020話 ~ 第三宮殿前段:拘束
マダラス卿が言うには――
北部区画、南側の広場――第三宮殿ミティーダル。
「よく行きたがるな。崩壊した地区だし道はないんだぞ」
やる気のない卿は、面倒そうに鼻を鳴らしてそう言った。
彼にとってそこは、価値のないガラクタと、引き抜けない水に支配された「死んだデータ」の集積所に過ぎないらしい。
(……道がない、か)
「クラリス嬢が、日程をずらしてまで行こうと言うんだ、さっさと行くか」
準備を整えているのだろうか?
呼びに来たのは卿だけで、クラリスの姿はなかった。
「大事な物、盗まれたんなら取り返しにいかないとね」
(……そうだ)
リーナが俺の骨の腕に手を添える。柔らかい。
優しくしてくれるのは知っている。
だが――
結果が偏っている。まるで選別されているように見える。
(……うまく、定義できない。思考が発散している)
「リーナ。案内役マダラス卿が機嫌が悪くなる前に行こう」
思考を切る。進むしかない。
俺とリーナは部屋を出ると、マダラス卿の後に付いて行く。
すると、どこに潜んでいたのか、次々と卿の部下たちが集まってきた。
すでに薄暗くなった広間を埋め尽くすその数は、かつて村を襲撃した時の軍勢に匹敵する。
「うぉぉぉ。うぉぉ」
湿り気を帯びた低い咆哮が重なり、空気を震わせる。音量が過剰だ。
ただ、そう考えているだけだ。
バラバラと足音を乱しながら向かう先は、北部。
この無秩序な行進は、規律に縛られた騎士たちの動きとは明らかに異質だ。
(……非効率だな)
そう考えながら周囲を走査するが、肝心のクラリスの姿が見当たらない。
彼女だけでなく、あの整然とした銀の鎧を纏った騎士たちの姿も、この雑多な集団の中には見当たらなかった。
「いやだね……ポチ」
リーナの手に、力が入る。
俺も、握り返した。
マダラス卿の部下たちが松明を灯す。
橙色の光が揺れ、影が歪む。
「この魔法、なんか人参みたいな色だね」
(……機能と色は、相関しない)
光源はない。冷たい明りはリーナの魔法だ。
進むほど瓦礫は増え、大きくなる。
煤に汚れた壁や柱には、今にも思い出せそうな――
文字や印が刻まれている。
口に出せば、読める気がした。
だが、音にならない。
……反応がない。
それでも、この骨の持ち主が眠っていた墓に刻まれていたものを、もう一度視認したくなる衝動が走る。
(……違うのか)
そこに刻まれた意味に触れているのは、俺ではない。
横を歩くリーナだけのように感じられた。
俺たちは、そのままマダラス卿に導かれ、さらに深い闇へと足を踏み入れていった。
(……目的地はどこなのか)
それを聞くために、先を行くマダラス卿に追いついた。
卿が歩みを止めていたので、追いつくのはすぐだった。
ただ……そこが目的地だったのか。
それとも、目の前の――真っ黒な水たまりで泳いでいる人影なのか。
今が夜だからではない。
すべてが煤に覆われ、色がない。黒一色だ。
「これを見ろ。……ひどいもんだろう」
マダラス卿が、鼻をつく煤の臭いの中で顎をしゃくる。
黒い水面に、幾人もの人影が浮き沈みしている。
だが、それは生きた動きではない。
ただ、揺れているだけだ。
――残骸のように。
「見てみろ。弱い魔力しか持たない連中でも、ここなら楽に生きていける」
(楽……とは何だ)
「ただ、この廃都を動かしているのは、こいつらではない」
マダラスの声が、わずかに低くなる。
「……元が何かは、誰も知らん。ただ流れてくる。それだけだ」
黒い水面を顎で示す。
「こいつらは、その零れに群がってるだけだ。ただの蟻だからな、問題はない」
「――触るなよ。何が起きるか、誰も知らん。崩れたら終わりだ。ここも、あんたらもな」
(今の俺に、そんな器用な干渉はできない)
「……帰ってくれぇ」
「俺にはもうここしかないんだ」
「村には帰りたくない」
声が、水面から滲む。
個体の境界が曖昧だ。
表情は見えない。
(……違う)
ひとつだけ、こちらを向いている。
群れの中。
黒に紛れて、区別はつかない。
それでも――
目が合う。
あるはずのない焦点が、重なった。
(……いた。グリッチだ)
気づけば縁が繋がっていた。
(まさか、そこにいるなんて……)
「ぅわ! 僕を見るのは止めろ」
黒い影が、水たまりから飛び出す。
……グリッチ。
姿は周囲と変わらない。
ただ、サイズだけが違う。子供ほどの背丈。
「僕から取っていかないで。だって、そんなことしたら……」
一度、息をつく。
不自然な間。
――模倣だ。
「あの子がそうなの? ポチ」
リーナが一歩、前に出る。
同時に、マダラス卿の部下たちが動いた。
距離を詰める。ゆっくりと、囲むように。
「あれが、お前の追いかけている奴か。どちらが泥棒なのかは知らんが」
俺は、こうべだけをマダラス卿に向ける。
「どちらが取ったかはどうでもいい。……やるのか、あいつと。それとも、先に話し合いでもするか?」
(……公正な言葉だ)
だが、それに意味があるとは思えない。
卿は、俺を見定めているだけだ。
目の前のグリッチと、同じように。
「ねえ、ポチ。話し合いするの?」
リーナが不安そうに振り向いた。
(話し合う……俺が、か)
「ポチ、頑張って行ってきてね」
背中を押される。一歩、踏み出す。
グリッチの方へ。
(何を、どう話す)
グリッチは動かない。ただ、こちらを見ている。
怯えか。
それとも――処理中か。
(あれ、話し合い――そんなこと、言ってなかったはずだ)
(……違う)
“話し合い”という前提が、崩れている。
マダラス卿の言葉。その意味が、急速に薄れる。
一歩、また一歩。
距離が縮まるたび、思考の輪郭がぼやけていく。
(あれが……欲しい)
渇望が、優先順位を書き換える。
指先が、グリッチの影へと伸びる。
触れる――その直前。
――落ちてきた。
光。
槍。
次の瞬間、雷鳴。
白銀の閃光が、視界を塗り潰す。
伸ばした腕が、貫かれる。
衝撃。
処理が、追いつかない。
骨が砕ける。
手が、腕が、肩まで。
弾かれる。
――意識が戻る。
視界を走査する。
空間が、歪んでいる。
中心に突き刺さった一本の光。
それを起点に、新たな槍が次々と降り始めた。
一本。
二本。
三本。
俺とグリッチの間に立つ中心軸を共有しながら、光は円を描くように広がっていく。
そして――
グリッチ側にも、鏡合わせのように同じ数が配置された。
中心の一本を共有し、二つの円が連なる「8の字」の陣形。
俺たちを分断し、個別に隔離するための巨大な光の檻だ。
(……囲われたか)
「うわぁ、ポチぃ」
背後から、リーナの声が近づく。
グリッチは動かない。
さっきまでの模倣が嘘のように、影のような状態だ。
近くにあった骨が、引かれるように戻る。
だが、砕けて遠くへ飛んだ分は、檻の外に取り残されたままだ。
「平気だよね? ねぇ」
リーナが、外側から骨を拾い集める。
その手が、光に触れかける。
弾かれる。
「……ポチ……だめかも」
小さく、リーナが呟く。
今にも、泣きそうだ。
「むぅぅ。私の魔法じゃ、解除できないよ」
この光の牢獄が、言語として読め始めていた――その時だった。
「すまない、骨君。しばらくはそこで我慢してほしい」
クラリスの声が響く。
彼女が空中で指を弾くと、俺とグリッチをそれぞれ囲んでいた光の槍が、生き物のように脈打ちながら分裂を始めた。
数本だったはずの槍が、幾重にも枝分かれしていく。
鋭い先端が、一斉に内側へ向く。
次の瞬間、それらは獲物に食らいつく獣の顎のように倒れ込み、影のようなグリッチを呑み込んだ。
光はそのまま収縮し、やがてグリッチを閉じ込めた球体の檻へと姿を変える。
「運べ!」
クラリスの指示で、待機していた二人の騎士が馬の鞍からロープを外した。
彼らは馬を巧みに操り、グリッチを閉じ込めた光の檻を左右から挟み込む。
騎士たちが放ったロープの輪が、宙に浮く球体へと吸い込まれるように飛ぶ。
光に触れた瞬間、パチリと火花が散った。
だが、焼き切れることはない。
輪はそのまま、磁石に引かれるように光の柵へと固定された。
二頭の馬が歩き出す。
左右のロープが張り、グリッチを閉じ込めた球体は重さを感じさせないまま、二頭の間で静かに宙を滑り始めた。
続いて――
俺を閉じ込めた檻にも、同じようにロープが打ち込まれる。
「リーナ嬢は、私の前に」
クラリスの迷いのない指示。
リーナが一瞬こちらを見る。
(……準備されていた)
原理は分からない。
だが、偶然ではない。
グリッチが、静かすぎる。
考えているのか。俺と同じように。
(――どうやってその頭に触れてやろう)
触れれば、分かるはずだ。あの中に、何があるのか。
すぐそこにある。距離はない。
だが、この檻が、それを許さない。
(……この牢獄は、単純ではない)
もっと規則の違う言語で、閉じられている。
時間はある。
なら、急ぐ必要はない。
――読み解く。




