漆 山鳴慟哭 4
白煙の向こうで、車の音が遠ざかっていく。
凪は膝をつき、痛む肩から力を抜いた。地面を踏み砕く音も、芙梨の声を追って離れていった。
「……袋、そこに」
「はい」
彩心が傍らへ袋を置いた。
酒瓶の口が覗いている。それを確かめ、凪は狐面へ手を添えた。
「キュウさん」
「ああ。始めよう」
凪は両手を前へ出した。
「嫁入支度」
背後に白い尾が伸びた。
白無垢の角隠しを思わせる模様が、その表面に浮かんでいる。
尾が持ち上がると、白煙の奥から小さな狐が現れた。
一匹、二匹。その背に載せた包みを囲み、足並みを揃えて近づいてくる。
黒い布の隙間から、朱が覗いた。
狐たちが凪の前へ包みを下ろす。
布がほどけ、中から盃が現れた。
暗い朱の縁に、黒ずんだ紋様が絡みついている。凪の目は、その底へ落ちた。
尾が消えた。
腕から力が抜け、体が前へ傾く。
「凪さん!」
彩心の声がした。
手をつくより早く地面が迫り、凪は肩から倒れ込んだ。打たれた箇所が痛み、息が詰まる。
小さな狐も、包んでいた布も、もういなかった。
地面には、盃だけが残っていた。
*
「今まで、いろんな九十九神に会ってきた」
昨夜、凪は机に伏せたスマホへ手を置いた。
「その中に……五体、力を貸してくれる相手がいる」
「五体も?」
彩心が顔を上げた。
芙梨も地図から目を離し、凪を見る。
「じゃあ、その中の誰かに来てもらうの?」
芙梨の問いに、凪は少し間を置いた。
「……九十九神を、一体。ただ、今回は……素直に力を貸してくれてるわけじゃ、ない」
彩心が凪を見つめた。
凪はその視線を受け、言葉を探した。
「前に戦った、鬼の九十九神。放っておけない相手だったから……止めた」
「新幹線で、話していた……?」
彩心の声に頷く。
「うん。今回、呼ぶのは、その盃」
「でも、凶暴な相手なんですよね。呼んでも、大丈夫なんですか?」
「人の姿には戻れないよう、封じてある」
キュウさんが答えた。
「道具の姿で使う。そのために、凪が残るんだよ」
彩心の視線が、凪へ戻った。
「凪さんだけ、ですか?」
「……うん」
「キュウさんは?」
「車に乗ってもらう」
凪は狐面へ目を向け、それから彩心へ向き直った。
「出したあと、しばらく動けなくなるから。その間に、盃へお酒を注いでほしい」
「お酒を……」
「いっぱいになるまで入れて、私の前に置いて。それから、キュウさんを連れて車に」
彩心はすぐには返事をしなかった。
凪は机の上で指を組み直す。
「近くにいると、みんなも危ないから」
「人払いをして、人里から離れた場所へ呼ぶ。まずは話をしてみる」
キュウさんが地図へ指を置いた。
「駄目なら、その盃で力を削ぐ。こっちの話が聞けるところまで、止めるんだ」
「凪まで、巻き込まれないの?」
芙梨が尋ねた。
「私が、使うから」
凪は答えた。
それで芙梨が納得したかは、分からなかった。けれど彼女は一度頷き、地図へ目を落とした。
「あの……田口さん」
「はい」
「お酒、用意してもらえますか」
「承知しました。何か、ご指定はありますか?」
凪は少し考えた。
「……いいお酒を」
キュウさんが小さく息を吐いた。
「あいつ、口だけは肥えてるからねえ」
*
「……凪さん、聞こえますか?」
彩心がそばへ膝をついた。
「うん」
返事をすると、胸へ少し空気が入った。
肩も指も重い。凪は動かそうとするのをやめ、盃へ目を向けた。
「おい」
低い男の声が、底から響いた。
「てめえら、今まで何してやがった」
彩心の肩が強張った。
盃へ伸ばしかけていた手が、止まる。
「いい酒、飲んでたんだろうな」
凪は黙っていた。
盃の内側を、足元の光が鈍く滑った。
「俺は閉じ込めといて、自分らは好きに飲み食いか。いい身分じゃねえか、おい!」
声が跳ね上がった。
彩心がわずかに身を引く。凪はその手元へ目を向け、息を整えた。
「……持ってきたから」
「ああ?」
「お酒」
彩心が袋へ手を伸ばした。
瓶を取り出し、栓を外す。盃を見たまま、一度だけ凪を振り返った。
凪は目で頷く。
「そこへ置いて、ゆっくり注ぎな」
キュウさんが言った。
「手元を見てればいい」
彩心が瓶を傾けた。
澄んだ酒が、朱の内側へ落ちる。
「遅え」
彩心の手が揺れた。
「待たせた挙げ句、こぼしたら承知しねえぞ」
「……喋ってると、注ぎづらいでしょう」
凪が言うと、盃から低い笑いが漏れた。
酒の筋が細く続く。
遠くで、巨人が地面を踏み砕いた。凪は音のした方へ目を向けたが、白煙の向こうには何も見えない。
「……いっぱいに、なりました」
彩心が瓶を起こした。
縁まで満ちていた酒が、すっと減った。
こぼれた音はしなかった。彩心は瓶と盃を見比べ、それから地面へ目を落とす。土も濡れていない。
「……え?」
酒がみるみる減っていき、遂には全て消えてしまう。
「こんな酒まで用意できるくせに、普段は俺に寄越しもしねえ」
彩心は凪へ顔を向けた。
「もう一度、注ぎますか?」
「……ううん。そのままで」
彩心が両手で盃を持ち、凪の前へ置いた。
指を離してから、膝の上へそっと手を戻す。
凪は盃へと目を落とした。
「彩心.……後はお願い」
*
数分前
白煙の切れ目へ、車が飛び出した。
芙梨は後部座席から身を捻り、ドアのなくなった側へ心叫を向ける。
「こっちだ、大陀羅踏地!」
煙の中で、大きな影が向きを変えた。
土の腕が突き出し、車の通った場所を叩く。巻き上がった煙の向こうから、巨人の顔が現れた。
「来てる!」
「承知しています!」
田口がハンドルを切った。
車体が傾き、芙梨の腰が座席の上を滑る。座席の背へ腕を回して体を支えると、靴の下で細かなガラスが鳴った。
直前まで正面にいた巨人が、横へ流れていく。
車は台地の外縁を回っていた。
凪たちから離れ、巨人を連れて走る。白煙はまだ広く漂い、振り返っても二人の姿は分からなかった。
「そろそろ、落ち着いて話せない?」
芙梨が心叫を後ろへ向けた。
「追いかけっこをしたいわけじゃ――」
巨人の腕が上がった。
「……ないんだけど!」
振り下ろされた拳が、車のすぐ後ろへ落ちた。
衝撃で後輪が跳ねる。芙梨は舌を噛みかけ、慌てて口を閉じた。
「喋るか掴まるか、どっちかにしろ」
心叫が言った。
「両方いるでしょう!」
田口がアクセルを踏み込む。
車体が激しく揺れ、背後の足音が少し遠ざかった。
芙梨は息を継ぎ、再び心叫を向ける。
土の巨人が腕を横へ払った。
芙梨はその手へ声を叩きつけた。指が砕け、腕の先が大きく崩れる。
けれど、崩れた土は止まらなかった。
「伏せて!」
芙梨は座席へ体を倒した。
石混じりの土が車を打つ。反対側の窓が砕け、その下のドアが内側へへこんだ。
車体が横へ押され、タイヤが悲鳴を上げる。
へこんだドアの隙間へ巨人の指がかかり、田口が車を振った瞬間、蝶番が裂けた。
後部ドアが、もう一枚飛んでいった。
芙梨は頭を上げた。
左右、どちらを見ても外だった。
「……田口さん」
「見えてます!」
巨人の手が、まだ追ってくる。
芙梨が心叫を持ち上げるより早く、田口は急に速度を落とした。
頭上を影が通る。
車を掴み損ねた指先が屋根へ食い込み、耳を塞ぎたくなる音を立てて後ろへ滑った。
空が開けた。
剥がれた屋根が巨人の手元へ持ち上がり、次いで台地へ投げ捨てられた。歪んだ鉄板が土の上を転がっていく。
田口が一度だけ上を見た。
「……ふざけんなや」
低い声だった。
芙梨は返事をしなかった。
「人の車、なっちょにする気だえ!」
田口がハンドルを切り直す。
車は巨人の脇を抜け、土を蹴り上げて走った。
芙梨は頭上を見てから、運転席へ目を戻す。
「まだ走れる?」
「走らせる!」
短い返事とともに、速度が上がった。
芙梨は座席へしがみつき、心叫の筒先を後ろへ絞る。巨人の膝へ叫びをぶつけると、踏み出しかけた脚から土が噴き出した。
その一歩が遅れた隙に、車が距離を取る。
芙梨は前へ向き直った。
そろそろ、時間を稼ぐのも限界だ。
煙の向こうを探す。風に流され、ところどころ地面が見えるようになっていたが、凪たちの姿はまだ捉えられなかった。
乾いた音が響いた。
白煙の上へ、青い火の玉が昇っていく。
芙梨は顔を上げた。
狐火が尾を引き、空へ抜ける。
「合図!」
昨夜、凪が言っていた。
盃の準備ができたら、彩心に狐火を上げてもらう。それを見つけたら、二人のいる場所へ戻る、と。
芙梨は狐火の上がった辺りへ目を凝らした。
薄れていく煙の隙間に、人影が見える。
一人は地面に伏せ、もう一人が傍らで屈んでいた。
「あそこ。彩心たち!」
「見えました」
田口がアクセルを踏み込んだ。
車は大きく弧を描き、二人へ向かう。
遮るもののなくなった頭上を風が抜け、芙梨の髪が激しく煽られた。
背後で巨人が吠える。
芙梨は振り返らず、彩心の姿を追った。
田口が車の向きを整える。
「お願いします」
芙梨は心叫を口元へ寄せた。
『彩心。五秒数えたら、そっちの横で止める。飛び乗って。少ししか止まれないから』
彩心が顔を上げた。
『五』
遠目に、その口が動いた。
凪へ何か伝え、頷いている。
芙梨は座席の端へ移り、乗り込める場所を空けた。
『四』
彩心が凪の顔へ手を伸ばした。
狐面が外れ、その腕に抱えられる。
凪は顔を上げたまま、こちらを見ていた。
『三』
車が残った煙を裂く。
彩心の足元に、盃が見えた。
彼女は鞄とスケッチブックを抱え直し、立ち上がる。
『二』
背後で地面が砕けた。
巨人の足音が近い。
芙梨は足を踏ん張り、ドアのなくなった乗り口から手を伸ばした。
『一』
田口がハンドルを切った。
彩心の姿が正面から横へ流れる。ブレーキの音が響き、車体が大きく沈み込んだ。
『今!』
彩心が地面を蹴った。
差し出された手を芙梨が掴む。引き込む勢いで、彩心の膝が座席へ乗った。
狐面を抱えた腕とスケッチブックが、芙梨の胸へぶつかる。
「足、入れて!」
彩心が残った足を引き上げた。
芙梨はその肩を抱き、座席の奥へ体を倒す。
「乗った!」
後輪が土煙を噴いた。
車が急加速する。彩心の体が芙梨へ押しつけられ、二人まとめて背もたれへ沈んだ。
凪の姿が、瞬く間に遠ざかる。
その向こうから迫る巨人を見て、芙梨は彩心の体を抱きしめた。
エンジンの音が遠ざかる。
凪は土についた手へ力を込めた。
指が動いた。
肘を引き寄せ、上体を起こす。肩に痛みが走ったが、今度は体を支えられた。
目の前には、空の盃がある。
凪はそれへ手を伸ばした。
「逃げ足の速い連中だ」
地面が揺れた。
顔を上げると、土の巨人が車の去った方を睨んでいた。
その頭が、ゆっくりとこちらへ向く。
「……あやつの仲間が一人、残っとる」
凪は盃の縁へ指をかけた。
巨人が近づいてくる。足が地面を踏むたび、盃の周りで小石が跳ねた。
「喋る面から狐を出しおった小娘だな。あれが、お前の付喪神か」
凪は答えず、両手で盃を持ち上げた。
内側には、一滴の酒も残っていない。
「それまで仲間に持たせて逃がすとは。置いていかれたか、哀れなもんだ」
凪は縁へ指を添え、息を吐いた。
「酔わせて、酒呑鬼盃」
低い笑い声が返った。
「いい飲みっぷりを見せてみろ」
盃の底へ、赤いものが滲んだ。
中心から湧いた液体が、小さな溜まりになる。先ほど注がれた酒の、十分の一にも満たない量だった。
凪は縁へ口をつけた。
傾け、飲む。
喉を通った途端、視界が揺れた。
巨人の顔が二つにぶれ、重なる。
凪は空の盃を下ろした。口元が、勝手に緩む。
地面へ足をつき、立ち上がった。
肩が痛かったはずだ。
けれど今は、その場所をうまく思い出せない。指先も、土を踏む足の裏も、薄いものを隔てたように遠かった。
体がふわふわと揺れている。自分が傾いているのか、目の前の巨人が揺れているのかも、よく分からない。
ただ、腹の奥から力が湧いていた。
立ち上がっても、拳を握っても、まだ溢れてくる。
「面もなしに、何ができる!」
巨人の腕が伸びた。
開いた指が凪を覆い、そのまま握り潰そうと迫ってくる。
凪は一歩、踏み込んだ。
拳を振る。
触れた掌が弾けた。
指が砕け、手首が裂ける。衝撃はその奥まで突き抜け、肘を、肩を、内側から吹き破った。
土の巨人の片腕が、轟音とともに吹き飛んだ。
田口美穂 所有車両
車種 MONDA WEZEL 4WD
車体色 黒
購入時期 昨年、新車にて購入
購入金額 2,900,000円(ローン契約)
総走行距離 32,000km
現在の状態
後部ドア左右 消失
天井 消失
フロントガラス 亀裂多数
後部座席窓ガラス 左右とも消失
右サイドミラー 鏡面にひび割れ
左サイドミラー 本体ごと消失
車体側面 広範囲に擦過傷、へこみ
後部座席 土砂、木片、ガラス片が散乱
車内 著しく風通しが改善
エンジン 稼働
ローン 継続




