003話 ~ ID不明(Unknown)から「ポチ」への属性変更
「……ひっ、あ、……なんなのよ、あんた!」
少女は尻もちをついたまま、必死に後ずさる。
荒野に健気に咲いていた名もなき草花をなぎ倒し、その茎から溢れた青臭い汁が、彼女の綺麗なパッチワークのスカートを無残に汚していく。
(お、俺のせいだよな?)
「こっちにこないでよ!」
(……認証しろ、俺は敵じゃない。……でも、本能が謝れと言っている)
俺は地面に膝をつき、深く頭を下げようとした。
人間だった頃を思い出す、完璧な角度の「土下座」があったはずだ。
だが、エラーが起きた。
頭を下げようとすればするほど、なぜか腰が跳ね上がり、尻の位置が高くなっていく。
(……おい、待て。尻を持ち上げてどうする。……違う、こんなはずじゃない)
カタカタ、カタカタと、乾燥した骨の節々がぶつかり合う乾いた音だけが、草原に散歩する風と共に流れていく。
俺は真剣だった。
これがこの世界の「誠意」の示し方だと、バグだらけの脳が勝手に決めつけてくる。
だが、少女の瞳に宿ったのは、恐怖を通り越した「嫌悪」だった。
「なんなのよぉ。気持ち悪い……」
少女は、おぼつかない足取りで立ち上がった。
青臭い汁で汚れたパッチワークのスカートを、忌々しげに叩く。
その視線は俺を捉えたまま、逸らさない。
じりじりと、獲物との間合いを測るような……あるいは、バグの挙動を観察するテスターのような、冷ややかな距離。
(……笑えねえ。……『気持ち悪い』か。リブート後の第一印象(初期評価)としては最低点だな)
俺は、尻を突き出したまま固まった。
下手に動けば、また「手足」が勝手に暴走して、彼女をさらに不快にさせる(汚す)予感がしたからだ。
(……認証エラー。……不審なプロセスとして隔離されている状態か?)
「もうなんなのよ。そんな見た目で、私のポチみたいなことをしないでよ」
(ポチ!?)
名前を呼ばれた瞬間、俺のフレームが勝手に反応した。
思考をバイパスして、「実行」が走る。
(……あ、やば――ッ!)
俺の後ろ脚が、爆発的なトルクで地面を蹴り上げた。
猛スピードで彼女の元へと駆け寄り、恐怖で固まる彼女の至近距離を、ぐるぐると落ち着きなく回り始める。
(……止まれ。止まれッ! 俺の、足……ッ!)
制御不能。
手足はもう泥だらけ、きっと骨だと思うが顔も汚れているだろう。
(……笑えねえ。……いや、本当に笑えねえぞこれ。なんで俺は、こんな必死に尻を振って……止まれよ、俺!)
「な、なんなのよ。……え、……ポチ? ……本当に、ポチなの? いいえ、そんなはずはないけど……ポチ、みたい……」
少女の声が、嫌悪から困惑、そして微かな「震える期待」へと変化していく。
その音声を拾うたびに、俺の「本能」という名の実行ファイルが、さらにクロックを上げていった。
(……俺のせいで、こうなった。だから……あの場所に戻らないと、ダメだ)
俺のメモリには、あの「始まりの場所」が、座標として深く刻まれている。
そこへ戻れば、この「不具合」だらけの自分に、何か理由があるはずだ。
「な、なによ……そっち行くの? まさか、ついてこいってこと?」
駆けまわる俺の奇妙な挙動から、どうやら彼女は意図を読み取ってくれたようだった。
俺は一歩踏み出し、振り返る。
走っては振り返り、彼女がついてきているか確かめる。
(……来い。あそこに、答えがあるんだ)
俺は、鼻腔(に相当する空間)に残る、あの微かな鉄の匂いを目指した。
露草色の空の下、泥に汚れた骸骨と、パッチワークのスカートを汚した少女が、奇妙な隊列を組んで荒野を往く。
(……笑えねえ。……いや、今は笑っている暇なんてないな)
俺は、雲の向こうに眠る浮島へと、迷いなく彼女を導いた。
そこに落ちている漆黒の固まりは、先ほどと変わりなかった。
「……あ」
彼女の足が止まった。
「ポチぃ……島から落ちちゃったの?」
(……違う。けど……これじゃ、伝わらない)
「そっか……ここは浮かぶ墓標だよね。……生まれ変わるって聞いたことあるよ――ポチ」
(いや、そっちに転生したわけじゃないんだけどな……。頭から取り出してリセットすれば、悩まずすむかな)
そうすれば、この妙な状態からも――
「ポチ」
思考が、ぐしゃりと潰れた。
(……まあ、いいか)
彼女に出来るだけのことをしてあげるのも悪くないだろうと思った。
ついでに、その「漆黒の固まり」を埋めるための穴を――掘るのは得意だった。
犬なんだから、当たり前だ。……いや、だからどうした。
泥だらけの手を、更に汚しながら。考えるより先に、土を掻き出していた。
「……ほんとに、ポチなんだね」
少女の細い指先が、恐る恐る俺の汚れた骨に触れる。
驚いた。
神経も血管もない、ただのカルシウムの塊のはずなのに。
指先から伝わってくる、生温かい体温。
その「生きたデータ」が、俺の空っぽの胸腔に流れ込んでくる。
なぜか、少しだけ安心した。
「ポチ、家に帰ろう。夕飯作らないといけないからね」
彼女が立ち上がり、俺を促す。
転生した今日が、もうすぐ夕日のように沈んで終わりそうだった。
明日がくれば、また違う世界に転生している可能性だってゼロじゃない。なんと言っても、ここは初めて来た世界なのだから。
(……仕様書も不明。……ログも取れない。……それでも、今は歩くしかないのか)
俺は、彼女に導かれるまま荒野を歩いた。
時折、彼女がついてきているか確かめるように振り返る。そのたびに、パッチワークのスカートが翻り、中に履いているまた違うデザインのズボンが見え隠れしていた。
「……ご飯、食べられるの?」
村の入り口が見えてきたところで、彼女がふと、不安そうに聞いてきた。
俺の、喉(骨)が鳴る。
答える術もなかったし、自分自身でその答え(仕様)を知っているわけでもなかった。
(……笑えねえ。……胃袋も、何もないんだぞ)
俺はただ、大人しく彼女の隣を歩くしかなかった。
沈みゆく太陽が、俺の白い骨を、不気味なほど鮮やかな茜色に染め上げていた。
(……まあ、いいか)
今は、この「ポチ」という仮のID(名前)で、この世界の夜を越えてみるのも悪くない。
彼女の様子を見ていれば、こんな姿でも受け入れてくれる可能性は思ったよりはありそうだった。
(……現実なら、ありえない話だ)
夕日に照らされた村の家々が、オレンジ色のドットのように遠くに見え始める。
ようやく「安全なサーバー(拠点)」に帰還できる――そう確信した、その時だった。
「――きゃあああああッ!!」
静まり返った夕暮れの空気を切り裂き、村の方角から耳をつんざくような悲鳴が響き渡った。
俺の隣で、リーナの体がびくんと強張る。
(……なんだ? システム障害か?)
村の入り口から立ち上る、幾筋もの黒い煙。
それは、穏やかな夕食の準備を告げる竈の煙などでは、断じてなかった。
「……あ、……村が、……!」
リーナが、俺を置いて駆け出していく。
俺は、四つん這いの姿勢のまま、グッと四肢の骨に力を込めた。
(……笑えねえ。……定時退社(平和な終わり)なんて概念、この世界にはないらしい)
俺は、犬の脳から流れてくる「守れ」という最高優先度の命令(割り込み)を無視せず、そのまま「実行」へと移した。
ガタガタと骨の音を鳴らしながら、茜色の荒野を、猛スピードで村へと躍り出た。




