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拾陸 叱る声、縋る声

 


 ライラックが、最後の一口を頬張った。

 茶碗に残っていた米粒まできれいに食べ、空になった器を彩心へ見せる。

「ぜんぶ食べた」

「うん。きれいに食べたね」

「お昼、なに?」

「まだ朝ご飯が終わったばかりでしょう」

 笑いながら茶碗を受け取ると、向かいで心叫も顔を上げた。

「何にするんだ」

「心叫さんまで」

 芙梨が隣の男へカンペを向けた。


『気になるなら買い物くらい付き合いなよ』


 心叫は文字を読み、それから彩心へ目を戻した。

「肉にしよう」

「まだ決めませんよ」


 食器を重ねながら、彩心は凪の空いている席を見た。

 朝食の支度を始めた頃には、もう出かけるところだった。玄関まで見送りに行くと、凪は今日も調べることがあるのだと言った。

 いってらっしゃい、と送り出した。それ以上は、何も聞けなかった。


 *


 洗い物を終えて戻ると、芙梨がカンペを持ち上げた。


『昨日のお婆さん、家に戻れたって』


「……自転車の方ですか?」

 芙梨が頷く。続きを書くのを待っていると、こちらへ向けられた頁に文字が増えていた。


『もう落ち着いたみたい。元の持ち主の家族が引き取ってくれたって、連絡が来た』


「よかった……」

 彩心は椅子へ腰を下ろした。

 持ち主がいなくなっても、戻れる家は残っていたのだ。トンネルで倒れた姿ばかりが頭に残っていたが、ようやく、その先を知ることができた。


『ちゃんと止められてたんだよ』


 芙梨の文字を読み、彩心は頷いた。

「はい」


 芙梨がカンペを膝へ戻す。

 その手がスマホへ伸びる前に、彩心は声をかけた。

「あの、芙梨さん。少し、相談してもいいですか」

 顔を上げた芙梨が、ペンを持ち直す。

「昨日、凪さんに言われたんです。今回のことからは、身を引いてほしいって」


 *


 夜の通りには、車の走る音が時折響いていた。

 彩心は店先で、凪と向き合っていた。


「……彩心達は今回のことから身を引いてほしい」


 言われた言葉を、すぐには飲み込めなかった。

「でも、私も」

「強くなったのは、分かってる」

 凪がこちらを見た。

「今日、あの人を止められたのも。……ライラックが人になれたのも、二人で頑張ったからだと思う」


 彩心は口を閉じた。

 食事の席で褒めてくれた声を、まだ覚えている。凪が自分たちのことを認めてくれていないわけではなかった。


「でも、次も間に合うかは……分からないから」

 凪の視線が、彩心の袖へ落ちた。

 トンネルで転がった時についた汚れが、まだ残っていた。


「私、もっとできることを」

「うん」

 短く頷いてから、凪は続けた。

「でも、危ない。今回の相手は」

 その先を少し迷い、それでも言葉を変えなかった。

「……来ないでほしい」


 彩心が何か言う前に、隣からキュウさんの声がした。

「凪も、心配してるんだよ」

 振り向くと、キュウさんは凪へ一度目を向け、それから彩心を見た。

「お前さんたちが頑張ってきたのは、私らも知ってる。だからって、危ないところへ連れていきたいわけじゃないのさ」


 凪は黙っていた。

 返事を急かすこともなく、こちらを見ている。


 彩心は袖口を指で押さえた。

 助けに来てくれた相手へ、次も大丈夫だとは言えなかった。


「……分かりました」


 *


「それで、昨日は……分かりましたって、答えたんですけど」

 話し終えても、芙梨はすぐにはペンを動かさなかった。

 心叫もこちらを見ている。ライラックは彩心の隣で、二人の顔を交互に見上げていた。


「心配をかけたのは分かってます。あの女の人が危ないのも

 彩心は卓上へ目を落とした。

「でも、また何かするって言ってたんですよね。お婆さんみたいな人が、ほかにも出るかもしれないと思うと……」


 芙梨が書いた頁を見せる。


『気になる?』


「はい」

 頷いてから、彩心は続きを口にした。

「戦いに行くんじゃなくて、何が起きてるのか、調べるだけでもできないでしょうか」


 芙梨は文字を眺め、ペンの先を紙へつけた。


『凪に聞いたら、それも駄目って言うと思う』


「……そうですよね」


 了承したばかりなのだ。

 まだ一日も経っていないうちに、こうして相談している。


 けれど芙梨は、カンペを下ろさなかった。書き足された文字が、こちらへ向く。


『私のところにも、調べてほしいって話は来てる』


「サイトに、ですか?」

 芙梨が頷く。


『何もないこともある。でも、送ってきた人は困ってたり、気になってたりするから』


 そこで筆が止まった。

 少しして、もう一行が加わる。


『読んじゃうと、私も気になるんだよね』


 心叫が椅子の背から身を起こした。

「お前も行く気なんだろ」

 芙梨はそちらを見てから、カンペへ書き込んだ。


『調べるだけなら、いいかなって』


「それを俺に言うな」

 否定するような返事ではなかった。

 芙梨は新しい頁を開き、今度は彩心へ向ける。


『怪しかったら引く。分かったことは四十七傑に伝える。戦いには行かない』


 彩心は文字を読み終え、芙梨の顔を見た。

「一緒に、調べてもらえるんですか?」

 芙梨は頷いた。


『私に来た話だから。彩心だけで行かせるわけにもいかないし』


「ありがとうございます」

 そう答えると、芙梨は頁の下へ短く書き足した。


『怒られる時は一緒ね』


 彩心は少しだけ笑い、それから頷いた。

「……はい」


 芙梨がスマホを卓上へ置いた。

 画面の一番上には、山の写真と記事の見出しが並んでいた。


『山の神に会ってみた』


「長野県の話、もう書いたんですね」

 彩心が顔を上げると、芙梨が頷いた。

 写真には見覚えのある山並みが写っている。あの時は、芙梨とこうして朝食を食べるようになるとは思っていなかった。


 ほかにも、古い建物や道具の写真を添えた記事が並んでいた。

「ちゃんと読むの、初めてです」

 彩心が画面を送っていると、芙梨が下の方を指した。


『情報・目撃談はこちら』


 開いた先には、読者が自由に書き込める欄があった。

 古い家から聞こえる足音。夜道で見かけた人影。写真を撮ったら消えていた看板。

 記事の感想に交じって、誰かに話したかったらしい体験談が並んでいる。


「こんなに、来るんですね」

 芙梨がカンペへ書き込む。


『人から聞いた話も多いよ。本当か分からないのもある』


 彩心が読み進めていると、芙梨の指が一つの書き込みで止まった。


『群馬の墓地で、琵琶みたいな音を聞いた人いませんか』


「琵琶……?」

 続きを開く。

 墓参りへ行った帰り、墓石の並ぶ奥の方から弦を弾くような音が聞こえたという。誰かいるのかと覗いてみたが、姿は見つからなかった。


 その下には、自分も聞いたという返事がついていた。

 ただし、書かれている墓地の名前は違っている。さらに別の場所を挙げている人もいた。


「これが、怪しいんですか?」

 芙梨は頷き、カンペを向けた。


『最近の話だし、関東だから』


 彩心は文字を読み、それからもう一度、芙梨を見た。

「……それで?」

 芙梨が短く書き足す。


『今は、それくらい』


 思っていたよりも、手掛かりは少なかった。

 グランギニョルが関東で動いているからといって、ここに書かれた出来事まで関係しているとは限らない。


『最初から分かってたら、調べに行かなくて済むでしょう』


「それは、そうですけど」

 芙梨は頷き、画面に添えられた日付を指した。


『最近の書き込みで、何度か続いてるのはこれ。まず見てみようかなって』


 彩心は内容を読み直した。

 今のところ、音を聞いたという話ばかりだった。誰かが襲われたり、怪我をしたりしたとは書かれていない。


「誰かが、弾いてるだけかもしれませんよね」

『うん。墓地で練習する変わった人かも』


「お前が行けば、話は合うだろうな」

 心叫が口を挟んだ。

 芙梨はそちらを見て、カンペで心叫を叩く。


 彩心は少し笑い、書き込みへ目を戻した。


 芙梨が地図を開く。

 既にいくつか印がついていた。琵琶の音が聞こえた墓地らしい。

 書き込まれた日付と見比べながら、芙梨の指が地図の上を辿る。


『同じ人が移動してるとしたら、次はこの辺かな』


 拡大された先にも、墓地があった。

「ここは、まだ聞こえてないんですか?」

『書き込みはない。だから外れるかもしれないけど』


 彩心は地図を眺めた。

 何もなければ、それで帰ればいい。誰かが弾いているなら、何をしているのか聞いてみる。

 今度は戦うために向かうわけではない。


「……行ってみましょうか」

 芙梨が頷いた。


『いなかったら、近くで話を聞いてみよう』


 隣でライラックが椅子を下りた。

「ぼくも行く」

「うん。一緒にお願い」

 彩心が立ち上がると、心叫も残っていた茶を飲み干した。


 *


 支度には、それほど時間はかからなかった。

 彩心はスケッチブックと画材を鞄へ収め、芙梨は必要な荷物を確かめる。心叫が拡声器へ戻ると、ライラックも筆の姿になって彩心のそばへ浮かんだ。


 電車を乗り継いで群馬県へ入り、目当ての墓地へ着いたのは、まだ明るいうちだった。

 書き込みでは、音が聞こえたのは夕方から夜にかけてらしい。周辺を歩いて様子を確かめ、近くで時間を潰してから戻ってきた頃には、街灯の下まで暗くなっていた。


 昼間には見通せていた墓石の間が、今は黒く沈んでいる。

 彩心は鞄の紐を握り直した。


「……本当に、ここでしょうか」

「違ったら、また探そう。少し待って、何もなかったら今日は帰るよ」


 芙梨は拡声器へ口を寄せ、声量を落として答えた。

 その先を覗くように、ライラックが浮き上がる。


「彩心、こわい?」

「怖くないよ」

「さっきから、ずっと近い」

 筆の軸へ添えていた手に気づき、彩心はそっと離した。

「暗いから。はぐれないようにね」


 墓地の脇には、低い木と茂みが続いていた。

 芙梨がそちらへ入り、彩心を手招く。枝を避けてしゃがむと、葉の隙間から墓石の並ぶ通路が見えた。


「ここなら、向こうからは見えにくそう」

「隠れるんですか?」

「誰かいたら、まず何してるか見たいし」


 彩心も腰を低くした。

 膝のそばで、乾いた葉が鳴る。


 しばらく、何も聞こえなかった。

 通りを走る車の音が遠ざかり、風が茂みを揺らす。墓石の向こうに何か動いた気がして目を凝らしたが、暗くてよく分からない。


 芙梨は落ち着いて待っていた。

 彩心も黙っていようとしたが、背後の物音まで気になって、何度も肩越しに振り返った。


 その時、弦を弾く音がした。


「ひゃあっ!」


 自分でも驚くほど大きな声だった。

 慌てて口を押さえる。芙梨がこちらを向き、ライラックが彩心の肩へ寄った。


 音が止んだ。


「……誰かおるな」


 墓石の向こうから、しゃがれた声がした。

 彩心は口を押さえたまま動けなかった。


 芙梨が葉の隙間から様子を窺う。

 それから彩心へ一度目を向け、静かに立ち上がった。


「ごめん。驚かせた?」

 拡声器を口元へ寄せ、茂みから出る。

 彩心も慌てて後に続いた。


 通路の奥に、老人が座っていた。

 古びた着物の膝へ、琵琶を立てかけている。白く伸びた眉の下から、こちらを見ていた。


「そちらこそ、随分と驚いておったようじゃが」

「急に音がしたから。ここで琵琶を弾いてる人がいるって聞いて、見に来たんだ」

「ほう」


 老人の視線が芙梨から彩心へ移る。

 彩心は頭を下げかけたが、その目が自分の肩のそばで止まったことに気づいた。


「筆に、法螺。なるほど、神者(かんもの)か」


 ライラックが、彩心の肩の陰へ少し下がった。

 芙梨は答えず、拡声器を持つ手を動かした。


「……心叫」

「ああ」


 短い返事が聞こえた。

 芙梨の目は老人から離れない。

 彩心も改めて相手を見た。細い腕に、曲がった背中。昼間、道ですれ違っていたら、気にも留めなかったかもしれない。


 それなのに、芙梨は近づこうとしなかった。


「彩心。少し下がって」

 声を落とした指示に、彩心は一歩後ろへ退いた。


 老人が喉を鳴らして笑った。

「そう構えるでない。客が来るのは久しぶりでな」

「私たちは、音のことを聞きたかっただけなんだ。邪魔したなら、もう帰るよ」

「せっかく来たものを。何も聞かずに帰すわけにもいくまい」


 老人の手が、琵琶の弦へ戻った。

 撥が持ち上がる。


「もてなそう」


 芙梨が踵をずらした。

 彩心も鞄へ手を入れた。


「聞くがいい、儂の演奏――幽冥(ゆうめい)召魂曲(しょうこんきょく)」


 弦が鳴った。


 老人の足元に、白いものが現れた。

 最初は石かと思った。細いそれが折れ曲がり、地面へ指をついたところで、彩心は息を呑んだ。


 骨だった。


 指の骨が土を掻き、腕が起き上がる。その奥に丸い頭が見えた。

 目のない窪みが、こちらを向く。


「……え」


 ひとつではなかった。

 墓石の脇に、通路の先に。白い輪郭が次々と現れ、立ち上がっていく。

 背後で硬いものが触れ合う音がした。振り返ると、出てきたばかりの茂みの前にも、一体が立っていた。


「人か」

「人じゃ」

「さあ、こっちへ」


 歯を剥き出した顎が動いた。

 彩心は後ずさり、墓石へ肩をぶつけた。


「しゃ、喋っ……」

「彩心、前!」


 芙梨の声に振り向く。

 通路を塞いでいた骨が、腕を広げて近づいてきた。


 逃げる道を探しても、白い姿が目に入る。

 彩心は鞄からスケッチブックを引き出した。頁の端を掴み損ね、何枚もまとめてめくってしまう。


「彩心」

 ライラックが手元へ来た。

 その赤い軸を握る。


「……描こう、ライラック」

「うん。大丈夫」


 白い頁へ筆を走らせた。

 尖った耳。長い鼻先。息を大きく吸い込める胸。

 前へ出てもらう。あの骨たちを、吹き飛ばしてもらう。


 伸びてきた骨の指が、頁の向こうに見えた。


「フーフー狼!」


 スケッチブックを前へ向ける。

 紙から飛び出した狼が、彩心と骸骨の間へ四本の脚をついた。


 狼が胸を膨らませた。

 吐き出された風が通路を走り、迫っていた骸骨を巻き込む。白い手足が宙へ投げ出され、後ろにいた骨へぶつかった。


「芙梨さ……!」


 言い終える前に、倒れた骸骨の脇から別の顔が覗いた。

 一体が手をつき、その背を踏んで次の一体が立ち上がる。風で空いたはずの場所が、また白く埋まっていった。


「おお、元気な娘どもじゃ」


 老人が笑った。

 撥が続けざまに弦を打つ。さっきよりも速い。

 その音に合わせて骨の顎が鳴り、足が地面を踏む。墓石の向こうからも、まだ姿が現れていた。


 芙梨が拡声器を握り直した。

「届けて、心叫」

「派手にやれ」


 此処で生きる者の代弁者


 拡声器の筒先が広がる。

 芙梨は彩心の前へ出て、来た道へ向けた。


「退け!」


 空気が震えた。

 正面の骸骨が折れ、その後ろの群れまで押し倒される。砕けた骨が通路へ散り、茂みの葉が激しく揺れた。


「こっち!」


 芙梨の後を追おうとした彩心は、横から伸びた手に足を止めた。

 墓石の隙間から、指が突き出していた。

 その奥にもいる。向こうの列にも。通路を抜けた先でさえ、白い頭がいくつも動いていた。


「……多すぎる」

 芙梨が呟いた。


 老人は弾く手を止めない。

「まだまだ来るぞ。遠慮せず、楽しんでいけ」


 狼が再び風を吐いた。

 彩心へ伸びていた腕が折れ、骨の群れが横倒しになる。その間に芙梨のそばへ走ったが、抜けようとした通路には、既に別の骸骨が入ってきていた。


 後ろから肩を掴まれた。

「ひっ……!」

 振りほどこうとしても、骨の指が服へ引っかかる。


「彩心、動かないで!」


 芙梨が拡声器の向きを変えた。

 短い声が耳元を掠め、肩の向こうで何かが砕ける。

 襟に残った指を払い落とし、彩心は芙梨の背へぶつかるように下がった。


「怪我は?」

「だ、大丈夫です」

 彩心は頷いた。


 狼だけでは追いつかない。

 風を吐く間にも、横から、後ろから近づいてくる。


 新しい頁を開いた。

 丸い甲羅。低い身体。脚は、ちゃんと曲がるように。

 修行中、動かせなくなった亀を思い出しながら、甲羅へ濃く色を重ねる。


「カチカチ亀!」


 二人の横へ紙から亀が飛び出す。

 石のような甲羅へ、骸骨の腕が打ちつけられる。硬い音が重なったが、亀は踏みとどまった。


「ライラック、そっちをお願い!」

「うん!」


 芙梨が反対側へ声を放つ。

 彩心はその間に、もう一枚へ筆を走らせた。


 長い身体を曲げる。巻きついて、離れないように。

 蛇を描いた頁を向けると、細長い影が飛び出した。


「ぐるぐる蛇!」


 蛇は迫っていた骸骨の脚へ絡み、その後ろの一体へも身体を伸ばした。

 まとめて引き倒す。倒れた骨が後続の足を塞ぎ、わずかに動きが鈍った。


 できた。

 次に抜ける場所を探そうとして、彩心は顔を上げた。


 甲羅の向こうから、骸骨が這い上がってきた。


「ライラック!」

「見てる!」


 亀が身体を傾ける。

 背中から滑り落ちた骸骨の腕を、次の一体が踏んだ。甲羅へ指が掛かり、その脇からもう一つ、白い顔が現れる。


 蛇も引かれていた。

 絡め取った骨を避けるでもなく、後ろの群れが踏み越えてくる。押し重なった身体の下で、長い尾が跳ねた。


 減っているはずだった。

 芙梨が声を放つたび、何体も砕けている。狼も何度も吹き飛ばしている。

 それなのに、老人の前にはまだ客が増えていた。


 彩心は頁をめくった。

 何を描けばいい。


 芙梨の声で、通路の先が揺れる。

 その背中を見て、朝の食卓が浮かんだ。


 調べるだけ。

 怪しかったら引く。

 戦いには行かない。


 帰ろうとした時には、もう遅かった。


 凪の言うことを聞いていればよかった。

 昨日、一人で止められたから。褒めてもらえたから。次も何とかできるような気になっていた。


「彩心、下がって!」


 芙梨の腕に押され、彩心は二歩退いた。

 目の前を骨の腕が通り過ぎる。芙梨が身を捻り、その胸へ拡声器を向けた。


「邪魔!」


 骸骨が吹き飛ぶ。

 けれど、芙梨は追わずに足を止めた。横から回り込もうとしていた一体を睨み、彩心との間へ身体を入れる。


 自分が、ここへ来たいと言った。

 芙梨も、心叫も、ライラックも。みんなを巻き込んでしまった。


 筆を握る手が震えた。

 描きかけの線が、思っていたところから外れる。


「彩心」

 手の中から、ライラックの声がした。


 返事をしなければ。

 ライラックは、まだ動かしてくれている。


 彩心は唇を噛み、頁を押さえ直した。


 すぐ向こうで、老人が楽しげに声を上げた。

「よいぞ、よいぞ。宴はまだ始まったばかりじゃ」


 琵琶の音が、また速くなった。


 鳥。熊。虎。

 頭の中で、動物の姿が次々と入れ替わった。

 空へ逃げるには、乗れる大きさが要る。大きな獣で押し返しても、横から来られる。亀の甲羅にさえ這い上がってくるのだ。


 何を描いても、その姿が白い波に呑まれていくところばかり浮かんだ。


 骨が亀の背を越えた。

 芙梨の声で吹き飛ばされる。その隙間から、また別の腕が伸びてきた。


 速いもの。

 捕まる前に、全部を貫いてしまえるもの。


 彩心は筆を走らせた。

 長い脚を描く。首を伸ばし、たてがみへ黄色を重ねる。稲妻の線が、馬の身体を走った。


 これなら。

 昨日も、あんなに速い相手へ追いついた。


 頁を前へ向けかけて、手が止まった。


 出した後は。


 トンネルで立てなくなった時のことが浮かんだ。

 膝に力が入らず、ライラックの声さえ遠くなっていった。

 今、ここで同じことになったら。


 芙梨の背中を見る。

 今だって、自分を守りながら戦っている。


 駄目だ。

 これは、出せない。


 彩心は頁をめくった。

 違うものを描かなければ。倒れずに済むもの。みんなで逃げられるもの。


 足首へ、硬いものが触れた。


「……っ」


 下を見る。

 白い指が、靴と裾の間へ掛かっていた。

 引き抜こうとすると、もう片方の足にも何かが絡む。砕けて地面に伏せていた骸骨が、腕を伸ばしていた。


「芙梨さ……」


 顔を上げた先で、芙梨も腕を掴まれていた。

 拡声器の筒先が横へ逸れている。引き戻そうとした肩へ、別の骨が取りついた。


「離せ!」


 声が響き、数体が崩れた。

 けれど、その向こうから新しい骸骨が寄ってくる。

 芙梨の姿が、白い肩と背中の間へ隠れかけた。


 足を強く引かれ、彩心は膝をついた。

 スケッチブックの角が地面へぶつかる。狼がこちらを向いたが、間に入った骨たちに姿を遮られた。


 終わった。


 そう思った途端、涙が溢れた。


「やだ……」


 目の前で、骸骨が口を開けた。

 頬へ手が伸びてくる。

 彩心は筆を握り込んだまま、反対の手でスケッチブックを振った。


「来ないで!」


 表紙が骨の顔を叩いた。

 顎が跳ね、すぐに戻ってくる。


「来ないで、来ないで……!」


 何度も叩いた。

 頁が折れ、ばらばらとめくれる。涙で何も見えなくなっても、腕を止められなかった。


「いやあっ!」


 目の前で、何かが弾けた。


 スケッチブック越しに、強い衝撃が伝わった。

 骨の顔が消える。

 その後ろにいた骸骨まで、白い欠片を撒き散らして吹き飛んだ。


 彩心は腕を上げたまま固まった。


 琵琶の音が途切れる。

 足首を掴んでいた指が緩んだ。


 涙の向こうに、白い裾が見えた。

 骨の白さとは違う。土で汚れた靴の上で、長い白衣が揺れている。


 彩心は顔を上げた。


 眼鏡をかけた男が立っていた。

 その手には、ひどく大きなハンマーが握られている。


 男は周囲へ目を走らせ、まだ骸骨に囲まれている芙梨を見た。


「そのまま、頭を下げていてください」


 落ち着いた声だった。

 両手でハンマーを持ち直すと、男は骨の群れへ踏み込んだ。


「おお、また客か!」


 老人が嬉しそうに声を上げた。

 撥が弦を打ち、立ち上がった骸骨が男へ向き直る。


「よい晩じゃ。ほれ、お前たちも迎えてやれ」


 白い腕が、何本も伸びた。

 男はハンマーを腰の横へ引き、一歩踏み込む。


 横薙ぎの一振りが、骨の群れを捉えた。


 先頭にいた数体が砕け、その後ろの骸骨へ突っ込んだ。さらに後ろまで巻き込み、通路にいた白い姿がまとめて吹き飛んでいく。

 芙梨を掴んでいた骨も消えた。


 彩心は口を開けたまま、その先を見た。

 何度吹き飛ばしても塞がっていた道が、一振りで開いていた。


「出入り口を塞がれていたんですね」


 男が周囲を見渡す。

 芙梨は肩へ残った骨の手を払い落とした。

「助かった。けど、まだ来るよ」

「ええ。倒した分が補充されている。個々を相手にしていては、脱出前に囲まれます」


 言っている間にも、墓石の向こうから新しい骸骨が現れた。

 男はハンマーを元の位置へ戻す。


「一定数をまとめて排除し、進路を維持する必要がありますね」


 再び、横へ振った。


 さっきよりも遠くまで、骨が飛んだ。

 砕けた腕や肋骨が、奥にいた骸骨の身体を突き抜ける。白い波が大きく崩れ、老人の座る場所まで見通せた。


 彩心は思わず一歩下がった。

 背中が誰かにぶつかり、肩が跳ねる。


「私。大丈夫」

 芙梨だった。


 その袖を掴んだ。

 芙梨も彩心の背へ腕を回し、二人で墓石の脇へ寄る。息を整えようとしても、喉が引きつってうまく吸えなかった。


 目の前で、男が三度目の構えを取る。


「……まだ足りませんか」


 骸骨が通路を埋めようと押し寄せる。

 男はその数を見て、頷いた。


「では、もう少し強く」


 ハンマーが走った。


 風が頬を打った。

 彩心は芙梨の服へ顔を伏せ、すぐに振り返った。


 群れの真ん中に、何もない場所ができていた。

 白い欠片が降ってくる。その向こうで、男はハンマーを持ち直していた。息を乱した様子もなく、次に近づいてくる骨へ目を向けている。


 さっきまで、どうにもできなかった。

 何を描いても駄目だと思った。


 その群れが、男の前では近づくことさえできずに崩れていく。


 老人の撥が止まった。

 ハンマーへ向けられた目が、細くなる。


 その時だった。


「おーい、爺さーん!」


 場違いに間延びした声が、墓地の奥から聞こえた。


 白い波の向こうに、人の頭が見えた。

 ギターを背負った若い男だった。骸骨たちに押し運ばれるようにこちらへ進み、よく見ると、骨の肩へ腰を下ろしている。


「何してんだよ。迎えに来たぞ」

「見ての通り、客をもてなしておる」

「そりゃいいけど。帰るぞ、もう」


 若い男がこちらを見た。

 ハンマーを持つ男と、その後ろの彩心たちを順に眺める。


「……面倒そうなのもいるし」

「そうじゃな」


 老人は、意外なほどあっさり頷いた。

 琵琶を抱え直し、立ち上がる。


「ここで客を減らしてもつまらん。続きは、またの機会としよう」


 白衣の男が足を進めた。

 それを見た若い男が、ギターの胴へ片手を置く。


 男の足が止まった。

 眼鏡の奥の目が、若い男の手元を捉えていた。


 彩心は芙梨の袖を握ったまま、その横顔を見た。

 ハンマーは、まだ下ろされていない。


 老人が短く弦を弾いた。

 残っていた骸骨たちが二人の周囲へ集まり、姿を覆っていく。


「よい声じゃったぞ、娘。また聞かせておくれ」


 骨の間から、老人の笑い声がした。

 白い群れが墓石の向こうへ流れていく。ギターを背負った男の頭が一度見え、それもすぐに隠れた。


 足音と、骨の触れ合う音が遠ざかる。


「……追わないの?」

 芙梨が尋ねた。


「お二人を連れたまま、あの二人を追うのは危険です」

 男は奥を見据えたまま答えた。

「保護を優先します」


 彩心の手元で、ライラックが小さく息をついた。

 通路にいた狼が透ける。亀も、蛇も、輪郭を失って消えていった。


 男がハンマーを下げ、こちらへ振り返った。


「怪我はありませんか。歩けそうですか」


 答えようとした。

 大丈夫です、と言うつもりだった。


 けれど、声より先に膝が折れた。


「彩心!」


 芙梨の腕が身体を支えた。

 彩心はその服へしがみつき、ずるずると地面へ座り込んだ。筆を握った手も、スケッチブックを抱えた腕も、もう持ち上がらなかった。


「ごめ……なさ……」


 涙が頬を伝った。

 止めようとすると、喉から嗚咽が漏れる。


「ごめんなさい、私……」


 芙梨がそばへ膝をついた。

 その肩へ顔を押しつけ、彩心は泣いた。息を吸うたびに声が引きつり、謝る言葉さえ続かなかった。


「うん。後で話そう」

 芙梨の声が、すぐそばで聞こえた。

「今は、もう大丈夫だから」


 背中へ回された腕が、少し強くなる。

 彩心はそこへ抱きついたまま、何度も頷いた。


 *


 泣き声が収まってからも、彩心はしばらく立ち上がれなかった。

 芙梨に支えられ、男が停めていた車まで歩く。後部座席へ乗り込んだところで、ようやくスケッチブックを膝へ下ろした。


 表紙の角が折れていた。

 指で戻そうとしても、潰れた跡は残った。


「私の研究室へ向かいます。落ち着いて話せる場所ですから」


 男は運転席からそう告げ、車を出した。

 墓地の明かりが窓の外を流れ、やがて見えなくなる。


「申し遅れました。榛名(はるな)統斐(とうひ)です。群馬県の守護四十七傑を務めています」


 彩心は顔を上げた。

 運転席の眼鏡が、街灯を受けて光った。


「四十七傑……」

「ええ。お二人は東雲凪さんのお仲間ですね」

 隣で芙梨が拡声器を口元へ寄せた。

「知ってるの?」

「オモイカネさんから共有がありました。江藤さんと、藤花さんでよろしいですか」


 名前を呼ばれ、彩心は小さく頷いた。


「墓地で琵琶の音が聞こえるという話は、こちらでも調べていました。複数の場所で続いていましたので」

「それで、近くに?」

「部下が様子を見ていました。大声が聞こえ、その後、大量の骸骨が現れたと連絡がありましてね。すぐに向かいました」


 芙梨が拡声器へ目を落とした。

「……私の声だ」

「そうでしょうね。現場が分かりやすく、助かりました」


 彩心は膝の上の筆へ触れた。

 ライラックは動かず、指のそばに収まっている。


「保護したことは、東雲さんへも連絡してあります」


 指が止まった。


「ともかく、間に合ってよかった」


 統斐は前を向いたまま言った。

 彩心は口を開いたが、声がうまく出なかった。一度唾を飲み込んでから、頭を下げる。


「……ありがとうございました」

「ありがとう。本当に」

 芙梨も続いた。


 それきり、車内で話す者はいなくなった。


 窓の外には、明かりのついた店や、帰り道を歩く人が見えた。

 彩心はそれを眺め、膝へ視線を戻した。

 何か言おうとしても、隣の芙梨を見ることさえできなかった。



 研究室は、大きな研究棟の一角にあった。

 車を下りる時、少し足がもつれた。芙梨が腕を貸してくれたが、彩心は小さく礼を言うことしかできなかった。


 統斐について廊下を進む。

 部屋の前で足を止めると、彼は鍵を出すでもなく、扉へ手をかけた。


「こちらです」


 開いた扉の向こうに、凪がいた。

 キュウさんも、その隣に立っていた。


 彩心の足が止まる。


「……凪さん」


 凪は何も答えなかった。

 顔を見て、それから、汚れた服と抱えているスケッチブックへ目を移す。

 彩心は何か言わなければと思った。


「私……」


 凪が近づいてきた。

 すぐ前で立ち止まる。


 頬が鳴った。


 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 横を向いた視界に、廊下の壁が映っている。遅れて熱が広がり、彩心は息を止めた。


 凪の手が、下りていく。


「凪」

 キュウさんの声がした。


 彩心はゆっくり顔を戻した。

 凪は自分の手を一度見てから、こちらへ目を向けた。その指先が震えていた。


「……来ないでって、言った」


 芙梨が一歩前へ出た。

「凪。私も、一緒に行こうって決めたんだ。彩心だけじゃない」


 凪は芙梨を見た。

 唇が動いたが、すぐには言葉にならなかった。


 キュウさんがそばへ来て、凪の下りた手へ触れた。

「まず、座ろう。二人とも戻ってきたんだから。話は、ここでできる」


 彩心は頬へ手を添えた。

 凪の顔を見ようとして、また涙が滲んだ。


「……ごめんなさい」


 凪はまだ、頷かなかった。


 彩心は凪の隣へ座った。

 芙梨は少し離れたところで立ち止まり、二人を見ていた。手に下げた拡声器が、脚の横に触れている。


 凪がこちらを向いた。

 目が合ったが、彩心はすぐに俯いてしまった。


「……調べるだけ、だったんです」

「でも、戦ったんでしょう」

「はい」

「怪しかったら帰るって、思ってた?」

 彩心は頷いた。

 凪は膝の上で手を握った。


「帰れなくなることも、あるから。相手が……待ってくれるわけじゃないし。今日だって、榛名さんが来なかったら」


 言葉が止まった。

 凪は一度息を吸い、また口を開く。


「連絡してくれれば……ううん、連絡したら行っていいってことじゃなくて。何か分かったなら、先に話してほしかった。危ないかどうかも、まだ分からないんだから」

「……はい」

「強くなったからって、全部できるようになるわけじゃない。私だって、分からないことはあるし、勝てない相手もいるし……」


 彩心は膝の上のスケッチブックを見つめた。

 折れた表紙の端へ、凪の視線も落ちる。


「昨日、倒れたばかりなのに」

「ごめんなさい」

「今日も、帰ってこなかったら……どこにいるかも、分からなかった」


 凪の声が揺れた。


「保護したって、連絡が来て。無事だって聞いたけど、どんな……どんな状態なのか、見ないと分からなくて」


 彩心は顔を上げた。

 凪の目に、涙が溜まっていた。


「凪さん」

「本当に、怪我はない?」


 凪の手が伸びてきた。

 彩心の袖へ触れ、擦れたところで止まる。


「腕は? 足も……掴まれたって、どこを」

「大丈夫です。少し、擦っただけで」

「痛くない?」

「はい」

「本当に?」


 頷くより先に、凪の頬を涙が伝った。


「……よかった」


 肩へ腕が回った。

 彩心はスケッチブックを抱えたまま、凪の胸へ引き寄せられた。


「無事で、よかった……」


 耳元で、息を詰まらせる音がした。

 凪の身体が震えている。

 声を抑えようとしているのに、うまくいかないようだった。彩心の肩を抱く腕に、また力がこもる。


 凪の服へ手を伸ばす。その布を握った途端、涙が溢れた。


「ごめんなさい……」

「うん……」

「私、凪さんの……力に、なりたくて」


 言葉の間に、息が引っかかった。

 凪の背中へ腕を回し、しがみつく。


「昨日、褒めてもらえて……嬉しくて。もっと、何かできたらって……喜んで、もらえたらって……」


 喋ろうとするほど声が崩れた。

 もう俯いて隠すこともできず、彩心は凪の肩へ顔を押しつけた。


「ごめんなさい。ごめんなさい……!」


「……うん」


 凪の手が背中を撫でた。

 何か言おうとしたが、凪も泣いていて、しばらく言葉にならなかった。


「昨日は……嬉しかったよ。ちゃんと」

 途切れながら、それでも続ける。

「でも、帰ってきてくれないと……」


 彩心は何度も頷いた。

 子供のように声を上げて泣きながら、凪の服を握り締める。


「叩いて、ごめん……」

 凪が言った。

 彩心は首を振り、その肩へいっそう強くしがみついた。



 芙梨は、立ったまま二人を見ていた。


 手にした拡声器を持ち上げかけ、下ろす。

 何か言うべきなのだと思った。自分も一緒に行くと決めた。彩心を止めず、行き先まで選んだ。


 けれど、抱き合って泣く二人へ、何と言えばいいのか分からなかった。


 頭へ、こつんと拳が触れた。


 隣を向くと、キュウさんがいた。

「お前さんも、だよ」


 芙梨は俯いた。


「調べるだけなら大丈夫だと、思ったんだろう」

 頷く。

「聞いた話を放っておけないのも、知ってる。でもねえ、二人とも戻ってこなくなったら、私らはどうすればいいんだい」


 芙梨の唇が動いた。

 声は聞こえなかった。


「行く前に、相談しておくれ。凪が止めるからって、黙って行ったんじゃ……こうなるまで、助けにも行けないよ」


 拡声器を握る手が強くなる。

 芙梨は頷いたまま、顔を上げられなかった。


 キュウさんの手が、頭へ戻った。

 今度は拳ではなく、乱れた髪をそっと撫でる。


「ただ、彩心を守ってくれて、ありがとうね」


 芙梨が顔を上げた。


「榛名から聞いたよ。最後まで、そばにいたんだろう」

 キュウさんはその目を見て言った。

「怖かったねえ。よく頑張った」


 芙梨の口元が歪んだ。


 拡声器を持ち上げることも忘れ、空いている腕をキュウさんへ伸ばす。

 その肩へ抱きつき、口を動かした。


 何度も何かを言っていた。

 けれど声は届かず、やがて顔を伏せると、唇の動きさえ見えなくなった。


 キュウさんは芙梨を抱き留めた。

 震え始めた背中を、ゆっくり撫でる。


「……何言ってるか、分かんないよ」


 芙梨は顔を上げなかった。

 キュウさんも、それ以上は聞かずに、そばにいた。

 

 群馬へ着いたのは、午後三時を少し回った頃だった。

 墓地の場所を確かめても、日が暮れるまでにはまだ時間がある。近くのファミレスへ入り、彩心はスケッチブックを、芙梨は執筆用の端末を広げていた。

 隣ではライラックが、描きかけの絵を覗き込んでいる。向かいの心叫は、二枚目のハンバーグを切っていた。


 芙梨がドリンクバーへ立ったところで、彩心は筆を置き、自分のスマホを取り出した。

 朝、見せてもらったオカルトサイトを開く。今度はコメント欄ではなく、記事の一覧を遡ってみた。


 山奥の廃屋


 海辺の祠


 誰も乗っていないのに揺れる公園の遊具


 怖そうな見出しの間には、旅先で食べたものや、道に迷った話も混じっていた。添えられた写真を見ているだけでも、随分いろいろな場所を歩いているのが分かる。


 ふと、スマホの横へカンペが差し出された。


『何読んでるの?』


「わっ」

 顔を上げると、飲み物を持った芙梨が立っていた。

「あ、すみません。芙梨さんのサイトを……」

 芙梨はグラスを置き、カンペに書き足した。


『読んでもらうために書いてるんだから、別にいいよ』


「そうですよね。なんだか、見つかったみたいな気がして」

 彩心が笑うと、芙梨も笑って席へ戻った。


「今も、新しい記事を書いてるんですか?」

 芙梨は頷いた。

「今回は、どんな話ですか?」


 返事を書く代わりに、端末の画面がこちらへ向けられた。


『図書館にいる、喋るサングラス』


 彩心は見出しを読み、その下の数行へ目を移した。

 やたらと偉そうで、自分の話が好きで、こちらが知りたいことにも答えてくれるが、それ以上に自分がいかに優れているかを語るらしい。


「……オモイカネさんですか?」

 芙梨が頷く。


『全然進まない』


「書くことは、たくさんありそうですけど」

『本人が喋った分を削ってたら、ほとんど残らなくなった』


 心叫が鼻で笑った。

「だいたい自慢だからな」


 彩心はもう一度、見出しを見た。

「でも、これ……オモイカネさん、怒りませんか?」


 芙梨は迷わずペンを走らせた。


『アイツは喜ぶ』


 そう書いたカンペを見せながら、可笑しそうに笑った。


     *


「……へくしっ」


 美晴が本から顔を上げた。

 向かいのオモイカネは鼻元を押さえ、それから満足そうに頷いた。


「俺の噂をしている、見どころのある奴がいるようだな」

「……急に何?」


「俺ほどの存在ともなれば、姿の見えないところでも話題に上る。無理もないことだ」

「そう……」


 美晴は少しだけオモイカネから椅子を離し、本へ目を戻した。

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