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拾伍 よく頑張ったね

 


トンネルの奥で、老婆は倒れたまま動かなかった。


 止められた。


 彩心は膝の上のスケッチブックを見下ろした。角が折れ、白紙の頁には汗が落ちている。まともに立てもしないのに、スケッチブックを見ていると、口元が少し緩んだ。芙梨に助けを呼ばず、自分であの人を止められた。


 けれど、もう一度奥を見ると、老婆はまだ指一本動かしていなかった。あの人が息をしているか、ここからでは分からない。


 確かめようと壁に手をついた。膝は伸びず、手のひらだけがざらついた壁を滑った。


「彩心?」


 すぐそばでライラックが呼んだ。大丈夫と答えるつもりで口を開けたが、息しか出なかった。


 外へ目を向ける。芙梨の姿は見えない。道の向こうに薄く白い煙が残っている。あそこまで行かなきゃと思って、スケッチブックを引き寄せた。閉じようとした指が表紙を掴み損ね、折れた頁がぱらりと戻った。


 道の向こうから、重い足音が近づいてきた。


 また誰か来た。そう思ったのに、もう顔を上げる力が残っていなかった。ライラックが肩のそばを離れて、道の方へ出る。


「彩心、こっち見て。ほら」


 促されて目を上げると、煙の薄いところから、白い前脚が踏み出した。彩心のすぐ前で止まり、伏せるように折り曲がる。見上げた先に、大きな狐の顔があった。


 白い背から誰かが降りてくる。足音が、すぐそばで止まった。


「彩心」


 そこで意識が途切れた。


 *


 目を開けると、すぐ前に凪の背中があった。


「彩心、起きた?」


 左からライラックの声がした。

 彩心は顔を向けようとして、膝の下に広がる白い毛に気づいた。座ったまま、天狐の背に乗っている。


 声の方へ目をやると、木々の梢がずっと下を流れていた。


 空を走っている。


「よかった。ぼく、何回も呼んだんだよ」


 すぐ隣から、またライラックの声がした。

 見れば、赤い髪の少年が彩心の腰に両腕を回し、こちらを見上げている。


「……え?」


 彩心は少年の肩越しに、いつもなら赤い筆が浮いているあたりを見た。


「ライラック?」

「うん。ぼくだよ」


 思わず体を捻ると、右隣から伸びた手が背中を支え直した。

 芙梨だった。左手は彩心の背に添えたまま、右手で膝下の心叫を拾い上げる。


「急に動かないで。落ちるかと思った」

「芙梨さん……無事だったんですね」

「それ、こっちの台詞」

「こいつ、さっきから一度も手ぇ離してないぞ」

「心叫」


 心叫の口を少し下げてから、芙梨は彩心の顔を覗き込んだ。

「気持ち悪くない?」

「大丈夫です。背中はちょっと痛いですけど」


 先頭の凪が肩越しに振り返った。

「もうすぐ着くから。そのままでいて」

「あの、トンネルの……おばあちゃんは?」

「息はあったよ」


 彩心は息を吐き、掴んでいた白い毛を放した。

 腰に回った腕は、まだ緩まない。


「ライラック。いつから、その姿に?」

「彩心が落ちそうだったから、支えなきゃって。手があれば掴めるのにって思ったら、こうなってた」


 ライラックが自分の腕を見下ろした。

「でも、どこを持てばいいか分かんなくて」

「それで、ずっと抱きついてたの?」

「うん。苦しかった?」

「ううん。ありがとう」


 彩心が腰に回った手に触れると、ライラックはようやく笑った。


「着くまでは、このままでいい?」

「うん。私もその方が安心する」


 天狐が駆ける高さを落とした。木々の切れ間に建物の屋根が見える。


「あそこ。オモイカネ達が待ってる」


 凪が前を向いたまま言った。

 芙梨の手が背中に添えられたまま、彩心は屋根を見下ろした。


 


 天狐は建物の裏手に降りた。

 地面へ足をつくと、膝が頼りなく曲がる。芙梨が肘を支えてくれた。ライラックも左側から手を伸ばしたが、彩心の顔を見て、腕を引き寄せる代わりに手を握った。


「ゆっくりでいいよ」

「うん。ありがとう」


 凪が狐面を外すと、背後の大きな白い姿がほどけていった。人の姿に戻ったキュウさんが裏口へ向かい、扉を開ける。


 廊下を進んだ先で、彩心は足を止めた。


 本棚が、奥まで続いていた。

 棚の間を抜ける通路が何本もあり、見渡せる範囲だけでも、どれくらいの本があるのか分からない。窓際には閲覧用の机が並び、その向こうの階段は上の階へ延びている。


「……ここ、図書館ですか?」

「うん。美晴さんがよく使ってるところ」


 凪について歩きながら、彩心は棚を見上げた。

 動物や植物の図鑑が並ぶ一角もある。別荘で読んでいたものと同じ背表紙を見つけ、その隣にある分厚い本へ目が移った。


「彩心、あっちにも絵がある」

 ライラックが手を引く。

「本当だ。また今度、一緒に見に来ようね」

「今は?」

「今日は、先にお話があるから」


 ライラックは名残惜しそうに棚を見てから、彩心の隣へ戻った。


 奥の部屋から、美晴が顔を出した。

「彩心ちゃん。歩いて大丈夫?」

「はい。もう大丈夫です」

 彩心は背筋を伸ばし、笑ってみせた。

「こっちに座ってね」


 美晴は扉を大きく開け、通れるように脇へ寄った。

 部屋にはオモイカネもいた。机に広げていた紙を寄せ、彩心が座れるよう椅子を引く。


「見事な馬だった。だが、あの大きさでは消耗も激しいだろうな」

「……見てたんですか?」

「当然だ。俺の目を何だと思っている」


 腰を下ろすと、張っていた背中が少し緩んだ。

 ライラックは隣で立ち止まり、空いた椅子と彩心を見比べる。


「ここ、座っていい?」


 自分の膝を指され、彩心は笑った。

「うん。おいで」


 登ってきた体を両腕で支える。腕の中に収まる重さが、まだ不思議だった。

 美晴もその赤い髪へ目を留め、少し表情を緩めた。


「ライラックくんも、びっくりしたね」

「うん。彩心が急に返事しなくなったから」


 彩心はその肩を撫でた。

 目の前に水の入ったコップが置かれ、礼を言って受け取る。飲み込んで初めて、喉がひどく乾いていたことに気づいた。


「すごく広いですね、ここ」

「でしょう。私も、気づくと一日いることがあって」

 美晴は入口の方へ目を向けた。

「探してた本の隣に、面白そうなのがあると、ついね」

「全部読もうと思ったら、どれくらいかかるんでしょう」

「全部は、まだだなあ。七割近くは読んだと思うけど」


 彩心はコップを置きかけた手を止めた。

「……七割?」

「上の階もあるぞ」

 オモイカネが付け加えた。


 彩心は、さっき見た階段を思い出した。

 膝の上でライラックが顔を上げる。

「美晴、そんなにおはなし知ってるの?」

「お話以外もあるけどね。今度、一緒に探そうか」

「うん!」


「その前に、今日の話だ」


 オモイカネが机へ片手をついた。

「姿は見ていたが、声までは届かん。あの女が何を言っていたか聞きたい」


 彩心はコップから手を離した。

 芙梨が心叫を口元へ寄せる。


「まず、注射した後。自分の薬でラリってるって言ってた。元気になるやつだけど、効きすぎたらしいよ」

「戻せるのか聞いても、『まだ試してるところ』って……」


 彩心は膝の上へ目を落とした。

「あのおばあちゃん、まだ苦しんでたんです。でも、あの女は、そのまま行こうとして」

「少し歩いてから戻ってきた。やっぱり見られてるのはまずいって。それで瓶を投げてきたんだ」


「何かの手当てに失敗したんじゃ、なかったんだね」

 美晴の声が低くなった。

「どうなるか、見てたんだ」

「ああ。効き目を楽しんでいたわけか」


 オモイカネが机の紙へ目を落とす。

「凪が着いた時にも、何か喋っていたな」


 彩心は芙梨を見た。

 離れて戦っていた間のことは、煙と、遠くから響く声しか知らない。


「あの女、どうなったんですか?」

「逃げたよ。凪の天狐を見たら、すぐに」

 芙梨は凪へ目を向けた。

「『これはさすがに、無事じゃ済まなそうだねぇ』って。それで鞄から何本か瓶を出して、足元にまとめて割ったんだ」


「こっちも、前が見えなくなってねえ」

 キュウさんが言った。

「煙を抜けた時には、もういなかった。道をそのまま走っていったのか、脇へ下りたのかも分からなかったよ」

「私たちが話してる間にも、逃げ方は考えてたんだと思う。煙を出す直前まで、普通にこっちへ喋ってたから」


 芙梨が少し間を置いた。


「『私たち、グランギニョルっていうんだ。近いうちに楽しいことするから、楽しみにしててね』って」


 凪が顔を上げた。

 机についていたオモイカネの指も止まった。


「……自分で、そう名乗ったのか?」

「うん」

「私が芙梨のところへ着いた時には、女はもう鞄に手を入れてた。何を話したかまでは、聞こえなくて」

 凪が言った。

「姿がなくなったのを確かめてから、彩心のところに」

「奥のトンネルにいるって、私が伝えたんだ」


 彩心は自分の手を見た。

 あの女は逃げるための煙を出し、その向こうから名前と予告だけを残していったのだ。


「どうやら、会議で追っていた連中と同じだな」

 オモイカネが言った。

「知ってる人たちなんですか?」

「人柄を知りたい相手ではないが、名前は聞かされている」


 凪が机の紙を一枚、こちらへ向けた。

 鎧の絵と、その脇に記された名前がある。


 武者鎧の九十九神 落命野晒(らくめいのざらし)


 彩心は文字を目で追った。

「これが、あの女と……?」

「グランギニョルに封印を解かれた。今回の会議は、その対策」


 オモイカネが紙の端を押さえた。

「昔、暴れて封じられた武者鎧だ。神奈川の四十七傑が、代々その情報を引き継いできた。今の代表も、封印を解かれたことには相当責任を感じている」

「何度も謝ってたねえ」

 キュウさんが言った。

「けど、向こうも黙って見てたわけじゃない。県内で暴れる連中を追いかけて、八人いるところまでは突き止めたんだ」


「八人……」


 彩心は、鞄から次の小瓶を取り出す女の姿を思い浮かべた。


「グランギニョルという名前も、そいつらが自分で名乗っていたそうだ」

 オモイカネが続けた。

「神奈川で相当騒ぎを起こした上、今度は埼玉だ。気ままな旅行にしては、はた迷惑にも程がある」


「落命野晒は、何ができるの?」

 芙梨が鎧の絵を指した。

「詳しいことは分かっていない。神奈川側に伝わっていたのも、ひどく強く、封じるしかなかったという話だ」

 オモイカネは顎を上げた。

「まあ、俺ほどではないにせよな」

「比べたことないでしょう」

 美晴が言った。


 オモイカネは咳払いをした。

「いずれにせよ、九十九神だ。騒ぎを起こす八人を捕まえれば済む話ではなくなった」


「最初は、近くの県にも知らせようってことだったんだって」

 美晴が彩心へ向き直った。

「でも、神奈川ではかなり被害が出てるし、解放された鎧の力も分からない。各県で別々に動くより、一度集まって対策を決めようって。それで関東の四十七傑が集まったの」


 彩心は凪を見た。

「凪さんたちも、それで呼ばれたんですね」

「うん。オモイカネに声をかけられて」


「凪ちゃんたちは、九十九神と何度も会ってるでしょう」

 美晴が続けた。

「話を聞くだけで終わらなかった相手もいるし、実際に止めてきた。そういう経験のある人には、来てもらいたかったんだよ」

「それに、強いからな」

 オモイカネが言った。

「代表という肩書きだけで九十九神を止められるわけでもあるまい。役に立つ話が聞けて、いざという時には戦える。呼ばない手はない」


 凪は返事をせず、少しだけ椅子へ座り直した。

 彩心は鎧の描かれた紙へ目を戻す。長野の山で、大陀羅踏地が土を纏って立ち上がった姿を思い出した。

 ああいう相手を、まだ何も分からないまま探さなければならないのだ。


「まずは、今日あの女が名乗ったことを伝えておこう。近いうちに何かするという予告も、聞き流せん」


 オモイカネが紙を引き寄せた。

「話してくれて助かった。目だけでは拾えないことも、これで分かった」


 美晴が彩心のコップへ水を注ぎ足した。

 彩心は礼を言い、両手で受け取る。膝の上のライラックも、机に置かれた鎧の絵をじっと見つめていた。


 静かな部屋に、腹の鳴る音がした。


 彩心が顔を上げると、凪が俯いていた。

 机の上の紙を揃え、もう一度揃え直している。耳が赤かった。


「……ごめん」

「謝ることじゃないでしょう。もうこんな時間だし」

 美晴が壁の時計を見た。


 キュウさんが隣から凪を覗き込む。

「そういえば、朝から何も食べてなかったねえ」

「……うん」


 小さくなった声に、彩心は気づかなかったふりをして窓の外へ目を向ける。すでに外は茜色だった。


「ならば食事にしよう。近くにいい店がある」

 オモイカネが紙を揃えた。

「俺が勧めるんだ、味の保証はするぞ」


 膝の上のライラックが顔を上げた。

「ぼくも、食べられるんだよね?」


 彩心はその顔を見た。

 今までは、皿へ近づいて眺めたり、どんな味なのか尋ねたりするだけだった。


「うん。何が食べたい?」

「ハンバーグ! あと、そばと、おやき。それと、プリン。上に赤いのが乗ってるやつ!」


 指を折りかけ、途中で自分の手へ目を落とす。それから、もう一本折った。

「アイスも!」


「一度に全ては無理だろうが、いくつかはあるぞ。洋食屋だからな」

 オモイカネが答えた。

「せっかくその姿になれたんだ。お祝いもしないとねえ」

 キュウさんの言葉に、ライラックが彩心を振り返る。


「行こう!」

「うん。行こうね」


 芙梨の手元で、心叫が口を開いた。

「俺も食う」

「お店に着いてからね」


 *


 ライラックは彩心の手を握ったまま、運ばれていく皿へ顔を向ける。席へ案内される途中でも、別のテーブルに置かれた料理を見て、歩くのが少し遅くなった。


 オモイカネが店員と話している間に、心叫も人の姿へ戻った。

 芙梨はカンペを取り出し、隣に座る心叫へ見せる。


『今日はライラックのお祝いだからね』


「分かってる」


 返事を聞いてから、芙梨は品書きを開いた。


「今日は俺のおごりだ。好きなものを頼むといい」

 オモイカネが椅子へ腰を下ろす。

「これほど晴れがましい日に、遠慮など不要だからな」

「ありがとうございます」

 彩心が頭を下げると、隣のライラックも真似をした。

「ありがとございます!」


 ライラックは写真の並ぶ頁を覗き込んだ。

「これ、食べてみたかったんだ」

「ハンバーグ?」

「うん。あ、こっちも。卵で包んであるやつ」


 指が隣の写真へ移る。

 次の頁をめくると、今度は海老フライで止まった。


「これ、さくさくって言ってたやつ?」

「そうだよ」

「こっちは?」

「グラタン。熱いから、食べる時は気をつけないとね」


 ライラックはしばらく写真を見比べていたが、やがて困ったように彩心を見上げた。


「……決まらない」

「私と違うのを頼んで、少しずつ分けようか」

「いいの?」


 彩心が頷くと、美晴も品書きをこちらへ傾けた。

「私のも分けてあげる。食べてみたいの、決めて」

「じゃあ、私も別のにしようかねえ」

 キュウさんが隣から覗き込む。


 ライラックはもう一度、最初の頁へ戻った。

「ぼく、ハンバーグにする。最初に食べたいって思ったから」

「じゃあ、私はオムライスにしようかな」

「あとで、プリンも食べていい?」

「食べ終わって、まだ入りそうだったらね」


 注文を取りに来た店員へ、それぞれの料理を伝えていく。

 心叫が頼んだ皿数に芙梨のペンが止まったが、彼は既に品書きを閉じていた。


 飲み物が揃ったところで、オモイカネがグラスを持ち上げた。


「では、ライラックの成長を祝って――」


 ライラックが慌てて自分のコップを探した。

 彩心が指で示すと、両手で持ち上げる。


「乾杯!」


 差し出したコップへ、あちこちからグラスが寄った。

 軽い音が鳴るたび、ライラックが相手の顔を見て笑う。最後に彩心も縁を合わせた。


「おめでとう、ライラック」

「ありがとう!」


 コップを置くと、向かいの凪と目が合った。


「彩心も」

「……私ですか?」


 凪が小さく頷く。

「自分で、あの人を止めたんでしょう」

「はい。ライラックと、一緒に」

「うん。……よく頑張ったね」


 彩心は返事をしかけて、口を閉じた。

 トンネルで倒れている老婆を見て、止められたと思った。けれど、それを凪に言ってもらえるとは思っていなかった。


「……ありがとうございます」


「ライラックもだよ」

 キュウさんが身を乗り出した。

「彩心が描いて、お前さんが動かして。二人でやりきったんだろう。よく頑張ったねえ」

「うん!」


 ライラックが胸を張る。

 キュウさんは笑って、その赤い頭を撫でた。


「馬を出すまで、兎で近づかせなかったのもよかった」

 オモイカネが言った。

「絵を描く時間は、自分で作らねばならんからな。あの速さの相手に、それができた」

「夢中だったので……」

「ならば後で思い返せ。うまくやれたという思い出の積み重ねが成長だ」


 彩心は少し考え、頷いた。

「……はい」


 隣のライラックと目が合う。嬉しそうに笑う顔を見て、彩心もようやく笑えた。


 彩心の前にはオムライス、ライラックの前にはハンバーグが置かれた。

 ライラックが身を乗り出す。皿から上る湯気を見て、鼻を近づけかけ、それから椅子へ座り直した。


「いただきます!」


 ナイフとフォークを取り、皿の上で持ち方を確かめる。

 彩心が手を伸ばしかけると、ライラックはハンバーグを押さえ、ゆっくり刃を動かした。切れた一口をフォークに刺し、口へ運ぶ。


 噛む手前で一度止まった。

 それから口を動かし、目を大きくする。


「……おいしい」


 もう一口切って食べる。今度はすぐに噛み始めた。

 彩心は、その横顔を見ていた。


「こういう味なんだ。ずっと、いい匂いだなって思ってたんだけど」


 ライラックが皿を見下ろす。

 急いで次を切ろうとして、フォークから滑らせた。もう一度押さえ直し、今度は少し小さく切った。


「慌てなくても、なくならないよ」

「うん。でも、おいしくて」


 美晴の海老フライが一本、ライラックの皿へ載った。キュウさんからはグラタンが取り分けられる。

 彩心もオムライスを少し分けると、ハンバーグの周りがすっかり埋まった。


「なんだか、お子様ランチみたい」

「おこさまランチ?」

「色々な料理が、一つのお皿に載ってるの」

「それ食べてみたい!」


 彩心は笑った。

「じゃあ、次はそれにしようね」


 ライラックは頷き、次の一口を切ろうとして手を止めた。

 少し大きめにハンバーグを切り分け、彩心の取り皿へ載せる。


「彩心も食べて」

「ありがとう」


 一口もらうと、ライラックがじっとこちらを見ていた。

 彩心は飲み込んでから頷く。

「おいしいね」

「うん!」


 出遅れた凪も、自分の皿から一切れ取って身を乗り出した。

 その前へ、芙梨のカンペが出る。


『もう置くところない』


「食べたら空くよ!」

 ライラックが答えた。

 行き場のなくなった凪の一切れへ、心叫が自分の皿を差し出す。

「俺が食おうか?」


 カンペの端が、心叫の頭をこつんと叩いた。


 ライラックは海老フライを少し動かし、空いた場所を凪へ見せた。

「ここ、置けるよ」


 凪がそっと一切れを載せる。

 彩心は笑いながら、隣の頭を撫でた。赤い髪が指の間を滑る。ライラックは少しくすぐったそうに肩を上げ、それから、次はどれを食べようかと皿へ向き直った。


 食後のプリンが届くと、ライラックは空になった皿を脇へ寄せた。

 上に載った赤いさくらんぼを眺め、それからスプーンを取る。


「これ、ぷるぷるしてる」


 皿を少し動かすと、プリンも揺れた。

 もう一度動かそうとする手を、彩心がそっと止める。


「落とさないようにね」

「うん」


 スプーンですくい、口へ運ぶ。

 ライラックは一度唇を閉じ、それから驚いたように彩心を見た。


「すぐなくなった」

「口の中で溶けるでしょう」

「うん。甘い!」


 さっきまであれだけ食べていたのに、スプーンは止まらなかった。最後まで取っておいたさくらんぼを頬張り、種を出したところで、ようやく満足そうに息をつく。


「また食べたい」

「うん。また来ようね」


 オモイカネが時計を確かめ、席を立った。

「では、今日はここまでにしよう。新しい情報が入れば、また声をかける」

 凪とキュウさんが頷く。

「分かった。こっちでも何か分かれば知らせるよ」


 店を出ると、大きなタクシーが停まっていた。

 オモイカネがこちらへ振り返る。


「六人乗れる車を呼んである。帰りまで手配してこそ、気の利いた主催というものだろう」

「ありがとうございます。お食事まで、ご馳走になってしまって」

 彩心が頭を下げると、ライラックも隣で続いた。

「ごちそうさまでした!」

「うむ。また人に振る舞いたくなる、いい挨拶だ」


 美晴が笑いながら手を振った。

「みんな、今日はゆっくり休んでね」


 *


 走り出して間もなく、後部座席は静かになった。


 彩心は窓側で目を閉じ、その隣ではライラックが腕に抱きついて眠っている。後ろの列では、芙梨が心叫の肩へ頭を預けていた。心叫も腕を組んだまま、すっかり寝入っている。


 キュウさんの隣で、凪の頭が揺れた。

 曲がり角を抜ける拍子に肩へ寄りかかり、そのまま動かなくなる。


 キュウさんはそっと手を添え、凪の頭を支えた。

 後ろの席を見渡す。ライラックが眠ったまま彩心の腕を抱き直し、彩心もわずかにそちらへ体を寄せた。


「……みんな、よく頑張ったねえ」


 小さく呟いてから、隣へ目を戻した。


 知らせを聞いた時、凪はすぐに外へ飛び出した。

 どれだけ力を使うか分かっている天狐も、ためらわずに出した。乗り込むなり行き先を告げ、着くまで前を見ていた背中を思い出す。


「お前さんもだよ」


 キュウさんは、肩に預けられた頭を撫でた。

 凪は目を覚まさず、少しだけ顎を引いた。


 *


 骨董屋の前で、彩心は目を覚ました。

 窓の外を見てから、慌てて隣を確かめる。ライラックはまだ腕にしがみついていた。


「着いたよ。起きられる?」

「……もう?」


 眠そうな声に笑い、手を繋いで車を下りた。

 凪が店の鍵を開ける。その後ろへ続くと、暗い店内に、見慣れた棚の輪郭が浮かんだ。


 明かりがついた。

 古い器も、奥のカウンターも、出発した時のままだった。


「……なんだか、久しぶりですね」

「四日くらいなんだけどね」

 キュウさんが言った。


 彩心は鞄を持ち直し、店の奥へ目を向けた。

 別荘も居心地はよかった。それでも、ここへ戻ってくると肩の力が抜ける。


「ただいま」


 小さく言うと、隣のライラックも真似をした。

「ただいま……」


 語尾が欠伸に変わる。

 彩心が部屋へ連れていく間に、芙梨と心叫も奥へ引っ込んだ。荷物を置く音がして、その後は話し声もしなくなった。


 ライラックは布団へ入ると、すぐに目を閉じた。

 まだ脱ぎ慣れない靴下を彩心が片づけ、掛け物を直しても、起きる気配はなかった。


 部屋を出ると、廊下で凪が待っていた。

 タクシーでは眠っていたのに、今は目が覚めているようだった。


「彩心。少し、話してもいい?」

「はい」


 凪は店の方へ目を向けた。

「……外で」


 彩心は頷き、後についていった。


 扉を出ると、夜の空気が頬に触れた。

 店先の明かりの下で、凪が足を止める。彩心も隣へ並び、顔を向けた。


 凪は少し黙っていた。

 それから、こちらを見た。


「……彩心達は今回のことから身を引いてほしい」

洋食屋「ぐっどlack」


・凪

 ポークソテー 3,200円


・キュウさん

 海老グラタン 2,800円


・彩心

 オムライス 2,400円


・ライラック

 ハンバーグステーキ 3,000円

 自家製カスタードプリン 800円


・美晴

 大海老フライ 3,300円


・芙梨

 昔ながらのナポリタン 2,200円


・心叫

 ロースカツカレー 2,800円×3

 黒毛和牛のビーフシチュー 4,200円×2

 大海老フライ 3,300円×2

 ライス 500円×6

 小計 26,400円


・オモイカネ

 特選黒毛和牛フィレステーキ 18,000円


合計 62,100円(税込)


※飲み物は、店からのサービス。


「遠慮など不要とは言ったが、ライスを6回頼む奴は初めて見たぞ」

「そっちの肉、一口で何杯食えると思ってる」

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