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第7話配慮


 午後五時まで、まだ三時間ありました。


 私は、部屋の机に置かれた予定表を何度も見ました。


 三枝修司。


 業務。


 午後五時。


 何度読んでも、書かれている文字は変わりませんでした。


 時計の針だけが、少しずつ進みました。


 昼食は部屋へ運ばれてきました。


 白い皿に、形よく盛りつけられた料理。


 温かいスープ。


 小さな果物。


 家では、特別な日にしか食べられないような食事でした。


 私はほとんど手をつけませんでした。


 職員は何も言いませんでした。


「緊張される方は多いですから」


 そう言って、食器を下げました。


 緊張。


 便利な言葉だと思いました。


 明日の試験が不安な時も。


 人前で話す前も。


 初めて会う人を待つ時も。


 これから、自分で選んでいない人へ身体を渡す時も。


 すべて同じ言葉で呼ぶことができました。


 午後三時になると、健康確認がありました。


 熱はないか。


 痛むところはないか。


 気分は悪くないか。


 私は、すべてに「ありません」と答えました。


 気分がいいわけではありませんでした。


 でも、職員が尋ねているのは、予定を変更しなければならないほどの異常があるかどうかでした。


 怖いことは、異常には入らないようでした。


 悲しいことも。


 学校へ戻りたいことも。


 昨日の約束を守りたいことも。


 どれも、今日の業務を止める理由にはなりませんでした。


 検査が終わると、入浴するよう言われました。


 浴室には、新しいタオルと、香りの弱い石鹸が用意されていました。


 鏡の中の私は、朝より少し顔色が悪く見えました。


 唇に触れました。


 昨日、直哉の顔が近づいた時のことを思い出しました。


 息が触れそうなところまで近づいて、二人とも動けなくなった。


 目を閉じるタイミングが分からなくて。


 恥ずかしくなって。


 結局、笑ってしまった。


「明日、もう一回」


 直哉はそう言いました。


 今頃、彼はどこにいるのでしょう。


 学校へは、私が国立センターへ選ばれたという通知が届いているはずでした。


 私の席は空いている。


 図書室の窓際にも、私はいない。


 直哉は、昨日のことを誰かに話したのでしょうか。


 話していないかもしれません。


 付き合い始めてから、まだ一日も経っていませんでした。


 私たちが恋人だったことを知っているのは、私たち二人だけでした。


 それさえも、ここでは何の記録にもなりませんでした。


 浴室から出ると、ベッドの上に服が用意されていました。


 薄い生地の、白い服でした。


 学校の制服とは違いました。


 同じ白なのに、まるで違う色に見えました。


 着替えを終えた頃、職員が部屋へ来ました。


「お時間です」


 私は立ち上がりました。


 足にうまく力が入りませんでした。


 職員は急かしませんでした。


 廊下をゆっくり歩きました。


 床には柔らかい絨毯が敷かれていて、足音はほとんど聞こえませんでした。


 壁には花や風景の絵が掛けられていました。


 窓の外には、手入れされた庭が見えました。


 どこを見ても、怖い場所には見えませんでした。


 誰かに助けを求める理由がないように、きれいに整えられていました。


「こちらです」


 案内された部屋は、私に与えられた部屋より少し広いものでした。


 大きなベッド。


 低い照明。


 水の入った瓶と、二つのグラス。


 壁際には小さな呼び出しボタンがありました。


 職員はそれを指しました。


「体調に異常があった場合は、こちらでお知らせください」


「押せば、業務は中止になりますか」


「状態を確認し、必要に応じて対応いたします」


「私が、やめたいと言った場合は?」


 職員は、少しだけ間を置きました。


「担当者には、十分に配慮するよう伝えております」


 答えにはなっていませんでした。


 昨日から、答えになっていない言葉を何度も聞きました。


 環境への適応。


 必要な連絡。


 十分な配慮。


 どの言葉も、私の問いを柔らかく包んで、見えなくするためにあるようでした。


「終了後、確認に参ります」


 職員はそう言って、部屋を出ました。


 扉が閉まりました。


 鍵の音はしませんでした。


 試しに開けようとは思いませんでした。


 鍵が掛かっていなくても、出ていける場所ではありませんでした。


 私はベッドの端へ座りました。


 時計はありませんでした。


 壁の絵を見ました。


 青い海と、白い砂浜の絵でした。


 行ったことのない場所でした。


 波を数えようとしました。


 絵なので、いくつ数えても動きませんでした。


 しばらくして、扉が開きました。


 入ってきたのは、思っていたより若い男の人でした。


 上等な服を着ていました。


 背は高く、髪はきれいに整えられていました。


 私を見ても、笑いませんでした。


 不満そうな顔もしませんでした。


 品物を確かめるように眺めることもありませんでした。


 ただ、扉の前で一度立ち止まりました。


「日向千鶴さんですか」


「はい」


「三枝修司です」


 予定表に書かれていた名前でした。


「よろしくお願いします」


 何と答えればいいのか分かりませんでした。


 よろしくしたいことなど、何もありませんでした。


 黙っていると、三枝さんは責めませんでした。


 水の瓶からグラスへ水を注ぎ、一つを私の近くへ置きました。


「飲みますか」


「いりません」


「分かりました」


 彼はもう一つの椅子へ座りました。


 すぐに近づいてこないことに、私は少し安心しました。


 その安心を、すぐに恥ずかしいと思いました。


 座っているだけで安心するほど、私はこの人を恐れていました。


「初回だと聞いています」


「はい」


「説明は受けましたか」


「受けました」


「分からないことは?」


「聞けば、何か変わるんですか」


 三枝さんは少し黙りました。


「大きくは変わりません」


 正直な答えでした。


「では、ありません」


「そうですか」


 彼は慰めませんでした。


 大丈夫だとも言いませんでした。


 怖くないとも、すぐ終わるとも言いませんでした。


 そんな言葉を言われても、私は信じなかったと思います。


「嫌なことがあれば、言ってください」


「言えば、やめてもらえるんですか」


「全部をやめることはできません」


 予想していた答えでした。


 それでも、胸の奥が冷たくなりました。


「ただ、しなくていいことはしません」


「何が、しなくていいことなんですか」


「業務に必要のないことです」


 ここでは、必要なことと、必要のないことが決められていました。


 私がしたいことと、したくないことではありません。


 国が必要だと決めたこと。


 三枝さんが必要だと考えること。


 その中に、私の意思が入る場所はほとんどありませんでした。


 それでも、必要のないことはしないと言われて、また少しだけ安心しました。


 その程度の約束しかないことに。


 その程度の約束を、ありがたいと思ってしまったことに。


 私は、自分がもう昨日までとは違う場所にいるのだと感じました。


 三枝さんが立ち上がりました。


 私の身体が固くなりました。


 彼はすぐには触れませんでした。


「時間を置きますか」


「置けば、なくなりますか」


「なくなりません」


「なら、いいです」


 自分の声が、遠くから聞こえました。


「早く終わった方がいいです」


 三枝さんはうなずきました。


 謝りませんでした。


 その方がよかったのだと思います。


 謝られたら、私は許さなければならないような気がしたからです。


 私は、壁の海を見ました。


 白い砂浜。


 青い空。


 波は動きませんでした。


 三枝さんの手が触れた時、昨日の直哉の手を思い出しました。


 駅まで繋いで歩いた手。


 汗ばんでいて、指の置き場所も分からなくて。


 それでも離したくなかった手。


 同じ人の手なのに、触れ方が違えば、こんなにも違うものになるのだと思いました。


 思い出さない方がよかった。


 直哉を思えば耐えられると思っていました。


 でも、思い出すたびに、昨日と今日の間にあるものが、はっきりしてしまいました。


 昨日は、自分から握り返しました。


 今日は、どこへ手を置けばいいのか分かりませんでした。


 私は壁の絵へ意識を戻しました。


 海。


 砂浜。


 雲。


 遠くに小さな船。


 見えるものを、一つずつ数えました。


 途中で分からなくなると、最初から数え直しました。


 三枝さんが何かを尋ねました。


 一度目は聞き取れませんでした。


「痛みますか」


 もう一度、同じことを聞かれました。


「少し」


 正直に答えるつもりはありませんでした。


 でも、声が先に出ました。


 三枝さんは動きを止めました。


 部屋が急に静かになりました。


「続けられますか」


 続けられないと答えたら、どうなるのでしょう。


 今日が明日になるだけかもしれません。


 相手が変わるだけかもしれません。


 もっと配慮しない人に替わるかもしれません。


 分かりませんでした。


 分からないことが、何より怖いと思いました。


「大丈夫です」


 私は言いました。


 大丈夫ではありませんでした。


 でも、続けてくださいと言うよりは、まだ言いやすい言葉でした。


 三枝さんは、すぐには動きませんでした。


 少し待ってから、再び業務を続けました。


 私はまた、海を数えました。


 何度数えたのかは覚えていません。


 途中から、昨日のことも考えませんでした。


 直哉の顔を思い出すことも。


 学校へ戻ることも。


 この先のことも。


 考えると、自分が今ここにいることまで、本当になってしまうような気がしました。


 だから、見えるものだけを考えました。


 青。


 白。


 小さな船。


 絵の端にある木の枠。


 三枝さんの呼吸。


 自分の呼吸。


 終わるまで、あとどのくらいか。


 それだけを考えました。


 やがて、三枝さんが離れました。


 終わったのだと、すぐには分かりませんでした。


「終わりました」


 言われて、ようやく息を吐きました。


 ずっと息を止めていたわけではないのに、胸が苦しくなりました。


 三枝さんは服を整えました。


 私へ手を伸ばしませんでした。


 髪に触れることも、頬を撫でることもありませんでした。


「水を飲んだ方がいいと思います」


 机の上のグラスを指しました。


 私はうなずきました。


「職員を呼びます」


「自分で押します」


「分かりました」


 三枝さんは扉へ向かいました。


 そこで一度だけ止まりました。


 振り返りはしませんでした。


「体調が悪ければ、隠さない方がいいです」


「はい」


 それだけでした。


 謝罪も。


 感謝も。


 次の約束も。


 何も残さず、三枝さんは部屋を出ていきました。


 扉が閉じました。


 私はしばらく動けませんでした。


 壁の海を見ていました。


 波は、最後まで一つも動きませんでした。


 机の上の水を飲みました。


 ぬるくなっていました。


 呼び出しボタンを押すと、すぐに職員が来ました。


 服装も、表情も、私を部屋へ案内した時と変わりませんでした。


「お疲れさまでございました」


 職員は言いました。


「お身体に異常はございませんか」


「ありません」


「強い痛みや、出血は?」


「ありません」


「担当者から、規定外の行為を求められることはございましたか」


「ありません」


「暴言や威圧的な言動は?」


「ありません」


 一つずつ確認されました。


 三枝さんは、何もしませんでした。


 正確には、業務として定められたこと以外は。


 私を侮辱しませんでした。


 怖がる私を笑いませんでした。


 必要以上に触れませんでした。


 痛いと言えば、一度止まりました。


 職員を呼ぶ必要がある怪我もありませんでした。


 だから、問題はありませんでした。


「最後に、何か申し出たいことはございますか」


 全部が嫌でした。


 ここへ来たことも。


 直哉に何も伝えられないことも。


 自分で選んでいない人を部屋で待ったことも。


 嫌だと言っても、なくならないことも。


 でも、それは今尋ねられている問題ではありませんでした。


「ありません」


 職員は書類へ何かを書き込みました。


 初回業務。


 問題なし。


 離れた位置から、そう読めました。


「浴室をお使いいただけます。お部屋へ戻られる際は、お声がけください」


 職員は出ていきました。


 私は一人で浴室へ入りました。


 服を脱ぎ、シャワーを浴びました。


 湯の温度はちょうどよく調整されていました。


 石鹸も、タオルも、すべて新しいものでした。


 何度洗えばいいのか分かりませんでした。


 一度でいいはずでした。


 汚れたわけではありません。


 少なくとも、職員の書類にはそう書かれていました。


 問題はなかったのです。


 シャワーを止めました。


 鏡の前に立ちました。


 朝と同じ顔が映っていました。


 昨日より、少し疲れて見えるだけでした。


 私は唇へ指を当てました。


 そこで初めて気づきました。


 三枝さんは、私の唇には触れませんでした。


 顔を近づけることも。


 キスをしようとすることもありませんでした。


 直哉とできなかった最初のキスは、まだ残っていました。


 いつか会えたなら。


 もう一度会うことができたなら。


 あの時の続きを、まだ直哉とすることができる。


 私は、ほっとしました。


 本当に、ほっとしたのです。


 唇だけは守れた。


 まだ一つ、直哉に渡せるものが残っている。


 そのことが嬉しくて、胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが戻りました。


 そして私は、自分が何に安心しているのかを考えてしまいました。


 唇だけでした。


 昨日まで自分のものだと思っていた身体も。


 今日という一日も。


 学校へ行くはずだった時間も。


 直哉と過ごすはずだった明日も。


 嫌なものを嫌だと言い、会いたい人に会うことも。


 何一つ、守ることはできませんでした。


 ただ唇だけが、残っていました。


 それを私は、宝物のように喜んでいました。


 守れたものが小さすぎたからこそ、守れなかったものの大きさが、急にはっきりと見えました。


 昨日までの私は、キスをすることさえ恥ずかしくてできませんでした。


 時間はいくらでもあると思っていました。


 今日できなければ、明日すればいい。


 明日できなければ、その次でもいい。


 そう思っていました。


 けれど、もう私には、何かを明日へ残す自由さえありませんでした。


 涙は出ませんでした。


 私は鏡の前で、唇に指を当てたまま立っていました。


 ファーストキスは守れました。


 その代わりに何を失ったのか、数えることもできませんでした。


 しばらくして、浴室の外から職員の声がしました。


「日向様。お加減はいかがでしょうか」


「大丈夫です」


 私は答えました。


 今日、何度目か分からない言葉でした。


 用意された服を着ました。


 職員と一緒に廊下を歩き、自分の部屋へ戻りました。


 ベッドは、朝と同じように整えられていました。


 机の上には、明日の予定表が置かれていました。


 私はそれを伏せました。


 その日の記録には、きっとこう残されたのだと思います。


 日向千鶴。


 初回業務終了。


 担当者、三枝修司。


 問題なし。


 何も問題のなかった一日として、私の最初の業務は終わりました。


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