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拾弐 今日は、普通に

 


 味噌汁をよそい終えたところで、食卓からカンペが上がった。


『おかわり』


 彩心は鍋を置き、芙梨を見た。

「ご飯ですか?」

 芙梨が頷く。


「俺も」

 隣から心叫が茶碗を差し出した。

「心叫さん、それで三杯目ですよね」

「まだあるだろ」

「ありますけど」


 二つの茶碗を受け取り、炊飯器へ戻る。

 長野から帰って数週間。初めは多すぎると思っていた量の米も、今では夕食まで残らなくなっていた。


 芙梨は、帰ってきたその日から凪の家に泊まった。

 取材のたびにあちこちを渡り歩いていたらしく、荷物は少なかった。泊まる場所に困っているなら、と凪が言い、いつまで、という話をしないまま、日が過ぎた。


 今では洗面所に歯ブラシが増え、食卓の端には芙梨のカンペとペンが置かれている。


「少なかったら、言ってくださいね」


 茶碗を返すと、芙梨が片手を上げた。

 心叫は既に箸を持ち直している。


「彩心、ぼくのは?」

「ライラックのは、ここ」


 空いていた椅子へ皿を置く。

 赤い筆が嬉しそうに近づいていくのを見届けて、彩心もようやく座った。


 向かいでは、凪がスマホを見ていた。

 茶碗には、まだ半分ほどご飯が残っている。


「凪さん、冷めますよ」

「……うん」


 返事はあったが、視線は動かなかった。


「お前さん、さっきから同じところを見てないかい」

 キュウさんに言われ、凪が画面を消す。

 箸を持ち上げ、ひと口食べてから彩心を見た。


「そうだ。今日から、少し出るから」

「仕入れですか?」

「四十七傑から、呼ばれてて。五日くらい」


 彩心は味噌汁の椀を置いた。

「五日ですか」


「店は休みにしてある。家は……普通に使ってていいから」


「留守を頼んでもいいかい」

 キュウさんが言った。


「はい。それは大丈夫ですけど」


 彩心は凪を見た。

 長野の時のような仕事なのだろうか。尋ねようとすると、凪が少し首を振った。


「今回は、話をしに行くだけ。何かあったら、連絡する」

「……分かりました」


 隣で芙梨のペンが動いた。


『帰る日に連絡して。ご飯の量が変わるから』


「……うん」


 凪が頷いた。

 彩心は思わず芙梨へ目を向ける。芙梨はカンペを置き、何事もなかったように食事へ戻った。


 *


 玄関で靴を履きながら、凪が振り返った。

「……戸締まり、お願い」

「はい。気をつけてくださいね」

「いってらっしゃい!」


 ライラックが彩心の肩のそばで揺れた。

 凪が小さく手を上げる。その顔に掛けられた狐面から、キュウさんの声がした。


「心叫。食べ過ぎるんじゃないよ」

「善処する」

「彩心、なにかあったら遠慮なく連絡しな」


 扉が閉まった。


 彩心は鍵をかけ、しばらくその場に立っていた。

 五日間。

 凪とキュウさんが揃っていないのは、ここへ来てから初めてだった。


「彩心?」


 ライラックに呼ばれ、顔を上げる。

「何でもないよ。戻ろうか」


 居間では心叫が座卓に肘をついていた。

 芙梨は食卓を拭き終え、カンペを脇へ寄せている。彩心が戻ると、こちらを見て片手を上げた。


「おさら、終わった?」

 ライラックが尋ねる。

 芙梨が頷いた。


 彩心は台所へ目を向けた。

 洗い終えた食器が、水切り籠に並んでいた。


「ありがとうございます」


 芙梨は軽く手を振ると、心叫の肩を叩いた。

 長い黒髪がほどけるように消え、拡声器がその手へ戻る。


「今日は買い出し、行くんだっけ?」

「はい。あと、洗剤もなくなりそうで」

「じゃあ、一緒に行く。昨日通った道に、安い店があったよ」


 彩心は頷きかけ、止まった。


 芙梨が拡声器を口元へ寄せたまま待っている。


「……その前に、お願いしてもいいですか」


「何?」


 彩心は、自分の肩のそばを見た。

 ライラックが、同じようにこちらを見ている。


「私に、能力の使い方を教えてほしいんです」


 芙梨の顔から、笑みが引いた。


 長野で何もできなかったわけではない。階段も、煙も、必要なものを描いた。

 それでも、次に何をすればいいのか分からず、誰かの声を待っている時間が何度もあった。


 凪へしがみついた時は、ただ離されないようにするだけで精いっぱいだった。


 彩心は芙梨へ向き直った。


「もう少し、強くなりたくて」


 芙梨は少しの間、彩心を見ていた。

 それから、拡声器を持ち直す。


「いいよ。私で教えられることなら」


 彩心の肩から、少し力が抜けた。

「ありがとうございます」

「ただ、ここじゃ試せないね。少し出ようか。描くもの、持ってきて」


 *


 川沿いの道を歩き、二人は開けた河原へ下りた。

 芙梨が周囲を見回してから足を止める。


「この辺でいいかな」


 彩心は鞄からスケッチブックを取り出した。

 ライラックも肩のそばへ寄ってくる。


「まず、私の使い方から見せるね」


 芙梨が空いた手を上げた。


「私たちにできることは、そんなに多くない。声を遠くへ届けるか、大きくするか。だから、その使い方を変えてる」


 拡声器の柄を握り、人差し指だけを外す。


「絞る。直線。最大」


 人差し指を戻し、今度は中指を外した。


「広げる。直線。最大」


 続いて薬指を外す。

「絞る。直線。大」


 最後に、小指。

「広げる。扇状。大」


 彩心はその手元へ身を寄せた。

「指で、変えてるんですか?」

「うん。この形ならこうする、って心叫と決めてある。毎回、範囲も向きも大きさも、一から説明してたら間に合わないから」


「こいつは、途中で思いついたことまで一緒に言おうとするからな」

 心叫が付け加えた。

「言い終わるまで待ってられるか」


「だから、先に決めたんでしょう」


 芙梨は指を戻した。


「彩心も、よく使うものは決めておくといいと思う。名前もつけて」

「技の名前、ですか?」


「うん。名前を言ったら、どんな形で、何をするものなのか、自分の中ではっきり浮かぶようにするの」

 芙梨は、空いた手の人差し指を立てた。

「私のこれと同じ。その場で考えることが減るし、思い浮かべるものもぶれにくくなる」


「それを、ライラックにも伝えるんですね」

「そう。彩心のイメージを固めるのと、二人で同じものを思い浮かべるため」


「ぼくにも、名前?」

 ライラックが彩心の前へ浮いた。


「技の方だよ」

 彩心が答えると、ライラックは少し考えてから筆先を揺らした。


 彩心は赤い筆を見た。

 描けば出る。そればかり考えていて、ライラックが何を思い浮かべているかまで、聞いたことはなかった。


「芙梨さんは、名前をつけないんですか?」

「私の声、そのまま武器になるから。技名まで大きくしたら、それも飛んでいっちゃう」


「長い名前は特にやめろ」

 心叫が言った。

「試したんですか?」

「試した」


 彩心が芙梨を見ると、彼女は少しだけ目を逸らした。


「それより、一つ描いてみようか」

「何を描けば?」

「木。大きすぎないやつ」


 彩心は白い頁を開いた。

 近くに生えている木へ目を向け、幹と枝を描く。葉のつき方を確かめてから、ライラックを手に取った。


「描こう、ライラック」

「まかせて!」


 色を置き、頁を河原へ向ける。

 絵が紙から離れ、数歩先に根を下ろした。枝が開き、葉が風に揺れる。


 芙梨はそばへ寄って見上げた。

「これ、あそこの木?」

「はい。描きやすそうだったので」


「ねえ。長野で、合図に上げた火の玉、覚えてる?」

「はい。青いのですよね」

「あれ、キュウさんの狐火を描いたんでしょう?」


 彩心が頷く。

「見た時のことを思い出しながら。青い火の玉が、上に飛んでいくように」


「だから思ったんだ。形だけじゃなくて、色から思い浮かべるものも、出てくるものに関係するのかなって」


 芙梨が木へ目を戻した。


「次は、これを赤くしてみて」


 彩心は木と芙梨を見比べた。

「葉っぱを、ですか?」

「幹も枝も」

「……そういう木は、見たことがないですけど」


「見たことがないものは、描けない?」


 彩心は答えかけ、紙へ目を落とした。

「描けます」


「うん。じゃあ、赤い木から何を思い浮かべる?」

「紅葉、とか」

「他には?」


 もう一度、木を見る。

 幹まで赤い木。現実にあるものを探そうとしても、うまく浮かばなかった。


「……すみません。すぐには」


「謝らなくていいよ。例えば、燃えてる木とか」


 彩心は顔を上げた。


「赤く描けば、燃えるんですか?」

「そこは、試してみないと分からない。色だけで変わるのか、炎まで描く必要があるのか。彩心が何を思い浮かべるかでも、違うかもしれないし」


 芙梨は木の幹へ手を添えた。


「狐火を描けたんだから、木と火を一緒にしたものも作れるかもしれないでしょう」


 彩心はライラックを握り直した。

 形を間違えないように。ちゃんと使えるものになるように。

 そう考えるほど、知っている姿から離れないようにしていた。


「戦ってる時だと、何を出せばいいかも分からなくて」


「今まで、戦う必要なんてなかったんでしょう」


 芙梨の声に、彩心は顔を上げた。


「普通は、そんなこと考えなくていいんだよ。木を見て、どう武器にしようなんて」


 芙梨は拡声器を持ち替えた。


「でも、これからも凪たちと九十九神に会いに行くなら、自分を守る方法は持ってた方がいい。だから、今のうちに考えておこう」


「……はい」


「その場で全部思いつこうとしなくていいよ。すぐ使えるものを、いくつか決めておく。それを変えたら何ができるかも試す」


 彩心は新しい頁を開いた。

 今度は、目の前の木を見ずに幹を描く。


「それを、技の名前で」

「うん。形だけじゃなくて、何をするものなのかも、二人で決めておこう。何個か出してみれば、どのくらいで疲れるかも分かるしね」


 彩心は筆を止め、ライラックへ目を向けた。


「次は、赤い木。燃えてるみたいな」

「火もでる?」

「それも、できるか試してみたい」


「じゃあ、あついやつだね!」


 彩心は頷いた。

 紙の上の幹へ、赤い色を置いた。


 赤く塗った幹から、枝を伸ばす。

 彩心は色を重ねながら、炎に包まれた木を思い浮かべた。


 燃えている木を、こんなに近くで見たことはない。

 映像で見た炎の揺れ方を思い出す。枝の先まで火が移り、熱い空気が上へ昇っていく。


「……出すよ」

「うん!」


 頁を河原へ向けた。


 赤い木が紙から離れる。

 地面へ根を下ろした瞬間、枝の先が明るく揺れた。


「出た」


 彩心は顔を上げた。

 葉の間から、小さな炎が伸びている。風に煽られて幹へ沿い、赤い表面を撫でるように広がった。

 頬へ熱が届き、彩心は半歩下がった。


「……本当に、燃えてる」


 芙梨も少し離れたところから木を見ていた。

「ライラック、どうだった?」

「あつい木って、思った。彩心もそうだったから」


 彩心は筆へ目を落とした。

「分かるの? 私が考えてたこと」

「描いてるとき、なんとなく!」


「全部、言葉で説明しなくても伝わってるんだね」

 芙梨が言った。

「でも、同じ名前で同じものを思い浮かべられれば、もっと合わせやすくなると思う」


 彩心は頷き、もう一度木を見た。

 枝先の火が細くなり、再び膨らむ。描いた時には動かなかったものが、目の前で揺れている。


 腕が少し重かった。

 筆を持つ手を下げ、肩を回す。


「疲れた?」

「少しだけ。木を二本出したくらいなのに」


「二本、まだ出てるからね」


 芙梨が隣を指した。

 最初に描いた木も、葉を揺らしていた。


「階段を出してた時も、後から疲れたんでしょう?」

「はい。そんなに歩いたかなって、思ってたんですけど」

「出す時だけじゃないのかも。残しておく間にも使ってるなら、増やし続けるのは難しそうだね」


 彩心は二本を見比べた。

 必要なものを出すことばかり考えて、出した後にどれだけ残すかは考えていなかった。


「ライラック、最初の木はもういいよ」

「こっちは?」

「赤い方も、一度消そう」


 頷くように筆先が揺れた。

 二本の輪郭が薄れ、炎も一緒に消えていく。後には、木の影も残らなかった。


 彩心は息をついた。

 すぐに元気になるわけではない。それでも、これ以上出し続けなくていいと思うと、少し楽だった。


「……出せるものだけじゃなくて、どれくらい使うかも知らないと、ですね」


「うん。いざって時に、何も出せなくなったら困るから」

 芙梨は鞄からスマホを取り出し、時刻を確かめた。

「今日は、休みながら試そう。何を出したかも、書いといて」


 彩心がスケッチブックへ目を落とすと、芙梨が続けた。


「凪たちが帰ってくるまで、五日あるんだよね」

「はい」


「せっかく頼んでくれたんだから、ちゃんと付き合うよ。その五日で、ある程度は自分の身を守れるようになるまで」


 彩心は顔を上げた。

「……お願いします」


「ぼくも!」

 ライラックが筆先を上げる。


「うん。二人とも」


 芙梨が笑った。

 彩心は頷き、頁の隅へ今日試したことを書き始めた。

 普通の木。赤い木。二本を残していると、腕が重くなった。


 書き終えたところで、ライラックが頁へ近づく。

「つぎ、何描く?」


 彩心は顔を上げた。

 川の向こうを、自転車が走っていく。


「移動できるもの……とか」


「いいね」

 芙梨が答えた。

「もう少し、色々試せる場所にも行きたいし」


「車だと、運転できませんけど」

「彩心が作るんだから、車と同じ動き方じゃなくてもいいんじゃない?」


 彩心は頁へ目を戻した。

 ハンドル。車輪。エンジン。

 必要なものを考えかけ、鉛筆を止める。


 さっきも、実在する赤い木を探していた。


「……浮いて、進むとか」


「うん。それなら、何に乗りたい?」


 今度はすぐに描き始めず、彩心は白い頁を眺めた。


 浮いて、進むもの。

 彩心は川の上を眺め、それから自分の足元へ目を落とした。


「……絨毯、とか」


「空飛ぶやつ?」

「はい。昔、絵本で見たことがあって」


 四角い布の端を、少し反らせて描く。

 車輪も、エンジンも要らない。自分が座れるくらいの広さを取り、縁へ模様を入れた。


 ライラックが頁を覗き込む。

「これにのる?」

「うん。私を乗せて、浮いて進むの」


 筆先で青を置く。

 彩心は、絨毯に座った自分を思い浮かべた。


「空飛ぶ絨毯」


 頁を前へ向けると、紙の縁から布が滑り出した。

 河原の上へ広がり、そのまま石の上へ落ちる。


 彩心は待った。

 房飾りが、風に揺れた。


「……浮かないですね」

「のってみたら?」

 ライラックに言われ、彩心は屈んだ。


 膝を載せ、腰を下ろす。

 お尻の下に石が当たった。


「浮いて、ライラック」

「やってる!」


 端が少し持ち上がった。

 彩心の座っているところだけが、地面に残っている。


 芙梨がそばへしゃがんだ。

「人が乗っても浮くところまで、想像してみて」

「……はい」


 絨毯を消し、もう一度描く。

 乗ってみると、今度は体が少し持ち上がった。彩心が顔を上げた途端、すとんと落ちる。


 もう一度。

 浮いたと思えば片側が下がり、両手をつく。石の感触が膝へ戻った。


 彩心は描き直した頁を見比べ、それから目を閉じた。

 布だけではなく、座っている自分ごと。地面から離れたまま、平らに。


「……もう一回、お願い」

「こんどこそ!」


 絨毯が持ち上がった。


 彩心は息を止めた。

 手を離しても落ちない。縁から下を覗くと、石との間に隙間があった。


「浮きました!」


 芙梨が頷いた。

「うん。そのまま、少し進めそう?」


「ライラック、前に――」


 絨毯が飛び出した。


 体が後ろへ倒れ、彩心は布へしがみつく。

 芙梨の姿が遠ざかった。


「待って、速い!」


 絨毯が急に止まった。

 彩心の体だけが前へ滑る。伸ばした手は房飾りをかすめ、その下には川があった。


 *


「……ありがとうございます」


 彩心は河原に座り、膝を抱えていた。

 服の裾から水が滴っている。


 心叫が長い黒髪を後ろへ払い、濡れた袖を絞った。

 引き上げてもらう時に掴んだ腕は、思っていたよりずっと太かった。


 芙梨が鞄から布を取り出し、彩心へ渡す。

 その隣で、ライラックが低く浮いていた。


「彩心、ごめん」

「私も、急に止めてって言ったから」


 受け取った布で顔を拭く。

 風が濡れた背中へ当たり、彩心は肩をすくめた。


「……火、出します。寒いので」


 スケッチブックを開き、薪と炎を描く。

 頁から現れた小さな焚き火へ両手をかざすと、ようやく肩の力が抜けた。


 芙梨も隣へ座り、川へ目を向けた。

「……練習する場所、変えようか」

「はい。すみません」

「私がここにしようって言ったんだから、謝らなくていいよ。次は、落ちても濡れないところにしよう」


 彩心は小さく頷いた。


「もう少し広く使える場所、聞いてみるね」


 心叫が拡声器へ戻る。

 芙梨はそれを膝へ置き、柄へ手を添えた。


「届けよう、心叫」

「聞かせてやれ」


 芙梨が口元へ寄せた。

 唇は動いたが、声は聞こえなかった。


 彩心は火のそばへ足を寄せ、濡れた裾を広げた。

 芙梨はしばらく話し続け、それから拡声器を下げる。


 少しして、スマホが鳴った。


 芙梨は画面を見ると、スマホを石の上へ置き、通話をスピーカーに切り替えた。


『君は、まず相手の都合を尋ねるという作法を知らんのか!』


 彩心が顔を上げた。


 芙梨は心叫を口元へ寄せる。

 声はしない。


『聞いていたとも! 俺ほどの者ともなれば、君の長い要件を聞きながら、返答まで考えることなど造作もない!』


 芙梨の口が動いた。


『だから、最初に電話をかければ済む話だと言っている!』


「……オモイカネさん?」


 彩心の声に、芙梨が頷く。


『彩心もいるのか。修行をすると聞いたが、一体何を――』


 芙梨がまた、何かを伝えた。


 電話の向こうが静かになった。


『……落ちたのか?』


 彩心は火へ目を戻した。

 濡れた服から、ぽたりと水が落ちる。


『空を飛ぶ前に、もう少し場所を選びたまえ』


『俺の別荘を使うといい。敷地は広いし、運動のできる場所もある。そちらなら多少騒いでも問題はない』


 芙梨がスマホへ手を伸ばした。

 地図を開き、心叫を口元へ寄せる。


『場所と入り方は送っておく。建物も使って構わんが、壊すなら外だけにしたまえ。もちろん、壊さずに済むならそれに越したことはないがな』


「ありがとうございます」

 彩心が言うと、電話の向こうで声が弾んだ。


『構わん! 知識と力を正しく扱おうとする者を導くのも、俺のような偉大な存在の役目だからな!』


 芙梨の口が動いた。


『……君は、もう少し感謝を言葉にしたまえ』


 芙梨が眉を上げる。

 それから拡声器を少し持ち上げ、また何かを伝えた。


『今、言ったのは分かっている! その後に余計なものを付け足すなという話だ!』


 彩心は火へ手をかざしたまま、二人のやり取りを見ていた。

 芙梨の返事は聞こえないのに、どこか楽しそうなのは分かる。


「あの、お二人って、いつからお知り合いなんですか?」


 芙梨がこちらを向いた。


『長野から戻ってから、何度か情報を交換している』

 先に答えたのはオモイカネだった。

『彼女の書いたものは、それ以前にも目にしたことがあってな』


「エッセイをですか?」


『そうだ。噂を拾うだけでなく、実際に足を運んでいる点は評価できる。もっとも、踏み込む前の判断については、改善の余地が大いにあるが』


 芙梨が心叫へ口を寄せた。


『俺の目を持ってしても、わざわざ山で遭難する者の都合まで、先回りはできん!』


 彩心は少し笑った。

 芙梨も笑い、片手で火のそばの石を拾いかけ、熱かったのかすぐに手を引いた。


『それで、今日は何をするつもりだ』


 芙梨の表情が戻った。

 彩心へ目を向けてから、少し長く唇を動かす。


 オモイカネは、今度は途中で口を挟まなかった。


『……なるほど。使い方を探るところからか』


「まだ、できると思っていたことも、うまくできなくて」

 彩心が言った。


『初めから自在に扱えるなら、訓練など要らん。できないことが分かったのなら、今日の収穫だろう』


 彩心は膝の上のスケッチブックを見た。

 濡れた指の跡が、表紙に残っている。


『ただし、また川へ落ちる必要はない。場所を変える前に、一度帰って着替えたまえ』


「……はい」


『芙梨。後で、そちらの二人に見せたい資料も送る。使えそうなものを選んでおけ』


 芙梨が頷いた。

 それから、心叫へ何かを伝える。


『礼だけなら、その一言でいいんだ。君もできるではないか』


 通話が切れた。


 芙梨はスマホを拾い、送られてきた地図を彩心へ見せる。

「ここ。帰って着替えてから行こう」

「はい」


 彩心が頷くと、ライラックがそばへ寄ってきた。

「じゅうたんで?」


 二人は顔を見合わせた。


「今日は、普通に行こうか」

ある日の骨董屋99


「ただいま戻りました」

「ただいまー」


 彩心に続いて、芙梨も拡声器へ声を入れた。

 買い物袋を持ち直して居間へ入ると、彩心は足を止めた。


 窓辺に蝙蝠が吊られていた。

 棚の上には南瓜。壁には橙色と黒の飾りが渡されている。

 今朝、買い出しに出た時には、どれもなかった。


「……どうしたんですか、これ」


「おかえり。なかなかいいだろう?」


 キュウさんが、まだ飾りの残った袋を手に振り返った。


「今日はハロウィンだからねえ。少し賑やかにしようと思って」

「少し……」


 芙梨も部屋を見回し、拡声器を肩から外した。

 黒い筒がほどけ、長い髪の男が現れる。

 

「狐面、飛ぶ筆、それに芙梨だぞ。毎日、似たようなもんだろ」

 心叫が言った。


 芙梨が顔を向ける。

『私は仮装じゃない』


「今日はお菓子がつくんだよ。大事な違いじゃないか」


 その言葉に、ライラックが勢いよく前へ出た。


「とりっく、おあ、とりーと!」


 キュウさんが目を細めた。

「おや。覚えてきたのかい」


「おかしをくれないと、いたずらするぞ!」


「買い物の途中で教えたんです」

 彩心が袋を置きながら言った。

「お店の飾りを見て、何の日か聞かれたので」


 芙梨が買ってきた飴を一つ取り、ライラックへ差し出す。

「やった!」


「トリック・オア・トリート」

 間髪を入れず、心叫が言った。


 芙梨は心叫を見た。

 それから、もう一つ飴を取り出す。

 心叫は受け取ると、すぐに包みを剥いた。


 芙梨がカンペへペンを走らせた。


『トリック・オア・トリート』


 心叫の手が止まった。

 芙梨は紙を向けたまま、空いた手を差し出す。


「……ない」


 芙梨が、心叫の手元へ目を落とした。

 残っているのは包み紙だけだった。


「今、食った」


 芙梨は頷き、キュウさんへ手を伸ばした。

 差し出された橙色のリボンを受け取り、心叫の背後へ回る。


「おい」


「動くんじゃないよ。結んでるから」

 キュウさんが楽しそうに言った。


 長い黒髪が左右へ分けられていく。

 彩心は笑いそうになり、買い物袋へ顔を向けた。


 その隣を、ライラックが通り過ぎる。

 座卓でスマホを見ていた凪の前へ浮いた。


「凪! とりっく、おあ、とりーと!」


 凪が顔を上げた。

「……うん」


 手元に置いていた菓子の袋を開け、一つ差し出す。


「凪、しってた?」

「知ってる。やったことは……ないけど」

「じゃあ、凪もいって!」


 凪はライラックを見た。

 それから、彩心へ視線を移す。


「……私も?」


「言ってみますか?」

 彩心は買い物袋から、菓子の袋を取り出した。


 凪が少し姿勢を直す。

 口を開きかけ、いったん閉じた。


「……トリック、オア、トリート」


「はい。どうぞ」


 彩心が菓子を渡すと、凪は小さく礼を言った。

 ライラックが嬉しそうに二人の間を回る。


「キュウさんも!」


「私は、もう少し後にしようかね」


 キュウさんは結び終わったリボンを整え、満足そうに頷いた。

 心叫の黒髪が、橙色の大きな蝶結びで左右に括られている。


 芙梨がその前へカンペを出した。


『ハッピーハロウィン』


「……おかわりの飴は」


 芙梨は無言で、もう一本リボンを持ち上げた。

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