伍 山鳴慟哭 2
「助けて」
少女が繰り返した。
道から少し下がった足場で、山肌から伸びた根を掴んでいる。登ろうと靴を動かすと、その下の土がずるりと滑った。
凪が天狐の背から下りる。
「……怪我は?」
「ない。でも、戻れなくて」
彩心も地面へ下り、凪の隣から覗き込んだ。遠くはない。けれど、手を伸ばすには届かなかった。
「階段なら、上がれますか?」
少女が顔を上げ、頷いた。
彩心はスケッチブックを開き、ライラックを手に取った。
「描こう、ライラック」
「まかせて!」
少女の足場から、こちらの道まで。両側に手すりのついた階段を描き、頁を斜面へ向ける。
紙から伸びた階段が、二人の間に架かった。
少女は足先で一段目を確かめると、根から手すりへ持ち替えた。肩から拡声器を下げ、一段ずつ上がってくる。
最後の段で凪の手を取り、ようやく道へ戻った。
その足が離れると、階段は淡く透け、斜面の上から消えていった。
少女は両足で地面を踏み直してから、二人へ頭を下げた。
口が動く。
「……え?」
彩心が身を寄せると、少女はもう一度何か言った。けれど、頭上の葉が擦れる音しか聞こえない。
「すみません、ちょっと聞こえなくて」
少女は肩の拡声器を持ち上げ、手元のつまみを回した。
「ありがとう。本当に助かった」
今度は、はっきりと聞こえた。
「あ、いえ。よかったです」
「声が小さくて。これがないと、聞こえないんだ」
少女は口元の拡声器を指で示した。
彩心は拡声器を見てから、木々の奥へ目を向けた。
「……さっきの、山から聞こえていた声も?」
「私。遠くまで届くようにしてたの」
「何て言ってたんですか?」
「おーい、誰か、助けて、って」
彩心はしばらく黙った。
あの声に怯えながら、凪の背へしがみついていたことを思い出す。
「たすけてって、言ってたんだね」
ライラックの声に、少女が赤い筆へ目を向けた。
「聞き取れなかった?」
「ちょっと……響いていて」
「そっか。もっと言葉が分かるようにしないと」
「反省は後にしろ。まだ崩れるぞ、ここ」
拡声器から、別の声がした。
少女は足元を見て、頷く。
「そうだね。まず、戻ろう」
凪も山の下へ目を向けた。
「車があるから……そこまで」
「道、私が見るよ。下から登ってきたから」
少女は拡声器を肩へ戻しかけ、ふと手を止めた。
「足元が緩いところは、避けていくね」
そう言って先へ進み、少し歩いては地面を確かめ、通れそうな場所から二人を振り返る。
天狐の大きな体が、大小の狐へほどけた。白い群れが木々の間へ散っていくと、凪の背にあった二本の尾も消えていた。
彩心はその隣に並び、少女の通った跡を辿った。
下りなのに、足が重い。
木の根を跨ぐだけで、思ったよりも膝を持ち上げなければならなかった。鞄を掛け直しているうちに、凪との間が少し開く。
「……彩心?」
「あ、すみません。ちょっと、疲れちゃって」
凪が歩調を緩めた。
彩心は追いついて息を整える。行きは天狐に乗っていたし、階段を上ったのも自分ではない。こんなに疲れるほど動いた覚えはなかった。
「能力、使ったから……かも」
「ライラックのですか?」
手の中の筆へ目を落とす。
「まだ、よく分かってなくて。どれくらい使えるのかも」
「最初はそんなもんさ」
狐面からキュウさんの声がした。
「何ができるかだけじゃなく、どういう時に使えるかも、その子と確かめていくといい。条件のある力も多いからねえ」
彩心は頷き、凪の背後へ目を向けた。
「凪さんたちにも、あるんですか? さっき、尻尾が二本出ていましたけど」
「……うん。一本につき、一つ」
凪は低い枝を避けてから続けた。
「九つ、能力があって。でも、同時に使えるのは二つまで」
「じゃあ、さっきは二つ使ってたんですね」
「管狐と、天狐」
「天狐を出すには、先に管狐を使う必要があるのさ」
キュウさんが補った。
「あれを出してる間は、それで二つとも埋まっちまう。他の力は使えないし、消耗も大きいんだよ」
「人の姿のままでは、出せないんですか?」
「あの大きいのはね。面に戻って、凪に使ってもらわなきゃならない」
「便利なだけじゃ、ないんですね」
「……うん。だから、帰りは歩く」
彩心は、先ほどまで大きな狐がいた辺りを振り返った。
あの背に乗っていれば安心だと思っていた。けれど凪たちは、他の力を使えなくなることも承知で、あれを選んでいたのだ。
自分は階段を一つ描くだけでも、あとでどれくらい疲れるか分かっていなかった。
彩心はライラックを持ち直した。何を描けるのかだけでなく、描いたあとにどうなるのかも、確かめておかなければならない。
前を行く少女が立ち止まった。
「ここ、右側を通って。左は土が浮いてるから」
「ありがとうございます」
彩心が礼を言い、示された側へ足を運ぶ。少女は二人が通るのを待っていた。
「その拡声器も、付喪神なのかい?」
キュウさんが尋ねると、少女は拡声器を口元へ寄せた。
「うん。声を大きくするだけじゃなくて――」
『こういうこともできるんだ』
声が急に近くなった。
彩心は思わず横を向いた。すぐ耳元で話しかけられたようだったのに、少女は数歩先に立っている。
「……今の、どこから?」
『みんなに、直接届けてる』
「ぼくにも聞こえる!」
ライラックが声を上げた。
「私にもだよ」
キュウさんが答える。凪も少女へ頷いた。
「周りがうるさくても、離れていても、相手へ声を届けられるの」
声が拡声器から聞こえるものに戻った。彩心は少女の口元へ目を向ける。
「ただ、私の姿と声を知ってる相手にしか使えないんだ」
「じゃあ、さっき助けを呼んでいた時は……」
「近くに知り合いとか居なかったから。普通に声を広げてた」
「普通の音量じゃなかったがな」
拡声器が口を挟んだ。
「誰がどこにいるか、分からなかったから」
「助けを呼ぶ声で逃げられたら、どうする」
「……それは、困る」
少女が彩心を見た。
彩心は、思わず目を逸らした。
「やっぱり、怖かった?」
「ちょっとだけ……」
隣の凪と目が合い、彩心は言い直した。
「……結構、怖かったです」
「ほらな」
「次は、言葉が分かるようにする」
「音量も下げろ」
彩心が小さく笑うと、少女も少し口元を緩めた。
「あ。そういえば、まだ名前も言ってなかったね」
少女は拡声器を持ち直し、二人へ向き直った。
「江藤芙梨。こっちは心叫」
「よろしくな」
拡声器から続いた声に、彩心も頷いた。
「藤花彩心です。この子はライラック」
「よろしくね!」
赤い筆が跳ねる。芙梨が笑い、それから凪へ目を向けた。
「……東雲、凪」
「私は九尾の面。キュウさんと呼んでおくれ」
「凪と、キュウさんね」
芙梨は二人を見て頷き、山道へ向き直った。
「それじゃ、行こう。もう少し下れば、歩きやすくなるよ」
*
木々の向こうに、ガードレールが見えた。
山道を下りきると、彩心はようやく息をついた。道の脇へ寄り、鞄を肩から下ろす。
凪はスマホで現在地を確かめ、田口へ連絡を入れていた。
「……はい。ここで、待ってます」
通話を終えた凪が、二人へ向き直る。
「迎えに来てくれるって。少し、かかるけど」
「ありがとう。助かる」
芙梨も道路へ出て、歩いてきた山道を振り返った。
彩心はガードレール脇の低い縁石へ腰を下ろした。ライラックを膝に寝かせ、靴についた土を軽く払う。
「芙梨さんは、山登りをしに来たんですか?」
「調べもの。私、オカルトのエッセイを書いてるんだ」
「エッセイ?」
「自分でサイトを作って、そこに載せてる。噂のある場所へ行ったり、話を聞いたりして」
芙梨は空いた手でスマホを取り出した。画面を開き、彩心の隣へしゃがむ。
記事の見出しと、山道を写した写真が並んでいた。少し下へ送ると、建物や古い道具の写真も現れる。
「これ、全部ご自分で?」
「うん。読んでくれてる人から、情報をもらうこともあるよ。変なものを見たとか、こんな話を聞いたとか」
「付喪神のことも、書いてるんですか?」
「書いてる。他のオカルト話と一緒で作り話だと思われてるかもしれないけどね」
芙梨は古い道具の写真で指を止めた。
「でも、そこにいて、話したいことがあるなら、誰かには知ってほしいから」
「……話したいこと」
「人に見えないからって、何も考えてないわけじゃないでしょう。何を言っても気づいてもらえないのは、嫌だと思う」
彩心は膝の上へ目を落とした。
ライラックが筆先を持ち上げる。
「ぼく、おはなし好き」
「うん。知ってる」
彩心が笑うと、芙梨も赤い筆へ目を向けた。
「そういう話も書きたいんだ。怖いとか、珍しいとかだけじゃなくて」
「それで、今回は山へ?」
キュウさんが尋ねる。
「山の神がいるってタレコミがあったの。読者にも聞いてみたら、山で見たって人が何人かいて」
「その人たちに、場所を教わったんですね」
「大体の辺りだけ。あとは歩いて探したんだけど……あっさり会えちゃった」
芙梨がスマホをしまい、山を見上げた。
「運はよかったんだと思う。会うところまでは」
彩心もつられて山へ目を向けた。
「……何があったんですか?」
「お爺さんが、一人でいたんだ。声をかけたら、いきなり怒鳴られて」
芙梨は拡声器を口元へ寄せ直した。
「『お前はこの山も無くしに来たのか?』って」
凪が顔を上げた。
「この山も……?」
「うん。違うって言ったけど、聞いてくれなかった。何しに来たのか話そうとしても、ずっと怒ってて」
「襲われたのかい?」
「足元の土が盛り上がって、こっちへ倒れてきた。避けたら、今度は横から」
芙梨が山道の方を指す。
「地面が、あの人の思う通りに動いてた。道まで形が変わるから、どっちへ行けばいいのか分からなくなるんだ」
彩心は凪を見た。
凪もこちらへ顔を向けていたが、すぐに芙梨へ視線を戻す。
「……それで、逃げた?」
「少しは押し返したよ。心叫の音を絞れば、ぶつけることもできるから」
「だが、土相手じゃな」
心叫が続けた。
「崩しても、次から次へ寄ってくる。こっちが穴を開けたところで、塞がれりゃ同じだ」
「立ってる場所も動くし、狙いもつけづらくて。ああいう相手とは、戦いたくないね」
芙梨が上着についた土を払った。
「逃げてる途中で足を滑らせて、少し下まで落ちたんだ。それが、さっきの場所」
「追っては、来なかったんですか?」
「上にいるのは見えた。でも、私を見失ったみたいで、そのままどこかへ行った」
彩心は袖口の擦れた跡を見た。芙梨はその視線に気づき、軽く腕を上げる。
「これくらいで済んだし、そこも運がよかったのかも」
「戻れなくなったがな」
「すぐには助けも呼べなかったしね。戻ってくるかもしれないから、しばらくはあそこでじっとしてた」
「それから、あの声で?」
「うん。物音もしなくなって、もう離れたかなって思ってから。だから、助けてもらえてよかった」
凪がスマホを取り出した。画面を開き、キュウさんにも見えるように傾ける。
「……大陀羅踏地」
「ああ。地面を動かすとなると、確かめる必要があるねえ」
「何、その名前?」
芙梨が尋ねた。
「私らが会いに来た付喪神さ。あんたの言う山の神も、そいつかもしれない」
「同じ相手を探してたってこと?」
凪が頷く。
「まだ……分からないけど」
芙梨は山へ目を戻した。
「だったら、気をつけて。あの人だったら、話しかけても聞いてくれないと思う」
彩心はライラックの軸へ指を添えた。
山の声は、芙梨の声だった。けれど、彼女の話が本当ならあの場には九十九神もいたのだ。
遠くからエンジンの音が近づいてきた。
曲がり角に田口の車が現れ、凪が手を上げる。
そばへ停まると、田口が運転席の窓を下げた。
「お待たせしました。皆さん、お怪我はありませんか?」
「……大丈夫、です」
凪は答え、それから少し言葉を探した。
「それと……聞いてほしいことが」
「何か、分かりましたか?」
凪が芙梨へ目を向ける。
芙梨は立ち上がり、拡声器を持ち直した。
「私が会った相手の話なんだけど」
芙梨の話を聞いた田口は、少しの間、山の方を見ていた。
「分かりました。こちらからも報告しておきます。まずは皆さん、お乗りください」
それから芙梨へ向き直る。
「江藤さんは、どちらまでお送りすればよろしいですか?」
返事より先に、腹の鳴る音がした。
芙梨が自分の腹へ目を落とす。
「あ。その前に、ご飯を食べられるところがいいな」
「お昼、まだだったんですか?」
彩心が尋ねると、芙梨は拡声器を口元へ寄せた。
「うん。二日くらい食べてないから」
「……二日?」
彩心は聞き返した。
「あれ。さっき言ってなかったっけ?」
「聞いてないです。あそこで、しばらく待っていたとは聞きましたけど」
「そう。それで、持ってたものもなくなっちゃって」
「しばらくって……二日間、あそこにいたんですか?」
芙梨が頷いた。
彩心は山を振り返った。あの狭い足場で、夜も。
「エッセイの調査で、外で夜を越すことはあるから。水もあったし」
「こいつの『慣れてる』は、いつもこうだ」
心叫が言った。
凪は頷きかけ、彩心の顔を見て黙った。
「それなら、先に食事にしましょう」
田口が後部座席の扉を開けた。
「宿の近くに、おいしい信州そばのお店があります。私もよく行くところなので」
「そば、いいね」
「おそば!」
ライラックまで声を弾ませる。
彩心は芙梨の顔をもう一度見てから、車へ乗り込んだ。助けた時、怪我のことしか聞かなかったのを、少し悔やんだ。
*
店へ入る直前、芙梨が肩の拡声器を外した。
黒い筒の輪郭が変わり、長い髪がほどけるように流れ落ちる。
現れた男を見て、彩心は顔を上げた。
背が高い。腰近くまで伸びた黒髪を後ろへ払い、男は店先の品書きを覗き込んだ。
「大盛りもあるな」
「……心叫さん?」
「ああ」
声は確かに、さっきまで拡声器から聞こえていたものだった。
芙梨が隣で何か言った。
彩心には聞こえなかった。
芙梨は一度口を閉じると、鞄から小さなメモ帳とペンを取り出した。
『こうなると、私は筆談』
こちらへ向けられた文字を見て、彩心は心叫と芙梨を見比べた。
「そうか。拡声器が……」
「飯を食う間くらいはな」
心叫が答える。
芙梨はその下へ、もう一行書き足した。
『いつものことだから、気にしないで』
店内へ通されると、凪も狐面を外した。人の姿に戻ったキュウさんが、その隣へ腰を下ろす。
運ばれてきた湯呑みに手を添え、芙梨は品書きを開いた。
田口が勧めたそばをそれぞれ頼み、彩心がようやく鞄を足元へ置いたところで、向かいから声がした。
「俺は大盛り。それと、これも」
心叫が品書きを指す。
店員が注文を確認すると、さらに一品付け加えた。
芙梨がその袖を引き、メモ帳を見せる。
『食べ過ぎ』
「知らん」
心叫は店員へ向き直り、注文を続けた。
そばが運ばれてくると、芙梨はメモ帳を脇へ置いて手を合わせた。
一口食べ、しばらく噛んでから、深く息をつく。
その様子に、彩心も少し安心して箸を取った。
隣ではライラックが器を覗き込み、キュウさんから薬味の説明を受けている。
向かいの心叫は、既に勢いよくそばを手繰っていた。
大盛りの山が、見る間に低くなっていく。
「……心叫さんも、二日間食べてなかったんですか?」
「俺は食わなくても平気だ」
そう答えながら、空いた器を端へ寄せる。
「すみません。そば、もう一枚」
彩心は思わず芙梨を見た。
芙梨も箸を止めて心叫を眺め、それから何事もなかったように食事へ戻った。
ひと息ついた頃、芙梨がメモ帳を手に取った。
書き終えるまで待っていると、凪とキュウさんへ向けて頁を立てる。
『明日、山の神に会いに行くんだよね?』
「ああ。あんたの会った相手が、大陀羅踏地かどうかも確かめたいしね」
キュウさんが答えた。
芙梨は頷き、続きを書く。
『私も一緒に行きたい』
凪が文字を見て、それから芙梨の顔へ目を向けた。
「……また、襲われるかもしれない」
芙梨のペンが動く。
『でも、まだ何も聞けてない』
その一文を見せたあと、もう少し書き足した。
『どうしてあんなに怒ってたのか、話がしたい。助けてもらった分、今度は私も手伝う』
「読者から集めた情報は、まだ持ってるかい?」
キュウさんが尋ねると、芙梨は頷き、スマホを取り出した。
『会った場所も、大体なら。ただ、二日前だから』
「こちらで集めている目撃情報と、照らし合わせられそうですね」
田口が画面を覗き込んだ。
「あとで、詳しく伺ってもよろしいですか?」
芙梨が頷く。
凪も画面へ目を向けてから、芙梨を見た。
「……お願い。ただ、危なくなったら」
『ちゃんと逃げる』
先に差し出された文字に、凪が口を閉じた。
「これでも結構戦った経験はあるんだ。安心してくれていいぞ」
心叫が言った。
芙梨は心叫へメモ帳を向けた。
彩心の側からは、何が書かれているか見えない。
「分かってる。大丈夫だ」
心叫はそう答え、追加のそばへ箸を伸ばした。
芙梨は新しい頁を開いたが、書くのをやめ、凪たちへ向かって口を動かした。やはり声は聞き取れなかったが、彼女が何を言ったかは伝わった。
よろしく。
彩心も頷いた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
芙梨は少し笑い、メモ帳を置いて箸を取った。
また一枚、心叫の前にそばが運ばれてくる。
二日ぶりの食事をしている芙梨よりも、隣の男の方が、ずっと食べていた。
食事後会計を終わらせた芙梨は心叫にメモ帳を向けた
『2日飯抜き』
*
本来は昨日投稿する予定のエピソードでしたが、認証メールの不具合により、本日の投稿となりました。
普段はパソコンで執筆・投稿していますが、今回は隙間時間にスマホから投稿しているため、文章に不自然な箇所や誤字脱字があるかもしれません。気づき次第修正しますので、ご了承ください。




