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拾参 絵空事の描き方

 


 修行二日目の朝、彩心は借りた部屋のカーテンを開けた。

 窓の下には広い庭があり、その先には土の広場が見える。昨日、荷物を運び込んだ後に歩いてみたが、練習する場所には困らなさそうだった。


 凪への連絡も、家の戸締まりも済ませてきた。留守の間はオモイカネが様子を見てくれることになっている。

 彩心は窓を少し開け、朝の冷たい空気を入れた。


「彩心、おはよう」

 枕元からライラックが浮き上がってきた。

「おはよう。よく寝た?」

「うん。きょうも、じゅうたん?」

 彩心は昨日の川を思い出し、少し笑った。

「今日は、落ちないようにしたいね」


 *


 朝食の片づけを終えて居間へ戻ると、机の上に本が広げられていた。

 芙梨が動物図鑑から顔を上げ、向かいの椅子を引く。


「これ、見てみて」


 彩心が座ると、図鑑がこちらへ向けられた。

 頁には、空を飛ぶ鳥の写真が並んでいる。大きく翼を広げたものも、枝に留まる小さなものもいた。


「昨日、何を描くか迷ってたでしょう。こういうの、使えないかなと思って」

「動物ですか?」

「うん。飛ぶものなら鳥とか、走らせるなら脚の速い動物とか。最初から形を考えるより、思いつきやすそうじゃない?」


 彩心は頁をめくった。

 水の中を泳ぐ姿や、地面を蹴って跳び上がる姿が現れる。見慣れた動物でも、足の形や体の大きさを比べてみると、随分違っていた。


 鞄からスケッチブックを取り出し、昨日の頁を隣へ開く。

 木を二本残しているうちに疲れたこと。大きく描いたものほど、長く出しておくのがつらかったこと。

 絵の隅に、自分の字で書いてあった。


「小さいものでも、使い方はありそうですね」

「うん。何でも大きくしなくて済めば、その分ほかにも使えるかもしれないし」


 ライラックが二人の間へ降りてきた。

「ぼくも見る!」


 彩心は図鑑を中央へずらした。

 筆先が写真を追って動くのを見て、昨日の絨毯を思い出す。


 浮く絨毯を描いたのは自分だった。

 けれど、前へ進み、急に止まったのは、ライラックがそう動かしたからだった。


「……出した後は、ライラックが動かしてるんですね」


 芙梨が顔を上げた。

「昨日は、そうだったね。彩心が言って、ライラックが動かしてた」

「はい。今まで、あまり考えたことがなくて」


 描いたものが出てきたら、次に何を描くかを考えていた。

 その間に、出したものを誰がどう動かしているのか。昨日、絨毯に乗るまでは、意識していなかった。


 彩心は乗り物の写真集にも手を伸ばした。

 車の内部を示す図には、知らない部品の名前がいくつもついている。


「こういうものを描いても、ライラックが動かし方を知らなかったら……」

「困るかもしれないね。私も、それを見ただけじゃ分からないし」


 芙梨は動物図鑑へ目を戻した。

「でも、走るとか跳ぶとかなら、ライラックも分かるでしょう」

「わかるよ!」

「だから、動物をもとにした方が、二人で考えやすそうだなって」


 彩心は写真集を脇へ置いた。

 まず全部の仕組みを覚えなければ、と身構えていた気持ちが少し緩む。


「形を借りるんですね。何をしてもらいたいか、分かりやすいものの」


「うん。知ってることが増えれば、ほかの使い方も思いつくかもしれない。今日は見ながら、試してみようよ」


 ライラックが頁の端を筆先で示した。

「この子、ちっちゃい」


 丸くなった兎が写っていた。

 彩心が近くへ寄せると、ライラックも体を低くして覗き込む。


「それに、動物は可愛いし」

 芙梨が言った。

 彩心も笑った。

「それは、大事ですね」


 写真の横には、走ったり跳んだりする時の姿も載っていた。

 彩心はスケッチブックの白い頁を開き、まずはその輪郭を描いてみた。丸い背中から、後ろ脚へ線を伸ばす。


 何をさせたいか。

 どう動けば、ライラックにも伝わるか。


 描いた兎をライラックへ見せると、赤い筆がすぐそばへ寄ってきた。

「これ、跳ぶ?」

「うん。外で、試してみようか」


 庭を抜け、土の広場へ出た。

 彩心は鞄を端へ置き、家から離れた方へスケッチブックを向ける。


「描こう、ライラック」

「今日も頑張る!」


 頁から白い兎が降りた。

 耳が揺れ、前脚が土を踏む。ライラックが筆先を上げると、兎も後ろ脚を伸ばして跳ねた。


 彩心はその動きを目で追った。

 兎はしばらく周辺を跳び、足元まで戻ってくる。


「最後はこっちに兎を呼んだの?」

「うん。彩心にも見せたかったから」


 彩心は屈み、兎へ手を伸ばした。指先へ柔らかい毛が触れる。

 少し離れたところから、芙梨も覗き込んだ。


「思った通り?」

「はい。ちゃんと、兎です」


「じゃあ、それに何を足してみようか」


 彩心は白い背中を眺めた。

 昨日の赤い木を思い出し、スケッチブックへ目を落とす。


「火を……つけるんじゃなくて、火でできた兎とか」


 ライラックが絵のそばへ寄ってきた。

「ぜんぶ火?」

「うん。兎の形をした火が、跳んでいくの」

「わかった!」


 最初の兎を消し、新しい頁へ描く。

 耳の先と尻尾を、炎のように細く伸ばした。丸い体へ赤や橙を重ねていくと、普通の兎を描いた時とは違う姿が浮かんできた。


 頁を前へ向ける。

 赤い兎が飛び出し、土の上へ着いた。


 輪郭が揺れていた。

 背中から細く火が伸び、耳の先が風に流れる。


「……ちゃんと熱い」

 彩心が少し下がると、芙梨も頷いた。


「ライラック、あの石まで行ける?」


 彩心が広場の先を指した。

 兎がそちらを向き、一度、二度と跳ねる。三度目に強く地面を蹴ったところで、後ろ脚が長く崩れた。

 火が尾を引き、石の手前へ落ちる。


「あ」


 兎の姿がなくなった。

 炎が土の上へ広がり、彩心は慌ててライラックを呼んだ。


「消して!」

「うん!」


 火が消えた。

 彩心は石の手前まで歩き、焦げた地面を確かめる。


「跳び方は、普通の兎と同じにした?」

 芙梨が尋ねた。

「うん。おもいっきり、ぴょんって」


 彩心は描いた絵へ目を落とした。

 姿も中身も火にした。けれど、どうすれば兎の形を保ったまま跳べるのかまでは、思い浮かべていなかった。


「火だから、ばらけちゃったのかな」

「かもしれないね。どうしたい?」

「まずは石に着くまでは、兎のままでいてほしいです」


 彩心はしゃがみ、頁の隅へ書き込んだ。

 跳んでいる間も、形を保つ。


「じゃあ、次はそれを二人で考えてみよう」


 描き直した兎は、石のそばまで辿り着いた。

 着地のたびに耳がほどけかけたが、ライラックが小さく「そのまま」と言うと、また形が戻った。


 彩心は息を吐いた。

「できたね」

「こんどは、くずれなかった!」


 ライラックの声に笑い、兎を消す。

 焦げた地面から、その先の石へ目を移した。最初は途中で崩れてしまったけれど、今度は狙ったところまで辿り着いた。


「今までは、火の玉を飛ばすだけだったので……」

「動かし方も、選べそう?」

「はい。ライラックに、途中で向きを変えてもらったりも、できるかもしれません」


 彩心はスケッチブックを開き直した。


 その後も、図鑑を見に戻っては、外へ出て試した。


 水でできた鳥は、翼を広げた途端に形を崩した。羽ばたこうとするたびに雫が散り、結局、地面から離れないまま消えてしまった。

 石のように硬い亀は出せたが、ライラックが動かそうとしても脚がほとんど曲がらない。硬くする場所を減らすと動いたものの、今度は守りたかった背中まで柔らかくなっていた。


「……ここだけ、硬くしたつもりだったんだけど」

「ぼくも、そう思ったのに」


 彩心は甲羅へ触れ、指で押してみた。

 へこんだところが、ゆっくり戻る。


 芙梨にも見てもらい、描き直す。けれど、直したところを気にすると、今度は別のところが思ったものにならなかった。


 頁が増えるにつれ、彩心の筆を動かす手も遅くなった。

 新しい絵へ色を置こうとして、袖で額を拭う。まだ描きかけなのに、次に何を足すつもりだったのか、少し考え込んだ。


「彩心。一度休もう」


 顔を上げると、芙梨が鞄を持って立っていた。


「続きは、ご飯を食べてから」

「……はい」


 彩心は筆を下ろした。

 ライラックもいつもの高さまで浮かばず、開いた頁のそばに留まっている。


 スケッチブックには、図鑑を見て描いた姿と、実際に出てきたものの走り書きが並んでいた。


 昼食の後も、彩心たちは庭と居間を行き来した。図鑑を開いては描き、出してみてから、また本と絵を見比べる。夕方には、動物の姿よりも、その横に書き込んだ文字の方が多くなっていた。


 *


 翌朝、彩心は昨日のスケッチブックを机へ広げた。

 飛ばなかった水の鳥の横に、図鑑を置く。羽の形をもう少し確かめようとしたところで、机の反対側から声がした。

「彩心、これ、なに?」


 ライラックが、本の山から少しはみ出した表紙の上で揺れていた。図鑑に混じって、物語を集めた絵本も何冊か置かれている。

 彩心はその一冊を引き出した。表紙には、金色のランプを掲げる少年が描かれていた。

「『アラジンと魔法のランプ』。読んでみる?」

「うん!」


 開いた頁へ、ライラックが寄ってくる。ランプから立ち上った煙が、大きな魔神の姿になる挿絵だった。

「この人、ランプの中にいるの?」

「そう。擦ると出てきて、願い事を叶えてくれるんだよ」

「付喪神?」

「……どうなんだろう」


 彩心は、挿絵とライラックを見比べた。昔読んだ時には、そんなことを考えもしなかった。けれど今は、物の中に誰かがいることも、その誰かと話せることも知っている。

「少し、似てるね」

「この人も、おはなしできる?」

「できるよ。読んでみようか」


 図鑑を脇へ寄せ、最初の頁へ戻る。

 ライラックは挿絵を覗き込みながら、時々、続きを急かした。小さなランプから大きな魔神が出てくるところでは、前の頁へ戻ってほしがった。


 やがて、空を飛ぶ絨毯が現れた。

「あ!」

 ライラックが本の上へ浮き上がる。

「これ、昨日の!」

「うん。これを描きたかったんだ」


 ライラックが挿絵へ近づいた。人を乗せた絨毯が、建物の間を抜けている。

「どこに行くの?」

「待って。今、読むから」


 続きを読み始めると、ライラックは彩心の手元へ戻ってきた。頁をめくるたび、絵の上へ寄っては、また次の言葉を待つ。

 彩心も、いつの間にか先を追っていた。知っているつもりだった話にも、覚えていないところが随分あった。


「……あ、ここ」


 窓辺へ寄った絨毯が、乗りやすいように端を下げている。

 顔も手足もない。それでも、人を迎えたり、障害物を避けて身をくねらせたりする姿には、随分と愛嬌があった。昨日は、ただ人を乗せて浮かぶ四角い布を描いていたけれど、こんなふうにも動けるのだ。


「どうしたの?」

「ううん。この絨毯、可愛いなって」

「ぼくも乗りたい」

「ライラックは、自分で飛べるでしょう」

「彩心と乗るの!」


 彩心は笑って、次の頁をめくった。


「何読んでるの?」


 芙梨が心叫を口元に持ったまま、机のそばへ来た。

 彩心が表紙を見せると、隣の椅子を引く。

「懐かしい。それ、私も読んだことある」

「今、絨毯で飛んでるところです」

「じゅうたん、速いんだよ!」

「昨日のも、速さだけなら負けてなかったね」

「……今日は、もう少しゆっくり飛びたいです」


 芙梨が笑った。ライラックはもう、次の挿絵を覗き込んでいる。

 彩心は残りの頁を確かめ、開いた本へ目を戻した。

「あと少しだから、最後まで読んじゃいますね」


 物語が終わっても、ライラックはしばらく最後の絵を眺めていた。

「ほかのおはなしもある?」

「あるよ。これも、こっちも」

 彩心が表紙を並べると、狼や鳥、長い耳の兎が現れた。昨日、図鑑で見たものもいる。けれど、こちらでは服を着たり、人と話したりしていた。


 彩心は、図鑑の兎と絵本の兎を隣に置いた。

 同じ動物なのに、絵を見て思い浮かぶ動きが違う。昨日は本物に近づけようとしてばかりいたが、描きたいのは、本物の動物だけではないはずだった。


「……物語から考えても、いいんですね」

「何か思いついた?」

「まだ、少しだけですけど」


 彩心は白い頁を開いた。今度は、すぐには筆を置かず、ライラックへ絵本を寄せる。

「これも、一緒に読んでからにしようか」


 次の本を読み終える頃には、机の上に図鑑と絵本が交互に並んでいた。

 彩心は狼の写真へ目を落とし、隣の頁へ視線を移す。絵本の中では、狼が大きく息を吸い込んでいた。


「……これ、できないかな」

「家を吹き飛ばすやつ?」

 芙梨が身を寄せると、彩心は頷いた。

「昨日は、動物そのものを水や火にしてたんですけど」


 鉛筆で狼の顔を描き、開いた口の先へ風の流れを示す線を足す。

「狼はそのままで、息だけ強くするとか」

「ぼく、ふーってする?」

「うん。でも、ここではやらないでね」

「試すなら、庭に出ようか」


 広場の端に、落ちた枝や枯れ葉が寄せられていた。

 芙梨が周囲を確かめている間に、彩心は狼を描き上げた。薄い灰色の毛並みと、大きく開く口。絵本の狼が胸いっぱいに息を吸う姿を思い出し、胴を少し膨らませる。


「描こう、ライラック」

「ふーってする狼だね!」


 頁を地面へ向けると、灰色の狼が足をついた。彩心の膝ほどの高さで、耳と尾を動かしている。

 彩心は枝の山を指した。

「あっちへお願い」


 狼が向きを変え、前脚を踏ん張った。

 胸が膨らむ。


 開いた口から風が噴き出した。

 枯れ葉が一斉に舞い上がり、その下の枝まで跳ね飛ばされる。乾いた音を立てて広場を転がっていく枝を、彩心は目で追った。


「……わ」

 遅れて声が出た。

 枝の山があった場所には、剥き出しの土だけが残っている。


「できた!」

 ライラックが狼の頭上で弾んだ。

「すごいね……あんなに飛ぶんだ」


 芙梨も散らばった枝を眺めていた。

「これ、片づけ直さなきゃね」

「……はい」


 彩心は狼へ目を戻した。口を閉じ、次を待つようにこちらを見ている。

 昨日は、火や水をどう動物の形にすればいいのか、描きながら何度も迷った。けれど、この狼が何をするのかは、描く前から思い浮かんでいた。


 枝を片づけ終えてから、彩心は絨毯の絵を描いた。


 地面へ出した絨毯に乗り、腰を下ろす。

「まず、ゆっくりね」

「うん」


 端が持ち上がり、絨毯が地面を離れた。

 彩心は身構えたが、急に飛び出すことはなかった。膝ほどの高さで少し揺れ、それから広場へ進み始める。


「そう、そのまま……」


 風が頬に触れた。

 歩くくらいの速さで、広場の端が近づいてくる。ライラックが絨毯の右側へ回ると、先端がそちらへ曲がった。


 彩心の体だけが、元の方向へ流れた。

「わっ」


 両手をつく。絨毯が大きく波打ち、すぐに止まった。

「彩心?」

「大丈夫。ちょっと、待ってね」


 座り直して顔を上げると、芙梨が少し離れたところから見ていた。

「昨日より、ずっといいね」

「……落ちてないですからね」


 彩心は息を整え、絨毯の端を掴み直した。

 曲がる時は、まだ体がついていかない。それでも、昨日は止められなかった絨毯が、今は自分を乗せたまま待っている。


「もう一回、向こうまで行こうか」

「ゆっくり?」

「うん。曲がる時は、もっとゆっくり」


 絨毯の先が、少し持ち上がった。

 今度は彩心も、その動きを見ながら体を傾けた。


 それからは、広場を何度も往復した。

 曲がるたびに体が傾き、止まるたびに前へつんのめる。彩心が慌てて端を掴むと、ライラックまで驚いて絨毯を揺らした。


「止まる時、先に言ってもらってもいい?」

「分かった。止まるよ!」


 彩心は身構えた。

 絨毯がゆっくり速度を落とし、地面の上で止まる。両手をつかずに済んだのは、それが初めてだった。


 休憩の間も、絵本を開いた。挿絵を見ながら、どちらへ曲がるのか、どこまで傾けるのかを話す。読み終えたはずの頁に、何度も戻った。


 午後には、芙梨が広場へ置いた目印の間を通れるようになった。大きく回りすぎることはあっても、どこかへ飛んでいってしまうことはない。

 少し速度を上げてみると、また曲がり損ねた。

「今のは速かったね」

「うん。もう一回」


 夕方、彩心は広場を一周して、芙梨の前へ戻ってきた。

 絨毯が下がり、土へ触れる。端を掴んでいた手を離すと、指が少し強張っていた。


「おかえり」

「……ただいま、です」


 立ち上がった途端、膝が笑った。芙梨に腕を支えられながらも、彩心は振り返って絨毯を見る。

 今日は一度も、落ちなかった。


 *


 四日目は、朝から庭へ出た。

 昨晩、本を読みながら描いた下絵を、一つずつ試していく。思った通りに動いたものもあれば、出してみて初めて無理に気づいたものもあった。


 彩心は絵の横へ書き込み、ライラックにも見せた。

「今の、どうだった?」

 返ってきた言葉を聞いて、線を足す。次に何を直せばいいのかが分かると、もう一度試すのが楽しみになった。


 昼食の後は、広げた頁を見比べた。

 使えそうなものへ付箋を貼り、まだ難しいものは後へ回す。午前中には次々と思いついていたのに、選ぶとなると、なかなか手が進まなかった。


 狼の絵で、彩心はしばらく筆を止めた。

 開いた口から息を吹く姿。その隣に、もう一つ、薄く輪郭を描いてみる。


「それも狼?」

 芙梨が覗き込んだ。

「はい。もう少し、何かできそうな気がして」

「凪を思い浮かべてみたら?」

「凪さん、ですか?」

「山で乗せてもらったんでしょう。大きい狐」


 彩心は絵へ目を戻した。

 白い背にしがみつき、山を駆け上がった時の揺れを覚えている。木々を越えていく体の大きさも、前に座る凪の背中も。


 薄く描いた線をなぞり、脚から肩へ繋げていく。

 ライラックが、筆の動きを追っていた。

「……これ、覚えてる?」

「うん。大きかったね」


 彩心は頷き、描きかけの姿へ顔を寄せた。


 *


 午後も、庭と机を何度も往復した。

 試すたびに書き込みが増え、使うつもりだった絵から付箋を外すこともあった。反対に、描き直したことで、もう一度選び直したものもある。


 芙梨に付き合ってもらい、出す順番も変えてみた。

 一つならできたことが、続けると難しい。慌ててしまえば、ライラックにも伝わらない。そのたびに少し戻り、二人で確かめた。


 日が傾く頃には、開く頁に迷うことが減っていた。

 彩心が筆を取ると、ライラックも次に何をするのか分かるようになってきた。


「今日は、そこまで」

 芙梨の声に、彩心は顔を上げた。

 もう少し、と言いかけて、手元を見る。ライラックは疲れたように筆先を垂らしていた。


「……ありがとう。いっぱい付き合ってくれて」

「明日も描こうね」

「うん」


 彩心は付箋を折らないように、スケッチブックを閉じた。


 狼が、大きく息を吸い込んだ。

 次の頁では、藁の家が吹き飛ばされている。


「きゃー!」

 ライラックが挿絵へ寄った。

「木のおうちも飛ばされちゃうのかな?」

「どうだろう。読んでみようか」


 彩心は続きを読みながら、ふと、拡声器を構える芙梨の姿を思い浮かべた。

 あの声なら、君の家くらいは飛んでしまいそうだ。心叫の口が大きく広がり、芙梨が息を吸って――。


「何読んでるの?」


 すぐ後ろから声がして、肩が跳ねた。

 振り返ると、芙梨が心叫を手に立っている。


「さ、三匹の子豚です」

「びっくりしすぎじゃない?」


 芙梨が隣から本を覗き込んだ。

 彩心は少し端へ寄り、狼を指すライラックへ目を戻す。


「この狼、ふーって、おうち飛ばすんだよ!」


 今、何を想像していたかは、黙っておこう。

 彩心がそう決めたところで、心叫が言った。


「芙梨と大して変わらんな」


 頁をめくりかけた指が止まった。

 芙梨が、手元の拡声器へ目を落とす。


「心叫」

「何だ」

「人の姿になって」

「……何でだ」

「いいから」


 黒い筒が姿を変え、長い髪の男が現れた。

 芙梨はその間に机からカンペを取って戻ってくる。ペンを走らせ、心叫へ向ける。


『じゃあ、子豚の台詞よろしく』


「何で俺が」

 芙梨は答えず、彩心の開いている頁を指した。

 ライラックが心叫を見上げる。

「心叫、おはなし読んでくれるの?」


 心叫は少し黙ってから、本へ目を落とした。

「……入れてなんか、やるもんか」


 芙梨のペンが動く。


『もう少し可愛く』


「知らん。豚の声なんぞ」

「この子、どんな声かなあ」

 ライラックが、小さな子豚の絵を覗き込んだ。


 心叫は長く息を吐いた。


「……入れてなんか、やるもんか」


 今度は、少し高い声だった。

 彩心は口元を押さえ、次の頁をめくる。


 芙梨が後ろを向き、肩を震わせながらカンペを向ける。


『次の子は違う声で』


「三匹とも俺かよ」


 ライラックは、もう次の子豚の台詞を待っている。


 彩心は、心に留めておいてよかったと思った。

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