表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

第3話白い制服

 私が白い制服を着ていた頃の話です。


 その学校には、いろいろな家の子がいました。


 生まれた時から、卒業後に進む道が決まっている子。


 いくつも用意された道の中から、自分の好きなものを選べる子。


 私のように、成績を落とせば学校に残る理由そのものがなくなる子。


 同じ教室にいて、同じ授業を受けて、同じ食堂で昼食を取りました。


 制服も同じでした。


 でも、同じではありませんでした。


 靴が違う。


 鞄が違う。


 休日の過ごし方が違う。


 将来の話をする時の、声の軽さが違う。


 彼らが「何になろう」と話す時、私は「何になれるだろう」と考えていました。


 誰かが線を引かなくても、みんな自分がどちら側にいるのかを知っていました。


 それでも、あの学校はまだ優しい方だったと思います。


 家が違うというだけで、机を離されたり、名前を呼ばれなかったりすることはありませんでした。


 露骨に笑われることも、ほとんどありませんでした。


 ただ、同じ場所で同じ時間を過ごしていても、その先まで一緒とは限らない。


 そういう学校でした。


 私は、放課後になると図書室へ行きました。


 勉強するためです。


 家では弟が騒いでいましたし、冬は学校の方が暖かかった。


 何より、図書室には家では買えない本がたくさんありました。


 閉館まで残ることも珍しくありませんでした。


 図書室には、いつも同じような生徒がいました。


 資格試験の勉強をする人。


 静かな場所で眠りたい人。


 家へ帰りたくない人。


 そして、彼もいました。


 最初に話したきっかけは、私が本を落としたことでした。


 机から立ち上がった時、膝が鞄に当たりました。


 中に入れていた本が床へ落ち、何冊かが滑っていきました。


 私は慌ててしゃがみました。


 そのうちの一冊を、彼が拾いました。


「これ、日向さんの?」


「うん。ありがとう」


 彼は表紙を見ました。


「難しそうだね」


「授業で使うから」


「授業で使う本を、こんなに先まで読むの?」


「先に読んでおかないと、授業だけじゃ追いつけないから」


「そんなに?」


「そんなに」


 私は本を受け取りました。


 それで会話は終わると思っていました。


 けれど彼は、私の机の上に積まれた本を見て言いました。


「手伝おうか」


「大丈夫」


「一冊、反対側まで行ってるけど」


 見ると、最後の一冊が隣の机の下まで滑っていました。


「……じゃあ、それだけ」


「はい」


 彼は笑いました。


 それから少しして、図書室で会うたびに挨拶をするようになりました。


「今日も閉館まで?」


「たぶん」


「たぶんって言って、いつも最後までいるよね」


「集中してると、時間が過ぎるのが早いから」


「じゃあ、今日は僕も最後までいようかな」


「何を読むの?」


「まだ決めてない」


「勉強じゃないんだ」


「勉強しない日もあるよ」


 彼は私の向かいに座りました。


 最初のうちは、それだけでした。


 たまに話して、あとはそれぞれ本を読む。


 彼は難しい本を読む日もあれば、絵の多い旅行記を眺めている日もありました。


 私は、少し不思議に思っていました。


 彼のような家の人なら、放課後に図書室へ残らなくても、家にいくらでも本があるはずです。


「どうして毎日いるの?」


 ある日、聞いてみました。


「図書室に?」


「うん」


 彼は少し考えました。


「静かだから」


「家は静かじゃないの?」


「静かだよ」


「じゃあ、同じでしょう」


「家の静かさは、見られてる感じがする」


「誰に?」


「家の人に。先生に。たぶん、いない人にも」


 よく分かりませんでした。


 私の家は、見られていない時間の方が少なかったからです。


 狭い居間で、父も母も弟も同じ音を聞いていました。


 一人になるには、外へ出るしかありませんでした。


「贅沢だね」


 私が言うと、彼は笑いました。


「そうかもしれない」


 怒りませんでした。


 自分と私が同じだと言い張ることもしませんでした。


 ただ、そうかもしれないと認めました。


 そのことを、私は少し意外に思いました。


 彼はよく、本を開いたまま眠りました。


 机に頬杖をつき、少し目を閉じるだけのつもりだったのだと思います。


 けれど、しばらくすると呼吸がゆっくりになる。


 私は本を読みながら、ときどき彼の横顔を見ました。


 起こしてしまわないよう、ページをめくる音まで小さくしました。


 閉館を知らせる鐘が鳴ると、彼は目を覚ましました。


「寝てた?」


「少しだけ」


「少しじゃなかったよ」


「起こしてくれればよかったのに」


「気持ちよさそうだったから」


「見てた?」


「見てない」


「今、少し考えたよね」


「考えてない」


 彼は笑いました。


 私は本を閉じました。


 そういう日が増えていきました。


 彼が先に来て、窓際の席を取っている日。


 私が忘れた筆記具を、何も言わず差し出してくれる日。


 帰り道が途中まで同じだと分かって、どちらからともなく遠回りする日。


 別に特別なことはありませんでした。


 けれど、彼のいない図書室は、前より少し広く感じるようになりました。


 ある日、彼は来ませんでした。


 先生に呼ばれたのだろうと思いました。


 次の日も来ませんでした。


 三日目に、私は廊下で彼を見つけました。


 誰かと話していたので、声はかけませんでした。


 元気そうだったので、安心しました。


 その時、自分が安心したことに気づきました。


 来ない理由が気になっていたこと。


 何かあったのではないかと思っていたこと。


 会えないだけで、落ち着かなかったこと。


 そこで初めて、私は困りました。


 彼を好きになっているのかもしれないと思ったからです。


 認めたくありませんでした。


 認めれば、その先を考えてしまうからです。


 彼は、私とは違う家の人でした。


 だからといって、何でも思いどおりになる人ではありません。


 先生には普通に叱られました。


 帰りが遅くなれば、家から連絡が来ました。


 試験前には、私より慌てていました。


 それでも彼には、私にはないものがありました。


 失敗しても戻れる場所。


 選び直すための時間。


 自分の将来について、したいことから考えられる余裕。


 彼は、それをわざと見せつける人ではありませんでした。


 それが一番困りました。


 もっと嫌な人なら、簡単だったと思います。


 私の家を笑って、自分の持っているものを自慢して、悪気もなく誰かを傷つける人なら、私はちゃんと嫌いになれた。


 でも彼は、そういう人ではありませんでした。


 誰に対しても普通に話しました。


 自分の家を隠しはしないけれど、それを振りかざすこともしない。


 私に気を遣いすぎることもありませんでした。


 できると思っていることは任せてくれるし、困っていると分かった時には普通に手を貸してくれる。


 その距離が、私にはとても楽でした。


 楽だったから、危なかった。


 三日ぶりに彼が図書室へ来た時、私はなるべく普通の顔をしました。


「久しぶり」


 彼が言いました。


「三日だけでしょう」


「数えてた?」


「数えてない」


「三日ってすぐ出たけど」


「たまたま」


 彼は笑いながら、私の向かいへ座りました。


「家の用事だったんだ」


「聞いてない」


「聞きたそうだったから」


「別に」


「そっか」


 彼は本を開きました。


 私は自分の本へ目を落としました。


 けれど、文字はほとんど頭に入りませんでした。


 私は彼を好きでした。


 たぶん、もう誤魔化せないくらい。


 私には、彼と同じくらい苦手な人がいました。


 いつも背筋を伸ばして歩く、綺麗な女の子でした。


 成績も良く、言葉がきつく、彼と似た環境で育った人でした。


 彼女も彼のことが好きでした。


 彼女は私に優しくありませんでした。


「また一緒にいるのね」


 図書室の前で会うと、彼女はよく言いました。


「勉強してるだけ」


「彼はさっきまで寝ていたでしょう」


「どうして知ってるの」


「顔を見れば分かるわ」


 彼女は私を見て、それから彼を見ました。


「そんな人のどこがいいのかしら」


「本人に聞こえてるけど」


「聞かせているのよ」


 彼は苦笑いしました。


 私は彼女が苦手でした。


 けれど彼女は、私の家を理由に、私を相手にしないことはありませんでした。


 それが逆に苦しかった。


 あなたでは相手にならない、と言ってくれたら、私は彼女を嫌いになれた。


 自分の気持ちも、彼女への反発に変えられたかもしれない。


 でも彼女は、そんなことを言いませんでした。


 彼女は私を、恋敵として見ていました。


 それはたぶん、あの学校で私が受け取った中で、一番公平な扱いでした。


 ある日、彼女と二人きりになりました。


 彼は先生に呼ばれ、図書室を先に出ていました。


 私が本を鞄へ入れていると、彼女は向かいの席に座りました。


「あなた、彼のことが好きでしょう」


 あまりに突然で、手が止まりました。


「違う」


「嘘が下手ね」


「本当に違う」


「では、私が告白しても構わない?」


 胸の奥が、強く縮みました。


 それでも私は、何でもない顔をしようとしました。


「私に聞くことじゃないと思う」


「そうね」


 彼女はすぐに立ち上がりました。


 私は思わず顔を上げました。


「本当にするの?」


「さあ」


「さあって」


「あなたには関係ないのでしょう?」


 何も言えませんでした。


 彼女は私の顔を見て、小さく息を吐きました。


「その顔で違うと言われても、誰も信じないわ」


 彼女は図書室を出ていきました。


 私は一人で席に残りました。


 机の上には、彼が忘れていった栞がありました。


 家の紋章が、小さく印刷されていました。


 私はそれを指で触りかけて、やめました。


 彼が私をからかっているとは思っていませんでした。


 気まぐれで優しくしているとも思っていませんでした。


 彼は、そんな人ではありません。


 だからこそ怖かった。


 もし彼が私を好きになってくれたとしても、その好きがどこまで続くのかは、彼自身にもまだ分からない。


 卒業までかもしれない。


 次の学校へ行くまでかもしれない。


 彼の前に、もっとふさわしい未来が現れるまでかもしれない。


 それでも彼にとっては、本当に好きだった恋として残るのでしょう。


 若い頃に、違う世界の女の子と恋をした。


 周りも、そういうことはあると笑って終わる。


 けれど私は、きっと終われない。


 私は、彼の隣に立てる未来まで欲しくなってしまう。


 欲張らない。


 勘違いしない。


 届かないものに手を伸ばさない。


 ずっとそう決めていました。


 けれどその頃の私はもう、手を伸ばさずにいるだけで苦しくなるくらい、彼を好きになっていました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ