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拾 山鳴慟哭 7

 


 凪を後部座席へ寝かせると、彩心はようやく背を伸ばした。

 腕が痺れていた。掴まれた場所には指の跡が残り、袖を戻す時に少し痛んだ。


「藤花さんも、こちらで休んでいてください」


 田口が車内から顔を上げた。

 凪の頭の下へ、畳んだ上着を差し込んでいる。


「いえ。私は、大丈夫です」

「腕は?」

「少し、痛いだけなので」


 田口はその腕を見たが、何も言わなかった。

 代わりに、車内へ置いてあった水を差し出す。

 彩心は礼を言い、ひと口飲んだ。


「凪のこと、頼めるかい」

 キュウさんが尋ねた。

「もちろんです」

「ありがとう。私らは、あいつを確かめてくるよ」


 彩心は蓋を閉め、凪へ目を向けた。

 目覚める気配はない。けれど、胸は静かに上下していた。


 ライラックが肩のそばへ浮いてくる。

「凪、だいじょうぶ?」

「うん。田口さんが見ていてくれるから」


 答えてから、彩心はキュウさんたちを追った。


 山道の先には、折れた枝が散らばっていた。

 ガードレールの一部が潰れ、その向こうの斜面まで木々が倒れている。太い幹の途中に、新しい木肌が白く覗いていた。


 芙梨が足を止めた。

「こっち」


 拡声器を口元へ寄せたまま、道の下を指す。

 彩心も近づき、倒れた木の間を覗き込んだ。


 老人の姿はなかった。


「……どこですか?」


「おるだろうが」


 足元から声がした。

 彩心は身を引き、改めて目を落とす。


 土に半ば埋まった鍬があった。

 柄は落ち葉の下へ伸び、鉄の刃には泥がこびりついている。すぐそばの石が砕け、細かな破片が散らばっていた。


「見下ろしおって。何の用だ」


 彩心は鍬を見つめた。

 山を動かし、木々を薙ぎ倒していた巨人が、今は足元に収まっている。


 キュウさんが屈んだ。

「その姿に戻ったんだね」

「戻らされたんじゃろうが! あの鬼に!」


 怒声に、彩心の肩が跳ねた。

 けれど、鍬は動かなかった。周囲の土にも変化はない。


「近づいても、大丈夫なんですか」

「自分で人の姿を保てないほど弱ってる。今は誰かに使われない限り、力は振るえないよ」


「勝手に決めるな!」


 声が割れた。

 続くはずの言葉が途切れ、しばらくしてから低い罵声が漏れる。


 芙梨が、キュウさんの隣へしゃがんだ。

「また会ったね」


「貴様か」


 鍬から返る声が、さらに険しくなった。


「仲間まで連れてきおって。今度こそ、この山から儂を追い出しに来たか」

「話をしに来た」

「聞くことなどない!」


 芙梨は口を閉じた。

 それでも立ち去らず、泥のついた刃へ目を向けていた。


「私は、聞きたいんだ」


「貴様が聞きたいから、儂が話すのか」


 芙梨の手が、拡声器の柄を握り直した。

「無理にとは言わない。でも、どうしてこんなことをしたのか――」

「こんなこと?」


 刃にこびりついていた泥が、ひとかけら落ちた。


「道が崩れたか。家が潰れたか。それがどうした」

「それで、困ってる人がいる」

「儂が困っていた時に、誰か来たか!」


 芙梨が黙った。


「好き勝手に掘り返して、固めて、儂のいる場所まで削りおって! 邪魔になれば山ごとなくす! そのくせ、自分らのものが壊れた時だけ騒ぎ立てる!」


 彩心は、背後の斜面へ目を向けた。

 折れた幹。剥き出しになった土。

 ここに来るまでにも、崩れた路面や落石を見てきた。田口がハンドルを切るたび、車の中で体が傾いたことを思い出す。


「あんたが起こした地震で、家へ戻れなくなった人がいる」

 キュウさんが言った。

「土砂に巻き込まれて、怪我をした人もね。山を削った者だけが、そこにいたわけじゃないんだよ」


「知ったことか!」


 彩心は唇を結んだ。


「儂の知らん人間が、儂の知らん場所で何を失おうと、何故儂が気にせねばならん!」


「……あなたも、気にしてほしかったんじゃないの」


 芙梨が言った。


「黙れ!」


 即座に怒鳴り返された。

 芙梨は顔を逸らさなかった。


「勝手に儂を分かったように言うな!」

「うん。分からない。だから、聞きたかった」

「聞けば気が済むのか。書き留めて、他の人間にも見せて、それで儂に我慢しろと言うつもりか!」


 芙梨の視線が、膝の上へ落ちた。

 拡声器へ添えた指が、ゆっくり動く。


「我慢してたことまで、なかったことにはしたくない」


「貴様に何ができる!」


 声が木々の間へ響いた。

 彩心は返事を待った。芙梨も、すぐには答えなかった。


「壊されたものを、全部戻すことはできない」

「ならば帰れ!」


「でも、あなたが何を――」

「帰れと言っとる!」


 芙梨の言葉が途切れた。

 鍬はなおも怒鳴り続けた。


「儂はもう退かんぞ。貴様らに、これ以上――」


 そこで、声が切れた。


 彩心は鍬を見た。

 芙梨が少し身を乗り出す。


「……大陀羅踏地(だいだら)?」


 返事はなかった。

 風が吹き、柄の上に重なっていた葉が一枚ずれた。


「まだ、話せる?」


 芙梨は待った。

 拡声器を口元へ寄せたまま、次の言葉を探しているようだった。


 キュウさんが手を伸ばし、柄に積もった土を払った。

 今度は、触るなとも言われなかった。


「……キュウさん」

 彩心が呼ぶと、彼女は鍬へ触れたまま答えた。


「もう、声を出す力も残ってないんだろうね」


 彩心は、泥のついた刃を見つめた。


「休めば……また、話せるようになるんですか」


「普段の消耗ならね。休んで、力を戻せばいい」

 キュウさんは柄から手を離した。

「けど、ここまで傷つくと、それだけじゃ戻れないことがある。今のこいつは、休眠に入ったんだろうね」


 彩心は肩のそばへ目を向けた。

 ライラックが、静かに鍬を見下ろしている。


「そうなったら、どうすれば」


「親か、その血を引く者の助けが要る」


「親……」


 ライラックの筆先が、彩心の頬へ触れた。

「彩心だね」

「……私?」


「最後に魂を目覚めさせた、きっかけになった者さ。付喪神にとっては、それが親になる」

 キュウさんが言った。

「あんたとライラックも、そういう繋がりだよ」


 彩心は赤い軸をそっと支えた。

 初めて声を聞いた夜には、自分が何をしたのかも分からなかった。その時に生まれた繋がりが、今もあるのだという。


「じゃあ、この人にも」

「ああ。いたはずだ」

「その人を探せば、助けられるんですね」


 キュウさんはすぐには頷かなかった。


「こいつが目覚めたのが、何百年前かも分からないからねえ。本人はもういなくても、血を引く者が見つかれば……ただ、それも調べてみなきゃ分からない」


 彩心は鍬へ視線を戻した。

 長く生きるというのは、自分の親も、その子供も、先にいなくなることなのだ。


 さっきまで耳が痛くなるほど怒鳴っていた声が、もうしない。


 芙梨はまだ、同じ場所にしゃがんでいた。


「……心叫」

「ああ」


 短い返事があった。

 芙梨が拡声器へ添えた手を動かし、口元へ寄せ直す。


「もう少しだけ、話してもいい?」


 彩心は芙梨を見た。

 その問いが誰に向けられたものか分からず、返事をしかけて止まる。


 芙梨の目は、鍬へ向けられていた。


 やがて、唇が動き始めた。


 声は聞こえなかった。

 彩心は隣にしゃがんだまま、その横顔を見ていた。芙梨は時折口を止め、何かを待つように鍬を見つめる。それからまた、ゆっくりと言葉を続けた。


 何を話しているのかは聞こえない。

 けれど、まだ伝えようとしていることだけは分かった。


 彩心は口を挟まず、待った。


 やがて芙梨の唇が止まり、拡声器が少し下がった。


「……届いたんですか」


 彩心が尋ねると、芙梨は口元へ戻した。


「分からない」

 鍬を見たまま、答える。

「返事はないし。眠ってる間に届いた声を、聞こえてるかも……」


 彩心も鍬へ目を落とした。

 何も変わっていなかった。


「でも、対象には選べた」


 芙梨の指が、柄のそばに落ちていた葉を避けた。


「じゃあ……」


「少しは、聞く気になってくれてたのかな」


 芙梨は小さく息を吐いた。


 キュウさんは何も答えなかった。

 彩心も、頷くことはできなかった。


 ただ、芙梨が立ち上がるまで、隣で一緒に待っていた。

 男は、真面目な農夫だった。

 毎朝畑へ出ては鍬を振るい、土の具合を確かめた。雨が降れば作物を気にかけ、実りの季節には、収穫した米を掌に載せて笑った。


 仕事を終えると、鍬についた泥を落とした。

 柄が傷めば直し、刃が鈍れば研いだ。そうして何年も使い続けた道具が、いつしか言葉を話すようになった。


 男は驚いたが、翌朝も同じ鍬を持って畑へ出た。

 鍬は男の手の中で、米の育ちやすい土を作った。男はその土へ苗を植え、秋になると、今年もよく実ったと喜んだ。


 やがて男が畑へ出られなくなると、鍬はひとりでに動き、男に代わって土を耕した。

 男が帰らぬ人となった後も、畑には柔らかな土が残った。


 それから鍬は、土地を渡り歩くようになった。

 畑に向いた土を作り、また別の土地へ移った。人とも、付喪神とも、ほとんど関わらなかった。


 長い年月のうちに、耕した土地には道が通り、建物が立った。

 人が栄えるのは、喜ばしいことだと思った。

 自分は山へ移ればよかった。


 その山も、少しずつ切り開かれた。


 久しぶりに人里へ下りると、田畑を守っているのは老人ばかりになっていた。

 次に訪れた時には、見知った顔が減っていた。

 やがて誰もいなくなり、畑には草が生い茂った。


 あれほど欲しがっていた土地だったはずなのに。


 ある日、道路の土を緩めてみた。

 人が通らなくなった。

 少し、気が晴れた。


 土砂を崩し、建物を倒してみた。

 もっと、気が晴れた。


 地面を揺らしてみた。

 ひどく、気が晴れた。


 そこでようやく、自分が人間に怒っているのだと気づいた。


 何百年も、役に立ってきた。

 何百年も、退いてきた。


 今度くらい、儂の好きにさせろ。


 その怒りを口にする頃には、もう、誰の言葉も聞きたくなかった。

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