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拾漆 守る者たち

 


 凪の肩から顔を離すと、彩心は俯いたまま、小さく鼻をすすった。

 目の前に、ティッシュの箱が差し出される。

「……ありがとうございます」

 受け取った時には、統斐はもう机の方へ向き直っていた。こちらへ背を向けて湯を注ぐ、その音を聞きながら、彩心は目元を拭った。


 隣では凪も顔を伏せていた。

 しばらくして、そっとこちらを見る。

「……顔、痛くない?」

「大丈夫です」

 頬にはまだ熱が残っていた。それでも、今は凪から離れて座る気にはなれなかった。


 芙梨はキュウさんのそばに立っていた。

 膝の前で心叫を持ち、何度か唇を結び直している。彩心と目が合うと、少しだけ笑おうとして、それから視線を落とした。

 キュウさんはその背へ手を添え、空いている椅子へ座るよう促した。


「温かいものを置いておきますね」


 統斐はカップを一つずつ配り、彩心達から少し離れた机へ戻った。書類を片づける音がする。

 彩心は両手でカップを包んだ。少しずつ飲んでいるうちに、息を吸うたびにつかえていた喉が、ようやく落ち着いてきた。


 皆が飲み物へ口をつけた頃、統斐が顔を上げた。

「差し支えなければ、今日は皆さん、こちらへ泊まっていきませんか」


 凪が瞬いた。

「……いいんですか」

「もちろんです。もう遅いですし、お疲れでしょう。お二人の傷も、休む前に手当てしておいた方がよさそうです」


 彩心は自分の手へ目を落とした。

 指の付け根や手の甲に、小さな擦り傷がいくつもできていた。袖口には土が残り、ほつれた糸が垂れている。

 芙梨も自分の腕を見ていた。上着の裂けたところから、赤く擦れた肌が覗いていた。


「着替えやタオルはこちらで用意できます。ほかにも必要なものがあれば、遠慮なく」

「……ありがとうございます」


 凪は二人へ目を向けた。

 彩心が頷くと、芙梨も心叫を口元へ寄せた。

「私も、お願いしていいかな」

「ええ。どうぞ」

「それじゃ、私らも甘えようかねえ」

 キュウさんの言葉に、凪も頭を下げた。

「……お世話になります」


 彩心はカップを置き、足元の荷物へ手を伸ばした。

 スケッチブックは、鞄のそばに伏せられていた。拾い上げると、曲がった表紙の下から、折れた頁が何枚もはみ出している。骨を叩いた時についた泥が、角の潰れたところへ入り込んでいた。

 開こうとすると、破れかけた紙が引っかかった。

 彩心は手を止め、そのまま閉じて胸へ抱いた。


 隣で凪が鞄を持ち上げる。

「あ、それは自分で……」

「……持つ」

 凪は短く答えた。

 彩心は少し迷ってから、手を引いた。

「ありがとうございます」


 *


 統斐について廊下を歩く間にも、少しずつ身体の痛みが分かってきた。

 肩や膝が重い。凪に聞かれた時には、本当に大丈夫だと思っていたのだけれど。


「仮眠室も、こちらにあるんですか?」

 彩心が尋ねると、統斐は廊下の先を示した。

「宿泊用の棟が隣にあります。そちらを使ってください」

「……棟、ですか?」

「泊まり込む者もいますので。身体を休める場所は、きちんと分けておきたくて」


 玄関を抜けると、夜風が頬に触れた。

 敷地の向こうには、窓の明かりが並ぶ別の建物がある。統斐がそちらへ歩き出した時だった。


 遠くで、低い音が鳴った。


 彩心は足を止めた。

 何かを強く打ちつけたような音だった。続けて、いくつもの声が重なる。叫んでいるようにも聞こえたが、言葉までは分からない。


「……何か、あったんですか」


 また音が響いた。

 声は途切れず、少しずつ大きくなっている。こちらへ近づいているのだと気づき、彩心は凪へ身を寄せた。

 手の中のライラックを握り直す。墓地で聞いた琵琶の音が、頭をよぎった。


 けれど、凪は鞄を下ろそうとも、狐面へ手を伸ばそうともしなかった。

 ただ、ひどく嫌そうに眉を寄せている。


「……また、いる」

「こんな時間まで、元気なことだねえ」

 キュウさんが息をついた。


 芙梨も道の向こうを見ていた。

「ここにも来るんだ」

「どこでも来るだろ、あいつらは」

 心叫が答える。


 彩心は皆の顔を見比べた。

「知ってるんですか?」

「ええ。残念ながら」

 統斐も、音のする方へ目を向けていた。


 彩心はもう一度、耳を澄ませた。

 怒鳴り声だと思っていたものには、妙に調子がある。一人が声を張るたび、大勢が応じているらしかった。


「トン!」

「トン!!」

「カラ、カラ!」

「トンカラトン!!」


 腹へ響く音に、歓声が重なる。


「トンカラトンって言ってからぁ!」

「イェーーー!!」

「もっと腹から声出せぇ!」

「トンカラトーン!!」


 彩心は凪を見た。

 凪は目を合わせず、小さく息を吐いた。


 道の向こうから、また景気よく音が鳴り響いた。


「あの……あれ、何なんですか?」


 彩心が尋ねると、統斐が音のする方を見たまま答えた。

「暴走(ぼうそう)有神者(ホルダー)集団、敦華羅頓(トンカラトン)です」

「トンカラトン……」

「付喪神を使って、夜な夜な走り回ってる連中さ」

 キュウさんが続けた。

「全員が有神者ってわけじゃないがね。ああやって騒ぐのが好きな連中が、集まっちまったんだよ」


 また歓声が上がった。

 塀の向こうを、幾つもの明かりが通り過ぎていく。エンジンの音に混じって、何かを打ち鳴らす音が響いていた。


「……止めなくて、いいんですか?」

「もちろん、静かにしていただきたいところではあります」

 統斐は眼鏡を直した。

「ただ、対応しようとする頃には、もう別の県へ移動していることも多くて」

「追いかけた先で、別の四十七傑と鉢合わせたこともあったねえ」


 彩心は遠ざかりかけた明かりを目で追った。

「危ない人達では、ないんですか?」

「……うるさい」

 凪が言った。

 続きがあるかと思って待ったが、それだけだった。


「この前、信号待ちしてるところ見たよ」

 芙梨が心叫を口元へ寄せる。

「信号待ち?」

「うん。ちゃんと赤で止まってた。その間もずっと騒いでたけど」

「止まるんですね……」

「止まってもうるさいんだよ」

 心叫が答えた。


「少なくとも、こちらで確認している被害の大半は騒音です。人を襲ったり、物を壊したりして回っているわけではありません」

 統斐の言葉に、彩心は握っていたライラックを少し緩めた。

 塀の向こうから、ひときわ大きな声が響く。


「トンカラトンって言ってからぁ!」

「イェーーー!!」


 凪の眉間に、また皺が寄った。


「……うるさい」

「ええ。そこについては、全面的に同意します」


 統斐は一行を促し、宿泊棟へ歩き出した。


 *


 案内された建物には、寝室のほかに浴室や共用の居間もあった。

 彩心と芙梨は、まずそこで傷の手当てを受けた。汚れを洗い落とすと、思っていた以上に細かな傷が見つかったが、幸い、どちらも大きな処置は必要なかった。


 借りた服へ着替えて戻る頃には、外は静かになっていた。

 テーブルには飲み物と、軽くつまめる食事が用意されている。


「少しでも食べておいてください。お話は、その間に」

 統斐に勧められ、彩心は椅子へ座った。

 人の姿になったライラックが隣へ座り、皿を覗き込む。彩心は一つ取って渡してから、向かいの凪へ目を向けた。


 凪はスマホを操作し、こちらへ向けた。

「……幽奏琵琶」


 九十九神帳を写した頁だった。

 指で示されたところには、その名前が記されている。


「死者を蘇らせる琵琶の九十九神がいる、って話は聞いたことがある」

 凪が言った。

「あの、お爺さんが……?」

「たぶん。琵琶を弾いて、骨が出てきたんだよね」

 彩心は頷いた。

「はい。弾くたびに、どんどん増えて……」

「私も見ました。あれだけの数を呼び出しておきながら、本人はまだ余力を残していましたね」

 統斐の言葉に、凪が画面へ目を戻す。

「……その九十九神の可能性は、高いと思う」


 彩心は、膝の上で指を握った。

 ただ、誰かが墓地で楽器を弾いているだけかもしれない。危ないと思えば帰ればいい。

 そんなことを話して、あの茂みへ隠れていた。


 長野では、凪達が準備を重ねたうえで九十九神と戦っていた。それでも、凪は二日間も目を覚まさなかったのだ。

 相手が誰かも知らないまま近づいて、帰ることすらできなくなった自分達を思い出すと、顔を上げられなかった。


「それと、迎えに来た男の人」

 凪が画面を切り替えた。

「……この中に、いる?」


 彩心は顔を上げた。

 そこには、数人分の顔や服装の特徴がまとめられていた。凪が一つずつ送っていくと、芙梨が手を止めるように言った。


「その人」


 示された男には、彩心も見覚えがあった。

 骨の波の中を運ばれながら、老人を呼んでいた男だ。


「はい。この人です。ギターを持ってました」

「……やっぱり」

 凪が呟いた。


「今日までに、グランギニョルの構成員の人相が、ある程度分かってきたんだよ」

 キュウさんが画面を覗く。

「その中に、ギターを持った男がいたからねえ」


 芙梨は心叫を持ち直した。

「お爺さんとは、普通に話してた。帰るぞって言ったら、そのまま一緒に行ったんだ」

「ええ。無理に連れていかれた様子ではありませんでした」

 統斐も頷いた。

「少なくとも、協力して動いていると考えた方がよさそうです」


「……鎧だけじゃない」

 凪の指が止まった。


 彩心は画面の男を見つめた。

 凪達が会議を開いてまで警戒していた、封印を解かれた鎧の九十九神。

 その集団には、あの琵琶の老人までいるかもしれない。


「幽奏琵琶と断定はできませんが、その前提で備える必要はありますね。こちらからも共有しておきます」

 統斐がスマホを取り出した。

 キュウさんも凪も、もう画面から目を離していた。二人の表情を見て、彩心は改めて、厄介な相手だったのだと感じた。


 食事が終わる頃には、ライラックは彩心へもたれかかっていた。

 先に寝かせて戻ると、居間には凪と芙梨が残っていた。統斐は連絡のために席を外し、キュウさんも一緒に出ていったらしい。


「……彩心。芙梨も」

 凪が二人を見た。

「もう一つ、話しておきたいことがある」


 彩心は椅子へ座り直した。

 差し出されたスマホには、短い文章が表示されていた。


『三日後に喜劇、グランギニョルを開催します』


「……三日後?」


 彩心は凪を見た。

「これ、いつ……」

「今日。オモイカネと一緒にいた時に、届いた」

「何をするかは、書いてないんだ」

 芙梨が心叫を口元へ寄せた。

「うん。場所も、まだ」


 彩心はもう一度、文章を読んだ。

 三日後。その短さに、何から考えればいいのか分からなかった。

 それから、凪が自分達にこれを見せていることに気づいた。


「……私達も、知っていていいんですか」


 凪の指が、スマホの縁を撫でた。

「昨日は、離れていてほしかった」

「はい」

「危ないから。……来てほしくなかった」


 彩心は頷いた。

 その理由は、もう痛いほど分かっていた。


「でも、知らないところで何かあって……手遅れになるのは、嫌だから」


 凪が顔を上げた。

 泣いた後の目が、彩心と芙梨を順に見る。


「……一緒にいてほしい。私が、二人を守るから」


 芙梨はすぐには答えなかった。

 彩心も、膝の上で手を重ねたまま、凪を見ていた。


 昨日、来ないでと言った時も、きっと同じくらい考えたのだろう。

 それを自分達が破ったから、凪はまた、考え直さなければならなくなった。


「勝手に、いなくならないで」

 凪が続けた。

「何か分かったら、先に話して。……お願い」


「うん」

 芙梨が答えた。

「今度は、ちゃんと相談する。一人でも、彩心と二人でも、勝手には行かない」


 彩心も頷いた。

「私もです。分からないことも、危ないと思ったことも、ちゃんと言います」


 凪は二人を見ていた。

 彩心は、その視線から目を逸らさずに続けた。


「……一緒に、行かせてください」


「うん」


 短い返事の後、凪の肩が少し下がった。

 芙梨も心叫を下ろし、息をつく。


 廊下の向こうで、電話が鳴った。


 続いて、統斐の応じる声が聞こえる。

「はい、榛名です」


 彩心はそちらへ目を向けた。

 しばらく、相槌も聞こえなかった。


「……そうですか」


 先ほどより、低い声だった。


「分かりました。詳しい話は、明朝に」


 通話を終える音がして、廊下は静かになった。


 居間へ戻ってきた統斐は、三人の顔を見てから、時計へ目を向けた。

「お話は、済みましたか」

 凪が頷く。

「では、今日は休みましょう。皆さん、長い一日だったでしょうから」


 彩心は立ち上がり、礼を言った。

 統斐はいつもの穏やかな声で、おやすみなさいと返した。


 *


 翌朝、彩心は身体の痛みで目を覚ました。

 起き上がると肩や背中が重く、膝を曲げれば擦り傷が引きつった。隣で眠っていたライラックを起こし、身支度を済ませて居間へ向かう。


 皆と朝食を取り、ようやくひと息ついたところで、統斐が口を開いた。


「昨夜、連絡がありまして。神奈川の四十七傑が、何者かに襲われました」


 凪がカップを置いた。

「……志遠(シエン)さんが?」

「はい。命に別状はないそうですが、怪我は重いようです。今は病院で治療を受けています」


 彩心は統斐を見つめた。

 昨夜の電話。廊下から聞こえた、あの低い返事を思い出す。


「グランギニョルかい?」

 キュウさんが尋ねた。

「相手については、まだ確認できていません。ただ、この時期ですから、無関係と考えるわけにもいかないでしょう」

「……あの人が、やられるんだ」

 凪が呟いた。


 彩心は、その横顔を見た。

「強い方、なんですか?」

「うん。かなり」

「連れている付喪神は、戦い向きじゃないんだけどね」

 キュウさんが続けた。

「本人が拳法の使い手でねえ。それだけで、並の相手ならどうにかしちまう人なんだよ」


 彩心は昨夜の墓地を思い出した。

 骨の群れを一振りで吹き飛ばしていた統斐。

 同じ四十七傑で、凪達にも強いと言われる人が、重い怪我を負っている。


 人の姿で食事をしている心叫の隣で、芙梨がカンペを持ち上げた。


『ほかに襲われた人は?』


「今のところ、そうした連絡はありません。ほかの四十七傑にも警戒するよう、情報は回っています」


 統斐はそう答え、凪へ向き直った。

「私はこれから神奈川へ向かいます。お見舞いと、状況の確認に」

「……私達も、行っていいですか」

「ええ。お連れできますよ」


 凪が彩心と芙梨を見た。

 彩心は頷いた。芙梨もカンペを下ろし、同じように頷く。


「お願いします」

 凪が頭を下げる。

「では、支度ができたら出発しましょう。急がなくて結構ですので、忘れ物のないように」


 *


 荷物をまとめる時、彩心はスケッチブックを開いた。

 何枚かの頁は端が裂け、泥の染みが残っていた。折れたところを指で伸ばしても、元のようには閉じなくなっている。

 まだ使える白い頁を確かめてから、鞄へ収めた。


 廊下へ出ると、凪が待っていた。

「……持とうか」

「今日は、大丈夫です」

 彩心は肩に掛けた鞄を軽く持ち上げた。

 凪は一度こちらの腕を見て、それから頷いた。


 神奈川までは、統斐の車で向かった。

 心叫は芙梨の膝の上で拡声器に戻り、ライラックも筆の姿で彩心の手に収まっていた。

 時々交わされる会話の間に、統斐のスマホへ連絡が入った。停車中に確認した統斐によると、ほかにも見舞いに来ている四十七傑がいるらしかった。


「オモイカネ達も、そちらへ向かっているそうです」

「……分かりました」

 凪が答える。


 彩心は窓の外へ目を向けた。

 昨日は芙梨と二人で電車へ乗り、調べるだけなら大丈夫だと話していた。

 今日は隣に凪がいる。そのことに安心する自分を感じながら、膝に置いた鞄へ手を添えた。


 *


 病院で受付を済ませると、統斐の案内で病室へ向かった。

 廊下を歩いている途中から、中の声が聞こえてきた。


「だから、私が見つけて殴ればいいヨ」

「それでお前まで運ばれてきたら、親父が寝てられねえだろ」

「捕まらなければ、また誰かやられるネ。待ってるだけ、嫌ヨ」

「待つだけにしろなんて言ってねえ。まず相手を調べろっつってんだよ」


 統斐が扉を叩いた。

「榛名です。入ってもよろしいですか」

「おう、開いてるぞ」


 扉を開けると、まず鮮やかなチャイナ服が目に入った。

 若い女性が腕を組み、椅子に座った大柄な男と向き合っている。男は窮屈そうに脚を収め、こちらへ片手を上げた。

 女性も振り返ったが、眉を寄せたままだった。


 その奥のベッドを見て、彩心は足を止めた。


 包帯を巻かれた男が、身じろぎもせず横たわっていた。顔には腫れが残り、布団から出た腕も固定されている。

 胸がかすかに上下しているのを見て、彩心は詰めていた息を吐いた。


「今は眠っています。どうぞ、そのままで」


 ベッドのそばにいた青年が、静かに言った。

 穏やかな顔立ちをしている。片手を布団の脇へ添え、もう片方には、柄の長い金属の道具を持っていた。


 青年が少し首を傾けた。

 何かを聞き取ろうとするように動きを止めてから、道具を持ち上げる。


 その先が、寝ている男の身体へ振り下ろされた。


「えっ」


 彩心は思わず声を漏らした。

 青年がこちらへ顔を向ける。


「すみません。驚かせてしまいましたね」


 柔らかい声だった。

 けれど、その手にはまだ、今しがた患者へ打ち当てた道具が握られていた。


「大丈夫だよ。治してくれてるんだ」

 キュウさんの言葉に、彩心は青年の手元を見た。

「……今ので、ですか?」

「はい。ただ、まだ調律がかなり乱れていて」


 青年はベッドへ向き直った。

 目を伏せたまま首を傾け、男の胸元から脇腹へ手を移す。


「メロディ。次は、こちらを」

「ええ。ゆっくり整えましょう」


 落ち着いた声が、手にした道具から返った。

 青年はその先を男の身体へ当て、軽く打った。一度ごとに手を止め、何かを聞き取るように耳を傾けている。

 彩心には、衣服越しに触れる小さな音しか聞こえなかった。


「……音で、分かるんですか?」

「ええ。身体の調子が崩れると、調律にも乱れが出るんです。陳さんは、あちこちの音がずれてしまっていて」


 もう一度、道具が触れた。

 青年は少し待ってから、小さく頷く。


「今のところは、揃いましたね」

「まだ奥に残っています。でも、先ほどよりは落ち着いていますよ」

 道具からの返事に、青年が手を動かした。


 彩心は邪魔にならないよう、少し後ろへ下がった。

 すると、青年がこちらへ顔を向ける。


「あなたも、どこか怪我をしていますね」

「えっ」

「それから……そちらの方も」


 その顔が、芙梨のいる方へ向いた。

 芙梨が心叫を口元へ寄せる。

「昨日、ちょっと。手当てはしてもらったけど」

「そうでしたか。お二人とも、音がぶれています。陳さんが落ち着いたら、診せてもらってもいいですか」


 彩心は自分の包帯へ目を落とした。

「……見ただけで、分かるんですね」

「いえ、僕は目が見えないので」


 青年は穏やかに答えた。

「人のいる場所や、身体の調子は、音で確かめています」

「あ……すみません」

「いえ。分かりづらいですよね」


 青年が微笑み、再びベッドへ向き直った。

 彩心も口を閉じ、その手元を見守った。


 何度か道具を当てるうちに、寝息がゆっくりと整ってきた。

 青年はしばらく耳を澄ませてから、ようやく手を下ろす。


「これなら、しばらくは落ち着いて休めると思います。目が覚めてから、また確かめましょう」

「ありがとネ」

 チャイナ服の女性が、ベッドへ近づいた。

 眠る男の顔を覗き込み、布団の端を直す。


「……陳さん、まだ一度も起きてないんですか?」

 凪が尋ねると、女性は頷いた。

「運ばれてから、ずっとヨ。でも、律が来る前はもっと苦しそうだったネ」


 彩心は男の顔へ目を向けた。

 腫れも包帯も残っていたが、眉間に寄っていた皺は緩んでいる。


 女性がこちらへ向き直った。

「あ、まだ名前言ってないネ。私、陳杏蘭(チンシンラン)。寝てるの、パパヨ」

「……東雲凪です」

「九尾の面さ。キュウさんでいいよ」

 凪達に続き、彩心と芙梨もそれぞれ名乗った。


「パパのこと聞いて、皆で来てくれた?」

「うん」

「ありがとネ」


 杏蘭は頭を下げ、それからベッドへ目を戻した。

 その隣で、青年が道具を持ち直す。


「僕も、まだでしたね。水瀬律(みなせりつ)といいます。茨城の四十七傑を務めています」

 手にした道具を、少し持ち上げた。

「こちらはメロディ。チューニングハンマーの付喪神です」

「よろしくお願いします」

 先ほどの静かな声がした。


「藤花彩心です。こっちは、ライラックです」

「こんにちは!」

 赤い筆を持ち上げると、ライラックが声を弾ませた。

 律はその声へ顔を向け、柔らかく頷く。

「こんにちは」

「私は江藤芙梨。こっちは心叫」

「どうも」

 心叫の短い挨拶にも、律は丁寧に応じた。


「律さんは、お医者さんなんですか?」

「調律師です。普段はピアノの調律をしています」

 彩心が手元へ目を落とすと、律はメロディを軽く掲げた。

「身体の調律ができるのは、この子のおかげなんです」


 椅子が床を擦る音がした。

 先ほどまで杏蘭と言い合っていた男が立ち上がり、彩心のそばへ椅子を寄せていた。


「ほら、座れ。立ったままじゃ、やりづれえだろ」

「あ、ありがとうございます」

 見上げると、男の腕は半袖の下から大きく盛り上がっていた。眉間には深い皺があり、声も低い。

 けれど、椅子を置く手つきは静かだった。


「竜司。この二人には、まだ名乗ってないだろう?」

 キュウさんが言った。

「ああ、悪い。浜野竜司(はまのりゅうじ)。千葉の四十七傑だ」

 竜司は芙梨にも椅子を勧め、それから杏蘭へ目を向けた。

「こいつと話してたら、すっかり忘れてた」


「まだ行くなって言うつもりヨ?」

 杏蘭が腕を組む。

「言うに決まってんだろ。相手も分かんねえのに、一人で飛び出してどうすんだ」

「でも、待ってる間に逃げるネ」

「俺らも調べる。だから、今は親父のそばにいてやれ」


 竜司は声を落とした。

「目ぇ覚ました時、お前までいねえんじゃ、安心して寝てもいられねえだろ」


 杏蘭は口を開きかけ、父親へ目を向けた。

 何も言わず、ベッドのそばの椅子へ腰を下ろす。


 律が彩心の前へ来た。

「腕を少し、楽にしてもらえますか」

「はい」

「触れますね」


 添えられた手に従って、彩心は肩の力を抜いた。

 メロディの先が腕へ触れる。軽い響きが骨の内側を伝わった気がして、思わず指先が動いた。


「痛みますか?」

「いえ……変な感じがして」

「では、そのままで」


 律が耳を澄ませ、少しずつ場所を変えて道具を当てていく。

 肩から背中へ、張りつめていたものがほどけていった。朝から腕を動かすたびに感じていた痛みが、いつの間にかなくなっている。


「……あれ」


 彩心は指を握り、開いた。

 手の甲にあった擦り傷が塞がっていた。赤みは少し残っているが、触れても痛くない。


「肩は、どうですか?」

 尋ねられ、そっと腕を上げる。

 途中で止めるつもりだったのに、そのまま頭の上まで持ち上がった。


「痛く、ないです」

「よかった。脚も確かめますね」


 膝や足首も診てもらい、立ち上がる頃には、歩くのがずっと楽になっていた。まだ身体の奥に重さは残っているものの、朝とはまるで違う。


「まだ少し乱れが残っていますが、今はここまでにしておきましょう」

「こんなに治るんですね……」

 彩心はもう一度、自分の手を見た。

「ありがとうございます」

「どういたしまして。次は、江藤さんを」


 芙梨は心叫を膝へ置き、上着の袖をまくった。

 律が腕へ触れ、メロディを当てる。彩心の時よりも短い間に、その手が止まった。


「こちらは、揃いましたね」

「ええ。綺麗な音です」

 メロディが答えた。


 芙梨が腕をひねり、肩を回した。

 それから袖の下を確かめ、目を丸くする。


「全部、治ってる」

 心叫を口元へ戻して言った。

「さっきまで、ここも痛かったのに」

「よかったです。ほかに気になるところはありますか?」

 芙梨は少し身体を動かしてから、首を振った。

「ない。ありがとう、本当に」


 律が微笑んだところで、扉が叩かれた。


「入るぞ」


 低い声に続いて、僧衣(そうい)姿の男が入ってきた。

 剃り上げた頭に、太い首。肩幅も広く、袖から覗く手首には数珠が巻かれている。

 男はベッドの前まで進み、眠る志遠(シエン)の顔を確かめた。


「具合はどうだ」

「少し落ち着きました。まだ、休んでもらう必要はありますが」

 律が答える。

「そうか」


 その後ろから、白いスーツが現れた。


「ずいぶん集まったな。俺が見舞いに来ると聞いて、待っていたわけではあるまい」

「誰も聞いてねえよ」

 竜司が答えた。

「ならば、いいところへ来たようだ」


「カネちゃん、声を落として」

 美晴が後ろから促す。

 オモイカネはベッドへ目を向けると、それ以上は声を張らずに室内へ入った。


「君達も来ていたか」

「おはようございます」

 彩心が頭を下げると、美晴がそばへ来た。

「二人とも、大丈夫? 昨日のこと、聞いたよ」

「はい。今、律さんに治していただいて」

「そう。よかった」


 芙梨も心叫を口元へ寄せ、もう平気だと答えた。

 美晴は頷き、それから凪へ目を向けた。凪が小さく頷き返すのを見て、彩心は昨夜のことも伝わっているのだろうかと思った。


 僧衣の男がこちらへ向き直った。

「君達とは、初めてだな。栃木の巌堂覚山(がんどうがくざん)だ。よろしく頼む」

 彩心と芙梨も名乗ると、覚山は二人の顔を見て頷いた。

「昨夜の話は聞いた。無事で何よりだ」


 彩心は病室を見回した。

 昨夜、自分達を助けた統斐。音を聞き、傷を治してくれた律。怖い顔で杏蘭を気遣う竜司と、僧衣姿の覚山。

 オモイカネも、その輪の中へ自然に入っていく。


 彩心は傷の塞がった手を膝へ戻し、もう一度、志遠の寝顔を見た。


「相手のことは、まだ何も分からねえのか」

 竜司が尋ねた。

 杏蘭は父親の顔を見たまま、首を振った。

「パパが起きないから、聞けないネ」

「周辺で何か見た人がいないか、こちらでも確認してもらっています」

 統斐が続けた。

「ですが、今のところ、相手を特定できる情報はありません」


「グランギニョルじゃないノ?」

 杏蘭が顔を上げた。

「パパ、あいつらのこと調べてたヨ」

「可能性はある。だが、それだけで決めつけるわけにもいかん」

 覚山が答える。

「別の相手なら、そちらへの警戒が遅れる」


 杏蘭は納得しきれない様子で口を結んだ。

 彩心もベッドへ目を向ける。目が覚めれば、話が聞ける。それまでは待つしかないことが、杏蘭には耐え難いのかもしれなかった。


「誰であろうと、陳をここまで痛めつける相手だ。見つけた者が、その場で一人で片づけようとはするなよ」

 オモイカネが言った。

「俺へ知らせろ。相手の姿が分かれば、調べようもある」

「お前に言われなくても分かってるよ」

 竜司が答える。

「ならば結構。確認する手間が省けた」


 杏蘭は何も言わなかった。

 ただ、布団の端へ置いた手を握っていた。


「杏蘭」

 竜司が呼ぶ。

「お前が何もしなくてもいいって話じゃねえからな。親父が起きたら、話を聞いてくれ。何でもいい。覚えてることがあれば、俺らにも教えてくれ」

「……分かったヨ」


 杏蘭の返事を聞いて、竜司が頷いた。


「琵琶の方は、榛名から聞いた」

 覚山が凪へ顔を向けた。

「九十九神の可能性が高いそうだな」

「……はい」

「鎧に加えて、もう一体か」

「少なくとも、ギターの男と行動していたことは確認できました」

 統斐が言う。

「構成員を追う際も、九十九神がそばにいる可能性を考えておく必要があります」


 彩心は手の中のライラックを見た。

 あの老人を、男は迎えに来た。

 あんなふうに呼べば一緒に帰るほど、近しい相手なのだ。


「残りの連中も、同じようなものを連れているかもしれないってことか」

 竜司が腕を組んだ。

「そうと分かったわけではない。だが、見えている人数だけで判断するのは危険だな」

 オモイカネは答え、彩心と芙梨へ目を向けた。

「君達が見たことも、調べる材料にはなる。後から思い出したことがあれば知らせてくれ」


「……はい」

 彩心は頷いた。

 芙梨も心叫を口元へ寄せる。

「分かった。何か思い出したら連絡する」


 律がベッドへ顔を向けた。

 会話の合間にも、志遠の音を聞いていたらしかった。


「眠りは落ち着いています。僕はもうしばらく、こちらにいますね」

「頼む。俺達が大勢いても、休まらねえだろうしな」

 竜司が椅子から立った。

 移動した椅子を元の場所へ戻し、杏蘭へ声をかける。

「何かあったら呼べよ」

「うん。ありがとネ」


 彩心達も、ベッドのそばで挨拶をした。

 凪は眠る志遠を少し見つめてから、杏蘭へ向き直った。


「……また、来ます」

「パパにも言っとくヨ」


 病室を出る直前、彩心は律を振り返った。

「治してくださって、ありがとうございました」

「どういたしまして。気をつけて帰ってくださいね」

 律が微笑む。

「二人とも、お大事に」

 メロディの声も続いた。


 *


 病院を出ると、彩心は眩しさに目を細めた。

 行きには気になっていた階段も、今は手すりにつかまらずに下りられる。隣の芙梨も、いつもと変わらない足取りだった。


 竜司と覚山は、それぞれの県へ戻るという。

 統斐も駐車場の方へ目を向けた。


「東雲さん達は、どうされますか。戻る途中でよければ、お送りしますが」

「それなら、俺達と来ればいい」

 先に答えたのは、オモイカネだった。


 凪が顔を上げる。


「これから皇居へ行く。君達も来るか?」

「……うん。行く」

「それじゃ、私らもご一緒しようかねえ」

 キュウさんも頷いた。


「では、人数が増えると先に伝えておこう」

「車も、みんな乗れるように手配するね」

 美晴がスマホを取り出す。


 彩心はそのやり取りを聞いていた。

 これから行く場所が決まり、移動の話まで始まっている。

 隣を見ると、芙梨も目を見開いてこちらを見ていた。


 皇居。

 今、確かにそう言った。


「……皇居!?」

関東地方 守護四十七傑


埼玉県

『全知全見』

 金木美晴


 群馬県

『論理的(インテリジェンス)総攻撃(・ブルートフォース)』

 榛名統斐


 茨城県

『命の調律師』

 水瀬律


 千葉県

『夢の国の隣人(ゲッシーフレンズ)』

 浜野竜司


 栃木県

『修羅念仏』

 巌堂覚山


 神奈川県

『鉄鍋(てつなべ)の料理人(バトルマスター)』

 陳志遠


 東京都

『不可侵の近衛兵』

 御門清臣

 

「……四十七傑には、二つ名があるんだよ」

「二つ名、ですか?」

「うん。美晴さんは『全知全見』とか」

「……オモイカネさんじゃなくて?」

「四十七傑は、美晴さんだから」

 彩心は少し考えてから、凪を見た。

「それって、誰が決めてるんですか?」

「……さあ」


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