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024話 ~ ポチという定位置

(……やはり、〝ポチ〟だとスムーズだ)


 意識の深層で、俺は静かにそう確信していた。


 英雄王ラフィウスに意識を寄せれば、古びた大剣を振るうような重苦しさが思考を縛る。

 グリッチの知識に溺れようとすれば、黒い煤が視界を侵食し、理性を泥に変えていく。

 だが、リーナが呼ぶ「ポチ」という名に自分を委ねる時だけは、演算の目詰まりが嘘のように消える。


 殺せと叫ぶ過去の亡霊も。

 喰らえと囁く魔物の本能も。


 その呼び声ひとつで、今はただ背景へと退いていく。


(俺は、ラフィウスの正義が間違っているとは思わない)


 守るために振るわれてきた力だということも、理解している。


(だが、それを今の俺に押し付けられれば、反発もする)


 そして――


 グリッチを、そのままにしたことに後悔はない。

 でも、知性は警告を鳴らしている。

 見逃した存在が、いつか牙を剥くかもしれないと。


 理性で測れば、きっとこれは悪手なのだろう。

 それでも。

 このスムーズな感覚こそが、今の俺にとっての真実だった。

 俺はゆっくりと、現実の視界を繋ぎ直していく。


 二本足で立つ不安定さに耐えきれず、俺はそのまま地面に手をつく。

 そして、そのまま四足になった。


(……ああ、やっぱりこれだ)


 四つの支点で大地を捉える安定感。

 骨の関節が、あるべき場所に収まっていくような快感。


 知性が弾き出す「効率」ではなく――理屈ではなく、身体の奥がここだと知っていた。


 カチ、カチ、カチ。


 俺は尾骨を振る代わりに、軽快なリズムで彼女の周りを回った。

 重苦しい思考を振り払うための、俺なりのデモンストレーションだ。


 だが――。


「……ポチ。止まりなさい」


 低く、温度のない声。

 俺は反射的に動きを止めた。


「お座り」


 逆らえない。

 知性がどうこうではない。

 この言葉には、絶対的な優先権がある。

 俺の骨格は即座に石畳へ腰を下ろした。


「……お手」


 差し出されたリーナの手。

 俺は恐る恐る、さっきまでどす黒い文字列を放っていた右前肢を、その手のひらに乗せた。


「…………バカ」


 リーナの手が、細く震えていた。

 顔を上げると、彼女の瞳には涙が溜まっていて、今にも溢れそうになっている。


「勝手にいなくなるし、あんな……あんな、自分じゃないみたいな顔して。死んじゃうかと思ったんだから――骨だけど!」


 怒鳴り声が、廃墟に響いた。


 俺は戸惑う。

 俺は骸骨だ。


 表情を作る筋肉もなければ、眼球すらない。

 この眼窩に、いったいどんな感情が映るというのか。


 ……だが、リーナには見えていたのだ。


 文字列を吐き出し、敵の理を無機質に解体していた時の俺が。

 彼女の知る「ポチ」とは違う、底知れない何かになっていたことが。


「回ってごまかさないで! 反省してるの!?」


 俺はぐうの音も出ない。


 英雄王の誇りも。

 魔物の狡知も。


 彼女の涙混じりの怒りの前では、何の役にも立たなかった。


(……反省は、している。たぶん)


 俺は情けなくうなだれ、そのままリーナの手のひらへ頭蓋骨を擦りつけた。

 今の俺には、それが精一杯の謝罪だった。


「……もう、二度とあんな顔しないでよね」


 リーナの手が、おずおずと頬骨を撫でる。

 その温もりが、冷え切っていた俺の知性をゆっくり解かしていった。


「……それで、『アレ』はどうするの?」


 リーナが指差した先へ、俺も視線を向ける。

 そこでは、クラリスたち七騎士が、巨大なゴーレムを取り囲んでいた。


 それは、まるで巨大な光の繭だった。

 一瞬、砂糖菓子か結晶の塊に見えたが、違う。

 あれは純粋な魔力で編まれた、光の牢獄だ。


 ……いや、牢獄という言葉ですら足りない。


 光の膜はゴーレムの全身を隙間なく覆い尽くし、逃げ場を奪うだけでなく、その巨体そのものを内側へ押し潰していく。


 圧縮――そう認識した時には、すでに岩の外殻が悲鳴のような音を立て始めていた。

 物理法則すら置き去りにしたその光景は、もはや攻撃ではない。

 空間そのものを切り離し、内部ごと処刑する術式。


(……あれが、聖教国の騎士のやり方か)


 英雄王ラフィウスの記憶が、その術式を識別する。

 ――《断罪の檻》。

 かつて魔物を封じ、そのまま存在ごと消し去るために振るわれた術。


「……すごい」


 リーナが、呆然と呟いた。

 その瞳は、圧倒的な光の処刑から離れない。


 気づけば、その場にはマダラス卿やラデーヌの部下たちまで集まっていた。

 ガルデッドの住人たちもまた、物陰から身を乗り出し、その異様な光景に目を奪われている。

 誰もが、あの光を見ていた。


(ただの岩と……ほんの少しの煤に、あれだけの魔法を使うのか)


 俺だけは、別のものを見ていた。

 〝縁〟が――ひときわ濃く絡みついて見える場所。


 俺の肩の上で、小さな白い影が、付着していた微かな塵をさらさらと払い落としていた。

 まるで最初からそこにいたかのように、その姿は自然に輪郭を持っている。

 雪の欠片みたいに白い、小さな人影。


 ――グリッチか。


「あ、ポチ。なんなの? 何か背中に乗ってるよ」


 リーナが不思議そうに首を傾げる。

 俺は少しだけ間を置いてから、答えた。


「……じいさんの、贈り物だよ」


 英雄王ラフィウス。

 俺にこの骨を残し、この力を刻み、この世界に立たせた存在。

 この手で魔物を討ち、この意思で戦い続けること――それが、あの人の望みだったのかもしれない。


 でも。


(ラフィウスじいさんには悪いけど……少し、ズレちまったみたいだな)


 俺は、俺のやりたいようにやらせてもらう。

 四つの支点で大地を感じながら、そう思った。


(……こっちの方が、心地いいからな)


 《僕も一緒でいいよね? ラフィウスは嫌いだけど、ポチは好きだよ》


 白い小さな影が、俺の肩の上で楽しそうに揺れる。

 俺は少しだけ考えた。


 グリッチ――異常、不具合、排除されるもの。

 そんな名前はもういらない。


(……だったら、お前は――)


 小さな白い影が、じっと俺を見上げる。

 俺はわずかに頭蓋骨を傾けた。


(――パッチだ)


 その小さな身体が、ぴたりと止まった。


(壊れてるんじゃない。お前は……埋める側だろ)


 数秒の沈黙。


 そして。


 《……ふふ》


 白い影は、どこか嬉しそうに笑った。


 《うん。それ好きかも……なんだか、懐かしいよ》


 俺は少しだけ目を細め――いや、骸骨にそんな機能はなかったな。

 それでも、妙な違和感が胸骨の奥に引っかかった。


(……そうか)


 パッチには、あるんだ。

 ラフィウスじいさんと過ごした記憶が。


(でも――)


「私、助けにいってくるね。良ければポチも……」


 はっとした。


 リーナの声に引き戻されて、俺は自分の意識が、また深いところへ沈みかけていたことに気づく。


(助ける……か)


 その言葉が、胸骨の奥に静かに落ちた。

 まるで今、初めて芽生えた感情みたいにも思えた。


 ……だが、違う。


 俺は知っている。


 持っていたんだ。


 ――ずっと前から。

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