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第5話またね

 恋人になったからといって、何かが急に変わるわけではありませんでした。


 私たちは、昨日までと同じ坂道を歩きました。


 同じ白い制服を着て、同じ鞄を持って、駅へ向かいました。


 けれど、繋いだ手だけが違いました。


 少し汗ばんでいて、指の置き場所もよく分からない。


 強く握りすぎていないか気になる。


 離した方が自然なのかもしれないと思うのに、一度離したら、もう一度繋げないような気がしました。


「日向さん」


「なに?」


「さっきから、手しか見てないよ」


 顔を上げると、彼が笑っていました。


「見てない」


「見てた」


「あなたも見てたでしょう」


「僕は確認してただけ」


「何を?」


「ちゃんと繋いでるか」


「離れてないんだから、分かるでしょう」


「そうだけど」


 彼は手を少しだけ握り直しました。


 私も握り返しました。


 それだけで、胸がまた苦しくなりました。


「明日、どうする?」


 彼が聞きました。


「どうするって?」


「図書室」


「行くけど」


「今までと同じ席?」


「だめなの?」


「だめじゃない。ただ、恋人になって最初にすることが勉強でいいのかなと思って」


「試験、終わったばかりなのに?」


「そうだった」


「忘れてたの?」


「緊張してたから」


「告白する前からずっと?」


「昨日から」


「昨日?」


「昨日、言おうと思ったけど言えなかった」


 初めて聞きました。


「どうして言わなかったの?」


「日向さんが難しそうな本を読んでたから」


「それだけ?」


「あと、君が読んでいる時の顔が好きだから、邪魔したくなかった」


 私は前を向きました。


 顔を見られたくなかったからです。


「今の、ずるくない?」


「何が?」


「そういうことを急に言うの」


「恋人なら言ってもいいかと思った」


「恋人」


 その言葉を、小さく繰り返しました。


 口にするだけで、現実ではないものみたいに聞こえました。


「嫌だった?」


「嫌じゃない」


「じゃあ、もう一回言う?」


「言わなくていい」


「日向さんは、僕の恋人です」


「言わなくていいって言ったでしょう」


「嬉しそうだから」


「見ないで」


 彼は声を上げて笑いました。


 私は少しだけ彼の腕を引きました。


 恋人になったばかりなのに、何をすればいいのか、どんな顔をすればいいのか、私たちは何も知りませんでした。


 けれど、それでよかった。


 明日がありました。


 明後日も、その次の日もあると思っていました。


 少しずつ覚えればいい。


 何度失敗しても、またやり直せばいい。


 その時の私は、本気でそう思っていました。


 駅へ着いても、私たちはすぐに別れませんでした。


 次の列車が来るまで時間がありました。


 けれど、彼が乗る列車は、その次にも、その次にもありました。


「そろそろ行った方がいいんじゃない?」


「まだ大丈夫」


「さっきも言ってた」


「本当に、まだ大丈夫」


 私たちは、駅前の小さな花壇の近くに立っていました。


 話すことはいくらでもありました。


 明日の図書室。


 次の休日。


 一緒に行ってみたい店。


 彼が子どもの頃に好きだった本。


 私が家で育てている花。


 大切な話でも、急いで決めなければならない話でもありませんでした。


 ただ、別れたくなくて、言葉を探していました。


「家の人には、言うの?」


 私が聞くと、彼は少し考えました。


「すぐには言わない」


「言えない?」


「そうじゃない」


 彼は私の手を握ったまま言いました。


「言ったら、軽い付き合いだと思われるかもしれない」


「そう思われるでしょうね」


「平気?」


「平気ではないけど、驚かない」


 彼の家の人にとって、私は息子が学校で見つけた恋人にすぎない。


 若いうちには、そういうこともある。


 卒業すれば自然に終わる。


 そう思われること自体は、不思議ではありませんでした。


「僕は嫌だ」


 彼は言いました。


「何が?」


「日向さんが、そういう相手だと思われるのが」


「あなたが違うと思ってくれていれば、それでいい」


 言ってから、自分が本当にそう思っているのか分からなくなりました。


 彼も気づいたようでした。


「本当に?」


「今は」


「今は、か」


「全部を平気だって言ったら、嘘になるから」


「そっか」


 彼は少し考えました。


「じゃあ、家に言う前に、日向さんとちゃんと話したい」


「何を?」


「卒業したあととか」


 胸の奥が、少しだけ揺れました。


「まだ早くない?」


「早いかな」


「今日、付き合ったばかりだよ」


「でも、日向さんはそこまで考えてるんでしょう?」


 責める声ではありませんでした。


 私は少し迷ってから、うなずきました。


「考えてしまう」


「じゃあ、僕も考える」


「無理に?」


「無理じゃないよ」


 彼は言いました。


「答えを今すぐ決めるんじゃなくて、考えるだけ」


 私は彼を見ました。


「それでいいの?」


「一緒に考えるために付き合うんじゃないの?」


 胸の奥が温かくなりました。


 何の約束にもなっていませんでした。


 どこで暮らすのかも、何をするのかも、彼の家がどう思うのかも、何も決まっていない。


 それでも私は、生まれて初めて、自分の未来の中に誰かを置きました。


 明日の図書室だけではありません。


 卒業したあとも。


 もっと先も。


 彼と一緒にいられたらと思いました。


 列車が一本、駅へ入ってきました。


 彼は乗りませんでした。


「今のに乗るんじゃなかったの?」


「次でも帰れる」


「怒られない?」


「少しくらいなら」


「あなたも、帰りが遅いと怒られるんだ」


「怒られるよ」


「知らなかった」


「僕を何だと思ってたの?」


「もう少し自由な人」


「僕にも、できないことはたくさんある」


 彼は笑いました。


「ただ、日向さんより少し多く、選べるだけだと思う」


 その言葉に、私は少し驚きました。


 彼は、自分たちが同じだとは言いませんでした。


 違いなんて関係ないとも言いませんでした。


 違うことを知ったまま、私の手を握っていました。


 それが嬉しかった。


「少しじゃないと思う」


「そうかもしれない」


「認めるんだ」


「嘘をついても仕方ないから」


 また笑いました。


 少しずつ日が傾いていました。


 駅へ向かう人が増え、私たちの横を何人も通り過ぎました。


 知っている生徒もいました。


 私たちが手を繋いでいるところを見た人もいたと思います。


 彼と一緒にいる私を見て、何を思ったのでしょう。


 遊びなのだろう。


 珍しいものを気に入ったのだろう。


 卒業までには終わる。


 そんなふうに思われたのかもしれません。


 怖くないわけではありませんでした。


 それでも、その時だけは手を離したくありませんでした。


「日向さん」


 彼が言いました。


 声が、さっきまでと少し違っていました。


「なに?」


「その」


 彼は言葉を探していました。


 私にも、何を言おうとしているのか分かりました。


 分かってしまったので、急に息が苦しくなりました。


「嫌だったら、言って」


「何が?」


「まだ何もしてないけど」


「じゃあ、何を嫌がればいいの」


「それはそうだけど」


 彼の耳が赤くなっていました。


 たぶん、私の顔も同じだったと思います。


 人通りの少ない、駅の脇へ少しだけ移動しました。


 建物の影が長く伸びていました。


 彼がこちらを見ました。


 私も彼を見ました。


 目をそらしたくありませんでした。


 けれど、見続けるのも恥ずかしかった。


 彼の顔が少しずつ近づきました。


 私の心臓は、音が聞こえるのではないかと思うほど強く動いていました。


 逃げたくはありませんでした。


 むしろ、もう少し近づいてほしかった。


 けれど、目を閉じるタイミングが分かりませんでした。


 閉じたら、いよいよ本当にキスをするのだと思いました。


 そう考えた瞬間、体が固まりました。


 彼も同じだったのだと思います。


 顔が近づいたまま、動きが止まりました。


 彼の睫毛が見えました。


 息が触れそうな距離でした。


 そのまま、しばらく二人とも何もできませんでした。


 先に吹き出したのが、どちらだったかは覚えていません。


 気づけば、二人で笑っていました。


「ごめん」


 彼が言いました。


「どうして謝るの?」


「できなかったから」


「私もできなかった」


「じゃあ、どっちも悪くない?」


「悪いことなの?」


「悪くないと思う」


 彼は少し安心したように笑いました。


「今のは、キスに入る?」


「入らないでしょう」


「少し近かったけど」


「近いだけでは入らないと思う」


「じゃあ、初めてはまだ?」


「そういうこと、声に出して確認するの?」


「確認した方がいいかと思って」


「しなくていい」


 恥ずかしくて顔を伏せました。


 彼はまだ笑っていました。


「明日」


 彼は言いました。


「明日、もう一回」


「予約制なの?」


「だめ?」


「……だめじゃないけど」


 自分の声が思ったより小さくなりました。


 顔が熱くて、彼を見られませんでした。


「じゃあ、明日」


「図書室で?」


「図書室は怒られる」


「何をするつもりなの」


「日向さんが聞いたんでしょう」


 私は彼の腕を軽く叩きました。


 彼は痛くもないのに、痛そうなふりをしました。


 また列車が来ました。


 今度は、彼も乗らなければいけませんでした。


 別れ際、私たちはもう一度手を繋ぎました。


 ほんの数時間前まで、触れる理由もなかった手でした。


 今は、離すのが惜しく感じました。


「明日、図書室で」


 彼が言いました。


「うん」


「今度は寝ないから」


「寝てもいいよ」


「せっかく恋人になったのに?」


「寝顔、嫌いじゃないから」


 言ってから、恥ずかしくなりました。


 彼は驚いた顔をしました。


 それから、とても嬉しそうに笑いました。


 列車の扉が開きました。


 彼は乗り込んでから、こちらを振り返りました。


「また明日」


 まだ耳が少し赤いままでした。


 私も、さっきできなかったことを思い出しました。


 顔がまた熱くなりました。


 それでも、小さく手を振りました。


「……またね」


 思っていたより、弾んだ声が出ました。


 自分の声なのに、少し可愛すぎる気がしました。


 恥ずかしくなって顔を伏せると、彼が窓の向こうで笑っていました。


 嬉しそうな顔でした。


 列車の扉が閉まりました。


 彼は窓の向こうから、まだ手を振っていました。


 私も手を振りました。


 列車が見えなくなったあとも、私は少しの間、駅に残っていました。


 さっきの自分の声を思い出すたびに、恥ずかしくなりました。


 でも、それ以上に嬉しかった。


 キスはできませんでした。


 けれど、少しも悲しくありませんでした。


 明日があると思っていたからです。


 明日、彼に会える。


 今日言えなかったことを、明日言えばいい。


 今日できなかったことを、明日やり直せばいい。


 彼の好きと私の好きが、本当に同じ重さなのかも、いつか分かる。


 急がなくていいと思っていました。


 今日だけではありません。


 明日も、その次の日もあるのだから。


 家に帰るまで、私はずっと、そのことを考えていました。


 告白されたこと。


 一度、断ってしまったこと。


 彼女に怒られたこと。


 返事をやり直したこと。


 初めて手を繋いだこと。


 卒業したあとのことを、一緒に考えると言ってくれたこと。


 できなかったキスのこと。


 明日、もう一回と言われたこと。


 そして、自分でも驚くような声で言った「またね」のこと。


 靴を脱ぐ時も、鞄を置く時も、制服のリボンをほどく時も、ずっとそのことばかり考えていました。


 鏡の前で、明日は髪をどうしようかと思いました。


 いつもと同じでいい気もしました。


 少しだけ変えたい気もしました。


 キスをする時は、目を閉じるのだろうかと考えました。


 目を閉じるのが早すぎたら、変に思われるだろうか。


 そんなことを考えている自分がおかしくて、少し笑いました。


 白い制服を脱ぎ、明日も着られるように丁寧にハンガーへ掛けました。


 リボンの形も整えました。


 それが、私が自分で制服を脱いだ最後の日でした。


 居間に入ると、母が泣いていました。


 最初、何か悪いことがあったのだと思いました。


 父はテーブルの前に座っていました。


 いつもより、背中が丸く見えました。


 弟は、母の隣に立っていました。


 母は私を見ると、泣きながら笑いました。


「千鶴」


 その声を聞いて、私は足を止めました。


「国立よ」


 母は言いました。


「国立次世代育成センターなの」


 言葉の意味は、すぐに分かりました。


 分からないふりをするには、私はもう、あの学校で長く学びすぎていました。


 国立次世代育成センター。


 選ばれるのは、私のような家に生まれた者の中でも、ほんのわずかでした。


 選ばれれば、家族の暮らしは楽になります。


 税の負担は減り、補償金も出る。


 業務を終えて戻れば、本人にも、それまでとは違う身分と暮らしが与えられる。


 市営ではない。


 民間でもない。


 国立。


 よく選ばれたね、と言われる場所。


 そして、本人に拒否する権利はない場所。


 母は泣きながら、何度も言いました。


「すごいわ、千鶴。あなた、選ばれたの」


 弟が私の袖を引きました。


「お姉ちゃん、すごいね」


 父は黙っていました。


 テーブルの上には、封筒が置かれていました。


 国立次世代育成センター。


 その文字が、きれいに印字されていました。


 私は、何も言えませんでした。


 母はまだ泣いていました。


 でも、それは悲しい涙ではありませんでした。


 弟は笑っていました。


 何も知らない、いつもの顔で。


 父だけが、私を見ませんでした。


 私はその時、さっきできなかったキスのことを考えていました。


 明日、もう一回。


 彼はそう言いました。


 私は、浮かれた声で「またね」と言いました。


 明日になれば、少し恥ずかしくなりながら彼と顔を合わせるのだと思っていました。


 なのに、明日はもう、私のものではなくなっていました。


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