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第2話開けていない炭酸

 白い家に通うことは、いつの間にか僕の習慣になった。


 最初は、秘密基地を取り返すつもりだった。


 でも、門から入って、庭の丸いテーブルに座って、千鶴さんが出してくれる焼き菓子を食べて、見たことのない炭酸飲料を飲むうちに、僕はその目的を忘れていった。


 千鶴さんは、僕が行くといつも少しだけ笑った。


「今日は何味?」


「今日は、りんご」


「また知らないやつ」


「たぶん、都会の味」


「千鶴さん、適当に言ってるでしょ」


「うん」


 千鶴さんは、そう言って笑う。


 僕は瓶のふたを開けて、一口飲んだ。


 強い炭酸が喉の奥ではじける。甘くて、少し酸っぱくて、やっぱり村の自販機にはない味だった。


「うまい?」


「まあまあ」


「そっか。じゃあ、また買っておく」


「まあまあって言った」


「うん。夏樹くんのまあまあは、だいたい好きって意味だから」


 僕は何も言い返せなかった。


 千鶴さんは、僕が怒ってもあまり慌てない。からかっているわけではないのに、こちらの言葉を一枚めくって、中身を見られているような感じがした。


 それが少し悔しかった。


 でも、嫌ではなかった。


 小学校を卒業しても、僕は白い家に行った。


 中学生になって、制服が変わって、部活が始まって、友達と遊ぶ場所も少し広がった。それでも、週に何度かは白い家の門をくぐった。


 千鶴さんは、あまり変わらなかった。


 もちろん、服は変わる。髪型も少し変わる。季節ごとに庭の花も変わる。


 でも、千鶴さんそのものは、僕が十一歳の時に見たまま、白い家の中に静かに置かれているようだった。


 僕だけが、少しずつ背が伸びていった。


「また大きくなった?」


「たぶん」


「この前も言った気がする」


「毎回言ってる」


「そう?」


「そう」


 千鶴さんは立ち上がって、僕の顔を見上げた。


 前は、僕が千鶴さんを見上げていた。


 そのことに気づいた時、なぜか胸のあたりが落ち着かなかった。


「もう、あんまり子どもじゃないね」


 千鶴さんは言った。


 僕は、少しだけ期待した。


 でも次に出てきたのは、


「じゃあ、炭酸は辛口にしようかな」


 だった。


「そういう話じゃない」


「違った?」


「違う」


「そっか」


 千鶴さんは、また困ったように笑った。


 僕はその笑い方が、少しずつ嫌になっていった。


 嫌いになったわけじゃない。


 ただ、どうしてそんな顔をするのか、知りたくなった。


 高校に入る頃には、僕はもう、国立次世代育成センターが何なのかを知っていた。


 知らずにいられるものではなかった。


 教科書にも出てくる。ニュースにも出る。役所の掲示板にも、年に何度かその名前が貼られる。


 少子化対策。


 次世代保障。


 一般家庭支援。


 国家適性。


 そういう言葉と一緒に、センターの名前はいつも正しい場所に置かれていた。


 そこに収監された人間が、何を失うのか。


 そこを出た人間が、何を得るのか。


 家族にどんな補償が支払われるのか。


 一代特権階級という言葉が、どういう意味を持つのか。


 僕は知っていた。


 少なくとも、制度としては。


 だから、千鶴さんが普通の人ではないことも、わかっていた。


 元は僕たちと同じ平民で、今は違う側にいる人。


 国が、一代限りの特権を与えた人。


 白い家を買える人。


 村の大人たちが、親しげに話しかけることも、雑に噂にすることもできない人。


 それでも、白い家で千鶴さんと向かい合っている時、僕にはそれがうまく結びつかなかった。


 千鶴さんは紅茶を飲む。


 僕は、千鶴さんが買っておいてくれた炭酸を飲む。


 庭には花が咲いている。


 テーブルには白い皿がある。


 千鶴さんは、僕が瓶のラベルを読めずにいると、少しだけ面白そうに笑う。


 その千鶴さんと、制度の中にいる千鶴さんが、同じ人だとは思えなかった。


 いや。


 思いたくなかったのかもしれない。


 僕はもう、センターが何かを知らない子どもではなかった。


 けれど、千鶴さんがその制度の中で何を失ったのかは、何も知らなかった。


 高校を卒業する頃には、僕は千鶴さんを見下ろすくらいの背になっていた。


 白い家に行く回数は、前より少し減っていた。


 進学の話も、仕事の話も、村を出るかどうかの話も、周りでは当たり前みたいに出るようになった。


 僕の家には、そんなに選択肢はなかった。


 平民の家に生まれた人間の選択肢は、いつだって紙に書かれているより少ない。


 けれど千鶴さんの前では、その話をしたくなかった。


 千鶴さんは、元は僕たちと同じ側の人だった。


 でも今は違う。


 その事実は、僕と千鶴さんの間に、透明な壁みたいに立っていた。


 見えない。


 触れない。


 でも、ときどき確かにそこにある。


 いつから千鶴さんを好きになったのかは、わからない。


 たぶん、最初から少し好きだった。


 お菓子をくれたから。


 炭酸を買っておいてくれたから。


 僕の嘘を責めなかったから。


 子ども扱いするようで、でも最後のところでは僕を一人の人間みたいに扱ってくれたから。


 でも、それはたぶん、子どもの好きだった。


 僕が本当に困ったのは、自分がもう子どもではなくなってからだった。


 千鶴さんが庭で紅茶を飲んでいる。


 その横顔を見る。


 髪が風で少し揺れる。


 白いカップに指を添える。


 それだけで、胸の奥が変なふうに重くなる。


 話したいことがあるのに、何も話せなくなる。


 帰りたくないのに、長くいる理由も見つからない。


 そして帰ってから、次に行く口実を考える。


 その繰り返しだった。


 ある夏の日、僕はいつものように白い家に行った。


 庭には、千鶴さんがいた。


 白い服ではなく、薄い青のシャツを着ていた。袖を少しまくって、庭の鉢植えに水をやっている。


「珍しいね」


 千鶴さんは僕を見ると、そう言った。


「何が」


「今日は、何か決めてきた顔をしてる」


「そんな顔あるの?」


「あるよ」


「見ただけでわかる?」


「夏樹くんの顔は、昔からわかりやすいから」


 僕は少しだけ息を吸った。


 言うなら今だと思った。


 今を逃したら、また何年も言えない気がした。


 千鶴さんが、水差しをテーブルに置いた。


 僕の前には、まだ開けていない炭酸飲料の瓶がある。


 初めて見るラベルだった。


 たぶん、千鶴さんはまた僕のために買っておいた。


 それだけで、もう十分だと思った。


「千鶴さん」


「うん」


「好きです」


 千鶴さんは動かなかった。


 風だけが、庭の芝生をなでていった。


 僕は、もう一度言った。


「好きです。子どもの時からじゃなくて、今の僕が、今の千鶴さんを好きです」


 千鶴さんは、ゆっくりと目を伏せた。


 そして、困ったように笑った。


 僕が十一歳の頃から知っている笑い方だった。


「ごめんなさい、夏樹くん」


 胸の奥が、静かに冷えた。


 それでも、思っていたより落ち着いていた。


 どこかで、こう言われることを知っていたのかもしれない。


「どうしてですか」


 千鶴さんは、すぐには答えなかった。


 白い家の窓に、夕方の光が反射していた。


「あなたが好きだと言ってくれた私は、ここで暮らすために覚えた私です」


「僕は、千鶴さんが好きです」


「ありがとう」


「ありがとうじゃなくて」


「うん」


「僕が子どもだったからですか」


 千鶴さんは首を横に振った。


「それだけなら、たぶん、もっと簡単に断れました」


「じゃあ、何ですか」


 千鶴さんは僕を見た。


 その目は、いつもより少しだけ遠かった。


「夏樹くんは、私がどういうお金でこの家に住んでいるか知っていますか」


「知っています」


 僕は言った。


 言葉にすると、少しだけ喉が重くなった。


「センターを出た人に、一代特権が与えられることも、補償が出ることも、知っています」


「うん」


「千鶴さんが、元は平民だったことも知っています」


「うん」


「それでも、僕は」


「夏樹くん」


 千鶴さんは、静かに僕の言葉を止めた。


「それは、制度を知っているだけです」


 僕は何も言えなかった。


 千鶴さんは、テーブルの上の炭酸飲料を見た。


 まだ、ふたは開いていない。


「制度を知っていることと、私を知っていることは違います」


「じゃあ、僕は何を知らないんですか」


 千鶴さんは少しだけ笑った。


 あの、困ったような笑い方だった。


「私が、その前日に誰と『またね』と言ったか」


 胸の奥で、何かが小さく鳴った。


 それは嫉妬だったのかもしれない。


 恐怖だったのかもしれない。


 それとも、僕が今まで見ないようにしていた扉が、内側から少し開いた音だったのかもしれない。


「聞いたら、たぶん帰りたくなりますよ」


「帰りません」


「今は、そう思っているだけかもしれない」


「それでも」


「その言葉は、便利ですね」


 千鶴さんの声は、責めているようには聞こえなかった。


 ただ、遠かった。


 長い時間をかけて、何度も聞いて、何度も信じられなくなった言葉を、もう一度目の前に置かれた人の声だった。


「夏樹くん」


「はい」


「昔、好きな人がいました」


 僕は息を止めた。


 千鶴さんは、白い皿に残った焼き菓子を見つめていた。


「私がまだ、あなたと同じ側にいた頃の話です」


 夕方の庭は静かだった。


 炭酸飲料の瓶に、細かい水滴がついている。


 その瓶を開ける人は、もういなかった。


 千鶴さんは、ゆっくりと話し始めた。


「私が、白い制服を着ていた頃の話をします」

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