捌 山鳴慟哭 5
吹き飛んだ右腕が、木々の向こうへ落ちた。
枝の折れる音に、地響きが重なる。
凪は拳を開いた。
指の間から土が落ちる。握り直し、もう一度開いてみた。
「……あはは」
胸の奥から熱が湧いていた。
腕を振っても、足を動かしても、まだ足りない。もっと大きく動かしたかった。
「何をした」
凪は顔を上げた。
巨人の肩から土がこぼれ、その下へ新たな土が這い上がっている。
「あ。戻るんだ、それ」
「何をしたと聞いとる!」
左の拳が振り上がった。
凪は笑いながら、そちらへ身を向ける。
拳は落ちてこなかった。
足元が抜けた。
踵が沈み、地面へついた手まで土に呑まれる。穴の底から突き上がった岩が腹を打ち、凪の体を宙へ弾いた。
そこへ、左の拳が落ちた。
地面が砕けた。
跳ね上がった土砂が降り注ぐ中、大陀羅踏地は拳を押し込んだ。周囲の地面まで寄せ集め、凪のいた場所を深く埋め固める。
「力を得ただけの小娘が」
拳の下で、何かが動いた。
「……たのし」
指の隙間から、声が漏れた。
続いて、笑い声がした。
「びっくりしたよ」
巨人の手が持ち上がる。
土の指を掴んだ凪が、その下から顔を出した。額に張りついた髪を振り払い、両足を踏ん張る。
「でも、捕まえた」
凪が体を捻った。
指が折れ、掌が裂ける。引きちぎった塊を抱えたまま、凪は巨人の脚へ叩きつけた。
膝が砕けた。
傾いた巨体から右腕の再生しかけた土が崩れる。凪はそこへ駆け寄り、低くなった腹へ拳を埋めた。
土が背中まで噴き抜けた。
「どうしたの。さっきまで、ずっと追いかけてきたのに」
凪は腕を引き抜いた。
大陀羅踏地は答えず、巨体を後ろへ滑らせる。その足跡を追って凪が踏み込んだ瞬間、両側の地面がせり上がった。
壁が視界を塞ぐ。
凪は正面の土へ拳を振った。
砕けた壁の向こうに、巨人はいなかった。
背後から腕が回った。
胴を掴まれ、足が地面を離れる。土の壁を目隠しに、巨人は斜め後ろへ回り込んでいた。
凪の腕ごと握り込み、その手へ岩が集まる。指の内側が厚く膨れ、逃げ場を塞いだ。
「そのまま潰れておれ!」
凪の口から息が漏れた。
胸が押される。肩が軋んだ。
けれど、苦しさはぼんやりと遠くにあった。代わりに、腹の底から込み上げてくるものがある。
「……ふ、ふふ」
凪は、握り込まれた腕を広げた。
岩に亀裂が走った。
土の指が一本ずつ開き、大陀羅踏地がさらに土を重ねる。それでも凪の腕は止まらなかった。
「離してよ」
掌が弾けた。
凪は落ちながら、残った親指へしがみついた。
足を振り上げ、手首の上へ乗る。巨人が腕を振り払うより早く、凪はその肘へ飛びついた。
両手で掴み、膝を叩き込む。
一度で腕が折れた。
凪は崩れる土と一緒に落ち、地面を転がった。すぐに起き上がると、口の中へ入った土を吐き出した。
「あはは。汚れちゃった」
服を払う手が途中で止まる。
目の前で、また巨人の腕が形を取り始めていた。
凪の頬が緩んだ。
「ねえ。もう一回」
形になりかけた右腕が、崩れた。
凪は足を止めた。
巨人の肩から落ちた土が、足元へ流れ込んでいく。胸の穴も塞がらない。代わりに腰が太く膨れ、二本の脚が地面へ沈んだ。
「あれ。もう作らないの?」
返事はなかった。
巨人が身を屈める。
凪は駆け出した。
目の前へ下がってきた顔に向かって跳ぶ。踏み切った地面が背後へ弾け、拳が巨人の鼻先へ届いた。
手応えが抜けた。
顔が崩れる。
凪の腕を呑み込んだ土が、そのまま肩へ流れ落ちてきた。引き抜こうとした肘へ土が絡み、首筋を覆う。
胸も、腹も形を失った。
巨人が、凪の上へ崩れかかってきた。
視界が塞がった。
口へ土が入る。吐き出そうとした顔まで押さえ込まれ、背中を地面へ叩きつけられた。
凪は拳を振った。砕いた隙間へ、すぐに次の土が入り込む。
膝を曲げようとしても、その場所がない。
「殴れるものがなければ、どうする」
声が、土を伝って響いた。
凪は目を開けたが、何も見えなかった。
重い。
肩を動かす。わずかにできた隙間へ指を押し込み、胸の上の土を掻いた。
爪の間へ砂が詰まる。息を吸おうとして、喉が鳴った。
腹の奥が、さらに熱くなる。
凪は両腕を胸元へ引き寄せた。
押さえ込む土が軋んだ。背中を丸め、膝を腹へ近づける。
まだ、動く。
凪は歯を剥いた。
縮めた体を、一息に伸ばした。
土の山が膨れ上がった。
表面へ亀裂が走り、その頂点から腕が突き出す。凪は外の土を掴み、体を引き上げた。
大きく息を吸う。咳と一緒に土を吐き、肩まで這い出したところで笑った。
「……苦しいって、それ」
足へ絡みつく土を蹴り払い、転げるように外へ出る。
地面へ両手をつくと、指の下で石が割れた。
額が熱かった。
脈打つような疼きに、凪は片手で髪を掻き上げた。指先へ硬いものが触れたが、その向こうで動いた影に目を奪われた。
崩れた土の山から、老人が離れていく。
「そこにいた」
凪は地面を蹴った。
老人が振り向く。
二人の間へ、幾重もの土の壁がせり上がった。凪は一枚目へ肩からぶつかり、そのまま突き抜けた。
二枚目。
三枚目。
砕けた土が髪へ降りかかる。
最後の壁を殴り抜いた瞬間、踏み出した足が空を切った。
壁の向こうに、地面がなかった。
凪は落ちながら穴の縁を掴んだ。体が止まる。
だが、指をかけた土がすぐに崩れ始めた。縁ごと穴の中へ滑り落ちていく。
凪は反対の手を伸ばした。
崩れた土の下から、太い木の根が露出していた。
指が届く。
握り込み、落ちかけた体を力任せに引き上げた。
根が張り詰め、穴の外で木が軋んだ。
凪の体が縁を越える。そのまま地面へ転がり出ると、背後で土の剥がれる音がした。
掴んでいた根に引かれ、すぐ脇の木が穴へ向かって傾いていた。
凪は手を離し、声を上げて笑った。
「危なかった」
着地した足元を、土の槍が貫いた。
凪は横へ転がり、追ってきた次の一本を掴む。折り取った槍を振りかぶり、老人へ投げつけた。
土壁が受け止めた。
槍が砕ける。
その破片の中から、凪が飛び出した。
大陀羅踏地が目を見開く。
凪の指先が、老人の襟へ触れた。
しかし襟を掴むより先に、凪の手首へ土が巻きついた。
腕が横へ引かれる。老人の足元が滑るように動き、拳の届く範囲から外れた。
「触るな、小娘!」
凪の顎へ、石が突き上がった。
歯が鳴り、顔が上を向く。続けて腹へ土の塊がぶつかり、体が後ろへ飛ばされた。
背中が木へ当たった。
幹が折れ、枝葉が頭上から降ってくる。
「……いてて」
凪は腹へ手を当てた。
何か言いかけた気がした。けれど、何を言うつもりだったのか分からなくなって、そのまま笑った。
折れた幹を押しのけ、立ち上がる。
大陀羅踏地がこちらを見ていた。
その視線が、凪の額で止まる。
「お前……」
凪は首を傾げた。
髪の間から、二本の角が突き出していた。額の両側から反り上がった先端に、砕けた木の葉が引っかかっている。
「人間では、ないのか」
「……何?」
凪が一歩近づいた。
老人は手を振った。
地面が波打つ。
凪の足を攫った土が、そのまま斜面へ向けて流れ始めた。立とうとしても足場が崩れ、体が下へ運ばれていく。
大陀羅踏地の姿が遠ざかった。
「あ、待って」
凪は四つん這いになった。
土へ指を立てる。掴んだ端から崩れ、足を踏ん張る場所もない。
その中へ、両腕を深く突き込んだ。
指先が硬い岩へ触れた。
凪はそれを抱え込み、腕を曲げた。
流れる土の中で体が止まる。岩から手を離すと同時に、両足で強く蹴った。
土の流れを飛び越え、老人のすぐ前へ落ちる。
着地した地面が窪んだ。
「待ってって、言ったのに」
凪は顔を上げた。
大陀羅踏地が後ずさる。
その背後へ、土の壁が立ち上がった。
凪が踏み込むと、老人は壁の中へ身を沈める。白い髪が土に隠れた。
凪は腕を伸ばした。
指が髪をかすめ、肩へ届く。
掴んだ。
「いた」
土の中から老人を引きずり出す。
背後の壁が崩れ、凪の肩へ落ちてきた。構わず引き寄せたところで、老人の手が凪の腹へ触れた。
鋭い土の塊が、二人の間へ生まれた。
凪の体が浮いた。
掴んでいた肩から手が外れる。
着地する間もなく、次の塊が胸へ迫った。
凪はそれを殴り砕いた。
破片の向こうで、大陀羅踏地が両手を上げる。
老人の左右から土が寄り、分厚い壁になった。
凪は笑いながら走った。
拳を振る。
壁が割れた。
まだ奥にあった土の層へ、もう一度。
肘まで埋まった腕を引き抜き、開いた穴へ肩からぶつかる。
砕けた壁の向こうで、大陀羅踏地が片足を引いた。
その足元から土がせり上がる。
凪は踏み込んだ。
地面が陥没した。
振り上げる拳へ力を込めた、その一歩で、老人の立っていた場所まで砕け散った。
大陀羅踏地の体が跳ねた。
両足が土を離れる。
せり上がりかけた土が、形を失った。
老人は足を伸ばした。
崩れる地面を探り、爪先を下へ向ける。
届かない。
「儂の、足を――」
凪が顔を上げた。
目の前に、老人の腹があった。
「この、鬼めが!」
拳が突き刺さった。
大陀羅踏地の体が折れ曲がる。
吐き出された息を置き去りに、老人は台地の縁を越えた。白い髪が木々の間へ消え、斜面の下で幹の折れる音が続いた。
凪は拳を下ろした。
遠くで、何かが地面へ落ちた。
それきり、土は動かなかった。
「……あれ」
凪は台地の縁へ歩いた。
覗き込んでも、枝葉が邪魔で姿が見えない。
「どこ行ったの」
返事はなかった。
まだ胸の奥が熱い。指を握ると、もっと強く握れそうだった。
凪は斜面へ足を踏み出した。
柔らかな土を滑り、途中の岩を蹴って下りる。着地した先で枝が折れ、その向こうに山道が見えた。
黒い車が停まっていた。
屋根も、後ろのドアもない。
車の傍らで、誰かが動いた。
凪は足を止めた。
木々の下を探していた視線が、そちらへ向く。
見覚えのある顔だった。
名前を思い出す前に、新たな獲物の登場に口元が緩んだ。
酒呑鬼盃
かつて鬼の如く暴れ、討伐された九十九神。
その盃に湧く酒を飲んだ者は、凄まじい酔いと引き換えに理性を失い、鬼の如き力を得る。
現在は人の姿になることを封じられている。
そして、飲み終えた凪に放り出され、戦いの余波で土の中に埋まっている。




