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第6話選ばれた朝

 翌朝、私は白い制服を着ませんでした。


 制服は、昨夜のまま壁に掛かっていました。


 皺がつかないように整えたスカート。


 形を直したリボン。


 今日も着るつもりで用意したものが、窓から入る朝の光を受けていました。


 私は、ほとんど眠れませんでした。


 目を閉じると、駅で別れた時の直哉の顔が浮かびました。


「また明日」


 彼はそう言いました。


 私は、少し浮かれた声で「またね」と返しました。


 目を開けるたび、白い制服が見えました。


 まだ朝なのだから、今から着替えて家を出れば、学校へ行けるような気がしました。


 いつもの列車に乗る。


 坂道を上る。


 図書室へ行く。


 昨日と同じ窓際の席に、直哉がいる。


 少し気まずそうに笑って、昨日できなかったことを思い出す。


 そんな一日が、まだどこかに残っているように思えました。


 けれど、階下から聞こえてきたのは、母が食器を並べる音ではありませんでした。


 知らない人と話す、弾んだ声でした。


 私は制服ではなく、昨日着ていた服へ袖を通しました。


 学校へ行く服ではありません。


 どこかへ出かけるために選んだ服でもありませんでした。


 何を着ればいいのか分からなかったので、いちばん目立たないものを選びました。


 鞄には、制服と教科書を入れようとしました。


 途中で手が止まりました。


 国立センターへ選ばれた者が、通知の翌朝には迎えられることを、私は知っていました。


 あの学校に通う平民の生徒なら、誰でも知っていることでした。


 学期ごとの検査が何のために行われているのかも。


 血液や身体の記録が、どこへ送られているのかも。


 学年から誰かが選ばれれば、その生徒が翌日から学校へ来なくなることも。


 知らないことではありませんでした。


 市営に選ばれる生徒は、時々いました。


 国立に選ばれる者は、ほとんどいませんでした。


 国立は、私たち平民にとって、簡単に届く場所ではありません。


 選ばれれば家族は喜ぶ。


 教師は誇る。


 学校の記録にも残る。


 けれど、それはいつも、自分ではない誰かの話でした。


 可能性があることと、それが自分の明日になることは、まるで違いました。


 教科書を一冊、鞄に入れました。


 図書室から借りていた本も入れました。


 返さなければならないと思ったからです。


 その上に白い制服を畳んで入れようとした時、母が部屋へ入ってきました。


「千鶴、何をしているの?」


「準備」


「荷物はいらないって書いてあったでしょう」


 母は、困ったように笑いました。


 昨夜から何度も見た顔でした。


 泣き腫らした目をしているのに、口元だけは嬉しそうでした。


「必要なものは、全部向こうで用意してくれるんですって。さすが国立ね」


「学校の本を返さないと」


「学校には、センターから連絡が行くそうよ」


「でも、借りたものだから」


「それも向こうでやってくれるわよ」


 母は私の鞄から本を取り出し、机の上へ戻しました。


 教科書も出しました。


 最後に、畳みかけていた制服を持ち上げました。


「これは、置いていきなさい」


 母は制服をもう一度ハンガーへ掛けました。


「もう着ないんだから」


 その言葉に、何も返せませんでした。


 母に悪気はありませんでした。


 母にとって私は、学校をやめさせられる娘ではなく、国立へ進む娘でした。


 教室に残れないのではなく、もっと上の場所へ選ばれた。


 そう思おうとしているのだと思います。


「髪、もう少し整えた方がいいんじゃない?」


「どうでもいいでしょう」


「最初の日なのよ」


「何の?」


 母は答えませんでした。


 代わりに、私の髪へ手を伸ばしました。


 私は避けませんでした。


 母は昔から、式の日になると私の髪を触りたがりました。


 入学式。


 表彰式。


 学校の面談。


 母にとっては、今日もその続きなのでしょう。


 選ばれた娘を、きれいな姿で送り出したい。


 ただ、それだけでした。


 居間へ下りると、弟はもう起きていました。


 普段ならまだ眠そうにしている時間でした。


「お姉ちゃん、今日から行くの?」


「うん」


「国立って、ご飯もすごいの?」


「知らない」


「部屋も大きい?」


「知らないよ」


「帰ってきたら、すごい人になるんでしょう?」


 弟は昨日と同じ顔で笑っていました。


 何も分かっていない顔でした。


 私も、弟と同じ年だったなら、きっと同じ顔をしたのだと思います。


「そうみたい」


「じゃあ、帰ってきたら何か買って」


「何がいいの?」


「まだ決めてない」


「決めておいて」


「うん」


 弟は嬉しそうにうなずきました。


 帰ってくるのがいつになるのか、聞きませんでした。


 私も言いませんでした。


 父は、昨夜と同じ椅子に座っていました。


 テーブルの上には、何枚もの書類が並んでいました。


 家族への補償。


 税の免除。


 住居支援。


 弟の進学に関する優遇。


 私が国立へ入ることで、この家に与えられるものが、細かく書かれていました。


 父はその書類を読んでいるようで、ほとんど同じ場所を見続けていました。


「お父さん」


 呼ぶと、父はようやく顔を上げました。


「学校へ、一度行きたい」


 父は何も言いませんでした。


「授業に出たいわけじゃない。話をしたい人がいるの」


 父の目が、一瞬だけ動きました。


 母が台所から顔を出しました。


「学校への連絡は、センターがしてくれるって言ったでしょう」


「学校じゃなくて、個人的に話したい人がいるの」


「千鶴」


 母の声が少し硬くなりました。


「決まりなのよ」


「分かってる」


「分かっているなら、困らせることを言わないで」


「誰を?」


 母は答えませんでした。


 センターの人を。


 家族を。


 国を。


 たぶん、私以外の全員を。


 父は、書類の上に置いていた手を握りました。


 それから、低い声で言いました。


「電話くらい、いいだろう」


 母が父を見ました。


「でも、通知には」


「迎えが来るまでなら」


 私は立ち上がりました。


 居間の隅にある電話へ向かいました。


 直哉の家へ直接かけたことはありませんでした。


 番号も知りません。


 学校へかければ、誰かに繋いでもらえるかもしれない。


 まだ朝が早いので、先生も来ていないかもしれない。


 それでも、何もしないよりはよかった。


 受話器へ手を伸ばした時、家の前で車が止まる音がしました。


 母が窓へ駆け寄りました。


「来たわ」


 声が弾んでいました。


 玄関の向こうに止まっていたのは、黒い大きな車でした。


 市営センターの送迎車を、町で見たことがありました。


 何人かをまとめて乗せる、灰色の車でした。


 家の前に止まっているものは、それとはまるで違いました。


 磨かれた車体。


 曇りのない窓。


 扉には、国の紋章が小さく入っていました。


 車から、二人の女性が降りてきました。


 二人とも、淡い色の制服を着ていました。


 一人が書類の入った鞄を持ち、もう一人が玄関の前で深く頭を下げました。


「日向千鶴様のお宅でお間違いないでしょうか」


 母が慌てて扉を開けました。


「はい。そうです」


「このたびは、国立次世代育成センターへの選定、誠におめでとうございます」


 その言葉を聞いて、弟が私を見ました。


 母は何度もうなずきました。


 父は立ち上がりませんでした。


 女性は私を見ると、もう一度頭を下げました。


「日向千鶴様ですね」


「はい」


「本日より、私どもがお預かりいたします」


 お預かりします。


 荷物のような言葉だと思いました。


 けれど女性の声は、とても丁寧でした。


「お支度はお済みでしょうか」


「荷物は」


「私物は必要ございません。生活に必要な品は、すべて当センターでご用意しております」


 母が嬉しそうに私を見ました。


 昨夜、通知に書かれていたのと同じ言葉でした。


「学校へ、一度だけ連絡したいんです」


 私は言いました。


 女性の表情は変わりませんでした。


「在籍されていた学校へは、すでに正式な通知を行っております」


「学校ではなくて、人に」


「必要なご連絡につきましては、こちらで対応いたします」


「必要かどうかを決めるのは、私ではないんですか」


 母が息をのみました。


 女性は、少しも怒りませんでした。


「入所直後は、環境への適応と健康管理を優先いたします。個人的なご連絡はお控えいただいております」


「いつならできますか」


「今後の状況によります」


「それは、いつですか」


「現時点ではお答えできません」


 最後まで、丁寧な声でした。


 大声で命令されるより、ずっとはっきりしていました。


 私は直哉に何も伝えられない。


 昨日の「またね」が嘘ではなかったことも。


 約束を破りたくて来なかったのではないことも。


 全部、必要ではない個人的な事情として処理される。


 私は受話器から手を離しました。


 母が私の肩へ手を置きました。


「千鶴」


「分かってる」


 玄関へ向かいました。


 靴を履く時、弟が後ろからついてきました。


「お姉ちゃん」


「なに?」


「頑張ってね」


 私は振り返りました。


 弟は笑っていました。


 何を頑張るのかは、きっと知りません。


「うん」


 それしか言えませんでした。


 母は泣いていました。


「体に気をつけてね」


「うん」


「ちゃんと言うことを聞くのよ」


「うん」


「国立なんだから、大丈夫よ」


 何が大丈夫なのかは、言いませんでした。


 父は、最後まで玄関へ来ませんでした。


 私は一度だけ居間の方を見ました。


 父は椅子に座ったまま、こちらを見ていました。


 口が少し動きました。


 何か言おうとしたのだと思います。


 けれど、声は聞こえませんでした。


 私も何も言いませんでした。


 外へ出ると、女性が車の後部座席を開けました。


 中には柔らかそうな座席がありました。


 花のような香りがしました。


 私は車へ乗りました。


 扉が閉まりました。


 窓の向こうで、母と弟が手を振っていました。


 父は出てきませんでした。


 車が動き始めました。


 家が遠ざかりました。


 二階の窓が見えました。


 あの部屋には、白い制服が掛かったままでした。


 今日も着るはずだった制服。


 明日のために整えたリボン。


 借りたままの本。


 直哉に渡すはずだった返事の続き。


 全部、そこに残っていました。


 車は、学校へ向かう道との分かれ道を通りました。


 曲がりませんでした。


 私は窓から、その道が見えなくなるまで見ていました。


 国立次世代育成センターは、町から離れた高台にありました。


 白い壁と、大きな窓のある建物でした。


 塀はありましたが、高くはありませんでした。


 鉄格子もありませんでした。


 庭には手入れされた木が並び、玄関には季節の花が飾られていました。


 病院よりも明るく、学校よりも静かで、高級な宿泊施設に似ていました。


 入口へ近づくと、自動で扉が開きました。


 職員が並んで、私へ頭を下げました。


「ようこそお越しくださいました」


「選定、おめでとうございます」


「本日より、よろしくお願いいたします」


 何度も祝われました。


 私は何もしていませんでした。


 努力して試験に受かったわけでもありません。


 ここへ来たいと願ったこともありません。


 それでも、私の身体の中にある何かが評価され、私は選ばれました。


 受付では、名前と生年月日を確認されました。


 書類には、私の学校名、成績、家族構成、過去の検査結果が、すべて記されていました。


 私が今日まで生きてきた記録が、最初からここへ来るために集められていたように見えました。


 部屋へ案内されました。


 一人で使うには広すぎる部屋でした。


 白い寝具。


 明るい机。


 小さな冷蔵庫。


 洗面所と浴室も付いていました。


 棚には、服や下着が寸法どおりに揃えられていました。


 私が何も持ってこなくても生活できるよう、すべて用意されていました。


 ここへ来るための準備をしていなかったのは、私だけでした。


「こちらへお着替えください」


 職員が、淡い灰色の服を差し出しました。


「今着ている服は?」


「当センターで保管いたします」


「返してもらえますか」


「修了時にお返しいたします」


 いつになるのかは、聞きませんでした。


 私は一人になり、服を着替えました。


 用意されていた服は、驚くほど体に合いました。


 袖の長さも、腰回りも、直すところがありませんでした。


 鏡を見ると、知らない場所のために用意された私が立っていました。


 しばらくして、別の職員が説明に来ました。


 家族への補償。


 国立選定者としての待遇。


 健康管理。


 生活上の規則。


 業務。


 修了後に与えられる一代特権。


 どれも知っている言葉でした。


 教科書で読んだことがありました。


 学校でも説明を受けていました。


 選定対象となる平民の生徒なら、知らないでは済まされないことでした。


 けれど、書類の一番上に自分の名前があるだけで、言葉はまるで違って聞こえました。


「何かご質問はございますか」


 職員が尋ねました。


「学校へ戻ることは」


「ございません」


「家族には会えますか」


「許可された面会日に限り可能です」


「友人は?」


「ご家族以外との面会は、原則として認められておりません」


 恋人は、と聞きかけました。


 昨日から恋人になったばかりの人を、恋人だと言っていいのか分かりませんでした。


 まだ一度もキスをしていません。


 家族にも話していません。


 学校の誰も、私たちが付き合い始めたことを知らないかもしれません。


 それでも直哉は、私の恋人でした。


 昨日、そうなったのです。


「個人的に、手紙を送ることはできますか」


「内容を確認した上で、必要と判断されたものに限ります」


「必要ではないと判断されたら?」


「送付されません」


「私が必要だと思っても?」


 職員は、少しだけ微笑みました。


「日向様には、まず新しい環境へ慣れていただくことが最優先となります」


 答えにはなっていませんでした。


 でも、それ以上聞いても同じなのだと思いました。


「分かりました」


「ご理解いただき、ありがとうございます」


 職員は一枚の紙を机へ置きました。


「本日の予定です。健康確認と適性確認の後、夕食までお部屋でお休みください」


 紙には、時間ごとの予定が並んでいました。


 診察。


 採血。


 身体測定。


 適性の最終確認。


 そして一番下に、見慣れない名前がありました。


 三枝修司。


 その横に書かれている言葉は、見慣れないものではありませんでした。


 業務。


「本日、最初の業務を予定しております」


 私は紙を見たまま、顔を上げられませんでした。


「今日ですか」


「はい」


「ここへ来たばかりなのに?」


「健康状態に問題がなければ、予定どおり実施いたします」


「少し待ってもらうことは」


「ご安心ください」


 職員は、穏やかな声で言いました。


「初回ですので、担当者も十分に配慮いたします」


 配慮。


 その言葉が、何を意味するのか分かりませんでした。


 紙の上には、午後五時と書かれていました。


 昨日の今頃、私は直哉と手を繋いでいました。


 顔を近づけて、恥ずかしくなって、二人で笑いました。


 明日、もう一回。


 彼はそう言いました。


 私は、それを楽しみにしていました。


 けれど、今日の午後五時に私を待っているのは、直哉ではありませんでした。


 顔も知らない、三枝修司という人でした。


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