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第1話白い家

 町外れの白い家に、若い女の人が越してきた。


 僕は十一歳で、その人は二十三歳だった。


 その差がどれくらい大きいのか、当時の僕にはよくわからなかった。母よりは若くて、学校の先生よりは静かで、近所の誰よりも白い服が似合う人だと思った。


 家も、その人によく似ていた。


 白い壁に、大きな窓。晴れた日は庭まで明るくて、芝生の上に置かれた丸いテーブルが、まるで絵本の中のものみたいに見えた。


 午後になると、その人は庭でお茶を飲んでいた。


 白い皿。銀色のポット。花柄のカップ。皿の上には、村の店では見たことがない焼き菓子が並んでいた。


 僕はその家を、勝手に秘密基地にしていた。


 正確には、していたつもりだった。


 その家は、前の持ち主がいなくなってからしばらく空き家だった。空き家と言っても、壊れていたわけではない。庭も荒れてはいなかったし、窓も割れていなかった。ただ、人がいなかった。


 門は閉まっていたけれど、裏の生け垣には子ども一人が通れるくらいの隙間があった。僕はそこから入って、庭の隅に座って本を読んだり、木の枝で地面に線を引いて基地の範囲を決めたりした。


 だから、知らない女の人がその家を買ったと聞いた時、最初に思ったのは「取られた」だった。


 僕の家ではない。僕の土地でもない。そんなことはわかっている。


 でも十一歳の僕にとって、その庭は、誰にも言っていない自分だけの場所だった。


 ある日の午後、僕は生け垣の隙間から中をのぞいた。


 女の人は、庭のテーブルに座っていた。


 風でレースのカーテンが揺れている。テーブルの上には白い皿があって、その上に粉砂糖のかかった丸い焼き菓子が三つ並んでいた。


 僕は、すぐ帰ればよかった。


 でも、焼き菓子が気になった。


 気づいた時には、生け垣を抜けて庭に入っていた。


「あら」


 声がした。


 僕はその場で固まった。


 女の人は驚いた顔をしたけれど、怒ってはいなかった。大声を出すこともなかった。ただ、僕を見て、それから生け垣の隙間を見て、少しだけ笑った。


「そこから入れるのね」


 僕は何も言えなかった。


「秘密の入口?」


「……ちがう」


「そう」


 女の人は、否定しなかった。追い出しもしなかった。


 それから、皿を少しだけこちらに寄せた。


「お菓子、食べる?」


 僕は首を横に振った。


「知らない人から食べ物をもらっちゃだめって言われてる」


「正しいね」


「じゃあ、なんで出したの」


 女の人は、困ったように笑った。


「私が、誰かと食べたかったから」


 その答えは、少し変だった。


 変だったけれど、嘘ではなさそうだった。


 僕はテーブルの向かいに座った。座ってから、やっぱりまずかったかもしれないと思った。でも女の人は何も言わず、僕の前に小さな皿を置いた。


「名前は?」


「言わない」


「それも正しいね」


「あなたは?」


「私?」


 女の人は少し考えた。


「日向千鶴。千鶴でいいよ」


「名前で呼ばせるの?」


「だめ?」


「大人なのに?」


「大人だから、好きな呼ばれ方を選べるの」


 変な人だと思った。


 でも、お菓子はおいしかった。


 外はさくっとしていて、中は少しだけやわらかい。甘いのに、口の中に残りすぎない。僕がひとつ食べ終わるまで、千鶴さんは何も聞かなかった。


「ここ、好きだったの?」


 急に言われて、僕は顔を上げた。


「別に」


「そう」


「……前は誰もいなかったから」


「うん」


「だから、ちょっと来てただけ」


「うん」


 千鶴さんは、僕の嘘を責めなかった。


「じゃあ、来てもいいよ」


「え?」


「庭だけなら。門から来て。生け垣から入ると服が汚れるから」


 僕は何か言い返そうとした。


 でも、来てもいいと言われたことで、急にこの庭が僕の秘密基地ではなくなった気がした。許された場所は、もう秘密ではない。


 それが少し悔しかった。


「……別に、来ないし」


「うん」


「今日はたまたまだから」


「うん」


 千鶴さんは、また困ったように笑った。


 僕はその笑い方を、よく覚えている。


 何かを許しているようで、何かを最初から諦めているような笑い方だった。


 その日から、僕は何度も白い家に行った。


 最初は、庭に忘れ物をしたふりをした。次は、道を間違えたふりをした。その次は、千鶴さんが焼いたお菓子の名前を聞きに行った。


 千鶴さんは毎回、自分の前には紅茶を置いた。


 僕の前には、いつも違う炭酸飲料を置いた。村の自販機では見たことがない瓶のものや、ラベルの英語が読めないものもあった。


「それ、好き?」


 最初に聞かれた時、僕は少しだけ迷ってからうなずいた。


「まあまあ」


「そっか。じゃあ、また買っておくね」


「千鶴さんは飲まないの?」


「私は、炭酸あんまり得意じゃないから」


「じゃあ、なんであるの」


 千鶴さんは、少しだけ目をそらした。


「夏樹くんが来るかと思って」


 僕は何も言えなくなって、瓶の口をくわえた。


 炭酸は、思ったより強かった。


「夏樹くんは、甘いもの好きだね」


 三度目に行った時、千鶴さんはそう言った。


 僕はむっとした。


「名前、言ってない」


「この前、門の外でお母さんが呼んでた」


「聞いてたの?」


「聞こえたの」


「ずるい」


「じゃあ、名字も教えて」


「いやだ」


「そっか」


 千鶴さんは笑って、焼き菓子をもうひとつ僕の皿に置いた。


 ずるい人だと思った。


 こちらが怒る前に、知らない味の飲み物を出してくる。


 しかも、それを自分では飲まない。


 家の中に入ったのは、雨の日だった。


 急に降り出した雨に、庭で足止めされた。千鶴さんは窓を開けて、僕を呼んだ。


「濡れるよ」


「帰る」


「その雨で?」


「走れば」


「滑って転ぶ」


「転ばない」


「じゃあ、転ばなかったらお菓子なし」


 僕は少し迷って、家に入った。


 中は、外から見た通り明るかった。


 白い壁。明るい床。大きな窓。花瓶には花があって、棚には本が並んでいた。高そうな家なのに、怖くはなかった。むしろ、きれいすぎて落ち着かなかった。


 千鶴さんはタオルを持ってきて、僕の頭にかけた。


「自分でできる」


「そう」


 そう言って手を離す。


 子ども扱いするのかしないのか、よくわからない人だった。


 僕はタオルで頭を拭きながら、部屋を見回した。


 大きな家なのに、人の気配が少なかった。


 食器も、椅子も、本も、花もある。生活している感じはある。でも、家族がいる家の匂いではなかった。誰かと喧嘩したあとみたいな空気も、誰かを待っている感じもない。


 ただ、千鶴さんが一人で暮らしている。


 その事実だけが、家の中に静かに置かれていた。


「一人なの?」


 僕が聞くと、千鶴さんは少しだけ目を伏せた。


「今はね」


「家族は?」


「いるよ」


「じゃあ、なんで一人なの」


「一人で暮らしたかったから」


「こんなでかい家で?」


「うん」


「もったいない」


「そうかも」


 千鶴さんは笑った。


 その笑い方も、やっぱり少し困っていた。


 夕方、雨がやんで、僕は家に帰った。


 玄関を開けると、母がすぐに顔を出した。


「どこに行ってたの」


「白い家」


 そう言うと、母の顔が少し変わった。


 怒られると思った。


 でも母は、怒る前に、声を小さくした。


「あの人のところ?」


「うん」


「迷惑かけてないでしょうね」


「かけてない」


「本当に?」


「お菓子食べただけ」


 母は何か言いかけて、やめた。


 それから、台所の方を一度見て、もっと小さな声で言った。


「あの人はね、普通の人じゃないの」


「普通じゃないって?」


「国立次世代育成センターを出た人よ」


 僕は、その名前を知らなかった。


 国立、という言葉だけは聞いたことがあった。学校より偉そうで、役所より遠そうで、ニュースに出てくる建物みたいな響きがした。


「すごいの?」


「すごいわよ」


 母はすぐに言った。


 でも、その言い方は、うらやましいとも、尊敬しているとも少し違った。


 声の中に、触ってはいけないものを指さす時の硬さがあった。


「もともとは、うちと同じ側の人だったんだから」


「同じ側?」


「下層の出ってこと」


「じゃあ、今は?」


 母は、少し黙った。


 そして、台所の換気扇の音に混ぜるみたいに言った。


「今は違うのよ。国が、違うって決めたの」


「ふうん」


「ああいう人に、失礼なことしちゃだめ」


「してない」


「ならいいけど」


 母はそれ以上、何も言わなかった。


 僕も、その時は深く聞かなかった。


 国立次世代育成センター。


 千鶴さんは、そこを出た人。


 元は僕たちと同じ側で、今は違う人。


 僕にとってその日のそれは、千鶴さんの焼くお菓子が村の店よりおいしい理由と、同じくらいの意味しかなかった。


 次の日も、僕は白い家に行った。


 門から入った。


 千鶴さんは庭にいて、僕を見ると、少しだけ笑った。


「今日は正面から来たね」


「生け垣、服が汚れるから」


「うん。いい判断」


「お菓子ある?」


「あるよ」


 千鶴さんは、白い皿をテーブルに置いた。


 僕は椅子に座った。


 その時の僕はまだ知らなかった。


 その白い家が、いつか僕にとって、秘密基地でも、お菓子を食べる場所でもなくなることを。


 千鶴さんが、ただの優しい女の人ではないことを。


 そして僕が、大人になってから彼女に「好きです」と言うことを。


 彼女がそれを聞いて、あの困ったような笑い方をすることも。


「ごめんなさい、夏樹くん」


 その言葉で、僕の初恋が終わることも。


 まだ、何も知らなかった。

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