肆 山鳴慟哭 1
改札を出ても、彩葉はまだ少し俯いていた。
「降りたんだから、もう気にしなくていいじゃないか」
「そうですけど……」
キュウさんの声が、かえって気楽そうに聞こえる。彩葉はライラックを鞄の口へ押し戻した。
「今度は、ちゃんと小さい声でね」
「はーい」
返事だけは元気だった。
「東雲凪さんと、お連れの方ですね」
呼びかけられ、凪が足を止めた。
人の流れを避けたところに、一人の女性が立っていた。凪たちの顔を順に確かめ、軽く頭を下げる。
「田口と申します。長野県の代表のもとで働いています。オモイカネさんからお話を伺って、お迎えに上がりました」
「あ……東雲、です」
「藤花彩心です。よろしくお願いします」
田口は微笑むと、駐車場の方を示した。
「車を用意していますので、こちらへどうぞ」
駅の外へ出ると、彩心は顔を上げた。
建物の向こうに山が見える。少し視線をずらした先にも、その奥にも、幾重もの山の背が続いていた。
「山、いっぱい!」
ライラックが彩心の手の中で身を乗り出す。
「ほんとだね」
「長野に来たって感じがするねえ」
キュウさんも山を眺めながら歩いていく。凪はその後ろで、一度スマホを確かめてからポケットへ戻した。
「九十九神のところへは、これから向かうんですか?」
彩心が尋ねると、田口は首を横に振った。
「いえ。今日は近くの宿で休んでいただいて、現地へ向かうのは明日の予定です」
「そうなんですね」
「ここからも、まだしばらくかかりますので。詳しいお話も、落ち着いてからできればと」
「ありがたいね。宿まで世話になるとは」
「遠くからお越しいただきましたから」
案内された車へ、田口が先に荷物を積み込んだ。
キュウさんは助手席へ、彩心と凪は後部座席へ乗る。ライラックは彩心の膝の上に落ち着いた。
扉が閉まり、エンジンがかかる。
「それでは、出発しますね」
駅前の通りを抜ける間、ライラックは窓の外を忙しなく見ていた。彩心もそれに付き合っていたが、しばらくして、隣が妙に静かなことに気づいた。
凪は膝の上で両手を揃え、まっすぐ前を向いている。
「凪さん?」
「……何?」
「いえ、大丈夫ですか?」
「うん」
返事のあとにも、姿勢は変わらなかった。
新幹線では、もう少し気楽そうにしていたのに。彩心が首を傾げていると、助手席からキュウさんが振り返った。
「お前さんまで運転してるみたいに固まってるねえ」
「……してない」
「分かってるよ」
キュウさんが笑う。凪は窓へ顔を向けたが、膝の上の手はそのままだった。
「長野県へは、以前にもいらしたことがありますか?」
田口が尋ねた。
凪がわずかに顔を戻す。
「いえ……初めて、です」
「私も初めてです」
彩心が続けると、田口は頷いた。
「でしたら、明日の予定次第では、少し見て回る時間も取れるかもしれませんね」
「おやき!」
ライラックの声に、田口がバックミラーへ目を向ける。
「お好きなんですか?」
「まだ食べたことない!」
「新幹線で、観光の本を見ていたんです」
彩心が補うと、キュウさんが膝の上の本を持ち上げた。
「すっかり気に入ったみたいでねえ」
「それなら、宿の近くでも買えますよ」
「ほんと?」
「ええ」
ライラックが嬉しそうに揺れる。凪はその隣で、短く息を吐いていた。
駅から離れるにつれ、建物の間隔が広くなった。やがて畑や田んぼが見え始め、その向こうに山が大きく迫ってくる。
彩心は田口の横顔を窺った。
「あの、田口さんの付喪神は、今日はお留守番なんですか?」
「私は、付喪神とは契約していないんです」
「あ、そうなんですね」
「実家が神社でして。そうした繋がりから、お手伝いをしています」
「じゃあ、付喪神がいなくても、47傑の方のもとで働けるんですね」
「はい。私にできることは限られますが」
「今日だって、私らは助かってるよ」
キュウさんが言うと、田口は少し笑った。
「そう言っていただけると」
山を一つ越えた先に、今日の宿があるという。
車窓いっぱいに広がっていた山々が近づき、やがて道の両側を木々が埋めるようになった。ライラックは彩心の手の中で筆先を揺らし、窓の向こうを見上げている。
「さっきの山、もう見えないね」
「今、その山の中を走ってるんだよ」
「おっきいねえ」
彩心が笑って頷く。その向こうで、斜面を覆う青いシートが目に入った。端には土の詰まった袋が並び、折れた木が何本も横たわっている。
「あそこ、崩れたんですか?」
「ええ。この辺りでは、少し前から地盤が緩むことが増えていまして」
田口が前を向いたまま答えた。
「初めは自然のものだと思われていたんですが、先日の大きな地震を調べるうちに、付喪神が関わっていると分かったそうです」
「それが……今回の?」
凪が顔を上げる。
「はい。皆さんに調査していただく付喪神です」
「どんな力かは、聞いてるかい?」
「地面を操る、とだけ伺っています。詳しいことは、明日お話しする予定でしたので」
キュウさんが窓の外へ目を向けた。彩心も、遠ざかる青いシートを振り返る。
その時だった。
ぉぉぉぉぉぉ――。
低い声が、車内まで届いた。
彩心は窓から顔を離した。エンジンの音に紛れたそれが何だったのか考える間に、再び、長く尾を引く声が山に響く。
「……今の、何ですか?」
田口が速度を落とした。
「私も、こんな声を聞くのは初めてです」
木々の奥で、何かが崩れる音がした。枝の折れる音が続き、彩心はライラックを両手で包み込む。
「地面を操る、ねえ」
キュウさんの呟きに、凪が頷いた。
「田口さん。声のする方に……近づけますか」
「少し先に、上へ続く道があります。そちらからなら」
「お願い」
「分かりました。少し揺れますので、掴まっていてください」
田口がハンドルを切った。車は脇道へ入り、短い坂を上がる。
さっきまで正面にあった山が窓の横へ回り、道は木々の間へ続いていた。彩心は車内の取っ手を掴み、膝のライラックを押さえた。
前方の斜面で、枝が揺れた。
小石が幾つも路面へ跳ね、その後ろから大きな石が転がり出す。
「右へ振ります、掴まって」
車体が傾いた。
彩心の体が凪へ寄り、タイヤが短く鳴く。石が窓のすぐ外を抜けたかと思うと、田口はハンドルを戻し、次の曲がり角へ車を滑り込ませた。
後ろで、硬いものが路面にぶつかる音がした。
「ひゃっ……!」
遅れて声が出た。彩心は凪の肩から身を起こし、後ろを振り返ったが、落ちた石はもう曲がり角の向こうだった。
「す、すみません、凪さん」
「……うん」
凪も前の座席を掴んでいた。
田口は次の斜面へ視線を走らせた。崩れた土のある側を避け、路面に散った石の間へ車を通す。
「もう一つ、曲がります」
「はいっ」
彩心は慌てて前へ向き直った。今度は先に足を踏ん張る。それでも体は横へ引かれ、膝の上ではライラックが楽しそうに声を上げた。
「すごい!」
「今は、ちょっと……静かにしてて……!」
「お前さん、運転が上手いねえ」
助手席のキュウさんが言った。
「ありがとうございます。運転は得意なんです」
田口は前を向いたまま答えた。声も、ハンドルを握る手も落ち着いている。
彩心は取っ手を握り直した。頼もしい。ただ、景色を楽しむ余裕はなくなっていた。
やがて車は、道の脇にある広い退避場所へ入った。
止まってからも、彩心はしばらく座席を掴んでいた。田口が振り返る。
「お怪我はありませんか?」
「は、はい」
「……ありがとう、ございます」
凪も手を離し、小さく頭を下げた。
エンジンが止まると、山の声が一層近くなった。
だぁ――てぇ――。
彩心は車を降り、声のした方を見上げた。斜面には木々が密集し、その奥を窺うことはできない。
「車で近づけるのは、ここまでです」
田口が山の上を指した。
「あの辺りに古い道がありますが、ここからは歩いて登ることになります」
凪は斜面を見てから、キュウさんへ向き直った。
「九十九神の可能性もあるし……アレで行こう」
凪がキュウさんへ振り返る。
「ああ。あまり無理するんじゃないよ」
キュウさんが袖を揃えた。
和服の輪郭が薄れ、凪の差し出した手へ、小さな狐面が収まる。
彩心は思わず瞬きをした。ついさっきまで隣に立っていた姿は、もうどこにもなかった。
凪が面を顔へ当てる。
「力を貸して、キュウさん」
「任せておいで」
返事は、面から聞こえた。
「管狐」
凪の腰から、ふさりと尾が伸びた。
彩心にも見覚えがあった。以前見た、竹模様の尻尾だ。
その隣から、もう一本が伸びる。白い毛並みを彩るのは、雲が渦を巻くような朱の模様だった。二本の尾が左右へ開き、凪の背後で揺れる。
「天狐」
足元を、小さな狐が駆け抜けた。
彩心が目で追う間にも、次の狐が現れる。掌に乗りそうなものから、彩心の腰ほどもあるものまで。大小の狐が次々と凪の周囲へ溢れ、互いの間を縫って走り始めた。
「わ……」
靴のすぐそばを白い尾が掠めた。彩心は片足を引き、鞄を胸元へ抱えた。
狐たちは凪の前へ集まっていった。幾つもの背が重なり、跳び込んだ姿が境目を失う。最後の一匹がその中へ消えると、ひときわ大きな尾が持ち上がった。
太い前脚が土を踏む。白い体が膨らみ、長い首の上で、尖った耳が立った。
彩心は顔を仰向けた。
車よりも遥かに大きな狐が、目の前で身を起こしていた。目元から頬へ、肩から脚へ。凪に生えた二本目の尾と同じ朱の模様が、白い毛並みを走っている。
「これ……」
大狐が顔を下げた。鼻先が近づき、彩心は言葉を止めた。
「天狐。乗って」
凪がその背を軽く叩くと、天狐は腹を低くした。先に上がった凪が、彩心へ手を差し出す。
「あ、はい……」
彩心はライラックを鞄へ収め、その手を取った。毛並みに埋もれながら跨がると、思っていたよりも背中が広かった。
「しっかり掴まってて」
彩心は頷き、凪の服を掴んだ。
「田口さんは、ここで待っててもらえますか」
「承知しました。お気をつけて」
凪が頷くと、天狐が立ち上がった。
彩心の足が地面から遠ざかる。車の屋根が目の下へ下がり、慌てて凪へ身を寄せたところで、天狐は斜面へ駆け上がった。
木の幹が左右へ流れていった。
天狐は根を越え、岩を踏み、斜面を上がる。彩心は凪の服を掴み、体が跳ねるたびに息を詰めた。
声は近づいている。
そのはずなのに、右から聞こえた音が、次には左から返ってきた。
だぁ――てぇ――。
彩心は顔を上げた。
木々の上で、何かが動いた。
「掴まって!」
凪の声と同時に、天狐が横へ跳んだ。
さっきまでいた場所を石が抜け、木の幹へぶつかる。続いて土が崩れ、折れた枝を巻き込みながら斜面を滑り落ちた。
彩心は目を閉じた。背中を丸めたまま、頭のすぐそばを通り過ぎる音を聞いた。
天狐が岩陰で足を止める。
土の流れる音が、少しずつ遠ざかっていった。
「……攻撃、ですか?」
彩心は凪の背へ尋ねた。
凪は上を見ていた。
「分からない。もう少し、ここで」
狐面がわずかに横を向く。木々の間を確かめ、崩れた斜面を見下ろしてから、再び上へ戻った。
彩心もその先を見る。
露出した土の向こうに、人影があった。
白い服。
その前に突き出した、黒い何か。
「あそこ……」
「うん。見えた」
付喪神は人の姿になれる。あれが大陀羅踏地でも、おかしくない。
凪が天狐を進ませた。
今度は斜面を横切り、木々を間に挟みながら、少しずつ近づいていく。
彩心は鞄へ手を入れた。ライラックの軸に触れると、向こうから指へ寄り添ってきた。
人影が顔を上げた。
少女だった。
白と黒の髪に、土のついた上着。崩れ残った足場の上で、拡声器を抱えている。
凪の背が強張った。天狐が足を止める。
少女が拡声器を持ち上げ、こちらへ向けた。
彩心は肩を竦めた。
「助けて」
今度は、はっきり聞こえた。
凪も、彩心も、そのまま動かなかった。
少女は拡声器を口元へ当てたまま、二人を見上げている。
「……え?」
彩心達の口から、それだけが漏れた。
田口美穂
28歳 独身
趣味 ドライブ、料理
豆腐屋にてアルバイト経験あり




