拾伍 よく頑張ったね
トンネルの奥で、老婆は倒れたまま動かなかった。
止められた。
彩心は膝の上のスケッチブックを見下ろした。角が折れ、白紙の頁には汗が落ちている。まともに立てもしないのに、スケッチブックを見ていると、口元が少し緩んだ。芙梨に助けを呼ばず、自分であの人を止められた。
けれど、もう一度奥を見ると、老婆はまだ指一本動かしていなかった。あの人が息をしているか、ここからでは分からない。
確かめようと壁に手をついた。膝は伸びず、手のひらだけがざらついた壁を滑った。
「彩心?」
すぐそばでライラックが呼んだ。大丈夫と答えるつもりで口を開けたが、息しか出なかった。
外へ目を向ける。芙梨の姿は見えない。道の向こうに薄く白い煙が残っている。あそこまで行かなきゃと思って、スケッチブックを引き寄せた。閉じようとした指が表紙を掴み損ね、折れた頁がぱらりと戻った。
道の向こうから、重い足音が近づいてきた。
また誰か来た。そう思ったのに、もう顔を上げる力が残っていなかった。ライラックが肩のそばを離れて、道の方へ出る。
「彩心、こっち見て。ほら」
促されて目を上げると、煙の薄いところから、白い前脚が踏み出した。彩心のすぐ前で止まり、伏せるように折り曲がる。見上げた先に、大きな狐の顔があった。
白い背から誰かが降りてくる。足音が、すぐそばで止まった。
「彩心」
そこで意識が途切れた。
*
目を開けると、すぐ前に凪の背中があった。
「彩心、起きた?」
左からライラックの声がした。
彩心は顔を向けようとして、膝の下に広がる白い毛に気づいた。座ったまま、天狐の背に乗っている。
声の方へ目をやると、木々の梢がずっと下を流れていた。
空を走っている。
「よかった。ぼく、何回も呼んだんだよ」
すぐ隣から、またライラックの声がした。
見れば、赤い髪の少年が彩心の腰に両腕を回し、こちらを見上げている。
「……え?」
彩心は少年の肩越しに、いつもなら赤い筆が浮いているあたりを見た。
「ライラック?」
「うん。ぼくだよ」
思わず体を捻ると、右隣から伸びた手が背中を支え直した。
芙梨だった。左手は彩心の背に添えたまま、右手で膝下の心叫を拾い上げる。
「急に動かないで。落ちるかと思った」
「芙梨さん……無事だったんですね」
「それ、こっちの台詞」
「こいつ、さっきから一度も手ぇ離してないぞ」
「心叫」
心叫の口を少し下げてから、芙梨は彩心の顔を覗き込んだ。
「気持ち悪くない?」
「大丈夫です。背中はちょっと痛いですけど」
先頭の凪が肩越しに振り返った。
「もうすぐ着くから。そのままでいて」
「あの、トンネルの……おばあちゃんは?」
「息はあったよ」
彩心は息を吐き、掴んでいた白い毛を放した。
腰に回った腕は、まだ緩まない。
「ライラック。いつから、その姿に?」
「彩心が落ちそうだったから、支えなきゃって。手があれば掴めるのにって思ったら、こうなってた」
ライラックが自分の腕を見下ろした。
「でも、どこを持てばいいか分かんなくて」
「それで、ずっと抱きついてたの?」
「うん。苦しかった?」
「ううん。ありがとう」
彩心が腰に回った手に触れると、ライラックはようやく笑った。
「着くまでは、このままでいい?」
「うん。私もその方が安心する」
天狐が駆ける高さを落とした。木々の切れ間に建物の屋根が見える。
「あそこ。オモイカネ達が待ってる」
凪が前を向いたまま言った。
芙梨の手が背中に添えられたまま、彩心は屋根を見下ろした。
天狐は建物の裏手に降りた。
地面へ足をつくと、膝が頼りなく曲がる。芙梨が肘を支えてくれた。ライラックも左側から手を伸ばしたが、彩心の顔を見て、腕を引き寄せる代わりに手を握った。
「ゆっくりでいいよ」
「うん。ありがとう」
凪が狐面を外すと、背後の大きな白い姿がほどけていった。人の姿に戻ったキュウさんが裏口へ向かい、扉を開ける。
廊下を進んだ先で、彩心は足を止めた。
本棚が、奥まで続いていた。
棚の間を抜ける通路が何本もあり、見渡せる範囲だけでも、どれくらいの本があるのか分からない。窓際には閲覧用の机が並び、その向こうの階段は上の階へ延びている。
「……ここ、図書館ですか?」
「うん。美晴さんがよく使ってるところ」
凪について歩きながら、彩心は棚を見上げた。
動物や植物の図鑑が並ぶ一角もある。別荘で読んでいたものと同じ背表紙を見つけ、その隣にある分厚い本へ目が移った。
「彩心、あっちにも絵がある」
ライラックが手を引く。
「本当だ。また今度、一緒に見に来ようね」
「今は?」
「今日は、先にお話があるから」
ライラックは名残惜しそうに棚を見てから、彩心の隣へ戻った。
奥の部屋から、美晴が顔を出した。
「彩心ちゃん。歩いて大丈夫?」
「はい。もう大丈夫です」
彩心は背筋を伸ばし、笑ってみせた。
「こっちに座ってね」
美晴は扉を大きく開け、通れるように脇へ寄った。
部屋にはオモイカネもいた。机に広げていた紙を寄せ、彩心が座れるよう椅子を引く。
「見事な馬だった。だが、あの大きさでは消耗も激しいだろうな」
「……見てたんですか?」
「当然だ。俺の目を何だと思っている」
腰を下ろすと、張っていた背中が少し緩んだ。
ライラックは隣で立ち止まり、空いた椅子と彩心を見比べる。
「ここ、座っていい?」
自分の膝を指され、彩心は笑った。
「うん。おいで」
登ってきた体を両腕で支える。腕の中に収まる重さが、まだ不思議だった。
美晴もその赤い髪へ目を留め、少し表情を緩めた。
「ライラックくんも、びっくりしたね」
「うん。彩心が急に返事しなくなったから」
彩心はその肩を撫でた。
目の前に水の入ったコップが置かれ、礼を言って受け取る。飲み込んで初めて、喉がひどく乾いていたことに気づいた。
「すごく広いですね、ここ」
「でしょう。私も、気づくと一日いることがあって」
美晴は入口の方へ目を向けた。
「探してた本の隣に、面白そうなのがあると、ついね」
「全部読もうと思ったら、どれくらいかかるんでしょう」
「全部は、まだだなあ。七割近くは読んだと思うけど」
彩心はコップを置きかけた手を止めた。
「……七割?」
「上の階もあるぞ」
オモイカネが付け加えた。
彩心は、さっき見た階段を思い出した。
膝の上でライラックが顔を上げる。
「美晴、そんなにおはなし知ってるの?」
「お話以外もあるけどね。今度、一緒に探そうか」
「うん!」
「その前に、今日の話だ」
オモイカネが机へ片手をついた。
「姿は見ていたが、声までは届かん。あの女が何を言っていたか聞きたい」
彩心はコップから手を離した。
芙梨が心叫を口元へ寄せる。
「まず、注射した後。自分の薬でラリってるって言ってた。元気になるやつだけど、効きすぎたらしいよ」
「戻せるのか聞いても、『まだ試してるところ』って……」
彩心は膝の上へ目を落とした。
「あのおばあちゃん、まだ苦しんでたんです。でも、あの女は、そのまま行こうとして」
「少し歩いてから戻ってきた。やっぱり見られてるのはまずいって。それで瓶を投げてきたんだ」
「何かの手当てに失敗したんじゃ、なかったんだね」
美晴の声が低くなった。
「どうなるか、見てたんだ」
「ああ。効き目を楽しんでいたわけか」
オモイカネが机の紙へ目を落とす。
「凪が着いた時にも、何か喋っていたな」
彩心は芙梨を見た。
離れて戦っていた間のことは、煙と、遠くから響く声しか知らない。
「あの女、どうなったんですか?」
「逃げたよ。凪の天狐を見たら、すぐに」
芙梨は凪へ目を向けた。
「『これはさすがに、無事じゃ済まなそうだねぇ』って。それで鞄から何本か瓶を出して、足元にまとめて割ったんだ」
「こっちも、前が見えなくなってねえ」
キュウさんが言った。
「煙を抜けた時には、もういなかった。道をそのまま走っていったのか、脇へ下りたのかも分からなかったよ」
「私たちが話してる間にも、逃げ方は考えてたんだと思う。煙を出す直前まで、普通にこっちへ喋ってたから」
芙梨が少し間を置いた。
「『私たち、グランギニョルっていうんだ。近いうちに楽しいことするから、楽しみにしててね』って」
凪が顔を上げた。
机についていたオモイカネの指も止まった。
「……自分で、そう名乗ったのか?」
「うん」
「私が芙梨のところへ着いた時には、女はもう鞄に手を入れてた。何を話したかまでは、聞こえなくて」
凪が言った。
「姿がなくなったのを確かめてから、彩心のところに」
「奥のトンネルにいるって、私が伝えたんだ」
彩心は自分の手を見た。
あの女は逃げるための煙を出し、その向こうから名前と予告だけを残していったのだ。
「どうやら、会議で追っていた連中と同じだな」
オモイカネが言った。
「知ってる人たちなんですか?」
「人柄を知りたい相手ではないが、名前は聞かされている」
凪が机の紙を一枚、こちらへ向けた。
鎧の絵と、その脇に記された名前がある。
武者鎧の九十九神 落命野晒
彩心は文字を目で追った。
「これが、あの女と……?」
「グランギニョルに封印を解かれた。今回の会議は、その対策」
オモイカネが紙の端を押さえた。
「昔、暴れて封じられた武者鎧だ。神奈川の四十七傑が、代々その情報を引き継いできた。今の代表も、封印を解かれたことには相当責任を感じている」
「何度も謝ってたねえ」
キュウさんが言った。
「けど、向こうも黙って見てたわけじゃない。県内で暴れる連中を追いかけて、八人いるところまでは突き止めたんだ」
「八人……」
彩心は、鞄から次の小瓶を取り出す女の姿を思い浮かべた。
「グランギニョルという名前も、そいつらが自分で名乗っていたそうだ」
オモイカネが続けた。
「神奈川で相当騒ぎを起こした上、今度は埼玉だ。気ままな旅行にしては、はた迷惑にも程がある」
「落命野晒は、何ができるの?」
芙梨が鎧の絵を指した。
「詳しいことは分かっていない。神奈川側に伝わっていたのも、ひどく強く、封じるしかなかったという話だ」
オモイカネは顎を上げた。
「まあ、俺ほどではないにせよな」
「比べたことないでしょう」
美晴が言った。
オモイカネは咳払いをした。
「いずれにせよ、九十九神だ。騒ぎを起こす八人を捕まえれば済む話ではなくなった」
「最初は、近くの県にも知らせようってことだったんだって」
美晴が彩心へ向き直った。
「でも、神奈川ではかなり被害が出てるし、解放された鎧の力も分からない。各県で別々に動くより、一度集まって対策を決めようって。それで関東の四十七傑が集まったの」
彩心は凪を見た。
「凪さんたちも、それで呼ばれたんですね」
「うん。オモイカネに声をかけられて」
「凪ちゃんたちは、九十九神と何度も会ってるでしょう」
美晴が続けた。
「話を聞くだけで終わらなかった相手もいるし、実際に止めてきた。そういう経験のある人には、来てもらいたかったんだよ」
「それに、強いからな」
オモイカネが言った。
「代表という肩書きだけで九十九神を止められるわけでもあるまい。役に立つ話が聞けて、いざという時には戦える。呼ばない手はない」
凪は返事をせず、少しだけ椅子へ座り直した。
彩心は鎧の描かれた紙へ目を戻す。長野の山で、大陀羅踏地が土を纏って立ち上がった姿を思い出した。
ああいう相手を、まだ何も分からないまま探さなければならないのだ。
「まずは、今日あの女が名乗ったことを伝えておこう。近いうちに何かするという予告も、聞き流せん」
オモイカネが紙を引き寄せた。
「話してくれて助かった。目だけでは拾えないことも、これで分かった」
美晴が彩心のコップへ水を注ぎ足した。
彩心は礼を言い、両手で受け取る。膝の上のライラックも、机に置かれた鎧の絵をじっと見つめていた。
静かな部屋に、腹の鳴る音がした。
彩心が顔を上げると、凪が俯いていた。
机の上の紙を揃え、もう一度揃え直している。耳が赤かった。
「……ごめん」
「謝ることじゃないでしょう。もうこんな時間だし」
美晴が壁の時計を見た。
キュウさんが隣から凪を覗き込む。
「そういえば、朝から何も食べてなかったねえ」
「……うん」
小さくなった声に、彩心は気づかなかったふりをして窓の外へ目を向ける。すでに外は茜色だった。
「ならば食事にしよう。近くにいい店がある」
オモイカネが紙を揃えた。
「俺が勧めるんだ、味の保証はするぞ」
膝の上のライラックが顔を上げた。
「ぼくも、食べられるんだよね?」
彩心はその顔を見た。
今までは、皿へ近づいて眺めたり、どんな味なのか尋ねたりするだけだった。
「うん。何が食べたい?」
「ハンバーグ! あと、そばと、おやき。それと、プリン。上に赤いのが乗ってるやつ!」
指を折りかけ、途中で自分の手へ目を落とす。それから、もう一本折った。
「アイスも!」
「一度に全ては無理だろうが、いくつかはあるぞ。洋食屋だからな」
オモイカネが答えた。
「せっかくその姿になれたんだ。お祝いもしないとねえ」
キュウさんの言葉に、ライラックが彩心を振り返る。
「行こう!」
「うん。行こうね」
芙梨の手元で、心叫が口を開いた。
「俺も食う」
「お店に着いてからね」
*
ライラックは彩心の手を握ったまま、運ばれていく皿へ顔を向ける。席へ案内される途中でも、別のテーブルに置かれた料理を見て、歩くのが少し遅くなった。
オモイカネが店員と話している間に、心叫も人の姿へ戻った。
芙梨はカンペを取り出し、隣に座る心叫へ見せる。
『今日はライラックのお祝いだからね』
「分かってる」
返事を聞いてから、芙梨は品書きを開いた。
「今日は俺のおごりだ。好きなものを頼むといい」
オモイカネが椅子へ腰を下ろす。
「これほど晴れがましい日に、遠慮など不要だからな」
「ありがとうございます」
彩心が頭を下げると、隣のライラックも真似をした。
「ありがとございます!」
ライラックは写真の並ぶ頁を覗き込んだ。
「これ、食べてみたかったんだ」
「ハンバーグ?」
「うん。あ、こっちも。卵で包んであるやつ」
指が隣の写真へ移る。
次の頁をめくると、今度は海老フライで止まった。
「これ、さくさくって言ってたやつ?」
「そうだよ」
「こっちは?」
「グラタン。熱いから、食べる時は気をつけないとね」
ライラックはしばらく写真を見比べていたが、やがて困ったように彩心を見上げた。
「……決まらない」
「私と違うのを頼んで、少しずつ分けようか」
「いいの?」
彩心が頷くと、美晴も品書きをこちらへ傾けた。
「私のも分けてあげる。食べてみたいの、決めて」
「じゃあ、私も別のにしようかねえ」
キュウさんが隣から覗き込む。
ライラックはもう一度、最初の頁へ戻った。
「ぼく、ハンバーグにする。最初に食べたいって思ったから」
「じゃあ、私はオムライスにしようかな」
「あとで、プリンも食べていい?」
「食べ終わって、まだ入りそうだったらね」
注文を取りに来た店員へ、それぞれの料理を伝えていく。
心叫が頼んだ皿数に芙梨のペンが止まったが、彼は既に品書きを閉じていた。
飲み物が揃ったところで、オモイカネがグラスを持ち上げた。
「では、ライラックの成長を祝って――」
ライラックが慌てて自分のコップを探した。
彩心が指で示すと、両手で持ち上げる。
「乾杯!」
差し出したコップへ、あちこちからグラスが寄った。
軽い音が鳴るたび、ライラックが相手の顔を見て笑う。最後に彩心も縁を合わせた。
「おめでとう、ライラック」
「ありがとう!」
コップを置くと、向かいの凪と目が合った。
「彩心も」
「……私ですか?」
凪が小さく頷く。
「自分で、あの人を止めたんでしょう」
「はい。ライラックと、一緒に」
「うん。……よく頑張ったね」
彩心は返事をしかけて、口を閉じた。
トンネルで倒れている老婆を見て、止められたと思った。けれど、それを凪に言ってもらえるとは思っていなかった。
「……ありがとうございます」
「ライラックもだよ」
キュウさんが身を乗り出した。
「彩心が描いて、お前さんが動かして。二人でやりきったんだろう。よく頑張ったねえ」
「うん!」
ライラックが胸を張る。
キュウさんは笑って、その赤い頭を撫でた。
「馬を出すまで、兎で近づかせなかったのもよかった」
オモイカネが言った。
「絵を描く時間は、自分で作らねばならんからな。あの速さの相手に、それができた」
「夢中だったので……」
「ならば後で思い返せ。うまくやれたという思い出の積み重ねが成長だ」
彩心は少し考え、頷いた。
「……はい」
隣のライラックと目が合う。嬉しそうに笑う顔を見て、彩心もようやく笑えた。
彩心の前にはオムライス、ライラックの前にはハンバーグが置かれた。
ライラックが身を乗り出す。皿から上る湯気を見て、鼻を近づけかけ、それから椅子へ座り直した。
「いただきます!」
ナイフとフォークを取り、皿の上で持ち方を確かめる。
彩心が手を伸ばしかけると、ライラックはハンバーグを押さえ、ゆっくり刃を動かした。切れた一口をフォークに刺し、口へ運ぶ。
噛む手前で一度止まった。
それから口を動かし、目を大きくする。
「……おいしい」
もう一口切って食べる。今度はすぐに噛み始めた。
彩心は、その横顔を見ていた。
「こういう味なんだ。ずっと、いい匂いだなって思ってたんだけど」
ライラックが皿を見下ろす。
急いで次を切ろうとして、フォークから滑らせた。もう一度押さえ直し、今度は少し小さく切った。
「慌てなくても、なくならないよ」
「うん。でも、おいしくて」
美晴の海老フライが一本、ライラックの皿へ載った。キュウさんからはグラタンが取り分けられる。
彩心もオムライスを少し分けると、ハンバーグの周りがすっかり埋まった。
「なんだか、お子様ランチみたい」
「おこさまランチ?」
「色々な料理が、一つのお皿に載ってるの」
「それ食べてみたい!」
彩心は笑った。
「じゃあ、次はそれにしようね」
ライラックは頷き、次の一口を切ろうとして手を止めた。
少し大きめにハンバーグを切り分け、彩心の取り皿へ載せる。
「彩心も食べて」
「ありがとう」
一口もらうと、ライラックがじっとこちらを見ていた。
彩心は飲み込んでから頷く。
「おいしいね」
「うん!」
出遅れた凪も、自分の皿から一切れ取って身を乗り出した。
その前へ、芙梨のカンペが出る。
『もう置くところない』
「食べたら空くよ!」
ライラックが答えた。
行き場のなくなった凪の一切れへ、心叫が自分の皿を差し出す。
「俺が食おうか?」
カンペの端が、心叫の頭をこつんと叩いた。
ライラックは海老フライを少し動かし、空いた場所を凪へ見せた。
「ここ、置けるよ」
凪がそっと一切れを載せる。
彩心は笑いながら、隣の頭を撫でた。赤い髪が指の間を滑る。ライラックは少しくすぐったそうに肩を上げ、それから、次はどれを食べようかと皿へ向き直った。
食後のプリンが届くと、ライラックは空になった皿を脇へ寄せた。
上に載った赤いさくらんぼを眺め、それからスプーンを取る。
「これ、ぷるぷるしてる」
皿を少し動かすと、プリンも揺れた。
もう一度動かそうとする手を、彩心がそっと止める。
「落とさないようにね」
「うん」
スプーンですくい、口へ運ぶ。
ライラックは一度唇を閉じ、それから驚いたように彩心を見た。
「すぐなくなった」
「口の中で溶けるでしょう」
「うん。甘い!」
さっきまであれだけ食べていたのに、スプーンは止まらなかった。最後まで取っておいたさくらんぼを頬張り、種を出したところで、ようやく満足そうに息をつく。
「また食べたい」
「うん。また来ようね」
オモイカネが時計を確かめ、席を立った。
「では、今日はここまでにしよう。新しい情報が入れば、また声をかける」
凪とキュウさんが頷く。
「分かった。こっちでも何か分かれば知らせるよ」
店を出ると、大きなタクシーが停まっていた。
オモイカネがこちらへ振り返る。
「六人乗れる車を呼んである。帰りまで手配してこそ、気の利いた主催というものだろう」
「ありがとうございます。お食事まで、ご馳走になってしまって」
彩心が頭を下げると、ライラックも隣で続いた。
「ごちそうさまでした!」
「うむ。また人に振る舞いたくなる、いい挨拶だ」
美晴が笑いながら手を振った。
「みんな、今日はゆっくり休んでね」
*
走り出して間もなく、後部座席は静かになった。
彩心は窓側で目を閉じ、その隣ではライラックが腕に抱きついて眠っている。後ろの列では、芙梨が心叫の肩へ頭を預けていた。心叫も腕を組んだまま、すっかり寝入っている。
キュウさんの隣で、凪の頭が揺れた。
曲がり角を抜ける拍子に肩へ寄りかかり、そのまま動かなくなる。
キュウさんはそっと手を添え、凪の頭を支えた。
後ろの席を見渡す。ライラックが眠ったまま彩心の腕を抱き直し、彩心もわずかにそちらへ体を寄せた。
「……みんな、よく頑張ったねえ」
小さく呟いてから、隣へ目を戻した。
知らせを聞いた時、凪はすぐに外へ飛び出した。
どれだけ力を使うか分かっている天狐も、ためらわずに出した。乗り込むなり行き先を告げ、着くまで前を見ていた背中を思い出す。
「お前さんもだよ」
キュウさんは、肩に預けられた頭を撫でた。
凪は目を覚まさず、少しだけ顎を引いた。
*
骨董屋の前で、彩心は目を覚ました。
窓の外を見てから、慌てて隣を確かめる。ライラックはまだ腕にしがみついていた。
「着いたよ。起きられる?」
「……もう?」
眠そうな声に笑い、手を繋いで車を下りた。
凪が店の鍵を開ける。その後ろへ続くと、暗い店内に、見慣れた棚の輪郭が浮かんだ。
明かりがついた。
古い器も、奥のカウンターも、出発した時のままだった。
「……なんだか、久しぶりですね」
「四日くらいなんだけどね」
キュウさんが言った。
彩心は鞄を持ち直し、店の奥へ目を向けた。
別荘も居心地はよかった。それでも、ここへ戻ってくると肩の力が抜ける。
「ただいま」
小さく言うと、隣のライラックも真似をした。
「ただいま……」
語尾が欠伸に変わる。
彩心が部屋へ連れていく間に、芙梨と心叫も奥へ引っ込んだ。荷物を置く音がして、その後は話し声もしなくなった。
ライラックは布団へ入ると、すぐに目を閉じた。
まだ脱ぎ慣れない靴下を彩心が片づけ、掛け物を直しても、起きる気配はなかった。
部屋を出ると、廊下で凪が待っていた。
タクシーでは眠っていたのに、今は目が覚めているようだった。
「彩心。少し、話してもいい?」
「はい」
凪は店の方へ目を向けた。
「……外で」
彩心は頷き、後についていった。
扉を出ると、夜の空気が頬に触れた。
店先の明かりの下で、凪が足を止める。彩心も隣へ並び、顔を向けた。
凪は少し黙っていた。
それから、こちらを見た。
「……彩心達は今回のことから身を引いてほしい」
洋食屋「ぐっどlack」
・凪
ポークソテー 3,200円
・キュウさん
海老グラタン 2,800円
・彩心
オムライス 2,400円
・ライラック
ハンバーグステーキ 3,000円
自家製カスタードプリン 800円
・美晴
大海老フライ 3,300円
・芙梨
昔ながらのナポリタン 2,200円
・心叫
ロースカツカレー 2,800円×3
黒毛和牛のビーフシチュー 4,200円×2
大海老フライ 3,300円×2
ライス 500円×6
小計 26,400円
・オモイカネ
特選黒毛和牛フィレステーキ 18,000円
合計 62,100円(税込)
※飲み物は、店からのサービス。
「遠慮など不要とは言ったが、ライスを6回頼む奴は初めて見たぞ」
「そっちの肉、一口で何杯食えると思ってる」




