弐 47傑 オモイカネ
目を開けると、知らない天井があった。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、畳の上を細く照らしている。彩心は布団に横たわったまま、ぼんやりと部屋を見回した。枕元に転がる絵筆を見つけたところで、ようやく昨日のことを思い出した。
絵筆が動いて、言葉を喋った。自分の描いたものが、紙の外へ飛び出した。それから、あのお店で付喪神の話を聞いて――。
「……そっか」
帰る場所がなくなって、ここに泊めてもらったのだった。
絵筆は動かなかった。昨日はあんなに賑やかだったのに、今は何の変哲もない筆に見える。まだ眠っているのかもしれない。筆も眠るのだろうかと思ったが、起こして確かめるのはやめておいた。
彩心は布団を抜け出すと、掛け布団を畳み、絵筆を枕元に残して部屋を出た。
廊下に人の姿はなかった。階段まで来ると、下から食器の触れ合う音が聞こえた。誰か起きているらしい。泊めてもらったお礼を言おうと階段を下りたところで、奥から出てきた女性と顔を合わせた。
「おはよう。よく眠れたかい?」
「あ、おはようございます」
挨拶を返してから、彩心は足を止めた。
和服姿の女性だった。顔には、昨日凪が身に着けていた物とよく似た狐面をつけている。しかし凪ではない。ほかにも誰か住んでいるのだろうか。
「どうしたんだい?」
首を傾げた女性の声を聞いて、彩心は狐面を見直した。声だけではない。この、のんびりした話し方にも覚えがある。
「……もしかして、キュウさんですか?」
「そうだよ」
当たり前のように返されて、彩心は女性の顔から足元まで視線を下ろした。昨日は確か、凪が持っていたはずだ。それが今は、自分の足で立っている。
「えっ。昨日、お面でしたよね?」
「今もお面さ。ほら」
キュウさんは自分の顔を指さした。
「そうじゃなくて、その……体が」
「ああ。こっちの話かい」
ようやく合点がいったらしく、キュウさんは片袖を持ち上げた。
「私らの中には、こうして人の姿になれるのもいるんだよ」
「へえ……」
彩心は着物の袖から覗く手を見つめた。言われなければ、人と区別がつかない。言われた今も、どうやってお面がこの姿になるのか、まるで見当がつかなかった。
「じゃあ、私の絵筆もですか?」
「おや、もう人の姿が見たくなったかい?」
「いえ、そういうわけじゃ……どんな感じになるのかなって」
部屋に置いてきた絵筆を思い浮かべる。昨日の声に似合う姿を考えてみたが、顔を思い描くより先に、手足の生えた筆が浮かんでしまった。
「まあ、今はまだ寝かせておいておやり。昨日はあの子も色々あったからねえ」
「……はい」
そう答えたところで、奥から漂ってくる味噌汁の匂いに気づいた。途端に空腹を覚えて、彩心はお腹の前でそっと手を重ねた。
「朝ご飯、もうすぐできるよ。食べられそうかい?」
「あ、はい。ありがとうございます。私、何か手伝えることありますか?」
「それじゃ、お椀を出してもらおうかね」
キュウさんが奥へ向き直る。彩心もその後について歩き出した。着物の裾が揺れるのを見ながら、やっぱり昨日のお面なのだと思うと、少し不思議な気がした。
「凪も起こさないとねえ。あの子、放っておくといつまでも寝てるんだよ」
お椀を並べ終える頃、階段の方から足音がした。
「……おはよう」
凪が片手で目元を擦りながら入ってきた。髪の片側が跳ねていて、キュウさんに指摘されても、手のひらで押さえただけだった。
「彩心に先を越されたねえ」
「起きてたんだ」
「おはようございます。昨日は、泊めていただいてありがとうございました」
彩心が頭を下げると、凪は目元から手を離した。
「うん。……眠れた?」
「はい。ぐっすり」
「なら、よかった」
そこで言葉が途切れた。凪は並んだ食器に目を向け、空いている席に腰を下ろした。
食卓には焼き魚と卵焼き、それに湯気の立つ味噌汁が並んでいた。キュウさんがご飯をよそう間に、彩心も席についた。
「絵筆はまだ上かい?」
「あ、はい。寝てるみたいだったので」
「そろそろ起こしてきておやり。一人で目を覚ましたら、騒ぐかもしれないよ」
確かに、と昨日の様子を思い出し、彩心は立ち上がった。
二階の部屋を覗くと、絵筆は枕元から少し離れたところに転がっていた。
「おはよう」
「あ! どこいってたの!」
声をかけた途端、筆が跳ねた。
「下にいたの。朝ご飯、できたって」
「ごはん!」
絵筆はもう一度跳ね、そのまま畳の上を転がり始めた。彩心は慌てて拾い上げた。
「待って。階段、落ちちゃうから」
手の中でも落ち着かない筆を連れ、階下へ戻る。食卓を見つけると、今度は彩心の指の間から身を乗り出そうとした。
「私の横にいてね」
箸置きから少し離して寝かせると、ようやく動きが止まった。
「この子、ご飯は食べるんですか?」
彩心が尋ねると、キュウさんは最後の茶碗を置きながら答えた。
「食べたいなら、人の姿になってからだねえ」
「なりたい!」
「まずは、転がらずに待つところからかね」
絵筆が不満そうに揺れた。彩心は笑いかけ、茶碗を手に取った。
「いただきます」
温かい味噌汁を口にすると、思っていた以上にお腹が空いていたことに気づいた。昨日の夜から色々なことを考えていたはずなのに、今は次にどのおかずを食べようかと迷っている。
向かいでは、凪が黙々と魚の骨を外していた。跳ねた髪は、さっきより少しだけ戻っている。
「すごくおいしいです」
「そりゃよかった」
キュウさんが答えると、凪も小さく頷いた。
食事が半ばまで進んだところで、凪が彩心の横に置かれた筆を見た。
「……名前」
「え?」
「その子の。ずっと絵筆って呼ぶのも、あれかなって」
彩心も筆に目を落とした。呼びかけるたびに「あの子」や「この子」と言っていたが、確かに名前はまだなかった。
「どんな名前がいい?」
「かっこいいの!」
すぐに返事が来た。
「かっこいいのかあ……」
「強そうなのもいい!」
「注文が多いねえ」
キュウさんが笑った。
彩心は箸を置いて考えた。赤い軸を指でそっと撫でると、筆先がこちらを向く。
「色から考えるとか……」
「赤だから?」
凪の問いに頷いてから、彩心は自分の名前も紙に書くように頭の中へ浮かべた。
「私の名字、藤花だから、お花の名前もいいかなって」
「花かい。それなら、色々ありそうだねえ」
キュウさんが挙げた名前を聞きながら、彩心は手の中の絵筆を見た。
「気に入ったのがあったら教えてね」
「かっこいいのね!」
名前会議が終わり、食器を片づける頃になっても、絵筆はまだ上機嫌だった。
「もういっかい呼んで!」
「さっきから何回も呼んでるでしょ」
彩心が笑うと、筆先が催促するように揺れた。
「気に入ったみたいだねえ」
「はい。なかなか決まらなかったけど、よかったです」
キュウさんに頷き、彩心は重ねた皿を持ち上げた。
「今日、このあと……出かけるんだけど」
凪が壁の時計を見上げて言った。
「彩心も、一緒に」
「私もですか?」
「付喪神に詳しい知り合いがいてね。カフェで待ち合わせてるんだよ」
キュウさんの言葉に、彩心は顔を上げた。
「その人も、付喪神が見えるんですか?」
「ああ。色々と話を聞けると思うよ」
「行きたいです」
彩心が答えると、凪は小さく頷いた。
「じゃあ……食器、そこに置いておいて。支度してきていいから」
「ありがとうございます」
彩心は皿を置き、絵筆を手に取った。
「一緒に行こうね」
「いく!」
返事と同時に筆先が跳ね、彩心は落とさないよう両手で包んだ。
*
「どうかしました?」
カフェの前で振り返ると、彩心と目が合った。
「……いや」
朝はもう少し話せていたのに、今は返事一つにも間が空いてしまう。
「入らないのかい?」
「入る」
凪が扉を開けると、奥の席から手が上がった。
「こっちだ、女狐」
窓際に、白いスーツを着た金髪の男と、その向かいに座る少女がいた。男は店内でもサングラスをかけたままだった。
「待たせたかい?」
「いや。俺たちも今来たところだ」
キュウさんが答える間に、凪は席へ向かい、彩心が隣に座れるよう奥へ詰めた。
「……おはよう、美晴」
「おはよう、凪ちゃん」
続いて彩心を紹介しようとしたところで、金髪の男が立ち上がった。
「君が、新たな付喪神の有神者か」
「は、はい。藤花彩心です」
「そう畏まることはない。俺は全知全見、神の中の神。あらゆる叡智を掌握せし、最強の付喪神――」
「カネちゃん、やめて〜」
美晴が白い袖を引いた。隣の席から視線が向き、凪も少し身を縮める。
「まだ名乗っていない。肝心なところだぞ」
「座ってからでも言えるでしょ」
「……オモイカネだ。その名、よく覚えておくといい」
ようやく腰を下ろした男に、彩心は頭を下げた。
「私は金木美晴。カネちゃんの有神者です。よろしくね」
「よろしくお願いします。あの……有神者っていうのは?」
「ああ、私としたことが。まだ話してなかったねえ」
キュウさんが彩心へ向き直った。
「付喪神と契約した人間のことさ。時代によって呼び方は変わるんだけど、最近は有神者って呼ぶことが多いね」
「じゃあ、凪さんも?」
「うん」
彩心に顔を向けられ、凪は頷いた。
「私と、キュウさんも」
「そういうことだよ」
キュウさんが続けると、彩心は手元の絵筆へ目を落とした。
「私も、そう呼ばれるんですね」
「よろしく!」
絵筆が跳ねた。美晴が身を乗り出し、彩心も笑って筆を支え直した。
注文を済ませると、オモイカネが胸を張った。
「俺と美晴は、ここ埼玉県の守護四十七傑を務める偉大な存在だ」
「四十七傑……?」
「各都道府県の代表となる有神者たちさ。付喪神に関わる厄介事に対処したり、危険な奴の動向を探ったりしてるんだよ」
キュウさんの説明を聞き、彩心が美晴を見た。
「じゃあ、すごい人なんですね」
「ようやく理解したか」
「カネちゃんに言ったんじゃないと思うよ」
美晴に指摘されても、オモイカネは満足そうだった。
「困ったことがあったら相談してね。凪ちゃんもいるし、私たちで力になれると思うから」
「ありがとうございます。……危ない付喪神と戦ったりもするんですか?」
「することもあるよ。でも、カネちゃんは戦えないから」
「え?」
彩心が白いスーツを見直した。
「さっき、最強って……」
「戦闘能力がないことと、弱いことを混同するなよ。腕力を競うだけなら、この俺の叡智も持て余すというものだ」
「喧嘩は弱いんだよ、この男」
「女狐。わざわざ話を戻すんじゃない」
キュウさんが笑い、彩心の口元も緩んだ。
「さて、彩心。その筆とは、これからも一緒にいるつもりか?」
「はい」
彩心はすぐに頷いた。
「昨日はびっくりしましたけど……私の絵筆なので」
「そうか。だが、その子の力については知っておく必要がある。昨日のように、使った本人まで驚いていては困るからな」
「あれ? どうして知ってるんですか?」
「見ていたからだ」
「……あの場所にいたんですか?」
「その場にいなければ見えない。それは君たちの話だ。全知全見と名乗っただろう?」
彩心がキュウさんへ顔を向けた。
「この男の能力さ。昨日のことも見てたんだろうねえ」
「そういうことだ。驚くのも無理はないがな」
オモイカネは得意げに胸を張った。
「何ができて、何をすれば危険なのか。君自身が知っていくことだ。無論、俺の助言があれば、闇雲に悩む必要もないがな」
「……はい」
「怖くなれば、誰かに預けることもできる。それでも一緒にいるか?」
凪は口を開きかけた。昨日出会ったばかりなのだから、今すぐ答えを出さなくてもいい。
そう言う前に、彩心が絵筆を両手で包んだ。
「まだ、分からないことばかりです。でも、分からないからって、置いていきたくはないです」
オモイカネはその手元を一瞥し、頷いた。
「いいだろう。ならば、分からないことはこの俺に聞け。これほど頼もしい後ろ盾もそうはいないぞ」
「……ありがとうございます」
「困ったら私にも聞いてね」
美晴が添えると、彩心の肩から少し力が抜けた。凪も、言いかけていた言葉を飲み込んだ。
「さて。その子の顔も見せたことだし、こっちの用件も聞かせてもらおうかね」
キュウさんの言葉に、凪は顔を上げた。
「無論、その件も調べはついている。この俺にかかれば――」
オモイカネの言葉が途切れた。
「女狐、俺の真上だ」
キュウさんが手のひらを上へ向けた。青い狐火が天井へ放たれる。
凪が見上げると、梁に逆さまに張りついた男がいた。振り上げた刃が光る。その腕が動くより早く、狐火が男を横から弾き飛ばした。
壁際の棚が倒れ、食器が砕け散った。悲鳴と共に椅子が倒れる。
「刃物だ!」
男の手元を見た客が叫んだ。直後、警報が鳴り響き、天井のスプリンクラーから水が降り始めた。
凪は近くの客を割れた食器から遠ざけ、キュウさんと目を合わせた。短く頷くと、客たちへ向き直る。
「こっちへ。棚から、離れてください」
「オモイカネ……!」
入口近くにいた別の男が、奥の席を睨んでいた。
「いつもいつも、余計なこと嗅ぎ回りやがって」
床に倒れた男も、濡れた髪を掻き上げて立ち上がる。
「無骨者どもよ、俺はこっちだ!」
オモイカネが入口へ走り、男の脇を抜けて外へ消えた。
「逃がすか!」
二人が後を追う。
戦えないと、さっき言っていたのに。
彩心は絵筆を握り、席を離れた。振り返ると、凪は客を誘導し、美晴は倒れた棚のそばで誰かを助け起こしていた。
呼びかけようとして、口を閉じる。二人とも、まだここを離れられない。
外では、店先から離れたオモイカネを、男たちが左右から追い詰めていた。
「オモイカネさん!」
叫ぶと、刃物を持った男がこちらを向いた。
「何だ、お前」
彩心の足が止まった。逃げた方がいい。そう思うのに、目の前のオモイカネを置いて戻ることもできなかった。
「どうしよう……」
「描こうよ!」
手の中の絵筆が動いた。
「描く……何を?」
「何でも!」
彩心はポケットから小さなスケッチブックを開いた。頁が指に引っかかり、うまく捲れない。
まず、あの刃を止めなければ。
テレビで何気なく見た大木を思い出す。太い幹と、大きく広がる枝。その下に人が立っていて、幹の大きさに驚いたのを覚えている。
あれなら、間に立ってくれる。
「描こう、ライラック」
「まかせて!」
白紙に幹を描き、枝を伸ばした。茶色を重ね、枝先に葉を茂らせる。
紙面から枝先が浮き上がった。彩心は慌てて頁を切り離し、男とオモイカネの間へ投げ込んだ。
地面に触れた紙から幹がせり上がり、枝葉が大きく広がる。振り下ろされた刃が、その幹に食い込んだ。
彩心は肩を跳ねさせたが、木は倒れなかった。
「止まった……」
「もっと大きくする?」
答える前に、もう一人が枝の外側へ回った。
「こっちも!」
新しい頁に、横へ伸びる枝を描く。それを男の進む先へ投げると、紙から飛び出した枝が行く手を塞いだ。
けれど、これでは防ぐだけだ。
追い払うには、何を描けばいいのだろう。
「次、どうする?」
「待って、今……」
戦うための絵なんて、描いたことがなかった。
枝の向こうで男が動く。その姿に身を竦めた時、店内で見た青い狐火を思い出した。
あれなら、追い払えるかもしれない。
新しい頁へ青を置く。丸く膨らんだ炎と、揺れる先端。男を吹き飛ばした時の形を、思い出しながら描いた。
「飛ばせる?」
「あっちに向けて!」
彩心はスケッチブックを持ち上げ、描いた面を男へ向けた。
「あっちぃ!」
青い火の玉が紙から飛び出した。男が身を引き、炎が肩先を掠める。
その隣で、幹に刃を食い込ませていた男が、ナイフへ何か囁いた。
短い返事が聞こえる。
次の瞬間、木の幹が裂けた。
彩心が振り向く間にも、ナイフが幹を切り広げていく。折れた枝が落ち、崩れた木の向こうにオモイカネの姿が見えた。
「あっ」
男が踏み込み、刃を振り上げる。
彩心は次の頁を開こうとした。濡れた指が滑り、紙の端を掴めない。
「待って……!」
「上出来だ」
オモイカネが半歩、身を引く。
次の瞬間そこに立っていたのは狐面の女だった。
「キュウさん……?」
キュウさんは振り抜かれた男の手首に手を添え、その勢いを横へ流した。男が体勢を立て直そうと踏み出した足を払い、よろめいた隙に彩心の前へ下がる。
「よく守ってくれたねえ」
「え……でも、さっきまでオモイカネさんが……」
「あの男なら、店の中さ」
キュウさんは男の手元を見据えたまま答えた。
「化狐。姿を借りるのは、狐の得意技だろう?」
「ふざけやがって」
ナイフを握り直した男が踏み込んだ。キュウさんは彩心を背に庇い、突き出された刃を横へかわす。返す刃が袖を掠めると、その腕を外側から押し流した。
もう一人も、崩れた枝を越えて近づいてくる。
「下がっておいで」
彩心はスケッチブックを抱え、後ずさった。
男が続けざまにナイフを振るう。キュウさんは間合いを外し、伸びきった腕を払った。男が前へつんのめり、駆け寄った仲間と肩をぶつける。
二人が足を止めた隙に、キュウさんは地面へ手を伸ばした。
「さて。いつまでも遊んでられないねえ」
立ち上がった手のひらに、青い光が灯った。
光は渦を巻き、キュウさんの肩幅を越えて膨れ上がる。それでも止まらず、頭上へ高くせり上がった。彩心は顔を仰向け、後ずさった。青い火の玉は、もう人一人を丸ごと呑み込めるほどになっていた。
男たちも動きを止めていた。
「おい、あれ……」
「これで、とどめといこうか」
キュウさんが手のひらを二人へ向ける。巨大な球の表面を炎が走り、男たちの顔を青く照らした。
「逃げるなら、今のうちだよ」
一人が後ずさった。それを見たもう一人も、ナイフを構えたまま足を引く。
キュウさんが一歩進むと、二人は背を向けた。崩れた木を蹴散らし、互いを押し退けながら通りの向こうへ走っていく。
彩心はその背中が角を曲がるまで、息を詰めて見ていた。
「……行きました?」
「行ったねえ」
キュウさんが大きく息を吐いた。
頭上を覆っていた光が消える。手のひらに残ったのは、指で摘まめるほどの石だった。
「……石?」
「まあ、嘘なんだけどねえ」
石を軽く放り上げ、受け止める。
「狐化粧。ちょいと見栄えをよくしただけさ」
「さっきの、全部ですか?」
「こんな石ころでも、怖そうに見えれば逃げてくれる。助かるねえ」
彩心は石と狐面を見比べた。あんなに慌てて頁を捲っていた自分が、急に恥ずかしくなる。
「私、オモイカネさんが危ないと思って……」
「ああ。だから、守ってくれたんだろう?」
キュウさんは石を道の端へ置いた。
「ありがとうね、彩心」
返事をしようとした途端、膝から力が抜けた。しゃがみ込んだ彩心の手の中で、ライラックが揺れる。
「木、おっきかったね!」
「……うん」
「火も飛んだ!」
「うん……飛んだね」
筆を握る指は、まだ震えていた。
「彩心」
顔を上げると、凪が店から出てきていた。彩心の前で足を止め、しゃがみ込む。
「……怪我は?」
「してない、です」
答えてから、自分の手や膝を確かめた。どこも痛くはない。ただ、立ち上がろうとしても、足にうまく力が入らなかった。
「中の人たちは……」
「美晴が見てる。大きな怪我は、なかった」
「よかった……」
息を吐くと、握り締めていたスケッチブックの角が膝に当たった。表紙が濡れて、少し反っている。
「ほら。いつまでも、そんなところに座ってるんじゃない」
聞き覚えのある声に振り向いた。
店から出てきたオモイカネが、濡れた白い袖を絞っていた。彩心は隣のキュウさんを見て、それからもう一度、白いスーツを見た。
「本当に、中にいたんですね」
「当然だ。俺が二人もいては、世界の方が持て余す」
「机の下にいたくせにねえ」
「最も安全な場所を選んだと言ってくれ」
彩心の口から、短い笑いが漏れた。笑えたことに、自分で少し驚いた。
凪が手を差し出す。
「立てそう?」
「……はい」
その手を借りて立ち上がると、膝が一度揺れた。凪は彩心が姿勢を戻すまで、手を離さなかった。
*
店の片づけと客への対応を終え、ようやく一息つけたのは、少し経ってからだった。
濡れた席は使えず、一同は店先のベンチへ場所を移した。凪の隣で、彩心が借りたタオルを膝に広げている。ライラックを拭く手つきは、もう落ち着いていた。
「さっきの人たち……また来るんですか?」
「今のところ、戻ってくる様子はない」
オモイカネが答えた。
「俺の目は全てを見通す。そう、この俺が守護する埼玉県の全てをな」
「全部、見えるんですか?」
「正確には、私を中心にした一定の範囲だよ」
美晴が補足した。
「その中なら、離れた場所も見られるの」
「美晴。今は俺が説明している」
「全部って言うから」
「細部に拘るな。俺の目が届く限り、連中が戻れば分かる。安心して休むといい」
彩心は少しだけ肩を下ろした。
「オモイカネさんのこと、嫌ってましたよね」
「ああ。連中にとっては、知られたくないことまで見える俺が邪魔なのさ」
「……ああいう人たちとも、関わるんですね」
彩心はライラックを膝に寝かせた。
「さっき、木が切られた時、ナイフが返事したんです。あれも付喪神なんですよね」
「そうだよ」
キュウさんが頷く。
「持ち主の言うことを聞いてくれるからって、いいことに使うとは限らないのさ」
彩心は赤い軸に指を添えた。ライラックが筆先を持ち上げる。
「木、こわれちゃったね」
「……うん」
「次は、もっと大きくしようね」
彩心はすぐには答えず、その筆先を見つめていた。
「そうだね。でも、今はちょっと休もう」
「はーい」
ライラックが膝の上に戻る。
「怖かったよね」
美晴が彩心の隣へ腰を下ろした。
「私も、最初から平気だったわけじゃないよ」
「美晴さんもですか?」
「うん。カネちゃんに会う前なんて、もっと怖がりだったし」
美晴はオモイカネのサングラスを指さした。
「あれ、もともと私のなの」
「そうなんですか?」
「外に出る時、かけてたんだ。人と目が合うの嫌だったから」
凪はオモイカネへ目を向けた。初めて会った時からかけていたサングラスを指で押し上げる。
「世界を見るための目を、わざわざ覆っていたんだ。まったく、勿体ない話だろう」
「カネちゃんはそう言うけど、私には必要だったの」
美晴は困ったように笑った。
「かけてると、少し安心できたから。向こうから目が見えにくいだけでも、違うんだよね」
彩心は美晴の顔を見ていた。
「今は、かけなくても大丈夫なんですか?」
「うん。でも、この子が喋った時はびっくりしたよ。人と話すのも苦手なのに、今度はサングラスまで喋るんだもん」
「持ち主のために声をかけてやったというのに」
「いきなり全知全見とか言い出すから、怖かったんだよ」
彩心が小さく笑った。オモイカネは不満そうに腕を組む。
「それから、少しずつ話すようになったの。最初は家の中で。慣れたら、外でも」
「俺がどれほど辛抱強く付き合ったことか」
「うん。そこは、ありがとう」
素直に返され、オモイカネは一度口を閉じた。それから、わざとらしく咳払いをする。
「当然だ。俺ほどの付喪神ともなればな」
「怖いのが全部なくなったわけじゃないけどね」
美晴は膝の上で両手を重ねた。
「外で何かあっても、カネちゃんに聞けるから。分からないまま怖がってることは、前より減ったと思う」
「それで、今は人を守る側なんですね」
「まだ、助けてもらうことも多いよ。今日だって、凪ちゃんたちがいてくれたし」
美晴に目を向けられ、凪は首を横に振った。
「私も……美晴がいたから」
その先をうまく繋げられずにいると、美晴が頷いた。
「うん。お互いに、だね」
彩心は膝の上のライラックを見下ろしていた。指で軸を撫でると、筆先が小さく揺れる。
「この子とも、そうなれるのかな」
「なるとも」
オモイカネが即答した。
「ただし、黙って眺めているだけでは始まらんぞ。大いに話せ。何せ、返事をする筆なんだからな」
「おはなし、好き!」
ライラックが跳ねた。彩心が両手で受け止める。
「……うん。知ってる」
そう答えた声には、少し笑いが混じっていた。
「さて。今度こそ、本題に戻ろうじゃないか」
キュウさんの言葉に、凪は顔を上げた。
「九十九神の件、聞かせておくれ」
「九十九神?」
彩心が聞き返すと、キュウさんはそちらへ向き直った。
「ああ、そっちもまだ話してなかったねえ。昔、旅をしながら付喪神を調べて、帳面に書き残した術師がいたのさ。そこに載ってる九十九体を、九十九神と呼んでるんだよ」
「付喪神とは、違うんですか?」
「付喪神の中でも、とりわけ強大だったり、厄介な力を持っていたりする連中だ。わざわざ記録を残すだけの理由があったということだな」
オモイカネが続けると、彩心は膝の上のライラックを見た。
「じゃあ、この子も、いつか載ることがあるんですか?」
「新しく見つかった奴を書き足してるわけじゃないからね。あくまで、その術師が記した九十九体さ」
「なるほど……」
「私らは、ある理由があって、その連中を探してるんだよ」
彩心が凪を見る。凪も頷いた。
「それで、オモイカネに……見つけたら、教えてもらってる」
「君たちだけで探していては、いつまでかかるか分からんからな」
オモイカネが腕を組んだ。
「感謝するがいい。今回は長野だ。九十九神帳、八十三番――大陀羅踏地。器物は鍬だ」
凪はその名を口の中で繰り返した。キュウさんと目が合い、小さく頷く。
「でも、長野のことも分かるんですか?」
彩心が尋ねた。
「見えるのは、美晴さんの周りなんですよね?」
「俺の力が、この目だけだと思ったか?」
オモイカネが得意げに顎を上げた。
「各地に知己を持ち、情報を集め、必要な相手へ繋ぐ。それもまた、この俺の偉大さだ。長野にも、話を通せる相手くらいいる」
「カネちゃん、知り合いは多いんだよ」
「『は』とは何だ。美晴」
「褒めてるよ」
「ならば、もっと堂々と褒めるといい」
彩心が小さく笑ってから、キュウさんへ目を戻した。
「その、大陀羅踏地さんも、危ないんですか?」
「まだ、そうとは決められないねえ」
「でも、厄介な力を持ってるんですよね?」
「力が厄介なのと、持ってる奴が悪いのは別さ。さっきのナイフだって、木を切る力だけなら、人を助けるのにも使えるだろう?」
彩心は少し考え、頷いた。
「九十九神も、みんな悪い付喪神ってわけじゃないんですね」
「そういうこと。会って話せる相手なら、まずは話してみるさ」
「番号は、強さの順番ですか?」
「いや。帳面に記された順だ」
オモイカネが答えた。
「八十三番だから八十二番より弱い、などと思うなよ。数字だけ見て相手を侮るのは愚か者のすることだ」
「そんなことは思ってないですけど……」
「会ってみなきゃ分からないことが多いんだよ」
キュウさんが口を挟んだ。
「帳面は手掛かりにはなる。でも、書かれた頃と今とで、変わってることもあるからねえ」
彩心はライラックを撫でながら、しばらく黙っていた。
「……色んな付喪神がいるんですね。まだ、この子と皆さんに会っただけなのに」
「知りたくなったか?」
オモイカネの問いに、彩心はゆっくり頷いた。
「怖いのも、ありますけど。でも、もっと知っておきたいです」
「結構。その筆と付き合うにも、無駄にはならん」
凪は隣のライラックへ目を落とした。彩心の指にじゃれつくように、筆先が揺れている。
その動きを見届けてから、オモイカネへ向き直った。
「……ありがとう。大陀羅踏地のこと、詳しく聞かせて」
*
骨董屋へ戻ると、凪は入口の札を裏返した。
今日はもう、店を開ける気にはなれなかった。カウンターの奥へ回り、濡れた袖口を引っ張る。乾きかけた布が、まだ少し肌に張りついていた。
「先に着替えておいで。風邪をひくよ」
キュウさんに頷き、階段へ向かおうとしたところで、彩心に呼び止められた。
「あの、凪さん」
振り返ると、彩心は店の入口近くに立ったままだった。両手で抱えたスケッチブックの上に、ライラックを寝かせている。
「……どうしたの?」
「お願いが、あるんです」
凪は階段から手を離した。
彩心は一度スケッチブックへ目を落とし、それから顔を上げる。
「ここに、住まわせてもらえませんか」
「……住む?」
「はい。昨日だけじゃなくて、その……これからも」
凪はキュウさんを見た。狐面はこちらを向いていたが、代わりに答えてはくれなかった。
「帰るところがないから、というのもあるんですけど」
彩心が続けた。
「私、この子と一緒にいたいんです。でも、今日みたいなことがあったら、一人でどうにかできるとは思えなくて」
ライラックがスケッチブックの上で動いた。彩心は落ちないよう、指を添える。
「それに、もっと知りたいです。付喪神のことも、この子に何ができるのかも。ここにいたら、教えてもらえるかなって……」
凪は彩心の手元を見た。スケッチブックの端がふやけ、頁の間に細かな木屑が挟まっている。
昨日は、絵筆が喋ることにすら怯えていた。その子と離れたくないと言って、今日は外まで追いかけていった。
「お店も手伝います。掃除とか、ご飯とか。できることはするので」
「ご飯……」
「朝、少し見せてもらったので。どこに何があるかも、覚えます」
「そりゃ助かるねえ」
キュウさんが口を挟んだ。
「凪にも、少しは人と暮らす練習をしてもらいたいし」
「……私の練習?」
「お前さんは、もう少し人に慣れなきゃね」
否定しようとして、凪は黙った。今も、彩心に何と答えればいいか考え込んでいる。
泊めるのとは違う。
朝起きたら誰かがいて、食卓を囲んで、店を閉めてもまだ一緒にいる。どこまで話しかければいいのか。黙っていたい時は、どうすればいいのか。
「……話すの、得意じゃないけど」
ようやく出た言葉に、彩心が瞬いた。
「はい」
「返事、遅かったりするけど.....別に、嫌なわけじゃなくて」
「……あ、そうだったんですね」
彩心が少し笑った。
「途中から、私、何か変なこと言ったかなって思ってました」
「言ってない」
今度はすぐに答えられた。
「それは、ない」
彩心の肩が下がる。凪も、握っていた袖口を離した。
「部屋は……昨日のところで、いい?」
「え」
「ほかは、物を置いてるから。片づけるまでは、そこしかないけど」
「いいんですか?」
凪は頷いた。
「私も、分からないことはあるから。全部、教えられるわけじゃないけど」
「はい」
「それでもよければ……一緒に、調べればいいと思う」
彩心はしばらく凪を見つめ、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
スケッチブックが傾き、ライラックが転がりかける。彩心が慌てて抱え直すと、腕の中から声が上がった。
「ここで住むの?」
「うん。これからは、凪さんたちと一緒に暮らすんだよ」
「やった!」
「賑やかになりそうだねえ」
キュウさんが言った。
凪は頷きかけて、彩心へ向き直った。
「……よろしく」
「はい!」
彩心はライラックを抱え、凪の後を追った。
これから世話になるのだから、できることは手伝おう。
どちらがどちらの世話になるのか、この時の彩心たちはまだ知らない。
家事分担割合
彩心 6
キュウさん 3
ライラック 0.7
凪 0.3




