「中身」を忌々しげに指差して吐き捨てた。
「悪いが、朝になったらその……気持ち悪いやつを、どこか遠くに捨ててきてくれ。村には置いておかないからな」
ひそひそと、棘のあるささやき声が周囲から刺さる。
『化け物』『縁起でもない』。
骨の腕に、まださっきの感触が残っている。
なのに、向けられる視線だけが違う。
「気持ち悪くないよ……っ」
リーナが、俺の頭蓋骨を抱え込むようにして、小さな肩を震わせた。
そのまま、離さない。
「いいから! 明日の朝には、必ずだぞ」
背後から投げつけられる無責任な命令を振り切るように、リーナは俺の骨の指を強く握った。
「……行こう、ポチ。おうちに帰ろう?」
彼女の声は震えていたけれど、握る手には迷いがなかった。
俺は不格好に四つん這いでなんとか歩いた。
足がもつれる。視界が揺れる。
それでも、前を歩く少女のパッチワークのスカートだけは、見失えなかった。
いつの間にか、村の端まで来ていた。
小さな小屋。隙間風が鳴っている。
中に入ると、壁には無数のパッチワークの布が貼られていた。
「……ポチ、じっとしててね」
頼りない明りの中で、リーナは俺を床に座らせると、少し慌てた手つきで魔法を使い、桶に水を湧かした。
古びた布を浸す。
混乱した頭が冷やされる。
(……安心する)
リーナは黙々と、俺の頭蓋骨から指先までを丁寧に拭き始めた。
眼窩にこびり付いた泥も、関節に詰まった「誰かの肉」の残滓も、彼女は嫌な顔ひとつせずに拭い去っていく。
水の音だけが、残る。
(独り暮らし、か……)
この場所。
この小さな体。
うまく言えないが、どこかで繋がる。
その瞬間、脳内のノイズが少しだけ形を変えた気がした。
「よし、綺麗になったよ。……さあ、ここで寝ようね」
リーナが俺を導いたのは、部屋の隅にある寝床だった。
積まれた藁の上に、あのパッチワークの布を被せただけの簡素なベッド。
彼女は俺をそこに横たわらせると、自分もその端に丸まった。
(……寝れるのか、俺は)
藁が刺さる感触。布の僅かな重み。
骨だけの体には柔らかすぎるはずなのに、不思議と身体が沈み込んでいく。
「おやすみ、ポチ。……大丈夫だよ、ずっと一緒だよ……」
耳元で、少女の穏やかな呼吸音が聞こえる。
村人たちの罵声も、インストールされた男たちの断末魔も、その音に塗り潰されて遠ざかっていく。
(……)
考えようとする。
途切れる。
何かが、落ちる。
頭の中に警告音が埋め尽くし――
そこで、切れた。
深夜のオフィスの匂いを一瞬だけ思い出し、俺は深い泥のような眠りに落ちた。
俺が目を覚ました時、小鳥のハミングが耳に入った。
開け放たれた戸から、朝の風が流れ込んでくる。
少しだけ、頭が軽い。
昨夜のあの熱は、もうない。
(……治ったのか?)
そう考えた瞬間、
そこで、止まる。
続きが出てこない。
何を考えようとしていたのか、それすら曖昧に崩れる。
(……リーナ)
視界を動かす。
いない。
胸の奥がざわつく。
理由は分からない。ただ――いないと、落ち着かない。
外から「よいしょ」と声が聞こえた。
その瞬間、さっきのざわつきが少しだけ引く。
リーナだ。
戸の向こうから、彼女が姿を見せた。
抱えきれないほどの生地を持って、小屋の中に入ってくる。
色とりどりの布の束からは、天日干しされた特有の、乾いた陽だまりの匂いがした。
「乾かしたこれをちゃんと閉まっておかないとね。しばらく帰ってこないかもしれないし」
淡々とした迷いのない声。
彼女は俺の隣に跪くと、手際よく布を畳み、棚の奥へと押し込んでいく。それは「片付け」というよりは、大切な思い出を一時停止させるような、切実な手つきだった。
(……帰ってこない、か)
彼女は迷っている。
俺の眼窩から溢れ出した「中身」や、泥を啜るような異様さ。彼女が受信しているのは、純粋な好意だけではない。底の知れない恐怖や不気味さという、正体不明のノイズだ。
それでも、彼女は小さなリュックに必要な物だけを詰め込んだ。
このまま村で一緒にいられないことは、彼女のロジックでも明白なのだ。
「……行こう、ポチ。遠くまで、お散歩にいこう?」
リーナは小さなリュックを背負い、俺を見た。
笑っている。けど、少しだけ固い。
手を握る。
微かに震えているのを、俺はそのまま受け取った。
小屋の戸を閉める。
カチ、と頼りない鍵の音が響く。
「さって、行こうかポチ」
リーナは後ろを気にしない。
俺たちは、残酷なほど美しい朝の光の中へ、そっと一歩を踏み出した。
光が頭の奥に差し込む。
眩しさの中で、重く絡みついていたノイズがゆっくりと溶けていく。
頭の中のざわめきが、光の温度に押されてかすかに揺れる。
泥と混ざった昨夜の熱も、少しずつ遠ざかる。
最初の頃に戻ったような感覚――ただ、実際は疲れた頭を本能に委ねているだけかもしれなかった。




