陸 山鳴慟哭 3
彩心は車窓から山を見上げた。
木々に遮られ、頂上は見えない。凪と芙梨は、もうあの上で待っているはずだった。
膝の上には、布に包まれた三つの勾玉がある。彩心はその一つへ指を添え、昨夜、机に広げられていた地図を思い出した。
芙梨と心叫も、昨晩は同じ宿へ泊まった。
部屋に集まった田口が調査資料を並べると、芙梨もサイトへ寄せられた情報を開いた。
「人間に怒っていることと、こちらから話しても聞こうとしないこと。それに、土を動かして襲ってくること」
キュウさんが指を折った。
「今、確かに分かってるのは、その辺りだねえ」
田口が被害の報告された場所を示し、芙梨が読者から聞いた目撃場所を重ねていく。
彩心も地図を覗き込んだ。印は一か所に固まっているわけではなく、幾つもの山に散らばっていた。
「……被害が大きいの、ここと、ここ」
凪が指を置いた。
田口は資料を確かめ、頷く。
「そちらは開発が進んでいる山ですね。もう一方も、以前に広い範囲が切り開かれています」
「私が聞いたところにも、そういう場所がある」
芙梨がスマホの画面を送った。
お前はこの山も無くしに来たのか。
彩心は、芙梨から聞いた言葉を思い出した。
何に怒っていたのか、まだ分からない。けれど、現れる場所とは関係があるのかもしれなかった。
芙梨が出会ってから今日までの三日間。その間に移動できそうな範囲と、新しい被害報告を照らし合わせていく。
やがて、凪が一つの山を指した。
「この辺りにいるなら……ここから、呼べないかな」
「うん。私と心叫なら、届かせられると思う」
芙梨が地図へ身を寄せた。
「市街地からも離れていますね。周囲の道は、車で回れます」
田口の返答を聞いて、キュウさんが顔を上げた。
「それなら、人避けの勾玉は用意できるかい?」
「二級のものなら、三つ準備できます」
「なら、それを使おう。呼び出す前に、周りから人を遠ざけておきたいからねえ」
「着きました」
田口の声に、彩心は顔を上げた。
車は山道の脇に停まっていた。彩心は勾玉を一つ取り、外へ出る。
昨夜、使い方を教わった通りに力を込めると、手の中で石が割れた。
彩心は二つになった欠片を見た。
「……これで、いいんですか?」
「はい。次へ向かいましょう」
車へ戻り、欠片を包みの端へ寄せる。
あと二つ。
彩心は残った勾玉を確かめ、窓の向こうへ目を向けた。
「彩心は……田口さんと、車で回ってほしい」
昨夜、役割を決める時、凪はそう言ってこちらを見た。
「今回は、危ないと思うから。サポートを、お願いしたい」
彩心は膝の上の包みを押さえた。
昨日は階段を一つ描いただけで、思った以上に疲れてしまった。自分の力について、まだ分からないことが多い。
凪たちが相手と向き合うために、まずはこちらの準備を終わらせなければならなかった。
*
三つ目の勾玉を割り終えると、田口が地図を確かめた。
「これで、全部です」
彩心は頷き、鞄からスケッチブックを取り出した。
木々の切れ間から、山頂が覗いている。
「完了の合図は、何を出せばいいですか?」
昨夜の自分の問いに、凪は少し考えた。
「それなら――」
彩心は頁を開いた。
「描こう、ライラック」
「まかせて!」
空高く上がって、二人からも見えるように。
描き終えた花火を空へ向けると、一筋の光が頁を離れた。木々を越え、青空へ駆け上がっていく。
頭上で大きく開き、遅れて破裂音が山へ響いた。
彩心は山頂を見つめた。
光が消え、響いていた音も遠ざかる。
『見えた。始めるよ』
すぐそばから聞こえたような芙梨の声に、彩心はスケッチブックを抱え直した。
田口も頷き、運転席へ戻る。
「私たちも、向かいましょう」
「はい」
彩心は助手席へ乗り込み、次に使う頁を開いた。
*
花火の煙が、山の向こうで薄れていく。
凪はそこから目を離し、下りの道へ視線を移した。昨夜確かめた、台地へ続く道だった。
隣で、芙梨が心叫の持ち手を握り直す。
「じゃあ、呼ぶね」
凪は狐面へ手を添え、頷く。
芙梨が山の斜面へ向き直った。
拡声器の胴へ片手を添え、持ち手を握り直す。
「届けよう、心叫」
「最大音量だ」
「此処で生きる者の代弁者」
息を吸う音がした。
「大陀羅踏地! お前が逃した人間は、ここにいるぞ!」
声とともに、心叫の開口部が大きく広がった。
山々へ渡った叫びが、谷の向こうからも返ってくる。言い終えた芙梨の手元で、拡声器は元の形へ戻った。
凪は下り道から目を離さず、足を開いた。
靴の下で、小石が跳ねた。
地面が突き上がり、凪は膝を曲げて揺れを受けた。斜面の下で枝がざわめき、幹の間から土がせり上がる。
波打つ土の上に、人が立っていた。
白髪の老人だった。曲がった背に反して、こちらを見上げる顔には力がこもっている。
「あの人」
芙梨が短く言った。
「また来おったか」
老人は芙梨を見ていた。
土の波が斜面を上り、足元の根を押し潰していく。
「ここから失せろと言ったはずだ!」
「聞きたいことがある。私たちは、この山を――」
「仲間まで連れてきおって!」
凪は芙梨の腕を引いた。
二人が退いた場所へ、土の塊が突き出す。弾かれた石が頬の脇を飛び、凪は狐面へ手を添えた。
「力を貸して、九尾の面」
「ああ、任せな」
「管狐」
背後で竹模様の尾が伸びた。
足元から飛び出した二匹の狐が、原付ほどの大きさへ膨らみ、身を低くする。
「芙梨、乗りな! ここを離れるよ!」
キュウさんの声に、芙梨が一匹へ跨がった。凪ももう一匹へ乗り、下り道へ体を向ける。
狐が地を蹴った。
背後で土の塊が崩れ、二匹の尾へ降りかかった。
『来たよ。今から、そっちへ向かう』
芙梨の声が耳元へ届いた。
続いて彼女は上体を捻り、老人へ心叫を向ける。
「山を壊しに来たんじゃない! 話を聞きに来たんだ!」
拡声器の筒が老人の方へ伸び、声を送り出す。
「お前らに話すことなどない!」
凪は道の先を見た。
木々の切れ間で土が盛り上がり、二匹の進路を塞いでいく。
「正面、芙梨! 真ん中を開けとくれ!」
キュウさんが声を張った。
芙梨が前へ向き直り、心叫を構える。
「割れろ!」
筒が細く伸びた。
絞られた声が土壁の中央へ突き刺さり、向こう側まで穴を穿つ。芙梨が口を閉じた時には、二匹はその隙間へ飛び込んでいた。
凪は背を低くし、頭上から落ちる土を避ける。狐の前脚が地面を捉え、間を置かずにまた駆け出した。
「何をそんなに怒ってるの!」
芙梨はもう後ろを向いていた。
「私たちに何か言いたいなら、言えばいい!」
「知ったような口を!」
老人を乗せた土の波が、斜面を滑ってくる。
木の間を回ることさえせず、根元から押し倒して追ってきた。倒れかかった幹を狐が潜り、凪は横を走る芙梨を確かめる。
その背後で、地面が大きく持ち上がった。
「後ろから来るよ!」
芙梨が心叫を両手で支えた。
大きく開いた筒先へ、土が壁のように迫る。
「来るなっ!」
声が広く叩きつけられた。
迫っていた土の上端が弾け、左右へ崩れる。飛び散った土が木々を叩く間に、二匹は次の曲がり角を抜けた。
凪は芙梨の狐を少し前へ出した。自分はその斜め後ろにつき、老人と彼女の間へ入る。
土の波が横へ膨らんだ。
道の脇からせり出した塊が、芙梨を追って向きを変える。
凪は老人へ手を向けた。
「狐火」
二本目の尾が伸び、青い火の玉が灯る。
放たれた狐火が老人の横顔へ迫ると、足元の土がせり上がってそれを受けた。
芙梨を狙っていた塊が崩れる。
その先を、彼女の狐が駆け抜けた。
「助かった!」
凪は頷き、次の狐火を手元へ寄せた。
土に遮られて、老人へは届かない。それでも、芙梨が声を放つ間は作れる。
「この山もって言ったよね!」
芙梨の声が老人へ向かう。
「ほかの山のことも、怒ってるんでしょう!」
「黙れ!」
老人が腕を振った。
土に混じった石が飛び、凪は狐を道の外へ跳ばせる。脇の幹へ石が食い込み、砕けた樹皮が肩へ降った。
「左の道へ戻るよ! 芙梨、前を!」
キュウさんが指示を飛ばす。
「分かった!」
芙梨が前を向いた直後、行く手の根が土ごと持ち上がった。
彼女は身を低くし、心叫を突き出す。
「どいて!」
細く伸びた筒先から声が走り、根元の土を抉った。傾いた根を二匹が越える。
凪は着地の瞬間に狐を右へ寄せ、芙梨の隣へ戻った。
息を吸うたび、土の匂いがした。
狐の背は絶えず揺れ、尾の付け根に重さが溜まっていく。
芙梨も心叫を抱え直していた。息を継ぎ、それでも後ろへ顔を向ける。
「聞かれたくないなら、そう言って! でも、人を襲うのは違うでしょう!」
返事の代わりに、地面が裂けた。
凪は二匹を左右へ分けた。割れ目から噴き上がった土が、すぐ脇を抜けていく。
芙梨の姿が土煙に隠れ、凪はそちらへ目を凝らした。
「芙梨!」
キュウさんが呼ぶ。
『いる!」 』
頭に声が響き、土煙の向こうから狐に乗った芙梨が飛び出してくる。凪は進む向きを合わせ、前方の緩い下り道へ二匹を走らせた。
この先に、合流する台地がある。
背後の地響きは、まだ離れない。
「……流石に強いね」
芙梨が息を切らせて言った。
「呼んだのはこっちだ。もう少し付き合ってもらいな」
キュウさんが返す。
凪は狐火を後ろへ放った。老人が土で受け、その間に二匹は距離を稼ぐ。
背後で、何本もの木が倒れた。
凪は振り返った。
老人の足元へ土が集まっている。
追ってきていた波が厚みを増し、膝を、腰を覆っていく。土に沈んだ腕の位置から太い塊が張り出し、幹を押しのけながら持ち上がった。
土が肩へ積み重なり、その上に頭ができる。
土に覆われた巨人に老人の姿はもう見えなかった。
芙梨が心叫を向けた。
細く伸びた筒から叫びが放たれ、巨人の肩を削る。
崩れた土は地面へ落ちるより早く胴へ取り込まれ、開いた穴が塞がった。
「……凪」
狐面の奥で、凪は息を吸った。
土でできた指が木の梢を掴み、握り潰す。
握り潰された梢が、枝ごと降ってきた。
凪は二匹を加速させた。背後で幹が地面を打ち、折れた枝が狐の尾をかすめる。
「止まるんじゃないよ!」
キュウさんの声に、芙梨が前へ身を伏せた。
巨人が動いた。
脚を持ち上げるたびに土が崩れ、その足元へ新たな土が集まる。下りの斜面を踏み抜きながら、木々の間を押し広げてきた。
大きくなった分、遅くなるかと思った。
違った。
一歩で詰まる距離が、さっきまでとはまるで違う。
「右腕、来るよ!」
凪は道の端へ狐を寄せた。
巨人の腕が斜面を薙ぐ。地面を削った拳から、石と土が前方へ飛んだ。
芙梨が心叫を向け、大きく口を開く。
「邪魔!」
広がった筒先から声が放たれ、飛来した土砂を押し散らした。
その下を二匹が駆ける。
落ちてきた石が凪の肩を打った。痛みに体が傾き、毛並みを掴む手へ力を込める。
「凪、大丈夫?!」
芙梨が振り返る。
凪は頷き、前を示した。
木々の間に空が見えた。その下を、舗装された道が横切っている。
エンジンの音がした。
道の向こうから、田口の車が現れた。
凪たちと同じ台地へ向かっている。
だが、巨人の足が地面を踏んだ瞬間、車の前で路面が持ち上がった。
タイヤが鳴いた。
車が急に向きを変え、隆起した箇所の脇を抜ける。跳ねた車体が着地し、側面を木の枝が引っかいた。
巨人が腕を振る。
凪は狐火を放ったが、振り抜かれた腕には届かなかった。
飛び散った石が車へ降りかかる。窓が砕け、車体が大きく横へ流れた。
『田口さん!』
芙梨の声が響く。
車は道から落ちる寸前で向きを戻した。道端へ倒れかかっていた太い幹の脇を、車体を擦りつけるように抜けていく。
潰れた後部ドアが幹へ引っかかり、金属の裂ける音がした。
外れたドアが路面を跳ねた。
それでも車は止まらず、曲がり角の向こうへ消えた。
凪は前へ向き直った。
追って確かめるには、まずこの巨人を連れていかなければならない。
「芙梨、後ろを頼むよ!」
「うん!」
心叫の筒が伸びる。
芙梨の叫びが巨人の顔へ突き刺さり、頬にあたる部分を砕いた。
土がすぐに埋め直される。
巨人は顔を背けることさえせず、腕を伸ばしてきた。
凪は狐火をその手へぶつけた。
指先が青く弾ける。掴もうとした手がわずかに開き、二匹はその下を抜けた。
「もう少し! 木を抜けたら左だ!」
キュウさんが叫んだ。
凪は前脚が着く位置を追った。
根を越え、石を避け、最後の斜面を下る。
木々が途切れた。
開けた台地の端に、車が停まっていた。
車体のあちこちがへこみ、片側の後部ドアがなくなっている。助手席の扉が開き、彩心がスケッチブックを抱えて下りてきた。
凪は狐を減速させた。
芙梨の狐を車へ近づけ、自分は少し手前で地面へ下りる。
「管狐、解くよ」
キュウさんの声に頷き、芙梨が足をつけたのを見届けてから力を緩めた。
二匹が小さくほどけ、竹模様の尾とともに消える。
背後で木が裂けた。
台地へ巨人の影が差す。
「彩心、今だよ!」
彩心が頁をこちらへ向けた。
白い煙が紙から噴き出す。
地面を這った煙はたちまち厚みを増し、車の車体を、彩心達の姿を、周囲の広範囲に渡り覆っていく。凪は狐面の奥で目を細め、薄れていく車の輪郭を追う。
「大陀羅踏地! こっちだ!」
芙梨が声を張った。
煙の向こうで、土の巨人が向きを変える。
その足が台地を踏むより先に、芙梨はドアのない後部座席へ飛び込んだ。
入れ替わるように、彩心が車を離れた。
片手にスケッチブック、もう片方には袋を抱えている。煙にを隠されながら、凪の方へ走ってきた。
『乗った。二人は、そのまま準備して』
芙梨の声が届いた。
エンジンが唸る。
「まだ話は終わってないよ!」
呼びかけながら遠ざかる声を、巨人が追った。
土を踏み砕く音が、凪たちの横を通り過ぎていく。
彩心が隣へ辿り着いた。
「……凪さん」
凪は頷き、肩に残る痛みを確かめながら膝をついた。
白煙の向こうでは、もう車も巨人も見えない。
「始めようかね」
キュウさんが言った。
彩心、田口視点
『見えた。始めるよ』
耳元へ届いた芙梨の声に、彩心はスケッチブックを抱え直した。
田口も頷き、運転席へ戻る。
「私たちも、向かいましょう」
「はい」
彩心は助手席へ乗り込み、次に使う頁を開いた。足元には、昨夜頼まれたものを入れた袋がある。
車が走り出して間もなく、山へ声が響いた。
「大陀羅踏地! お前が逃した人間は、ここにいるぞ!」
窓を閉めていても、言葉まではっきりと聞こえた。
彩心が山頂の方へ目を向ける。
木々の奥で鳥が飛び立った。その下から、低い音が近づいてくる。
車体が揺れた。
田口が速度を落とす。
前方の路面を小石が転がり、道の端から乾いた土がこぼれ落ちた。
「もう、来たんですか?」
「そのようですね」
田口はハンドルを握り直した。
「合流地点まで進みます。揺れますので、気をつけてください」
車が曲がり角へ入った時、上の斜面で土が弾けた。
彩心は顔を上げた。
木々の間を、白いものが二つ走っている。一つには狐面、もう一つには黒い拡声器が見えた。
「凪さん……!」
その後ろから、土の波が押し寄せた。
青い火が光り、続いて何かが破裂する音が響く。斜面を下ってきた石が、車の前へ飛び出した。
田口がハンドルを切る。
彩心の肩が扉へ押しつけられ、膝の上でスケッチブックが滑った。
両手で抱え直す間に、石は車の脇を抜けていった。
「大丈夫ですか?」
「はい……!」
「この先で、もう一度曲がります」
彩心は頷き、背もたれへ体を寄せた。
窓の向こうで、凪たちの姿が木々に隠れる。
けれど、声は聞こえていた。何かを問いかける芙梨の声と、それを遮る怒鳴り声。そのたびに土が崩れ、枝が折れる音が続いた。
曲がり角の先へ、木の根がせり出した。
田口がブレーキを踏む。
彩心は前へ引かれ、シートベルトが胸へ食い込んだ。
「……ここも動くんかい」
田口が小さく言った。
車は根の手前で向きを変え、道の端へ寄った。片側のタイヤが土を踏む。車体が傾き、彩心は扉の取っ手を掴んだ。
「た、田口さん」
「通れます。もう少し、そのままで」
タイヤが舗装へ戻ると、車は再び速度を上げた。
背後で土が落ちる音がした。彩心は振り返りかけたが、次の揺れに首を戻す。
前からも、横からも、何かが来る。
田口はそのたびに速度と向きを変え、道の上へ車を戻した。スケッチブックを開いていたはずなのに、彩心はもう、頁を押さえることしかできなかった。
『来たよ。今から、そっちへ向かう』
少し前に聞いた芙梨の声を思い出す。
そっちへ向かう。
つまり、こちらへ。
彩心は前方の道と山の斜面を、交互に見た。
何本もの木が倒れる音がした。
思わず顔を上げる。
梢の向こうから、土でできた頭が現れた。
肩が続き、腕が木々を押し分ける。
「……田口さん」
「見えてます」
「あれ」
「見えてるから」
田口の返事が短くなった。
彩心は口を閉じた。
土の巨人の前を、二匹の狐が走っていた。さっき見えた時と、追いかけているものの大きさが違う。
巨人の足が、斜面を踏んだ。
車の前で、路面が盛り上がった。
「掴まって!」
田口がハンドルを切った。
隆起した路面が窓のすぐ外へ迫り、車が跳ねる。
彩心はスケッチブックごと体を縮めた。着地の衝撃が腰へ響き、歯がぶつかる。側面を枝が引っかき、長い音を立てて後ろへ流れた。
窓の向こうで、巨人の腕が上がった。
青い火がそれを追う。
届かない。
「頭、下げて!」
彩心は膝へ顔を伏せた。
硬いものが車体を叩く音が続き、後ろでガラスが砕けた。
車が横へ滑る。
窓の外で、ガードレールが斜めに走った。その向こうには、木の枝よりも低い場所に谷が見えた。
「そっちは行かれねえって……!」
田口がハンドルを戻す。
タイヤが鳴き、彩心の体が反対側へ引かれた。足元の袋が倒れかけ、靴で押さえる。
車は道へ戻った。
今度は、倒れかかった太い幹が前を塞いでいた。
『田口さん!』
芙梨の声が頭へ響いた。
「分かってる!」
田口が答えた。
ブレーキを踏み、幹と道端の隙間へ車を向ける。
車体の脇で、何かが潰れる音がした。
すぐ近くにあるはずの音なのに、どこから聞こえているのか分からない。
彩心は取っ手を握り、ただ体を低くした。
金属が裂けた。
後ろから風が吹き込んだ。
何かが路面を跳ねる音が、急速に遠ざかっていく。
彩心は恐る恐る振り返った。
後部座席の向こうに、道が直接見えていた。
「……ドア」
「後ろ、なっちょだえ!」
「ドアが、ありません……!」
「ドアだけかい!」
彩心はもう一度、後部座席を見た。
「た、多分……!」
田口は前を向いたまま、短く息を吐いた。
「なら、まだ走れる」
彩心は田口を見た。
見てから、前へ向き直った。
今、自分が何を言っても、ハンドルを握る代わりにはならない。
足元の袋を押さえ、膝のスケッチブックを開き直した。
車が曲がり角を抜ける。
道の先に空が広がり、開けた台地が見えた。
田口はその端へ車を入れ、向きを整えて停めた。
エンジンはかかったままだった。
彩心は袋を引き寄せ、ライラックを手に取る。
「……着きました。準備をお願いします」
田口の言葉が、ようやく元の丁寧なものへ戻った。
「はい」
彩心は助手席の扉へ手をかけた。
取っ手を引くと、ちゃんと扉が開いた。
それだけのことに安心してから、外へ出た。




