第4話同じ重さ
彼から告白されたのは、よく晴れた日の放課後でした。
試験が終わり、学校全体が少しだけ浮ついている日でした。
食堂からは笑い声が聞こえ、中庭では何人かの生徒が写真を撮っていました。
図書室だけが、いつもより静かでした。
私たちは、窓際の席に並んで座っていました。
彼はいつものように本を開いていましたが、さっきから一ページも進んでいませんでした。
「読まないの?」
私が聞くと、彼は少しだけ笑いました。
「読んでるふりをしてる」
「どうして?」
「緊張してるから」
「何に?」
彼は本を閉じました。
その音が、静かな図書室にやけに大きく響きました。
「日向さん」
「はい」
「好きです」
最初、意味が分かりませんでした。
言葉は聞こえていました。
けれど、それが自分に向けられたものだと、すぐには理解できなかったのです。
彼は、まっすぐ私を見ていました。
からかっている顔ではありませんでした。
冗談に逃げるつもりもなさそうでした。
「日向さんのことが、好きです」
胸の奥が、痛いくらいに熱くなりました。
嬉しかった。
たぶん、それまでの人生で一番嬉しかったと思います。
初めて図書室で話した日のこと。
彼が眠っている横で、本を読んだ日のこと。
帰り道が途中まで同じだと知って、少しだけ遠回りした日のこと。
彼が来なかった三日間のこと。
何でもなかった時間が、急に全部、意味のあるものへ変わりました。
私だけが好きだったのではなかった。
同じ時間を、彼も大切にしてくれていた。
それが嬉しくて、泣きそうになりました。
彼が遊びで言っているとは思いませんでした。
私を一時の気まぐれで選んだとも思いませんでした。
彼は、そんな人ではありません。
今、この瞬間の気持ちは本物でした。
だからこそ、私は怖くなりました。
「ごめんなさい」
自分の声ではないみたいでした。
彼の顔が、少しだけ固まりました。
「理由を聞いてもいい?」
「あなたと私は、違うから」
「何が?」
「家も、これから行く場所も」
「違うことは知ってるよ」
「知ってるだけでしょう」
言ってから、ひどい言い方だったと思いました。
けれど、止められませんでした。
「あなたが私をからかってるとは思ってない」
「うん」
「遊びで言ってるとも思ってない」
「だったら、どうして?」
答えようとすると、喉が苦しくなりました。
「あなたは今、本気で私を好きなんだと思う」
「今だけみたいに言うんだね」
「そういう意味じゃない」
「そう聞こえるよ」
彼の声が少し硬くなりました。
私は手を握りました。
「あなたにとっては、本気で付き合って、いつか終わる恋もあるでしょう」
「日向さん」
「でも私は、たぶん、そうできない」
彼が黙りました。
「一緒にいたら、その先まで欲しくなる。卒業したあとも、ずっと隣にいられるんじゃないかって期待する。あなたが約束していないことまで、勝手に信じてしまう」
「それは」
「あなたは終わったら戻れるでしょう」
「どこに?」
「あなたのいる場所に」
私は彼を見ました。
「若い時に私と付き合っても、少し噂されるだけ。珍しい相手を選んだんだって、みんな笑って終わる。でも私は違う」
「何が違うの?」
「あなたに選ばれていた人になる」
言葉にすると、自分がひどく卑屈に聞こえました。
それでも続けました。
「周りにどう見られるかだけじゃない。私自身が、あなたの隣にいたことを忘れられなくなる。私だけが、その先を待つようになる」
「僕の好きと、日向さんの好きは違うって言いたいの?」
「違うかもしれない」
「重さが?」
私は答えられませんでした。
彼はしばらく私を見ていました。
「僕がどこまで考えているか、聞きもしないで?」
「あなたにも、まだ分からないでしょう」
「分からないよ」
彼は言いました。
その答えに、胸が痛みました。
けれど彼は続けました。
「十年後のことなんて分からない。日向さんだって分からないでしょう」
「だから」
「だから今の気持ちは、なかったことになるの?」
「そうじゃない」
「僕が何も考えていないと思ってる?」
「思ってない」
「遊びで言っているとも思ってない」
「うん」
「それなのに、僕の言葉より、いつか終わるかもしれないって方を信じるんだね」
彼は怒っていました。
でも、声を荒らげませんでした。
そのことが余計につらかった。
「僕が困るかどうかも、傷つくかどうかも、全部日向さんが決めるの?」
「私は、ただ」
「自分が傷つきたくないんでしょう」
何も言えませんでした。
そのとおりでした。
私は彼のためだと思おうとしていました。
彼の家のため。
彼の将来のため。
でも、本当は自分が怖かった。
信じたあとで、やはり私は違ったのだと知らされることが。
「ごめんなさい」
私は言いました。
彼は、しばらく私を見ていました。
それから、ゆっくりと立ち上がりました。
「分かった」
その声は、全然分かっていない声でした。
彼は本を持って、図書室を出ていきました。
扉が閉まってから、私は机の上で手を握りました。
爪が手のひらに食い込みました。
泣きませんでした。
泣いたら、自分がかわいそうだと思っているみたいで嫌だったからです。
私は正しいことをした。
彼はいつか、自分と同じ世界で生きてきた人を選ぶ。
私は今なら、図書室で隣に座っていた日々を、綺麗な思い出にできる。
そう言い聞かせました。
でも、廊下へ出たところで、彼女に捕まりました。
「日向さん」
声だけで、背筋が伸びました。
振り返ると、彼女が立っていました。
腕を組み、いつもより怖い顔をしていました。
「あなた、彼を振ったの?」
私は答えませんでした。
「聞いているのだけど」
「あなたには関係ない」
「あるわよ。私も彼が好きだもの」
そう言われて、何も言えなくなりました。
彼女は私の前まで歩いてきました。
「理由は?」
「私とあの人では違うから」
「そんなことは知っているわ」
彼女は即答しました。
「それだけ?」
「それだけじゃない」
「では、何?」
「私だけが、その先まで欲しくなるかもしれないから」
彼女の眉が少し動きました。
「彼が遊びであなたを選んだと思っているの?」
「違う」
「今だけ本気で、飽きたら捨てるような人だと?」
「違うって言ってるでしょう」
「では、彼を疑っているわけではないのね」
「疑ってない」
「自分を疑っているの?」
私は答えられませんでした。
彼女は小さく息を吐きました。
「あなた、面倒ね」
「あなたに言われたくない」
「彼にも同じようなことを言ったのでしょう」
「言った」
「最低」
短い言葉でした。
胸に刺さりました。
「何が最低なの」
「彼が何を考えているか分からないと言いながら、自分に都合の悪い答えだけは決めているところよ」
「都合が悪い?」
「いつか終わる。彼は戻れる。自分は置いていかれる。全部、彼がまだ言ってもいないことでしょう」
「あり得ることよ」
「もちろん、あり得るわ」
彼女は言いました。
「二人がずっと一緒にいる保証なんてない。家が同じでも同じよ」
「同じじゃない」
「同じではないわ」
彼女は、それもすぐに認めました。
「あなたの方が失うものが多いかもしれない。周りから、軽い相手だったと決めつけられるかもしれない。彼が本気でも、他人はそう見ないでしょうね」
私は黙っていました。
「でも、それを彼に話したの?」
「話した」
「話して、二人で考えようとはしなかったのね」
「考えたって」
「自分一人で結論を出すことを、考えるとは言わないわ」
彼女は私をまっすぐ見ました。
「あなたが本当に彼を好きではないなら、それでいい。はっきり振ればいい。私も喜ぶ」
「喜ぶんだ」
「喜ぶわよ。当然でしょう」
少しも悪びれない声でした。
「でも、好きなのに、自分の方が重いから身を引きます、なんて顔をしないで。そんな勝ち方、私はいらない」
「勝ち方?」
「私はあなたに勝ちたいの」
彼女は言いました。
「家柄や臆病さに、勝手にあなたを退場させてもらいたいわけじゃない」
その言葉に、胸の奥が揺れました。
「あなたが怖いことは、彼に言えばいい。あなたがどこまで欲しいのかも、言えばいい」
「そんなことを言ったら、重いと思われる」
「思われたら、その時に振られなさい」
あまりにきっぱり言うので、私は彼女を見ました。
「本当にきついね」
「知っているわ」
「私が振られたら嬉しい?」
「ええ」
彼女はうなずきました。
「でも、あなたが勝手に振るのは許さない」
私は何も言えませんでした。
「あなたが断るなら、あなたの気持ちで断りなさい」
彼女は言いました。
「好きではないからと言いなさい」
「そんなこと、言えない」
「どうして?」
「好きだから」
口にしてから、自分が何を言ったのか分かりました。
彼女は少しだけ目を細めました。
「なら、行きなさい」
「どこへ」
「彼のところに決まっているでしょう」
「でも」
「でも、じゃない」
彼女は一歩近づきました。
「あなたが欲しいのが卒業までの恋ではないなら、そう言えばいい。彼がそれをどう受け取るかは、彼が決めることよ」
「怖い」
「でしょうね」
彼女は、初めて少しだけ声を和らげました。
「でも、怖いから黙って逃げるなら、彼を見ていないと言われても仕方ないわ」
きつい人でした。
本当に、きつい人でした。
でも、そのきつさがなければ、私はきっと動けませんでした。
私は走りました。
廊下を抜け、階段を下り、校門へ向かいました。
白い制服の裾が足にまとわりつきました。
息が苦しくなりました。
それでも走りました。
彼は、学校から駅へ続く坂道の途中にいました。
私が呼ぶ前に、彼が振り返りました。
驚いた顔をしていました。
「日向さん」
私は足を止めました。
走ったせいで、うまく息ができませんでした。
それでも、言わなければいけませんでした。
「さっきの返事」
「うん」
「やり直してもいい?」
彼は少しだけ目を見開きました。
すぐには答えませんでした。
私の心臓の音だけが、大きく聞こえました。
やがて彼は、静かにうなずきました。
「いいよ」
「私も、好きです」
言った瞬間、涙が出そうになりました。
でも、それだけでは足りませんでした。
「ただ、私は、たぶん軽く付き合えない」
彼は黙って聞いていました。
「卒業したら終わりでもいいとは思えない。ずっと一緒にいられるかもしれないって、期待してしまう。あなたがそこまで考えていなくても、勝手に」
「うん」
「それが怖い」
「うん」
「だから、今すぐ同じ重さで好きだって約束してほしいわけじゃない」
自分でも、何を言っているのか分からなくなりそうでした。
「ただ、それを知らずに私を選ばないでほしい」
彼は、しばらく黙っていました。
そして言いました。
「十年後のことは約束できない」
胸の奥が痛みました。
それでも私はうなずきました。
「うん」
「でも、卒業までのつもりで告白したわけじゃない」
私は顔を上げました。
「日向さんと一緒にいる先を、考えたいと思ってる」
「考えるだけ?」
「今は、それ以上のことを言ったら嘘になるから」
彼は少し困ったように笑いました。
「でも、終わったら僕だけ戻ればいいなんて、思ってない」
涙が出そうになりました。
今度は、我慢する理由がありませんでした。
それでも泣くより先に、彼が笑いました。
「返事は?」
「言ったでしょう」
「もう一回聞きたい」
「面倒な人だね」
「今さら?」
「うん。今さら」
私は息を整えました。
「私も、好きです」
彼は、あまりにも嬉しそうに笑いました。
その顔を見て、私まで笑いました。
私たちは、坂道の途中で並んで立っていました。
夕方の光が、並木の葉の隙間から落ちていました。
どちらからともなく、手を繋ぎました。
指先が触れ、少しずつ重なりました。
たったそれだけのことなのに、胸の中がいっぱいになりました。
その日、私は初めて、怖いまま何かを選びました。




