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壱 なんで...

 


「なんで……なんで!」


 椅子の脚に踵が引っかかった。よろけた身体を机の縁にぶつけ、少女はどうにか踏みとどまった。

 さっきまで描いていた青空から、白いものが溢れていた。最初は、絵の具が滲んだのだと思った。けれど、それは紙の縁を越え、机から床へ流れ落ちた。今は足首まで白く覆われている。

「何、これ……」

 恐る恐る足を引くと、白い靄(もや)がまとわりついた。冷たい。

 雲。そんな言葉が浮かんで、すぐに打ち消した。絵から雲が出てくるわけがない。

 机の上で、かたりと音がした。

 置いたはずの赤い筆が転がっていた。机の端まで来ると止まり、今度は反対へ動く。少女は息を止めた。筆先が、ゆっくりと持ち上がった。

「……え?」

 赤い軸が跳ねた。ぱしゃり、と青い飛沫が頬に当たる。思わず目を瞑ると、何かが倒れる音がした。続いて、水が床へこぼれる音。

「ちょっと、待って……!」

 手を伸ばしかけたところで、赤い筆がこちらを向いた。

 指が止まる。目なんて、どこにもない。それなのに、今、目が合った気がした。

 筆がこちらへ跳ねた。

「来ないで!」

 腕で顔を庇い、後ずさった。足元で何かを蹴ったが、確かめる余裕はなかった。背中が扉にぶつかる。手探りで取っ手を掴み、開いた隙間へ身体を滑り込ませた。

 廊下へ出て扉を閉めても、取っ手から手を離せなかった。

 向こうで、こつん、と小さな音がした。

 少女は弾かれたように手を引いた。そのまま玄関へ駆け込み、靴に足を突っ込む。踵を踏んだまま外へ飛び出し、階段を駆け下りた。

 背後で扉が閉まる音がしても、振り返れなかった。


 *


 店の奥で、狐面をつけた女が帳面に向かって頬杖をついていた。先ほどから同じ行を何度も目で辿っている。

「お前さん」

 ゆったりとした声が、顔を覆う面からした。

「……起きてる」

 女は顔を上げずに答えた。こちらは若く、少し眠たげな声だった。

「寝てるとは言ってないよ。昼は食べたのかい」

 壁の古時計を見上げる。とっくに昼を過ぎていた。店を開けてから、客は一人も来ていない。食事を取る時間なら、いくらでもあった。

「あとで食べる」

「さっきも聞いたねえ、それは」

「今、ちょうど区切りが悪くて」

「同じところを読んでるだけじゃないか」

 図星だった。女は帳面に目を落とす。言い返す言葉を探していると、店の戸が開いた。

「あの……すみません」

 肩が跳ねた。慌てて帳面を閉じ、カウンターの下へしまう。

「い、いらっしゃい、ませ……」

 戸口には、若い女性が立っていた。肩が小さく上下している。頬には青い汚れがつき、手にも何色もの絵の具が残っていた。

「こちらって、その……変なことの相談も、聞いてもらえるって」

「あ……え、と」

 客だ。しかも、相談があるという。

 女は腰を浮かせたものの、次の言葉が出てこなかった。

「ええ、聞いてるよ。まあ、こちらへおいで」

 面から落ち着いた声が答える。女はそれに合わせ、カウンターの前を手で示した。

 女性は少し首を傾げてから、店へ入ってきた。不揃いの湯呑みや皿が並ぶ棚の前で歩みを緩め、丸い茶釜へ目を留める。壁際には、色の褪せた和傘が立て掛けられていた。

 女はカウンターの内側に立ったまま、客が品物の間を抜けてくるのを待った。

「それで、何があったんだい」

 女性がカウンターの前に立つと、面の声が続きを促した。

「筆が、勝手に動いたんです」

「ほう」

「それだけじゃなくて、描いてた絵から、雲みたいなのが出てきて。部屋中、真っ白になっちゃって……」

 女性は絵の具のついた両手を見下ろした。

「すみません。自分でも、変な話だと思うんですけど」

「構わないよ。続けてごらん」

「疲れてるのかなって、最初は思ったんです。でも、触ったら冷たくて。筆まで飛び跳ねて、こっちに来て……怖くなって、逃げてきました」

 女は、頬についた青い汚れから、両手へと目を移した。見えるところに傷はなさそうだった。

「怪我はなかったかい」

「はい。ちょっと、机にぶつかっただけです」

「そうかい。その筆は、今も部屋に?」

「多分……置いたまま、出てきちゃったので」

「ほかに誰かいる?」

「いません。一人暮らしです」

 女はカウンターの下から紙と鉛筆を取り出した。筆、雲、と聞こえてきた言葉を書き留める。

「その筆は、昔から使っているものかい」

「はい。小さい頃にもらった筆です」

「なるほどねえ」

 長く使われてきた筆。勝手に動いたという話だけなら、心当たりはある。けれど、絵から雲が出たというのは、実際に見てみたかった。

「あの……信じてくれるんですか」

 鉛筆を止め、顔を上げる。女性は返事を待つように、こちらを見つめていた。

「頭から嘘だと決めつけるなら、こんな相談は受けてないよ」

 女性の肩から、少し力が抜けた。

「……よかった」

「ただ、詳しいことは見てみないと分からない。よければ、その部屋へ案内してもらえるかい」

「来てくれるんですか?」

「そのつもりだよ」

 女も小さく頷いた。

「ありがとうございます。あの、私、藤花彩心(ふじはな いろは)といいます」

 彩心が頭を下げる。

「こっちは――」

「し、東雲(しののめ)……凪(なぎ)、です」

 面が続けるより先に、どうにか自分の名前を口にした。声が少し大きくなり、凪はカウンターの陰で指を握り込んだ。

「よろしく、お願いします……」

「こちらこそ、よろしくお願いします。東雲さん」

 彩心は顔を上げた。何かを確かめるように狐面を見つめ、わずかに首を傾げる。

 凪は返事をしようとしたが、その視線が気になって言葉に詰まった。代わりに小さく頭を下げ、カウンターの下から店の鍵を取り出した。

 凪は店の戸を閉め、鍵を掛けた。彩心は数歩先で待っていたが、目が合うと軽く頭を下げた。


「あの、こっちです」

 頷いて、その隣を歩き出す。何か話した方がいいのだろうか。部屋までどのくらいか、聞いておくべきだったかもしれない。

 迷っているうちに、面から声がした。

「そういえば、うちの店は誰かに聞いたのかい」

「大学で、噂になってたんです。怪奇現象を解決してくれる骨董屋があるって。場所も、大体は聞いてて……」

 彩心は頬についた絵の具を指で擦った。

「まさか、本当に行くことになるとは思いませんでしたけど」

 凪も、大学で噂になっているとは思わなかった。怖いもの見たさの客まで来るようになったら、どうしよう。

「それは、災難だったねえ」

「はい……でも、来てもらえてよかったです」

 彩心の歩調が少し速くなった。凪も遅れないように足を動かした。


 案内されたのは、二階建てのアパートだった。彩心は階段を上り切ったところで足を止め、自室の扉を見た。

「ここかい」

「……はい」

 彩心が鍵を取り出した。鍵穴の前で一度手を止めてから差し込み、ゆっくりと回した。

 扉を細く開け、その隙間を覗き込む。凪も肩越しに中を見た。玄関では靴が一足、横倒しになっていた。

「部屋は、奥です」

 靴を脱いで上がると、廊下の先にある扉の下から、白い靄が漏れ出していた。彩心はその手前で立ち止まった。

 部屋の中で、何かが倒れた。

 彩心の肩が強張る。凪は彼女の横へ進み、取っ手に手を掛けた。

「ゆっくりだよ」

 面の声に頷き、少しずつ扉を開いた。


 白い靄が足元へ流れ出した。絵の具の匂いがする。

 部屋に踏み込むと、床に散らばった紙が靴下に触れた。足の置き場を探しながら、凪は目を凝らした。机の上では筆洗が倒れ、青く濁った水が縁から滴っていた。壁には赤や黄色の飛沫までついている。

「さっきより、ひどくなってる……」

 戸口から彩心の声がした。

 机の向こうで、赤いものが動いた。

 細い筆が宙に浮いていた。筆先を振るたびに絵の具が飛び、床や壁へ散っていく。

「あっ、それです!」

 彩心の声に、筆が跳ねた。青い飛沫が凪の面を掠める。筆はそのまま机の上を飛び回り、紙の上に太い線を引いた。

 白い靄が揺れ、筆の姿を隠した。

「……キュウさん」

「ああ。まずは、動きを止めてやろう」

 凪は面に手を添えた。

「やるよ、九尾の面」

「任せな」

 髪の間から、一対の狐耳が現れた。背には尻尾が伸び、その先端に、節のある緑の竹の模様が浮かび上がった。

「え……?」

 彩心の声が聞こえたが、凪は机から目を離さなかった。

「管狐(クダギツネ)」

 一匹の狐が、凪の傍らに姿を現した。

 狐は机へ飛び乗った。靄の中から赤い筆が飛び出し、青い絵の具を撒き散らす。狐は身を低くして避け、机の端を蹴った。

 宙を逃げる赤い軸を、その口が捉えた。

 狐は床へ降りると、凪の足元まで戻ってきた。咥えられた筆は身を捩り、先端から青い雫を落としていた。

 凪はしゃがんだ。

「ありがとう。少し、そのままで」

 狐が伏せる。凪は筆へ顔を近づけすぎないよう、膝一つ分の距離を空けた。

「嫌なことはしないから。少し、お話ししよう」

 筆はなおも動いた。赤い軸が左右に振れ、床に点々と色が散る。

 凪は手を出さず、待った。

「あの……東雲さん」

 振り返ると、彩心が凪の頭の上を見つめていた。その視線が、背後の尻尾へ移る。

 説明をしていなかった。

「あ……これは、その」

「驚かせて悪かったね」

 面から声がした。

「キュウと呼んでおくれ。凪がつけている、この面だよ」

 彩心の視線が、狐耳から面へ下りた。

「お面が……喋ってるんですか」

「そういうことさ。物だって、長く使われ、想いを重ねられれば、魂が宿ることがある。自分で動いて、喋るようにもなるんだよ」

 彩心が、狐に咥えられた筆を見た。

「じゃあ、あの筆も……?」

「おそらくね。私らは、付喪神と呼ばれてる」

 筆が身を捩った。青い雫が凪の指先に落ちる。

「……まだ、何が起きたか分かってないのかも」

「そうだね。まずは、こっちの話を聞いてもらおうか」

 凪は筆へ向き直った。

「ここにいるよ。聞こえる?」

 筆先が動いた。今度は絵の具を撒くのではなく、ゆっくりと持ち上がった。

「うん。こっち」

 凪が声をかけると、筆先がその顔へ向いた。

 赤い軸はまだ時折揺れたが、振り回すほどではなくなっていた。凪は狐の頭へ手を置いた。

「少し、緩めてあげて」

 狐が口を緩めた。筆が浮き上がりかけ、また止まる。

 凪はその動きを見守った。

「大丈夫。急がなくていいから」

 やがて筆先から落ちる雫が途切れた。狐が口を開くと、赤い筆はゆっくりと宙へ浮かび上がった。

 逃げてはいかなかった。凪の顔の前で止まり、狐面を窺(うかが)うように傾いた。

「……こんにちは」

 凪が言うと、筆が少し下がった。そのまま彼女の肩越しに向きを変える。

 戸口には彩心が立っていた。両手を胸の前で握り、筆を見つめている。

「……なんで、逃げちゃったの」

 すぐ傍で、子供の声がした。

 彩心の手が、胸元で止まった。

「……喋った」

 絵筆は凪の肩越しに浮いたまま、彩心へ先端を向けていた。

「ねえ。なんで?」

 返事をせがむ子供の声が、絵筆からした。

「それは……」

 彩心が一歩下がる。絵筆がその後を追おうとしたので、凪は二人の間へ手を差し出した。

「待って。ここからでも聞こえるよ」

 赤い軸が止まった。凪は絵筆の前に手を置いたまま、彩心へ顔を向けた。

「逃げた理由を、教えてあげて……」

 彩心と目が合った。言い方が馴れ馴れしかった気がして、凪は視線を下げた。

「もらえ、ますか」

「……はい」

 彩心は頷き、絵筆へ向き直った。

「びっくりしたの。急に動くし、絵の具も飛んでくるし」

「動いちゃ、だめ?」

 絵筆が凪の手の向こうで傾いた。

「駄目っていうか……動くと思ってなかったから」

「そっか」

 絵筆は少し下がった。凪は手を引いたが、まだ二人の間に立っていた。

「いなくなっちゃったから、探した」

「……私を?」

 彩心が尋ねると、絵筆は先端を上下させた。

「うん」

 凪は廊下へ通じる扉を見た。彩心が押さえていたという向こう側で、この絵筆も待っていたのだろうか。

「ごめん。怖くて」

 彩心の声に振り返る。彼女は両手の指を擦り合わせながら、絵筆を見ていた。

 絵筆が彩心へ近づきかけ、凪の横で止まった。

「また、逃げちゃう?」

 今度は追いかけず、答えを待っていた。

 彩心は口を開き、一度閉じた。凪も黙って待った。

「……今は、逃げない」

 その返事に、絵筆が小さく浮き上がった。彩心が後ずさらないのを確かめてから、凪は半歩横へ退いた。


 白い靄は、まだ床の近くに残っていた。凪は机を振り返った。青空の絵から、薄い雲が縁を越えて流れ出している。

「この雲も、君が出してるの?」

 絵筆が凪の向いた方へ進み、紙の上で止まった。

「空、描いてたから」

「そっか。これは止められるの?」

 絵筆は紙の上を行き来したが、雲は流れ出したままだった。

 凪はしゃがみ、その動きを目で追った。生まれたばかりでは、自分が何をしているのかも分からないのかもしれない。

「絵筆さん、もう描き終わったって、思ってみて。これでもう、おしまい」

 先端が紙へ下りかけたので、凪は手のひらをそっと近づけた。

「描かなくていいよ。少し休もう」

 絵筆は宙に留まった。凪の手に触れることはせず、その上でじっとしている。

 雲はまだ出ていたが、しばらく待つうちに、紙の縁で細く途切れた。床を覆う靄も、少しずつ向こうが透けてきた。

 凪は息をついた。

「……そう。それでいい」

 足元の狐へ目を向け、頭を一度撫でる。

「ありがとう。もう大丈夫」

 管狐を解くと、狐の姿が消えた。頭の耳も背の尻尾もなくなり、凪はようやく立ち上がった。


 彩心が机へ近づいてきた。足元の紙を拾いながら、壁についた色を見上げる。

「これ、どうしよう……」

「……まず、絵筆さんを置くところを」

 凪が言い終える前に、赤い絵筆が彩心の前へ浮かんだ。

「また描く?」

「今は片付けるの」

「なんで?」

「なんでって……床も壁も、絵の具だらけだから」

 彩心は手にした紙を机へ置こうとした。端が水に濡れ、青と赤が滲んでいる。少し眺めてから、ほかの紙とは分けて脇へ寄せた。

「あ、それ、捨てちゃう?」

 絵筆がその紙の上へ移った。

「……うん。失敗したやつだし」

「赤いとこ、きれいなのに」

 絵筆の先端が、紙の隅を指した。彩心はそこを見た。赤が水に広がり、薄い桃色になっている。

「そう、かな」

「うん」

 絵筆は答えると、机の青空へ向き直った。

「こっちも好き」

「……これも、うまくいかなかったんだけど」

「空なのに?」

 彩心が黙った。

 凪には絵の良し悪しは分からなかった。ただ、絵筆は紙の上をあちこち移動し、青い部分と白い部分を順番に眺めていた。

「ここも。ここ、白いの」

「雲だよ」

「くも」

 確かめるように繰り返し、絵筆は彩心の方へ戻った。

「また描こうよ」

 彩心は口元を緩めたが、すぐに目を伏せた。

「……片付けてからね」

 脇へ寄せた紙を、丸めはしなかった。


「東雲さん」

 呼ばれて、凪は背筋を伸ばした。

「この子、ずっと、このままなんですか」

 絵筆が彩心の傍らに浮いていた。先ほどより落ち着いているが、置いてあっただけの道具には、もう見えなかった。

「喋ったり、動いたりするのは……これからも」

 凪は彩心へ顔を向けた。彼女は真っ直ぐこちらを見て、続きを待っていた。

「その、続く、と……思い、ます」

 語尾が小さくなった。説明しなければと思うほど、言葉が出てこない。凪は面の縁へ指を添えた。

「生まれた魂を、なかったことにはできないね」

 凪に代わってキュウが答える。

「ただ、困ったことがあれば、またおいで。今日みたいに、話を聞くくらいはできるからね」

 彩心は傍らの絵筆を見た。絵筆もそちらへ向き直ったが、今度は近づかなかった。

「……ありがとうございます。また、相談させてください」

 彩心が頭を下げる。凪も慌てて頭を下げた。

「は、はい」

 彩心は少し迷ってから、絵筆へ手を差し出した。

 赤い軸が、その手の上へゆっくりと下りる。彩心の指が一度強張(こわば)り、それから、いつもの持ち方で絵筆を支えた。

「絵の具、出さないでね」

「うん」

 絵筆の返事を聞いてから、凪は床に散らばった紙を一枚拾い眺めた。


 店へ戻る頃には、空が薄暗くなっていた。

 凪は戸を開け、カウンターの内側へ戻った。袖口についた青い絵の具を指で擦る。乾いてしまったらしく、少しも落ちなかった。

「あの子、ちゃんと暮らしていけるかねえ」

 面から声がした。凪は手を止めた。

「絵筆さん?」

「どっちもさ」

 帰り際、彩心は絵筆を机に置こうとしていた。けれど、手を離すとすぐに浮き上がってしまい、何度も同じことを繰り返していた。

 凪たちが玄関へ向かう時も、部屋の中から「今は描かないってば」と声が聞こえていた。

「……また来てもいいって、言ったし」

「そうだね」

 凪はカウンターの下から帳面を取り出した。

 古い表紙に手を置き、角を傷めないように開く。そこには、道具の名と、その力についての記述が並んでいた。

 九十九神帳(ツクモノガミチョウ)。

 かつて一人の術師が、九十九体の付喪神を書き記したものだ。

 凪は何度も読んだ頁を繰った。まだ会ったことのない名が続く。その一つ一つを、自分の目で確かめる。それが、今の凪の目的だった。

「今日は、もういいんじゃないかい」

「ちょっとだけ」

「昼にも聞いたよ、それは」

 指が止まった。

「……ご飯、食べる」

「ようやく思い出したか」

 凪は帳面を閉じた。けれど、しまおうとした手を止め、面へ指を添えた。

「キュウさん」

「なんだい」

「私、今日ちゃんと話せてた?」

「絵筆とは、よく話してたね」

「……彩心さんとは?」

「お前さんが一番すらすら喋ったのは、私らが二人きりになってからだよ」

 凪は肩を落とした。

 話しているつもりだった。けれど、思い返してみると、彩心から質問されるたびにキュウへ頼っていた。

「……名前は、自分で言えた」

「ああ。それはよかったよ」

 少しだけ顔を上げると、キュウの声が続いた。

「お前さんは、もう少し人に慣れなきゃね」

「分かってるけど……」

「今日みたいに話す機会があれば、少しずつ慣れるさ」

 凪は返事をせず、帳面をしまった。

 次に客が来たら、せめて最初の挨拶くらいは、きちんと言おう。そう思いながら、店の戸口へ向かう。外へ出している札を裏返そうとしたところで、硝子越しに人影が見えた。

 彩心だった。

 凪は思わず壁の時計を振り返った。帰ってきてから、まだ大して経っていない。

「あの……すみません」

 戸の向こうで彩心が頭を下げる。凪は急いで戸を開けた。

「ど、どうか、しましたか」

 彩心は肩に大きな鞄を掛け、片手には紙袋を提げていた。その傍らには、赤い絵筆が浮いている。

「おや。随分、荷物が多いね」

 キュウの声に、彩心が鞄を掛け直した。

「大家さんが来て……前から、部屋の使い方で注意されてたんですけど」

 彩心は俯き、紙袋を持つ手に力を込めた。

「絵の具の匂いとか、物音とか。今日は、窓の外まで白くなってたって……」

 凪は絵筆を見た。絵筆は紙袋の持ち手をつつき、楽しそうに揺らしていた。

「それで、その……追い出されました」

「……え」

「急にすみません。でも、ほかに頼めるところが思いつかなくて」

 彩心が顔を上げた。

「今夜だけでも、泊めてもらえませんか」

 凪の手が、戸を握ったまま固まった。

 話す機会。人に慣れる。ついさっき聞いた言葉が、頭の中を巡った。

「ここ、泊まるの?」

 絵筆が彩心の顔の前へ浮き上がった。

「まだ、お願いしてるところ」

「お泊まりかい。いいじゃないか」

 面から、弾んだ声がした。

 凪は面へ手を添えた。何か言おうとしたが、彩心がこちらを見ていた。

「……駄目、ですか?」

 駄目ではない。困っているなら助けたい。

 けれど、今日は人と話した。部屋へも行った。それで精一杯だったのに、今度は自分の家に人が来る。

「凪。まずは中へ入れておあげ。戸を開けたままじゃ寒いよ」

 凪は言われるまま、横へ退いた。彩心が何度も頭を下げながら店へ入り、絵筆がその後をついていく。

「お邪魔します」

 凪は二人を見送り、開いた戸の陰で面へ顔を寄せた。

「なんで、なんで……」

処女作です。

小説家になろうでの投稿は初めてなので、もし間違っている所、変えたほうが良い形式があれば是非ご指摘お願いいたします。

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