001話 ~ リブート・エラー:再起動先は「骨」だった
最後に記憶にあるのは、深夜のオフィスの匂いだった。
電子の残香に、デスクの隅にある鉢植えの土が、湿潤な安らぎを添えている。
それが、俺――時史の日常の終焉だった。
無限と零の狭間に光が飲み干され、意識がホワイトアウトする。
(……死んだのか、俺?)
――否。
魂が産声を上げて、体が激しく揺さぶられた。
「――ッ!?」
目を開けたつもりだった。だが、まぶたを押し上げるという筋肉のフィードバックが一切返ってこない。
視界は「零」。完全な暗闇だ。
(……ここは、どこなんだ?)
手足を暴れ動かそうとするが、すぐに冷たい石の壁が押し返してくる。
指先が、抗いようのないダイヤモンドのような硬度に突き当たった。
(狭い……? どこなんだ、ここは!)
自分の体の位置さえわからない。
筋肉の弾力も、皮膚の柔らかさも、そこには存在しない。
シュシュシュ、ガガガッ。
突如、不快な振動が体の芯まで突き抜けた。
何かが、俺を閉じ込めている「箱」の外側を激しく削っているような音だ。
ガツン、ガシッ。
衝撃のたびに、中身である俺の意識がバラバラにシェイクされる。
(やめろ、壊れる……!)
逃げ場のない暗闇の中で、ただその暴力的な振動に耐えるしかない。
――バキィッ!
乾いた破壊音と共に、頭上の「蓋」が跳ね飛んだ。
溢れ出したのは、フィルターを通さない粗野な輝き。
焼けるような白。
網膜がないはずの視界に、強引に「外の世界」がインストールされていった。
(……!?)
静かだ……。
自分の荒い呼吸音も、早鐘を打つ心臓の音も何も聞こえない。
そこには、風のささやきに合わせて歌う小鳥たちの囀りだけだった。
ゆっくりと、色彩が馴染んでくる。
視覚情報が形を結び、やがて俺の前に、当たり前のように明るい世界が広がった。
まるで棺桶のような箱から出ようとした、その時だ。
不意に視界の端を、白く乾いた「何か」が横切った。
(――っ!?)
反射的にそれを振り払おうとして、俺は凍り付く。
自分の意思に従って動いたその物体は、這い出そうと縁にかけられた、俺自身の「右腕」だった。
血の通った皮膚も、指紋も、爪もない。
そこにあるのは、節くれだった無機質な五本の「骨」。
(……動く。指が)
信じられず、俺は這い出す手を止めて、自分の体を凝視した。
深夜までキーボードを叩いていた、あの疲れきった肉体はどこにもない。
あるのは、関節ごとに不可視の力で繋ぎ止められた、剥き出しの骸骨だった。
(……冗談だろ)
カチリ、と乾いた音が鳴る。
骨の指が、自分の肋骨をなぞった音だ。
肺があったはずの場所には虚無が広がり、そこを風が、冷淡な音を立てて通り抜けていく。
(……だから、音がしなかったのか)
魂の再起動先は、人間ですらなくなっていたらしい。
あまりに軽く、あまりに脆そうな、この器を持って。
背後には墓石だろうか、見慣れない……いや、知らない文字列が並んでいた。
墨を流したような黒い記号は今や掠れ、残ったインクも風のせいか明滅している。
深夜までプログラムの海にいた俺の目を持ってしても、その文字の規則性は一欠片も読み取れない。
(……とにかく、動かないとな)
手をつき、棺桶を蹴って立ち上がってみる。
あまりの自分の体の軽さに、俺は再び驚いた。
重力というパラメータ設定を間違えたのか、あるいは自分の質量が削減されたのか。
指一本動かすだけで、体が宙に浮きそうなほどの頼りない浮遊感。
自分の格好を確認する。
所々にくっついているのは、どうやら鎧だった物の残骸のようだった。
あとは古ぼけたフード付きのマントが、骨の体を覆っているだけ。
(……初期装備、ってわけか。笑えねえ)
腰のあたりには、折れて棒状になった剣の残骸が、腰にぴたりと吸い付いていた。
不可視のパスが、その鉄屑をも「俺の一部」として認識しているらしい。
一通り、自分のスペックを確かめてから、ようやく周囲に目を向ける。
一面に広がる、銀鼠色の雲。
俺は、ふらふらとした足取りで、その「世界の端」へと歩を進めた。
だが、端などというものは、あまりにもあっけなかった。
(……え?)
踏み出した足の先に、地面はなかった。
斜面も、崖もない。ただ、唐突に“終わって”いる。
その向こうに広がっているのは――底のない、虚空。
足元から、世界が切り離されている。
俺が立っていたのは、大地ではなかった。
(……浮いている)
覗き込んだ先、勿忘草色の空に、大小の岩――浮島が点在していた。
まるで森に生える木々のように、不規則な高さで空に乱立している。
(……どうしろっていうんだ)
あまりに現実味のない、透き通った青の階層。
自分の体が「骨」であること。足元に「地面」がないこと。
その二つの異常を、脳が処理しきれずにいた――その時だ。
――ゴォッ!
猛烈な風が、浮島の縁を削るように吹き抜けた。
(……っ!?)
肉のない軽い体は、踏ん張る術もなく、木の葉のように宙に舞った。
マントが帆のように風を孕んだ。
(……嘘だろ)
視界が回転を始めた。
さっきまでいた浮島が、一瞬で遠ざかっていく。
(……落ちてる。……また、死ぬのか)
上下の感覚が消失し、ぐるぐると回転する視界の先に、地面が見えた。
逃げ場のない、巨大な現実。
(……ああ)
空中でなす術もない俺は、せめてもの抵抗として膝を抱え、丸まった。
風に翻弄される、ただの骨になりながら、この短かった「二度目の人生」を考える。
(……リブートして、即シャットダウンか)
深夜のオフィスの匂い。
電子の残香。
鉢植えの湿った土。
それらが、どうしてこの「骨」と「空の森」に繋がったのか。
地面が、こちらへ膨れ上がるように迫る。
(……激突まで残り数秒か。……笑えねえ)
視界を閉じた。
――ドォォォォンッ!!
凄まじい衝撃。
骨が、その力に耐えきれず悲鳴を上げる。
――カチッ、バララララッ!
衝撃波が全身を駆け抜け、不可視のパスが断線した。
(…………あ)
右腕がもげ、肋骨が散り、頭蓋骨が地面を転がる。
剣の残骸も、骨と共に無惨に散った。
視覚情報が、土と、あらぬ方向を向いた自分の左足を交互に映す。
(……終わった、か?)
完全な静寂。
(……いや、まだ動くのか?)
バラバラになったパーツ同士が、磁石のように引き寄せ合っている。
土にまみれた右腕が、ゆっくりと胴体へ這い寄る。
カチ、カチカチッ。
骨が組み上がっていく。
外れた関節が吸い寄せられ、不可視のパスが、再び繋がる。
剣の残骸も、腰のあたりに収まった。
(……なんとか、形にはなったか)
俺は頭蓋骨を拾い上げ、首の上に乗せた。
(……? 待て。何か、足りない)
自分の体を点検する。
右腕、よし。肋骨、よし。左足……。
(左足の脛から下がない)
周囲の草むらを見渡す。
(……あ)
少し離れた場所に、そいつはいた。
薄汚れた毛並みの、大きな野良犬だ。
だが、その瞳だけが、不自然なほど鈍い鉄色をしていた。
そいつは、俺の「左足の骨」を咥えていた。
まるでガムのように、ガリガリと噛み砕いている。
(…………おい)
目が、合った。
ガルル……。
(……返せよ。それ、俺の足だ)
未知の世界での(ランタイム)再起動は、最悪のコンディションで始まったらしい。




