第39話朝食
目を開けると、部屋が明るかった。
最初に見えたのは、白い天井でした。
それから、カーテンの隙間から差し込む朝の光。
光は床の上に細く伸びていて、昨日の夜とはまるで違う顔をしていました。
同じ部屋なのに、朝になっただけで、知らない場所みたいに見えました。
僕はしばらく、その光を見ていました。
体を動かそうとして、すぐに動けなくなりました。
隣に、千鶴さんがいました。
すぐ近くに。
昨日よりも、ずっと近くに。
千鶴さんは、まだ目を閉じていました。
髪が頬に少しかかっています。
寝息は静かでした。
起きている時の千鶴さんは、いつもどこか整っています。
座る時も、カップを持つ時も、言葉を選ぶ時も、指先まできちんとしている。
でも今の千鶴さんは、少しだけ違いました。
髪が乱れていました。
肩の近くに、朝の光が落ちていました。
寝ている顔は、いつもより幼く見えました。
僕は、息を止めました。
見ていいのか分かりませんでした。
でも、目を逸らすこともできませんでした。
昨日の夜のことが、少しずつ戻ってきました。
庭。
桃の炭酸。
ぬるいです、と言ったこと。
でも、飲めます、と言ったこと。
千鶴さんの手。
玄関の灯り。
白い壁に並んだ影。
閉まった扉。
思い出した途端、顔が熱くなりました。
僕は少しだけ身じろぎしました。
その動きで、千鶴さんが目を開けました。
何度かゆっくり瞬きをして、それから僕を見ました。
ほんの一瞬、千鶴さんの顔が固まりました。
たぶん、僕と同じように、朝だということを思い出したのだと思います。
「……おはようございます」
千鶴さんが言いました。
声が、少しかすれていました。
それだけで、胸の奥が変なふうに鳴りました。
「おはよう、ございます」
僕も言いました。
普通の挨拶です。
何度も言ったことがある言葉です。
でも、こんなに近い距離で言うのは初めてでした。
千鶴さんは少しだけ視線を落としました。
それから僕を見て、また目を伏せました。
「……朝ですね」
「はい」
「明るいですね」
「はい」
会話が下手でした。
でも、千鶴さんも同じように下手でした。
それが少しだけおかしくて、僕は笑いそうになりました。
千鶴さんがそれに気づいて、眉を下げました。
「笑いました?」
「笑ってないです」
「笑いました」
「少しだけ」
「なぜ」
「千鶴さんも、変なこと言うんだと思って」
「変なこと」
「朝ですね、って」
「朝ですから」
「そうですけど」
僕が言うと、千鶴さんは少しだけ笑いました。
その笑い方は、庭で炭酸の味を聞く時のものとは違っていました。
もっと近くて。
もっと逃げ場がなくて。
でも、嫌ではありませんでした。
僕は手を動かしました。
すぐ横に、千鶴さんの手がありました。
触れていいのか迷いました。
昨日の夜は触れた。
手を握った。
それでも、朝になるともう一度、全部確かめ直さなければいけない気がしました。
僕が迷っていると、千鶴さんの指が少しだけ動きました。
指先が、僕の手に触れました。
ほんの少しです。
でも、触れた。
僕は息を吸いました。
千鶴さんは何も言いませんでした。
だから僕も何も言いませんでした。
ただ、そのまま指を重ねました。
千鶴さんの手は、少し温かかった。
昨日の夜、僕の手を引いた手。
生け垣から入ってきた子どもではなく、門から戻ってきた人を招き入れた手。
その手が、朝になっても離れませんでした。
「夏樹くん」
「はい」
「学校は」
言われて、僕は固まりました。
完全に忘れていました。
忘れていたというより、考えたくなかった。
「……あります」
「そうですよね」
「休んでも」
「駄目です」
即答でした。
僕は少しだけ起き上がりました。
「まだ何も言ってないです」
「言いました」
「休んでも、までしか」
「その先は分かります」
千鶴さんは真面目な顔で言いました。
「学校には行ってください」
「今日くらい」
「今日くらい、ではありません」
「でも」
「行ってください」
言い方は静かでした。
でも、動かない言葉でした。
昨日の「帰ってください」と同じくらい、動かない。
けれど、昨日とは違いました。
冷たくない。
突き放していない。
むしろ、その言葉の中に、朝の続きがありました。
学校へ行く。
帰ってくる。
そういう普通の一日があるみたいでした。
「……帰ってきます」
僕が言うと、千鶴さんは一瞬だけ黙りました。
それから、目を細めました。
「はい」
その「はい」が、胸に残りました。
僕は急に、学校へ行ける気がしました。
行って、帰ってくればいい。
帰ってくる場所があるなら。
それなら、行ける。
千鶴さんは先に起きました。
僕はその背中を見ないようにしようとして、結局少し見てしまいました。
千鶴さんが振り返りました。
「夏樹くん」
「はい」
「見ないでください」
「見てないです」
「見ています」
「すみません」
僕がすぐに謝ると、千鶴さんは少し困ったように笑いました。
「……怒っているわけではありません」
「はい」
「でも、恥ずかしいです」
その言葉で、僕の方が恥ずかしくなりました。
「すみません」
「謝らなくていいです」
「じゃあ、どうすれば」
「少し、後ろを向いていてください」
「はい」
僕は後ろを向きました。
朝の光が壁に当たっていました。
白い壁。
昨日の夜、影が並んだ壁。
そこに今は、ただ明るい光だけがありました。
衣擦れの音がして、僕は耳まで熱くなりました。
そのあと、千鶴さんが小さく言いました。
「もう大丈夫です」
振り返ると、千鶴さんは髪を整えて立っていました。
いつもの千鶴さんに戻っていました。
でも、戻りきってはいませんでした。
頬に赤みが残っていました。
僕は見てしまいました。
千鶴さんも、それに気づきました。
「朝食を作ります」
「手伝います」
僕も慌てて起き上がろうとしました。
千鶴さんは一度、僕を見ました。
それから、少しだけ目を逸らしました。
「その前に、身支度をしてください」
「手伝ってから」
「身支度をしてからです」
「……はい」
僕は負けました。
洗面所で顔を洗いました。
鏡に映った自分の顔は、少し赤くて、少し寝不足で、どう見ても普通ではありませんでした。
何度か水で顔を冷やして、髪を直しました。
それでも、全部は隠せませんでした。
居間へ行くと、台所から音がしていました。
卵を割る音。
フライパンを置く音。
水が流れる音。
いつもの白い家の朝ではないはずなのに、なぜかずっと前から知っている朝みたいに聞こえました。
庭の丸いテーブルには、昨日の桃の炭酸の瓶がまだ置かれていました。
ふたは開いています。
中身は少し残っていました。
泡はもう消えていました。
夜のうちに、炭酸は静かになっていました。
でも、瓶はそこにありました。
昨日の夜が、夢ではなかった証拠みたいに。
僕が見ていると、千鶴さんが台所から顔を出しました。
「それは、あとで片づけます」
「はい」
「飲みますか?」
「朝からですか」
「いえ、聞いただけです」
「ぬるいですよ」
「でしょうね」
千鶴さんが少し笑いました。
僕も笑いました。
朝からこんなことで笑えることが、不思議でした。
昨日の夜、あれだけ話して。
僕は戻ってきて。
千鶴さんは僕を家に入れて。
それでも朝になると、ぬるい炭酸の話で笑えました。
僕は台所へ行きました。
「何かします」
「では、お皿を出してください」
「はい」
「二枚です」
「分かってます」
棚から皿を二枚出しました。
二枚。
それだけで、また胸が少し鳴りました。
千鶴さんが僕の横で、卵を焼いています。
僕は皿を机へ運びました。
箸を二膳置きました。
コップを二つ置きました。
昨日まで、ここで何度も飲んだ。
でも、朝食を並べるのは初めてでした。
僕がコップを置いていると、千鶴さんが言いました。
「少し、端に寄せてください」
「こぼすから?」
「はい」
「僕、そんなにこぼさないです」
「分かりません」
「ひどい」
「念のためです」
千鶴さんの声は軽かった。
でも、僕は少しだけ、昨日聞いた話を思い出しました。
水をこぼした子のこと。
ゆっくり飲めば大丈夫だと言ったこと。
喉の奥で何かが詰まりかけました。
でも、千鶴さんは僕を見ていました。
悲しい顔ではありません。
普通の朝を続けようとしている顔でした。
だから僕も、普通に言いました。
「じゃあ、端にします」
「はい」
コップを少しだけ端へ寄せました。
千鶴さんはそれを見て、小さくうなずきました。
朝食は簡単なものでした。
焼いた卵。
パン。
小さく切った果物。
温かいスープ。
全部、特別な料理ではありません。
それなのに、僕は落ち着きませんでした。
向かいに千鶴さんが座っています。
昨日より近いようで、いつもと同じ距離でもあって。
僕はパンを手に取って、すぐ置きました。
「どうしました?」
「いえ」
「食べてください」
「はい」
食べると、ちゃんとおいしかった。
いつもの焼き菓子とは違う味です。
朝の味でした。
「おいしいです」
僕が言うと、千鶴さんは少し安心したように笑いました。
「よかったです」
「毎朝食べたいです」
言ってから、僕は固まりました。
言いすぎたかもしれない。
昨日、明日のことは分からないと言われたばかりです。
今朝だって、まだ何も決まっていません。
僕は慌てて言葉を探しました。
「あ、いや、その」
千鶴さんはスープの器を持ったまま、少しだけ目を伏せました。
怒ったわけではありませんでした。
困ったわけでも、たぶんありません。
ただ、胸のどこかに触れたような顔でした。
「そう言ってもらえるのは」
千鶴さんはゆっくり言いました。
「うれしいです」
それだけでした。
でも、それだけで十分でした。
僕はパンを食べました。
千鶴さんも食べました。
途中で、千鶴さんが僕の口元を見ました。
「ついています」
「え」
「パンくず」
僕は慌てて手で払いました。
「取れました?」
「反対です」
「こっち?」
「もう少し上です」
「ここ?」
千鶴さんは少し笑って、手を伸ばしました。
指先が僕の口元に触れました。
一瞬、時間が止まりました。
千鶴さんも止まりました。
取ったパンくずを見て、それから急に手を引きました。
「……取れました」
「はい」
僕は変な声になりました。
千鶴さんは視線を落として、スープを飲みました。
耳が赤くなっていました。
僕はそれを見ないふりをしました。
でも、見ていました。
朝食は、ずっとそんな感じでした。
特別なことは何もない。
ただ、少し近い。
少し照れる。
言葉が何度も引っかかる。
でも、そのたびに笑える。
昨日の夜の重さは消えていません。
千鶴さんの過去も、僕が聞いた話も、なくなっていません。
でも、朝食は明るかった。
明るくていいのだと思いました。
重いものを聞いたあとでも。
何も分からないままでも。
朝は来る。
パンは焼ける。
卵は温かい。
千鶴さんは、僕の前に座っていました。
それが、うれしかった。
食べ終わると、学校へ行く時間が近づいていました。
行きたくありませんでした。
でも、行かなければいけませんでした。
千鶴さんは、片づけをしながら言いました。
「遅れますよ」
「分かってます」
「急いでください」
「帰ってきます」
また言ってしまいました。
千鶴さんの手が、皿の上で少し止まりました。
僕はその動きを見ました。
千鶴さんはすぐに動き直しました。
「はい」
それだけ言いました。
僕は鞄を持ちました。
玄関へ行きます。
靴を履く時、昨日の夜のことを思い出しました。
この場所で、千鶴さんが僕を待っていたこと。
手を引いたこと。
僕が家の中へ入ったこと。
朝になって、同じ玄関から出ていくこと。
全部がつながっているようで、少し怖かった。
でも、うれしかった。
玄関の扉を開けると、朝の空気が入ってきました。
庭は明るくなっていました。
丸いテーブルの上で、桃の炭酸の瓶が朝日に光っていました。
千鶴さんが、僕の後ろに立ちました。
「気をつけて」
「はい」
「忘れ物はありませんか」
「たぶん」
「たぶん」
「大丈夫です」
「そうですか」
千鶴さんは少しだけ笑いました。
そして、言いました。
「いってらっしゃい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなりました。
何でもない言葉のはずでした。
毎朝、どこかの家で誰かが言う言葉です。
学校へ行く子に。
仕事へ行く人に。
また帰ってくる人に。
でも、僕は白い家でその言葉を聞いたことがありませんでした。
ここは秘密基地だった。
遊びに来る場所だった。
千鶴さんに会う場所だった。
でも、帰ってくる前提で送り出される場所ではありませんでした。
僕は、千鶴さんを見ました。
千鶴さんは、少し恥ずかしそうにしていました。
たぶん、自分でもその言葉の重さに気づいていました。
僕は、ちゃんと言わなければと思いました。
「行ってきます」
千鶴さんの顔が、少しだけ柔らかくなりました。
「はい」
僕は門を出ました。
振り返ると、千鶴さんは玄関のところに立っていました。
白い家を背にして。
朝の光の中で。
僕はもう一度、手を上げました。
千鶴さんも、小さく手を振りました。
それだけで、学校へ行ける気がしました。
その日は、授業のことをほとんど覚えていません。
黒板に何が書かれていたのかも。
誰が何を言ったのかも。
昼休みに何を食べたのかも。
全部、どこか遠くにありました。
僕は何度も時計を見ました。
いつもなら長く感じる授業が、その日はもっと長く感じました。
鞄の中には、朝の白い家の匂いが残っている気がしました。
パンの匂い。
スープの匂い。
千鶴さんの声。
いってらっしゃい。
そればかりが、頭の中で何度も繰り返されました。
友人に、何かいいことあったのか、と聞かれました。
僕は、別に、と答えました。
たぶん、顔に出ていたのだと思います。
別に、ではありませんでした。
僕には、帰る場所ができた。
そう思っていました。
放課後になると、僕はすぐに教室を出ました。
走るつもりはありませんでした。
でも、足が勝手に速くなりました。
廊下を抜けて、階段を下りて、校門を出ます。
道を急ぎました。
白い家までの道は、何度も通った道です。
小学生の頃は走って帰った。
中学生の頃は、わざとゆっくり歩いた。
高校に入ってからは、来る理由を考えながら歩いた。
今日は、理由を考えなくてよかった。
帰ってくると言ったから。
行ってきますと言ったから。
白い家が見えてきました。
朝と同じ白い壁。
大きな窓。
生け垣。
門。
僕は息を整える前に、門へ近づきました。
庭は静かでした。
静かすぎると思いました。
でも、いつも白い家は静かです。
千鶴さんの家は、いつだって静かでした。
だから、最初は気にしませんでした。
門を開けます。
砂利が鳴りました。
「ただいま」
言ってから、恥ずかしくなりました。
でも、誰も返事をしませんでした。
僕は足を止めました。
庭の丸いテーブルに、朝の桃の炭酸の瓶はありませんでした。
片づけられていました。
紅茶のカップもありません。
皿もありません。
朝食の気配もありません。
きれいに片づいていました。
ただ、テーブルの上に、白い封筒が置かれていました。
風で飛ばないように、小さな石が乗せられています。
僕は、しばらくそれを見ていました。
何かの連絡かもしれないと思いました。
買い物に行っています。
少し出ています。
待っていてください。
そういう言葉が入っているのだと思おうとしました。
でも、封筒の前に立った時、違うと分かりました。
心臓が、嫌な音を立てました。
僕は封筒を開けました。
中には、便箋が一枚だけ入っていました。
宛名はありませんでした。
名前もありませんでした。
そこには、千鶴さんの字で、二つだけ言葉が残されていました。
『たまたまそばにいたのが、私だっただけです。』
『元気でね。』
僕は、何度も読みました。
一度では意味が入ってきませんでした。
二度読んでも、三度読んでも、文字はそこにあるだけでした。
たまたまそばにいたのが、私だっただけです。
違う。
そう言いたかった。
違う、とその場で言いたかった。
でも、言う相手がいませんでした。
元気でね。
その最後の言葉だけが、やけに優しく見えました。
優しいのに、遠かった。
僕は便箋を持ったまま、庭に立っていました。
白い家は、何も言いませんでした。
窓は閉まっています。
玄関も閉まっています。
生け垣の隙間は、夕方の影の中に沈んでいました。
僕は玄関へ行きました。
呼び鈴を押しました。
返事はありませんでした。
もう一度押しました。
音だけが、家の中に入っていきました。
でも、誰も出てきませんでした。
「千鶴さん」
名前を呼びました。
自分の声が、白い壁に当たって戻ってきました。
もう一度呼びました。
返事はありませんでした。
さっきまで、ここにいたはずなのに。
今朝、ここで笑っていたはずなのに。
僕を見送ったはずなのに。
いってらっしゃい、と言ったはずなのに。
その日、僕はしばらく白い家の庭にいました。
暗くなっても、帰りたくありませんでした。
でも、千鶴さんは戻ってきませんでした。
桃の炭酸の瓶もありません。
朝食の皿もありません。
ただ、白い封筒だけがありました。
その手紙を、僕は持って帰りました。
捨てることも、置いていくこともできませんでした。
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