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023話 ~ ポチと呼ぶ声

(……ここは何処だ?)


 感じる風が心地よい。

 辺りを見渡せば、そこには見覚えのある浮島が広がっていた。

 最初に目覚めた場所。

 あの墓が、今もそこにあった。


『やっと、会えたのう』


 しわがれた声。

 振り向けば、そこには老人が立っていた。

 雲そのものを縫い合わせたような、白い衣を全身に纏っている。


(……誰だ)


『時間がない。聞け』


 老人が細い指先を、俺に向けた。


『お前の手の中にいる、その煤を――殺すのじゃ。今すぐに』


(……白い……煤?)


 気づけば、俺の手の中に白い塊があった。

 小さい。握りつぶせそうなほどに。


『取り込まれるぞ。魔物とは、そういうものじゃ』


(魔物?これが……)


 その言葉が終わらないうちに、白い塊がふるりと震えた。

 次の瞬間、小さな手足がにゅっと飛び出す。


 子供だ。


 ――グリッチだ。


 恥ずかしがるように、小さな体をもじもじと揺らしている。

 そして、俺と目が合うと、ニコっと白い歯を見せた。


(……これが本体。

 ……殺せというのか)


『ためらうな。今の儂には出来ないのだから』


 老人の声が、遠くなる。


 ――ドォン。


 地面が揺れた。

 いや、違う。

 ここは、俺の深層だ。

 外から、振動だけが届いてくる。


(……現実で、何かが起きている)


『早くせんか』


 老人が急かす。

 だが、俺の手の中のグリッチは、ただこちらを見ている。

 無邪気に。まるで、何も知らないように。


 ――ガガッ、バキリ。


 また振動。

 今度は複数。


(……骨が勝手に、動いているのか)


 意識はここにある。

 だが、体だけが現実で何かをしている。

 何を壊しているのか。誰に向かっているのか。

 断片的な感覚だけが、ノイズのように届いてくる。


『……すまん。もう、持たんようじゃ』


 老人の皺だらけの目元に、一瞬だけ涙が浮かんだ気がした。

 かすれた声を最後に、その姿は風に溶けるように消えていった。


(待て――あなたが、動かしているんじゃないのか)


 同時に、浮島を支えていた空の色が軋み始める。

 白い雲が、文字列のようにほどけていく。

 足元の大地も、輪郭を失い、砂のように崩れ始めた。

 手の中のグリッチが、俺を見上げている。


(……殺せるか? これを)


 答えが出ない。


「僕のこと、捨てないよね?」


 グリッチが、小さな声で言った。


(……俺は)


「よかった。もう一緒だよね」


 ――ドォォォンッ!!


 今度の振動は、比べ物にならない。

 深層ごと、揺さぶられるような衝撃。

 それは強制的な覚醒だった。

 まるで、深い眠りから冷たい水の中へ叩き落とされたかのようだった。


 まぶたのない視界が開ける。

 そこには、これ以上壊れようがないと思っていたガルデッドの、さらなる無惨な光景が広がっていた。

 黒煙を上げながら、巨大な瓦礫の山がさらなる衝撃で砂塵へと変わっていく。


 視界を掠める青白い光。

 ゴーレムの中枢に潜むグリッチが放つ魔法が、俺の骨を薄皮一枚の距離で削り取っていく。

 だが、驚愕すべきは敵の攻撃ではなかった。


 俺の右腕――突き出した指先の周囲に、見覚えのある文字列が浮き上がっていた。


 収束。変換。放電。

 そして、実行。


 それは、つい先ほど俺を貫いた魔法と、全く同じ命令文。


(……俺が、これを?)


 意思は関係なかった。

 〝英雄王〟としての本能が、敵の理を瞬時に解析し、鏡のように反射させている。


(いや、逆か)


 次の瞬間、俺の指先から、グリッチと寸分違わぬ閃光が解き放たれた。


 岩で構成されたゴーレムに電撃は無為に近い。

 青白い稲妻は岩肌を這い、そのまま表面で散っていく。


 だが、俺の意識はゴーレムには向いていなかった。


 黒く崩れた都市。

 黒い煤に紛れ、身を寄せ合うように人々がいた。


 色を失ったような顔。

 怯えているわけでも、助けを求めるわけでもない。


 逃げ惑う者も、既に命を落とした者でも、それならまだ理解できる。

 だが、瓦礫に半身を埋めたまま、低く呻き続けている者たちからだけは、どうしても目が離せなかった。

 死にきれないまま、ただ、この都市の一部みたいにそこにいた。


(……そういえば)


 俺の手の中にいた、あのグリッチは何処へ消えた?

 違和感に気づき、視線を巡らせる。


 すると――


 いた。

 いつの間にか、俺の肩の上だ。

 小さなグリッチは、そこにちょこんと腰掛けながら、ぱちぱちと小さな手を叩いていた。

 まるで、自分自身を応援しているみたいに。


(……お前)


 指先を伸ばす。

 だが、その瞬間――

 ふっと、煤のように輪郭が崩れた。

 次に気づいた時には、もう何処にもいなかった。


 どうすることもできず、俺が考えついたのは、この骨の主導権を取り戻すことだった。

 やはり、動かしているのはラフィウスの本能だ。

 俺が奪い返すしかない。


 でも、なぜだ――


 取り戻そうと意識を集中するだけで、自分が何者だったのか、その輪郭が薄れていく。

 ラフィウスに委ねている今、この骨は圧倒的に強い。

 ……もし、この本能に明確な意思さえあれば。


 じいさんよ……。


(……いや、俺が弱すぎるのか)


 一体、誰にこの体を預けるべきなんだ。

 答えは出ない。


 その時だった。


 外から、強引に意識を引き戻す声が降ってきた。


「ポチ――っ!」


 遠くから聞こえた、リーナの声。


 今まで気づかなかった。

 その名は、あまりにも短く――だからこそ、強かった。


 〝ポチ〟という呼び名が、俺の意識を繋ぎ止めていたことに。


 英雄王ラフィウスの本能に飲まれそうになるたび、俺を俺のまま引き戻していたのは――

 時史だった頃に刻まれた、犬としての本能。


 俺は現世で犬だったのか――違う。


 犬の記憶があるだけだ。


 俺は、時史だ。


 そして、それを迷いなく呼び起こせるのは、リーナだけだ。


 なら、答えはもう出ていた。


 俺が戻るべき場所も。

 この骨が、誰の声に従うべきかも。


 視線を上げる。

 崩れた瓦礫の向こう。


「ポチぃ――!」


 砂塵の先で、リーナが両手を振っていた。


(……ああ)


 もう、迷う理由はなかった。

 俺は、ゴーレムに背を向ける。

 瓦礫を蹴り、黒煙を抜け、ただその声のする方へ走った。


 背後で轟音が響く。

 クラリスたちが、動いたのだろう。

 だが、もう振り返らない。


 今、取り戻すべきは勝利じゃない。

 〝ポチ〟としての俺自身だ。

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