拾壱 旅は道連れ紙の上
目を開けると、知らない天井があった。
凪はしばらく眺めてから、ここで一度眠ったことがあると思い出した。
宿だ。
顔を横へ向ける。
それだけで頭の奥がずきりと痛んだ。障子越しの光が眩しく、目を閉じ直す。
「……気持ち悪い」
「起きたね」
キュウさんの声がした。
湯呑みを置く音が、妙に大きく響く。
「水、飲めるかい」
凪は薄く目を開け、頷いた。
背中へ手を添えられ、ゆっくり起き上がる。肩が痛んだ。腹にも鈍い痛みが走ったが、それより先に胃が持ち上がり、口元を押さえた。
動かずに待っていると、少しずつ治まった。
「……今、いつ?」
「二日経ったよ。お前さんが倒れてから」
凪はキュウさんを見た。
「……二日?」
「ああ。よく寝てた」
差し出された水を、ひと口だけ飲んだ。
口の中に残っていた嫌な味は、まだ消えない。もうひと口飲もうとして、やめた。
「みんなは」
「ここにいるよ。田口さんは仕事へ戻ったり、様子を見に来てくれたりしてるけどね」
「……ずっと?」
「お前さんを置いて帰るわけにもいかないだろう」
凪はコップへ目を落とした。
「大陀羅踏地は」
「見つけた。鍬に戻ってたよ」
「話は?」
「少しだけ。最後まで怒鳴って、そのまま休眠に入った」
水面が小さく揺れた。
「今は田口さんたちが預かってる。今後のことも、手配してくれてるよ」
「……そっか」
頭の奥で、脈に合わせて痛みが響いていた。
考えようとすると、そこへ意識が引き戻される。
コップをキュウさんへ返し、両手を布団に置いた。
指の節に、細かな傷があった。
「彩心は」
「無事だよ。芙梨も、田口さんも」
凪は息を吐いた。
その拍子に、途切れていた記憶が少し戻った。
背中へ回された腕。
離してくれないから、掴んだ。
痛い、と言われた。
「……私、彩心に」
キュウさんが頷いた。
「覚えてるんだね」
「少し。腕、掴んで……」
「うん」
凪は手を握り込んだ。
「怪我は」
「痛みは引いてきたって。けど、跡はまだ残ってる」
顔を上げられなかった。
胃の辺りが重い。俯いたまま唾を飲み込むと、キュウさんの手が背中へ触れた。
「謝るなら、本人に言いな」
廊下から足音がした。
襖の前で止まり、控えめな声がする。
「キュウさん。入っても大丈夫ですか?」
「ああ。起きたところだよ」
襖が開いた。
彩心が顔を出し、凪を見ると足を止めた。
「凪さん」
「……おはよう」
顔を上げたが、目が合う前に逸らしてしまった。
彩心が部屋へ入り、そばに座る。凪はその手元へ目を向けた。
「腕……大丈夫?」
「あ、はい。もう、あまり痛くないです」
彩心が袖口へ手をやった。
凪の視線に気づいたのか、引き上げかけた袖を戻す。
「……ごめん」
彩心の手が膝へ下りた。
「いえ」
そこで言葉が止まった。
凪は布団の皺を見つめたまま、もう一度口を開いた。
「止めてくれたのに。私、」
「凪さんが無事でいてくれて、よかったです」
凪は顔を上げた。
彩心は少し笑っていた。けれど、膝の上では片方の手が、もう片方の袖口を押さえている。
「……うん」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
彩心も視線を落とす。
障子の向こうから、車の走る音が聞こえた。
「おきたの!?」
赤い筆が、開いた襖から飛び込んできた。
凪は思わず目を細めた。元気な声が頭へ響く。
「凪、もうおきた? ねない?」
「……うん」
「じゃあ、おでかけ!」
彩心がライラックを振り返る。
「今、起きたばっかりだよ」
「ずっとまってた!」
ライラックが二人の間で筆先を揺らした。
「本も、もうぜんぶ見た! おやきも、おしろも、まだいってない!」
「ライラック、凪さんはまだ――」
「きのうも、おとといも、おへやだった!」
凪は額へ手を当てた。
新幹線で観光本を覗き込み、写真が変わるたびに声を上げていた姿を思い出す。
「……少しなら」
彩心がこちらを向いた。
「無理しなくても、大丈夫ですよ」
「うん。でも……待ってて、くれたし」
「いくの?」
「……行く」
ライラックが高く舞い上がった。
彩心はその姿を見上げ、困ったように息をついた。
「分かりました。でも、つらくなったら言ってくださいね」
凪は頷き、布団から足を出した。
立ち上がった途端、頭がぐらりと揺れる。胃の奥からせり上がるものに口を閉じ、そのまま座り直した。
キュウさんが背中をさすった。
「まず、水をもう少し飲もうかね」
外へ出ると宿の前には、見覚えのない車が停まっていた。
「おはようございます。具合はいかがですか?」
運転席から下りてきた田口へ、凪は小さく頭を下げた。
「……おはようございます。昨日は、その」
「皆さんご無事で、何よりです」
田口が後部座席の扉を開ける。
凪はその扉を見てから、田口へ目を戻した。
「車……」
「代車です」
短い返事だった。
凪はもう一度頭を下げた。
*
走り出してしばらくすると、ライラックが窓へ張りついた。
「今日は、こわれてないね」
「ライラック」
彩心が慌てて呼び戻す。
田口は前を向いたまま、静かに答えた。
「今日は、壊さずに帰りたいですね」
凪は膝の上へ視線を落とした。
隣では芙梨が、肩の拡声器を口元へ寄せている。
「昨日の車、直りそう?」
「まず、見てもらわないことには」
「そっか」
「ええ」
芙梨もそれ以上は聞かなかった。
彩心はライラックを窓から離し、膝へ載せた。
今日は、昨日よりも田口がゆっくり曲がり角へ入っている。揺れるたびに黙って目を閉じる凪を、時折バックミラーで確かめていた。
「それと、大陀羅踏地の今後についてですが」
凪が顔を上げた。
田口はミラー越しにその顔を見て、話を続けた。
「うちの神社で、お預かりすることになりました」
「ご実家の、ですか?」
彩心が尋ねる。
「はい。山の神として、お祀りしながら保護しようと」
「……代表の方とは、もう話が?」
凪が聞いた。
「ええ。父が、こちらで引き受けると言っています」
凪が瞬きをした。
芙梨も拡声器を持ち上げる。
「お父さんが決めるの?」
「はい。代表ですので」
車内が静かになった。
田口はミラーへ目をやり、少し間を置く。
「……父のこと、お話ししていませんでしたか」
「代表のもとで働いてるとは聞いたねえ」
助手席のキュウさんが答えた。
「実家が神社だとも。けど、その二つが一緒だとは聞いてないよ」
「ああ、すみません。長野県の守護四十七傑は私の父です。実家の神社で神主をしていまして、私もそこで働いています」
「そうだったんですね」
彩心は田口の横顔を見た。
別々に聞いていた話が、ようやく繋がった。
「今回、父が直接伺えなかったのも、祭事と重なってしまったからなんです。どうしても抜けられず、私が代わりに」
「それで、案内まで引き受けてくれたんだね」
「はい。皆さんにはお世話になったと、父からも」
凪は小さく首を横に振った。
「田口さんも……ずっと、運転してくれてたので」
「お役に立てたなら、よかったです」
交差点の手前で、車がゆっくり速度を落とす。
「神社なら、ずっと様子も見ていられます。親や血縁の方についても、こちらで調べることになると思います」
「見つからなければ、眠ったままなんですよね」
彩心は膝の上のライラックへ手を添えた。
「ああ。親か血縁者が触れ続けて、回復を助ける必要がある。あそこまで傷ついてしまうと置いて休ませておくだけじゃ、戻れないよ」
キュウさんが答えた。
田口が頷く。
「ですので、まずは傷めないように保護しておこうと。今の状態で、あちこちへ移すのも心配ですから」
彩心は土に埋まっていた鍬を思い出した。
あれほど怒鳴っていたのに、最後には触れられても声を出さなかった。
「でも、人が来るところで……嫌がりませんか」
「そこは、あまり心配ないかもしれません」
田口は少し困ったように笑った。
「普段は、参拝される方も少ないので」
「四十七傑の神社なのに?」
芙梨が言うと、キュウさんが笑った。
「それを目当てに来る客は、そういないだろうねえ」
「父は、山の神様をお迎えすれば、観光で立ち寄ってくださる方も増えるかもしれない、と」
「……なかなか、ちゃっかりしてるじゃないか」
「私も、それはどうなんだろうとは言ったんですが」
田口がハンドルを切った。
「まずはお預かりします。先のことは、調べながら考えていこうと思います」
次に目を覚ました時、あの鍬は何を言うのだろう。
彩心は考えたが、参拝客を歓迎する姿だけは、どうしても想像できなかった。
*
車を降りると、冷たい風が頬へ当たった。
彩心は肩をすくめ、鞄を掛け直した。
「おしろ!」
ライラックが先へ飛び出した。
石垣の向こうに屋根が重なっている。観光本で見ていた時よりもずっと大きく、彩心も思わず足を止めた。
「本当に、来たんですね」
「ほら。写真より立派だろう」
キュウさんが言った。
芙梨は早速スマホを取り出していた。城へ向けて構え、少し場所を変えては画面を確かめている。
ライラックがその前を横切った。
「ぼくも!」
「写らないよ」
「……そっか!」
彩心が笑うと、ライラックは今度は自分のそばへ戻ってきた。
「彩心、描く?」
「うん。あとで少し描こうか」
凪は車の脇に立ったままだった。
彩心が戻ると、眩しそうに目を細めて城を見ている。
「歩けそうですか?」
「……うん」
ゆっくり歩き始める。
キュウさんがこちらを振り返ったが、凪の隣に彩心がいるのを見ると、ライラックたちへ顔を戻した。
堀に沿って歩くうちに、凪の歩幅が少し狭くなった。
彩心もそれに合わせた。先を行くライラックの声が、だんだん遠ざかる。
「少し、座ります?」
「……お願い」
道の脇のベンチへ腰を下ろすと、凪は膝へ肘をついた。
彩心は鞄から水を取り出す。
「やっぱり、まだつらいですか」
「頭が……少し」
差し出した水を受け取り、凪は蓋を開けた。
けれど、飲まずに手元へ目を落としていた。
彩心も隣へ座った。
遠くでライラックがキュウさんを呼んでいる。
「……来たかったんです」
凪がぽつりと言った。
彩心は城を見上げ、それから凪へ顔を向けた。
「長野に。大陀羅踏地がいるって、聞いて」
凪の指が、開けた蓋をゆっくり回した。
「何か、分かるかもしれないって。帖を書いた人のこととか、キュウさんのこととか……」
彩心は隣で待った。
凪は水をひと口飲み、顔をしかめてから続ける。
「でも、聞けなかった。何も」
「……あの時は、止めないと危なかったですから」
「うん」
凪が頷いた。
蓋を閉めようとして、うまく噛み合わずにやり直す。
「止められたのは、よかったんだと……思う。けど、何であんなに怒ってたのかも、私は聞けなかった」
彩心は、鍬から響いていた声を思い出した。
儂が困っていた時に、誰か来たか。
あの怒声は、今も覚えている。
「私たちも、あまり聞けませんでした」
凪がこちらを向いた。
「話そうとしたら、怒鳴られて。それでも芙梨さんが聞いていたんですけど……途中で、声がしなくなって」
「……そっか」
凪はそれきり黙った。
蓋の閉まった水を、両手で持っている。
城を背にして、観光客が写真を撮っていた。少し離れたところでは、ライラックが堀を覗き込み、キュウさんに呼び戻されている。
「凪さん」
彩心は膝の上で手を重ねた。
「今まで調べて、分かっていることって、どれくらいあるんですか?」
「私の家族のこと?」
「はい。九十九神帖を書いた人のこととかも」
凪は少し考えた。
それから水を脇へ置き、スマホを取り出す。
開かれた画面には、古い紙を写した画像があった。
新幹線の中でも、凪がずっと眺めていたものだ。
「これを渡してきた人は、分からないまま。キュウさんのことも、知ってる相手にはまだ会えてない」
「ご家族がいなくなった理由も……?」
凪が頷く。
十歳の時に面と帖を受け取り、その日に家族が消えた。
新幹線で聞いた話を、彩心は頭の中で辿った。凪が今も九十九神を探しているのだから、解決していないことは分かっていた。
それでも、何かは掴んでいるのだと思っていた。
「九十九神帖を書いた人と、凪さんに渡してきた人は、同じ人なんでしょうか」
「それも、まだ」
凪が画面を指で送った。
違う頁の画像が現れる。
「昔の人が書いたものだから。同じ人なら、ずっと生きてることになるし……付喪神だったのかもしれない。でも、誰かが預かってただけかもしれない」
「その人が、ご家族のことを知っているかも、分からないんですね」
「うん。ただ、あの日に来た人だから」
彩心は画面を見つめた。
凪へ渡されたもの。家族がいなくなった日に残ったもの。
凪にとっては、そこから辿るしかなかったのだ。
「九十九神には、書いた人に会ったことがある相手もいる。だから、探してる」
凪は画面を消した。
「大陀羅踏地も、何か知ってたかもしれない」
その言葉には、彩心も返事ができなかった。
知らなかったかもしれない。けれど、確かめることはもうできない。
足音が近づいた。
顔を上げると、芙梨が立っていた。
両手で、小さなスケッチブックをこちらへ向けている。
『ちょっといい?』
太い字だった。
凪が頷くと、芙梨は頁をめくった。
『心叫、ご飯につられて行っちゃった』
彩心は顔を上げ、道の先へ目を向けた。
田口のそばを、黒い長髪の男が歩いている。その隣ではライラックが忙しなく飛び回り、キュウさんに呼び戻されていた。
芙梨がスケッチブックへ何か書き足した。
『みんなといるなら、こっちの方が見やすいと思って』
「カンペですね」
彩心が言うと、芙梨は頷いた。
新しい頁へペンを走らせ、凪へ向ける。
『大陀羅踏地のこと。凪には、まだ話してなかったから』
凪は差し出された文字を読んで、芙梨を見た。
芙梨はベンチの端へ腰を下ろし、スケッチブックを膝へ置いた。
『眠った後に、少し話しかけた』
「……眠った後?」
芙梨が頷き、続きを書く。
『心叫の力で。返事はなかったけど、声を届ける相手には選べた』
凪は少し考えた。
「聞く気が、あったのかな」
芙梨はペンを止めた。
それから、小さく書き足す。
『少しは、あったのかも』
凪はその文字を見つめた。
彩心も、鍬の前にしゃがんでいた芙梨を思い出す。何を伝えたのかは、あの時も聞こえなかった。
「何を、話したの?」
芙梨は一度紙へ目を落とし、書き始めた。
『あの人みたいに、自分のことも、言葉も、意見も聞いてもらえなかった相手の声を、私は伝えていきたいって』
凪が顔を上げた。
芙梨は頁を向けたまま、二人が読み終えるのを待った。
「……エッセイで?」
芙梨が頷く。
スケッチブックを膝へ戻し、続きを書いた。
『何を言ってたのか、誰にも知られないままにはしたくないから』
彩心は文字を目で追った。
怒鳴り続ける鍬の前で、芙梨は最後まで立ち去らなかった。その時も、今と同じことを考えていたのだろうか。
芙梨が新しい頁を開く。
『だから、次はゆっくり話をしたいって伝えた』
凪の視線が下がった。
「……次、あるかな」
芙梨はすぐには書かなかった。
膝の上でペンを持ち替え、少ししてから頁を立てる。
『あってほしいね』
凪はゆっくり頷いた。
閉めたばかりの水の蓋を開け、今度はひと口飲む。
芙梨が頁をめくった。
『それと、二人に相談』
彩心が姿勢を直す。
芙梨は二人の顔を見てから、ペンを走らせた。
『次から、私も一緒に調べてもいい?』
「九十九神を、ですか?」
彩心が尋ねると、芙梨は頷いた。
『一緒にいたら、エッセイのネタに困らなさそう』
凪が瞬きをした。
芙梨はその下へ、もう一文書き足す。
『もちろん、勝手に書いたりはしないよ』
「……危ないけど」
凪の声に、芙梨は一度ペンを上げた。
少し考えてから、大きく書く。
『一人でも危なかった』
彩心は思わず芙梨の顔を見た。
芙梨は肩をすくめ、そのまま続きを書いた。
『それに、私が調べてる話の中にも、凪たちの探し物に繋がるものがあるかもしれない』
紙を二人へ向ける。
読み終えるのを待って、また膝へ戻した。
『私には話をくれる読者がいる。凪たちは、私が知らない付喪神のことを知ってる』
凪が彩心へ目を向けた。
彩心は頷いた。大陀羅踏地を探す場所も、芙梨の集めた目撃情報と、田口たちの調査を合わせて絞ったのだ。
「今回みたいに、ですね」
芙梨が頷く。
『私も助かるし、そっちの役にも立てると思う』
凪はしばらく黙っていた。
やがて、膝へ置いたスマホに目を落とす。
「……九十九神帳のことも、調べてもらえる?」
芙梨のペンが、すぐに動いた。
『もちろん』
「私のことは……書かないでくれるなら」
芙梨が頷いた。
今度は紙へ書かず、凪の顔を見て、もう一度頷く。
凪は小さく息を吐いた。
「……じゃあ、お願い」
芙梨が笑った。
新しい頁へ大きく文字を書き、二人の前へ掲げる。
『よろしく』
「こちらこそ、よろしくお願いします」
彩心が答える。
凪も頭を下げ、少し遅れて口元を緩めた。
遠くから、ライラックがこちらへ飛んできた。
「おやき、あった!」
芙梨が顔を上げる。
ライラックはその前で止まり、続けた。
「心叫、もうたべてる!」
芙梨は頁をめくり、ペンを走らせた。
『あの野』
そこで手が止まった。
書きかけの頁を、ぐしゃりと握る。
彩心が顔を上げると、芙梨はもう立ち上がっていた。
スケッチブックを抱え、店の方へ歩いていく。
「……私たちも、行きましょうか」
凪が頷いた。
彩心は隣で立ち上がり、ライラックと一緒に芙梨の後を追った。
店先へ着く頃には、芙梨は心叫の隣に立っていた。
抱えたスケッチブックの角が、少し潰れている。
心叫は片手で腹を押さえていた。
芙梨が頁を心叫へ向ける。
『私の分は?』
「ある」
心叫が隣の袋を指した。
芙梨はその中を確かめ、ようやくペンをしまった。
「凪さんは、何にしますか?」
田口が品書きの前を空けてくれる。
「……あまり、重くないものを」
「おやきは、少しずつ分けてもいいですね」
彩心も品書きを覗いた。
ライラックはその肩の上から、並んだ写真を順番に見ている。
「のざわな!」
「それはさっき買ったよ」
「じゃあ、こっち!」
「お前さん、選ぶのが早いねえ」
キュウさんが笑った。
焼き目のついたおやきを受け取ると、掌へじんわり熱が伝わった。
彩心は紙に包まれたそれを割り、半分を凪へ渡す。
「熱いので、気をつけてください」
凪が頷き、小さくかじった。
しばらく黙って噛んでから、もうひと口食べる。
「……おいしい」
その声に、彩心も自分の分を口へ運んだ。
*
店を出た後も、田口は帰りの時間を気にかけながら、いくつか道を案内してくれた。
土産物の並ぶ店先で、ライラックが足を止めるたび、一行も止まった。心叫は食べ物のある店にだけ反応し、芙梨に袖を引かれていた。
凪は相変わらず口数が少なかったが、彩心が振り返ると、小さく頷いてついてきた。
通りの先へ出ると、建物の間に山が見えた。
さらに歩けば、その向こうにもまた山がある。新幹線の窓から眺めていた時とは違い、街のどこにいても、その大きさを感じた。
「ここからだと、よく見えますね」
田口が足を止めた。
彩心も顔を上げる。
山の斜面に、日の当たるところと陰になるところがあった。遠くなるほど輪郭が淡くなり、空との境目が薄れていく。
昨日までいた山も、離れて見れば、こんなふうに静かに見えるのだろうか。
道の脇にベンチがあり、凪が腰を下ろした。
彩心も隣へ座る。田口は山を指しながら、キュウさんへ何か説明していた。ライラックが同じ方を見ようと高く浮き、その下では心叫が袋の中を覗いている。
彩心は鞄からスケッチブックを取り出した。
膝の上で開き、鉛筆を滑らせる。
山の稜線と、手前に並ぶ屋根。
遠くを指す田口の腕。そのそばに立つキュウさんと、二人の間に浮かぶ小さな筆。
心叫の袋へ手を伸ばす芙梨も、数本の線で描き留めた。
顔を描き込む前に、また誰かが動く。
彩心は消さずに、その続きへ線を足した。
隣で、水のボトルを置く音がした。
凪が紙へ目を落としている。
彩心が気づくと、凪は少しだけ口元を緩め、みんなの方へ視線を戻した。
彩心も何も言わず、頁の端へ、その横顔を描き足した。
風に浮いた紙を押さえ、日付と「長野県」の文字を小さく添える。
田口がこちらを振り返る頃には、スケッチブックはもう鞄の中だった。
車内での一幕
「そういえば、山の神として祀るって言ってたけど、具体的には何をお願いすればいいの?」
「五穀豊穣や、山での安全などでしょうか」
田口が答える。
「あの方は鍬の付喪神ですから、作物がよく育つようにお願いするのは、よさそうですね」
「ごこく?」
ライラックが彩心の膝から筆先を持ち上げた。
「お米とか、作物がたくさん実ることだよ」
彩心が答えると、ライラックは窓の外へ顔を向けた。
「じゃあ、おやきもいっぱいできる?」
「中に入ってる野菜も、育つからね」
「それがいい!」
「俺もそれでいい」
心叫が言った。
芙梨が拡声器へ目を落とす。
「食べることしか考えてないでしょう」
「実りを無駄にしないと言え」
彩心は笑い、それから少し考え込んだ。
「でも、お願いするばかりだと、また嫌になったりしないでしょうか」
「実った後に、お礼を言いに行けばいいんじゃないかい」
キュウさんが言った。
「頼む時にだけ顔を出すんじゃ、あんまりだからねえ」
「……できたものも、持っていけば」
凪が小さく付け加えた。
「お供えですね」
田口がミラー越しに頷く。
「父にも伝えておきます。目を覚まされたら、まずはご挨拶からでしょうけれど」
「神主さんって、そういうお話もするんですね」
彩心が言った。
「ええ。今回は特に、よく話を聞いてもらわないと。父には、しっかり務めてもらおうと思います」
芙梨が頷き、ふと顔を上げた。
「ちなみに、お父さんは何をお願いするって?」
「商売繁盛です」




