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玖 山鳴慟哭 6

 


 木々の間に、凪が立っていた。


 彩心は車の傍らで手を上げかけ、そのまま止まった。

 服が土に汚れている。髪には葉や細い枝が絡まり、額から頬へ土の筋がついていた。


 その髪を押し分け、二本の角が伸びていた。


「……凪さん?」


 凪が笑った。

 彩心の知っている、目が合うと少し困ったように逸らされる顔ではなかった。こちらをじっと見たまま、口元だけが緩んでいる。


「キュウさん。あの、角が」

「ああ。見えてるよ」


 抱えていた狐面から声がした。

 彩心は凪を見つめたまま、面を持つ手へ力を込める。


「大陀羅踏地は……」

「吹っ飛んでいったね」

 芙梨が心叫を口元へ寄せたまま言った。

 さっきまで木々の上に見えていた巨体は、もうどこにもなかった。山を揺らしていた音も止んでいる。


 終わったのだと思いたかった。

 けれど、凪はまだ笑っていた。


「芙梨。車を出してから、どれくらい経った?」

 キュウさんが尋ねた。

 芙梨はスマホを確かめ、顔を上げる。

「十分も経ってない」


 狐面から、返事がなかった。


 *


「十五分くらい」


 昨夜、凪は宿の部屋でそう言った。

 卓上には、彩心が書き留めていた作戦のメモが広がっていた。


「その間は……近づかないで」

「お酒で、分からなくなっちゃうからですか?」

 凪が頷く。

「相手を止めても、すぐには戻れないかもしれないから」

「力が切れる頃合いを待って、私らで呼び戻す」

 キュウさんが続けた。

「それまでは、田口さんと離れておいで。凪を見つけてもね」


 *


 まだ、その頃合いではなかった。


 凪が斜面を下り始めた。

 靴の下で土が滑っても気にせず、そのまま数歩で山道へ下りてくる。


 彩心は一歩後ずさった。


「凪さん。私です。彩心です」


 凪が首を傾げる。

「……うん」


 返事に、彩心は息をつきかけた。


「こっち、来て」


 凪が手を伸ばした。

 何でもない誘いのような声だった。

 けれど、その手についた土を見て、彩心は動けなかった。あの巨人を殴り崩した手だった。


「彩心、乗って」

 芙梨が後部座席の脇から呼んだ。

 田口は既に運転席へ戻っている。エンジンの音が高くなった。


 凪の目が車へ向いた。


「また、行くの?」


 伸ばしていた手が下がる。

 凪が膝を曲げた。


「田口、待ちな!」


 キュウさんが叫んだ。

 発進しかけた車が止まる。


 凪は車を見ていた。

 足元の舗装に、細い亀裂が走っている。


 彩心の背中へ冷たいものが伝った。

 山を駆け下りてきた速さ。巨人の腕を吹き飛ばした力。

 追いつかれたら、この車はもう耐えられない。


「……ここで、やるしかないねえ」


 キュウさんの声がした。

 彩心は腕の中の狐面へ目を落とした。


「私をつけな、彩心」


 腕の中で、狐面が動いた。

「彩心、手を離しな」


 彩心が両手を開く。

 狐面の輪郭がほどけ、目の前へ着物の裾が落ちた。人の姿へ戻ったキュウさんが、彩心を背へ庇うように立つ。


「芙梨。心叫は、そのまま使えるね?」

「使える。呼び戻すの?」

「隙を作ってからだ。今は、あの子から目を離すんじゃないよ」


 凪がキュウさんを見た。

「あ。いた」

「いるとも。お前さんを置いて帰れるかい」


 キュウさんの背後へ、尾が伸びた。

 彩心にも見覚えのある竹模様。その隣に、もう一本が揺れる。


「管狐。キツネゲショウ」


 裾の下から、小さな狐が走り出した。

 道へ散った狐たちが身を翻す。その輪郭が膨らみ、人の姿になった。


 キュウさんが、何人もいた。

 その間には、スケッチブックを抱えた彩心まで立っている。


 凪が顔を巡らせた。

「……いっぱい」


「彩心。あんたは下がるふりをして、横へ回りな」

 すぐ前のキュウさんが、小さく言った。

「車には近づけないよ」


 彩心は頷き、道の端へ寄った。


 一人のキュウさんが凪へ歩み寄る。

「ほら、こっちを見な」


 凪の腕が動いた。


 姿が弾けた。

 着物の代わりに小さな狐が宙へ投げ出され、地面へ着く前に消える。


「あれ?」


 凪が自分の手を見た。

 別の彩心が、その脇を駆け抜ける。


 凪はそちらへ足を踏み出した。

 伸ばした指が服を掴んだ瞬間、その姿も狐へ戻る。握られるより先にほどけ、凪の掌から消えた。


「あはは。何、それ」


 彩心は道端の木へ背を寄せた。

 ほんの数歩先で、自分と同じ顔が消えた。

 凪は笑っている。掴めなかったことを残念がるように、次の姿へ目を向けていた。


「凪。私だよ」

 キュウさんの声がする。

 凪が振り向き、地面を蹴った。


 距離が、一息でなくなった。


 キュウさんの姿が砕ける。

 その向こうで、本物のキュウさんが身を引いた。振り抜かれた手が袖をかすめ、背後の木へぶつかる。

 幹が鈍い音を立てた。


「……長くは持たないね」


 彩心はライラックを握り直した。

 描いている時間はない。目の前で、また一人の自分が消える。


 凪の背中が、こちらを向いた。


 彩心は走った。


「凪さん!」


 振り向かれる前に、両腕を腰へ回した。

 勢いのまま背中へ頬がぶつかる。凪の体は、ほとんど揺れなかった。


 熱かった。

 服越しにも分かるほど、体が熱い。


「私です。彩心です!」


 凪が肩越しに振り向いた。

 笑みを残したまま、腰へ回された腕に手をかける。


 引き剥がされる。

 そう思って、彩心はさらに強くしがみついた。


「お願い、聞いてください!」


「芙梨、今だ!」

 キュウさんが叫んだ。

「私の声を、凪へ届けな!」


「了解、やるよ心叫!」


 芙梨が心叫を持ち直した。

 駆け寄ってきたキュウさんへ筒先を向け、口元を近づけられる位置まで持ち上げる。


 *


「私以外の声も届けられるよ」


 昨夜、芙梨はそう言って、心叫を卓上へ置いた。

「声を出してもらえば、それを相手へ送れる。ただ、誰の声でもいいわけじゃなくて」

「届ける相手が、その者の姿と声を知っている必要がある」

 心叫が続けた。

 キュウさんが頷く。

「なら、私の声でいけるねえ」

「試してみる?」


 キュウさんが心叫へ顔を寄せた。

 凪は向かいに座り、少し緊張した顔で待っていた。


『凪。聞こえるかい』


 凪が瞬きをした。

 それから、小さく頷いた。


 *


『凪』


 彩心の腕を掴んでいた手が止まった。


 凪が顔を巡らせる。

 彩心は息を詰めたまま、その背中へしがみついていた。


『私だよ。キュウさんだ』


「……どこ?」


 凪の指が動いた。

 彩心の腕へ食い込む。


「いたっ……」


 声を呑み込めなかった。

 凪が肩越しにこちらを見る。

 彩心はその目を見返した。


「凪さん。もう、大丈夫です。戦わなくていいんです」


 凪は笑っていた。

 けれど、何を言われたのか分からないように、首を傾げる。


「何で?」

「終わったからです。大陀羅踏地は、もう――」


 腕を引かれた。

 片足が地面から浮く。彩心は慌てて踏ん張ったが、凪の手は少しも緩まない。


「離してよ」


「嫌です!」


 自分でも驚くほど、大きな声が出た。


 凪が目を見開く。

 その顔が、急に滲んだ。

 彩心は瞬きをし、もう一度、腕へ力を込めた。


「離したら、また行くでしょう。もう、やめてください!」


『凪。今、誰を掴んでる』


 キュウさんの声がした。

 凪は彩心の腕へ目を落とす。


『見てごらん。お前さんが、守ろうとしてた子だよ』


 凪の視線が、腕から顔へ戻った。

 彩心は呼吸を整えようとした。うまくいかず、言葉の間で息が引っかかる。


「一緒に、帰りましょう。凪さん」


 指がわずかに緩んだ。


 彩心は足をつき直した。

 凪はまだ、こちらを見ている。笑みが薄れ、代わりに眉が寄った。


『そう。その子を離すんだ。痛いって言ってるだろう』


「……いたい?」


「はい」


 彩心は頷いた。

 凪の手が離れる。


 急に自由になった腕が、自分のものではないように痺れた。それでも彩心は抱きついたまま、顔を上げる。


「だから、もうやめましょう」


 凪の唇が動いた。

 声は出なかった。


 キュウさんが、すぐ傍まで来ていた。

 心叫を芙梨へ返すと、凪の頬へ手を添える。


「お帰り、凪」


 凪が、その手を見た。

 目を閉じかけ、また開く。


「……キュウ、さん」


「ああ。私だよ」


 肩の力が抜けた。

 凪が大きく息を吐く。その膝が折れかけ、彩心は慌てて体を寄せた。


「凪さん?」

「彩心……」


 今度は、名前を呼ばれた。

 彩心が頷くと、凪はその腕へ目を落とした。


「ごめ――」


 言い終える前に、体が傾いた。


 彩心は支えきれず、一緒に膝をついた。キュウさんが肩を抱き、凪の頭が地面へ落ちるのを受け止める。


「凪さん!」


「大丈夫。息はしてる」


 キュウさんが顔を覗き込んだ。

 彩心も身を屈める。閉じられた目は動かなかったが、頬へかかる息は確かにあった。


 額の角が、先端から薄れていく。

 最後まで残っていた硬い輪郭が消えると、そこには土と汗に汚れた凪の顔だけが残った。


 彩心は、ようやく腕を解いた。

 掌が震えていた。

宿にて


「朝食は七時からだそうです」

 彩心が宿の案内を畳んだ。

「凪さん、起きられますか?」

「……たぶん」

「起こしますね」


 隣から、芙梨がメモ帳を差し出した。


『私も起こして』


「分かりました」

「俺も頼む」

 心叫が言った。

「朝食、飯は土鍋か?」

「それは、起きてから聞いてください」


     


 翌朝。


「芙梨さん。朝ですよ」


 布団の中で、芙梨が何か言った。

 彩心は枕元へ屈む。

「……え?」


 もう一度、唇が動く。

 やはり聞こえなかった。


「心叫さん、まだ寝てますから」


 芙梨は薄く目を開けた。

 しばらく彩心を見てから、布団の外へ手を伸ばす。メモ帳を引き寄せ、顔を枕へ埋めたままペンを動かした。


 差し出された頁を、彩心は受け取った。

 縦にして、少し傾ける。


読めない


 芙梨の手からペンが落ちた。


「芙梨さん?」


 もう寝ていた。


 少し離れた布団では、心叫が長い黒髪を枕へ広げている。

 こちらは、呼びかけても目すら開けなかった。


「……朝ご飯、おかわりするんじゃなかったんですか」


「彩心」


 入口から呼ばれ、振り返る。

 凪が眠そうに目を擦っていた。起こしてから、ようやくここまで来てくれたらしい。


「凪さん。先に行っててもらえますか?」


 凪は二人の布団を見た。

「……まだ、寝てる?」

「はい。でも、もう時間なので」


「そっか」


 頷いて、凪が部屋を出ていく。

 彩心はメモ帳を枕元へ戻し、その後を追った。


 凪は自分の布団へ戻っていた。


「凪さん?」


「……みんな、まだみたいだから」


「朝食は待ってくれませんよ?」


 凪は目を閉じたまま、小さく頷いた。


 *


 「結局、私らだけかい」


 朝食の席で、キュウさんが向かいを見た。

 彩心は味噌汁の椀を両手で持ち、頷く。


「全員、起こしたんですけど」


 膝の上では、ライラックが静かに寝ていた。

 朝ご飯だよと声をかけた時には、「いく」と返事をしたのだけれど。


「起きるのと、起きてるのは別だからねえ」


 彩心はひと口、味噌汁を飲んだ。


 

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