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最終話 人形の家

 うちの近所の公園の一隅に、お稲荷さんの祠がある。

 可愛い陶器のお狐様が二体まつられていて、わたしの身長より少し低めの、おもちゃのような祠だ。

 雑木林の中にあるので、秋口になると、祠には十円玉の他にドングリや松ぼっくりがお供えされる。たぶん近所の子供たちの手によるものだろう。わたしも幼いころ落ちていた椿の花をお供えした覚えがある、それぐらい昔からある祠だ。

 わたしはずっと、ここに住みたいと思っていた。

 皆が季節の果物や油揚げや木の実をそなえる小さな可愛い祠。いつも閉じられている観音開きの扉の向こうの、薄暗い空間。丸まってあそこに住めたらどんなにいいだろう。きっとそこには、外界の侵入を許さない、静かで恒久的な平和と幸福があるのだろう。なんとなく、勝手にそう思ってきた。

 従来、そんな風に、ちんまりと閉じられた空間が好きだった。

 電化製品を買うともれなくついてくる段ボール箱。空洞になると入り込んで蓋をする。猫と同じ習性が昔のわたしにはあった。

 もっと昔にさかのぼれば、幼稚園に入る前、親が買ってくれた木製の、色のついていない愛想のない積み木。それで閉じられた四角い空間を作り、さらに二階建てにし、「階段」をつけるのが大好きだった。

 積み木でつくる階段は、なぜかわたしの大好物だったのだ。

 その階段を上って積み木の箱に入る、小人の自分を想像する。それだけで涎が出るぐらい幸福だった。積み木の隙間から漏れる光と影、静寂の四角い空間。

 どうしたら自分はそこに入れるのだろう。どうしたら一生、そこに住めるのだろう。

 そのうち、家じゅうの傘を開いて同心円状に重ねてドームにし、藤棚の下に「傘ドーム」を作ってそこでご飯を食べる、という遊びを覚えた。おにぎりと漫画を持ち込んでドームの中で食べる。そこでの『雨』を体験したくて、父親に「ホースで水をかけて」と頼んだことがある。

 付き合いのいい父は、勢いよくホースで水をかけてくれた。

 バラバラバラバラっと音を立てるドームの中で、大興奮しておにぎりを食べる。あの喜びは、今思い出しても、他に比べるものがないぐらいだ。「ああここがあってよかった、自分は幸福だ」と言い聞かせながら食べるシソ昆布のおにぎりのおいしさといったら。

 どうしてあんなに「小さくて、本来住むのに適していない空間ごっこ」が好きだったのだろうか。

 中学に入るころ、割りばしとベニヤ板と和紙とセロハンとボンドで、いっぱしの日本家屋のミニチュアを作りはじめた。とても凝った作りで、障子やふすまの開け閉めまでできていたと思う。だが、冬に入り父が庭でたき火を始めると、一緒にくべてもらって燃やしてしまった。

 多分、いつになっても自分はそこに住めない、ということを自覚したからだと思う。

 それと、いつの間にか芽生えたある種の惧れがあった。

 家の形をしたものを作ると、好むと好まざるにかかわらず、そこには何者かが訪れていつしか≪住んで≫しまうのではという、そういう惧れだ。

 家の形をしたものには、きっと何かが住まう。今少子化に伴って町のあちこちにできている「無人の家」にも、実は目に見えない何者かがきっちり住んでいるのだ。そう、わたしには思える。

 だから、あまり長いこと、そういう形のものを置いておかないほうがいいのだ。たぶん。


 もうひとつ、わたしのもの作り欲を刺激したものがある。それは「人形」である。

 リカちゃん人形が大流行していた幼いころ、わたしは両親に「お人形」を絶対に買ってもらえなかった。

 「人がみんな持っているからと、真似してものを欲しがるのはサルと同じだ」と父は言った。

 何で人と同じようにリカちゃんを持つとサルだということになるのかとんとわからなかったが、とにかく、買ってもらえなかったのである。

 そのころ女の子の間では、お友だちの家に遊びに行くということはすなわち、相手の持っているリカちゃんの服で着せ替えごっこをする、という交換会を意味していた。わたしはその輪からはじき出されたのだ。

 家には誰も来ず、また呼んでももらえなくなった。

 たとえサルでもいいから友だちとお人形で遊びたかった。その一種の「喪失感」は以来ずっと続いた。

 やがて高校の終り、ある日あるときひょいと「そうだ、欲しいものは自分で作ればいいんだ」ということに気付いたのだ。

 そこでまず、「人形作り」という本を買ってきた。写真入りで可愛い布人形のつくり方が書いてある、大変親切な本だった。

 肝心の顔の芯は、「木毛」という代物を布袋にパンパンにつめたもので作れとある。木毛とは桃やメロンを買うと箱の中に敷き詰められている、文字通り木でできた線維のようなやわやわなアレのことである。簡単には手に入らないので、鉛筆削りから取り出した削りかすを布袋に詰めた。布の上にフェルトを張る。顔の鼻の部分は針金に綿を巻いたものを立て、目の部分に目の形に切った麺ブロードを貼り(父の廃棄処分になったワイシャツの布を使った)眼尻と目頭は針に糸を通して裏側から塗って引っ張ってくぼませる。口元も口の形の厚紙を貼って、その上から肌色に染めた布(捨てる予定の肌着を使う)を貼る。胴体や手足の芯に詰めるのは綿。手足を折り曲げられるように、針金の芯を入れた。手足の五本指まで布を切って張り合わせて作り、丹念にデザイン画を描いて服を縫った。きちんと下着レースつきのペチコートも着せた。髪の毛は、最初は毛糸だったが人形専門の人口毛や美しい義眼を売っている店を見つけると、大喜びで買い込んだ。

 金髪をカーラーで巻き、縫い閉じてかつらを作り、鍋で煮て形を固定させる。皮膚用には極薄の牛革を伸ばしに伸ばして貼る。目の部分には宝石のような義眼を埋め込む。人形は独学なりにどんどんとリアルになっていった。

 やがて人形には設定ができた。最後に作った、黒髪にリアルな皮の肌の人形は、ロシアの亡命貴族の娘ということに、いつの間にかなっていた。名前はナターシャ、十七歳。モスグリーンのベルベットで重厚感のあるドレスを作り、同じ布でお洒落なつばひろの帽子も被せ、フエルトの靴も作った。義眼の色はグリーンだったと思う。これを完成させたとき、わたしは大学一年の秋を迎えていた。

 ちょっと自慢できる出来だったので、家に友人を呼んでわざわざ見せたりもした。人形作りに熱中する娘を多少心配していた両親も、この子は美人だと褒めてくれたものだ。

 得意になったわたしはピアノの上に人形を飾っていたが、なぜか三歳の甥っ子はものすごくこの人形を怖がり、この子の飾ってある部屋に入ることができなかった。

 いたずら心を起こしたわたしは人形を隠し、その甥っ子に「いま○○ちゃんと遊びたいってお部屋を出て行ったよ」と言ったら、本気で泣かせてしまった。

 人形の異変に気付いたのは、そのころだ。

 ピアノの上の中央部分に、壁にもたせ掛けて置いておいたのに、朝見ると部屋の中央に落ちている。

 落ちた、という距離ではない。ダイブしたとしか言えない距離である。

 異変はほかにもあった。人形の髪が伸び始めたのだ。

 気づいたのは前髪の変化だった。目の上で切りそろえた髪がいつの間にか伸びて、目を隠していたのだ。

 湿度の変化もあるのかと目が見えるところまで「散髪」してあげたのだが、ふと背中を見てわたしは仰天した。背中の中ほどまで髪が伸びていたのである。それも、ざんばらに、波打って。

 この子は最初、肩の下あたりで長めのおかっぱ風に髪を切りそろえていたのだ。それは家族中が知っている。

 両親に見せると「人工毛じゃなくてほんとの人の髪の毛だったんじゃないの」と言われたが、だからってあそこまで伸びるものだろうか。毛根もないのに。

 髪はそれからも伸び続けた。前髪は二度切った。最初は櫛でとけたつるつるの髪も、もうもつれて櫛が通らない。

 次第にわたしの中で、ナターシャが重荷になっていた。ほかの人形たちはみな人にあげてしまったが、ナターシャは友人の間でも噂の無気味人形になり、一番できのいいこの子には貰い手がなかった。まあ、当然である。そう触れ回ったのはわたしなのだから。

 わたしはナターシャに申し訳なく思いながらも、しまいに見るのも怖くなって、天袋の箱の中に幽閉してしまった。

 やがて何年か経ち、家のリフォームをするにあたって、一度天袋の中のものを整理しようということになった。

 ところが、ないのだ。

 箱の中のナターシャの姿が、消えているのである。

 誰もわざわざ天袋を開けて人形をどうにかした覚えはないという。それはそうだ、わたしの個室の天袋なのだから、いじるとしたらこのわたししかいない。でも、開けるのも怖い気がしたその空間に、わたしは絶対に手を触れていないのである。

 気の毒な亡命貴族の娘、そして作り手にさえ疎まれて屋根裏に幽閉された悲劇の美女ナターシャ人形は、どこにいったのであろうか。

 などということを今さら書いているのも、ふと、あの「イセエビ音」のこととつなげて考えてみたからである。

 最初にその音が聞こえたのは、寝室の枕元の壁の中からだった。

 かりかり、がさがさ、がりがりがりがり。なにか生きものが長い爪でひっかくようなあの生々しい音。

 最初は、年末になると送られてくる生きたイセエビを、刺身や天ぷらなどにして大量に食べたその報いだ、などと考えていたのだけれど。

 ある日、位置を直しても直しても足元にずれてゆくダブルベッドを直しながら、夫が言ったのである。

 「そういえば、このベッドの枕元の飾り棚スペースね。この下が物入れになってるの知ってる?」

 「え、そうだっけ? 知らなかった」

 「棚になってるこの天板を持ち上げると中に物が入るんだよ。もともとはきみの家なのに忘れたの? そう教えてくれたのはきみじゃない」

 「ええと、そうだっけ。物入れだとしたらずいぶん大きいスペースよね。何か入れたっけ」

 「それは知らないけど……」

 「……」

 何故忘れていたのだろう。

 もともとこの部屋は両親の寝室だった。わたしたちは結婚後、両親が裏に建てた家に引っ越した時、駅前のマンションからわたしの実家に移り住んだのだ。

 ベッドは買い換えたものの、位置は昔と同じ、北枕にして、壁に作り付けになっている収納の下の飾り棚にベッドの頭の部分をくっつけて……

 その頭の部分がどうしても、壁から離れて足元の方に移動してゆくのだ。

 飾り棚の上には、様々な異常現象から自分の身を守ろうとわざわざ教会から買ってきたキリスト像とか、本物の高価な水晶玉とか、本とかステンドグラスのライトとか小物入れとかがたくさん置いてある。

 何を考えているか、もうお分かりだと思う。

 ここが物入れだということを忘れていたということは、もしかして、この物入れの中に人形を入れたままそのことを忘れている、ということだって、アリかもしれないのだ。

 だとしたら、……妙につじつまがあう。

 あれは、造り主にうとまれて幽閉された人形が、気づいてほしくてたてた爪の音だったのじゃないか。

 壁の中を移動しながら訴えた孤独。

 ここから出して。わたしに気付いて……


 さて、今まで書いてきたことは嘘ではない。ないけれど、さらにおもしろくなるようにいろいろ得手勝手に話をつなげているのもまた事実である。

 どこまでいっても終わりがなく、原因もわからない家鳴りをはじめとした怪現象の一つの落としどころとして、自分が作った人形に怨まれている、というのも、話としては面白いのじゃないかと。

 正解かどうかは、それこそ飾り棚の上のものをみんなどかして、中をのぞいてみればわかることだ。

 で、いまのところ、やるかと言われれば、やる気はない。

 なんか見るのが非常に怖い。というのもあるのだが、(えらい勢いで髪の毛もとぐろを巻いているだろうし)出てきたところで家の中に飾る気もなく、やるとしたら人形寺に供養に出すぐらいしかないけれど、多分ロシア正教会に属するナターシャ嬢がお寺で供養されてうれしいとも思えないからだ。

 見えないなりに、わたしの枕元で共存しているのが一番いいのではあるまいか。

 というわけで、いつまでも続けようと思えば続けられるこのエッセイも、ここらで幕にしようと思います。

 このエッセイを始めてからいままで、身の回りで、そして世界中で、それこそいろんなことがありました。

 結論としてつくづく思ったこと。


 どんな魔物や幽霊亡霊よりも、生きている人間がたぶん、一番怖い。


 ならば人形の亡霊や怪音とぐらい、わたしは同居いたしましょう。大きな世界の中の、小さな不思議の絶えない家の住民同士として。

 では、皆様のご活躍ご健勝を祈りつつ。


 ダスビダーニャ。


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