002話 ~ ドライバ・暴走:脳を入れたら犬になっていた件
「グルルルゥ」
よだれに濡れた唸り声。
野良犬が、こちらを見て牽制している。
夜だったら闇に埋もれてしまう漆黒の短毛で瞳だけは深い鉄色をしていた。
(よく見れば筋肉がすごいな。……普通の犬じゃなくて、モンスター判定か?)
俺の右足の脛骨を咥えたまま、そいつは低く身を構える。喉の奥から漏れ出す振動が、地面を伝って剥き出しの足先にまで響いてきた。
(ん? これだけ離れているのに、足の感触を感じるぞ)
妙な感覚だった。
自分の体から切り離されたはずの骨が、今、何をされているのかがリアルタイムで脳に流れてくる。
犬の牙が骨の表面を削る感触。ぬるりと湿った唾液の熱。
目には見えないが、俺とあの骨の間には「不可視のパス」が繋がっている。まるで釣り糸のように、あいつが骨を弄ぶたび、微かなテンションが走る。
(……いいなコレは。リモートアクセスが効くんじゃないか?)
俺は、その見えない糸をグイと手繰り寄せるイメージを浮かべる。
「返せ」というコマンドを、直接流し込んだ。
(……返せッ!)
俺は、その見えない糸を力任せに手繰り寄せた。
瞬間、犬の口の中にあった脛骨が、磁石に吸い寄せられるように俺の右膝へと射出される。
(よし、接続成功――ッ!?)
だが、計算外だった。
食い意地の張ったその漆黒の獣は、獲物を離すまいと、俺の足にぶら下がったままセットで飛んできたのだ。
「――ッ!?」
衝突の衝撃。
幸いなことに、俺には痛覚というシステムが実装されていないらしい。
だが、代わりに襲ってきたのは、筆舌に尽くしがたい「不快なノイズ」だった。
牙が骨の表面をガリガリと削り、硬質なカルシウムを噛み砕こうとする微細な振動。
それが、見えないパスを通じて俺の背骨を直接、逆なでするように駆け抜けていく。
(……このアホ犬はなんなんだ。痛みがないのが、逆に気持ち悪いぞ)
神経は死んでいるのに、「俺という存在の欠損」だけが、エラーログのように背中を這い回る。
(……やめろ。それ以上、俺の骨を汚すな!)
俺は反射的に、右手に握っていた鉄屑――「棒」を振り下ろした。
ただの気休め。追い払うためのノイズ除去くらいのつもりだった。
だが、振り下ろしたその「棒」は、俺の予想を遥かに超える挙動を見せた。
(……吸い込まれるような『重圧』か?)
空気を切り裂く音が、ただの鉄屑とは思えない鋭い高音に変わる。
加速した棒の威力を、俺は完全に舐めていた。
――パキィッ!
嫌な音が響き、手元に「完遂」を告げる重い手応えが残った。
俺の足に執着していた漆黒の獣の頭部が、まるで熟しすぎた果実のように、あっけなく割れたのだ。
(……す、すまないワンコ。追い払うだけでよかったのにな)
掠れた声が、自分の喉(骨)から漏れる。
足元では、漆黒の毛並みを赤黒く汚し、まだ体が小さく痙攣している。
潰れた脳漿の隙間に、鉄色の瞳が濁っていくのが見えた。
(……笑えねえ。これじゃ、ただの虐殺だぞ)
だが、視線が離せない。
無残に散らばった物質的な「肉」の奥に、何か別のレイヤーが見えた。
それは光でも物質でもない。
もっと純粋で、濃密な、書き込みを待つだけの**「未処理のデータ(情報)」**だ。
(……なんだ、これ。……俺を、呼んでいるのか?)
気づけば、俺の手は無意識にその「情報」の塊を掴み取っていた。
ドロリとした生々しい熱が、指骨を伝って這い上がってくる。
俺は、天を仰いだ。
自らの何もない暗い眼窩に、その「未処理の熱」を力任せに押し込む。
(……インストール、開始――)
視界が真っ白なノイズで埋め尽くされたかと思うと、今度はどろりとした「闇」が脳内に流れ込んできた。
それは言葉でも数字でもない。
もっと原始的な、血と、泥と、獲物の存在を嗅ぎ分けるための「獣の残響」だ。
(……笑えねえ。……なんだ、この情報の濁流は)
頭蓋の奥で、経験したことのない「感覚」が勝手にパルスを発し始める。
目には見えないはずの「熱」や「気配」の筋が、幾重にも重なって浮かび上がった。
俺は、自分の眼窩に押し込んだ「熱」の余韻を噛み締める。
犬の脳が最期に見ていた光景、あるいは、あいつが本能的に求めていた「何か」の座標。
澄んだコールが混じっていた。
(……懐かしい、気がする。……いや、俺のメモリ(記憶)じゃないはずだ)
この荒野には似合わない、柔らかい響きだった。
俺は、自分の意志というよりは、インポートしたばかりの「獣の直感」に突き動かされるように、一歩を踏み出した。
(……俺は、誰だ?)
一歩、また一歩と、獣の感覚に導かれるまま荒野を歩く。
自分の名前すら、砂漠の砂のように指の隙間からこぼれ落ちて、もう思い出せない。
それは個体識別データそのものが消えてしまったのか(デリート)。
残っているのは、深夜のオフィスの匂いや、キーボードを叩く指先の残像。
死の直前まで俺を構成していた「名前のないエンジニア」という、乾いたロジックの断片だけだ。
(……笑えねえ。自分の仕様書すら読み取れないなんてな)
今、俺の眼窩に無理やり押し込んだ「犬の脳」も、ひどく不安定だ。
これは知識のインストールというより、野生の本能をマージしたような感覚。
何かがわかるようで、肝心な部分はノイズに埋もれて読み取れない。
(……だが、悪くない。……いや、悪いことでもなさそうだ)
空っぽの頭蓋に、少しずつ世界の熱が満ちていく。
自分が何者かという定義を失った代わりに、俺はこの「ランタイム」の不条理なルールを、そのまま受け入れ始めている。
(……呼んでいる。……このノイズの先に、何がある?)
獣の直感が、荒野の先にひとつの「熱源」を捉えた。
「ポチぃー」
その優しい声は、継ぎ接ぎだらけの記憶を埋める「パッチワーク」のようなものか。
ご主人様に遊んでもらう時の、あの脳が震えるような多幸感。
考えるよりも先に、俺のフレーム(骨)が勝手に駆動を開始した。個体識別を無視して、四つ足で走って行った。
(……おい、待て。俺の手足、勝手に加速するな!)
自分自身の意志が、一歩遅れてエラーログを吐き出す。
だが、犬の脳から流し込まれた「本能」という名の実行ファイルが、優先順位を書き換えてしまっている。
(……笑えねえ。俺は犬じゃない、エンジニアだ……ッ!)
だが、視界に飛び込んできたのは、驚愕に目を見開いた一人の少女だった。
彼女が期待していた「ポチ」という名の愛玩動物ではない。
そこへ突進していくのは、眼窩に犬の脳をねじ込み、泥と返り血に汚れ、カタカタと骨の音を鳴らす「化け物」だ。
「えっ、ポチじゃない。……きゃあ、なんなのよ!」
悲鳴。
当然の反応だった。
俺は彼女の直前で、ようやく自分の制御を取り戻し、ブレーキをかけた。




