第38話開ける
私は、門の取っ手に手をかけました。
金具は夜気で少し冷えていました。
鍵がかかっているわけではありません。
押せば開きます。
それだけのことなのに、指に力が入りました。
門の向こうで、夏樹くんは待っていました。
昼に帰した時と、同じ服です。
けれど、少し乱れていました。
髪も、息も。
走ってきたのかもしれません。
歩いてきたのかもしれません。
私は聞きませんでした。
夏樹くんも、自分からは言いませんでした。
「……入っても、いいですか」
夏樹くんが言いました。
その言葉に、胸の奥が小さく痛みました。
昔の夏樹くんは、そんなことを聞きませんでした。
生け垣の隙間から勝手に入って、ここは自分の秘密基地だと言い張りました。
それが門から入るようになり、呼び鈴を鳴らすようになり、今は入っていいかと聞いています。
私は、門を開けました。
「どうぞ」
夏樹くんは、すぐには動きませんでした。
私の顔を見て、それから庭の奥を見ました。
丸いテーブル。
その上に残った桃の炭酸。
夏樹くんの視線が、そこで止まりました。
「まだ、ありました」
「はい」
「片づけなかったんですか」
「片づけようとは、しました」
「……そうですか」
夏樹くんは、門をくぐりました。
足元の砂利が小さく鳴ります。
その音を聞きながら、私は門を閉めました。
さっき閉まった音とは、違って聞こえました。
帰した時の音ではなく。
迎え入れた時の音でした。
私たちは、庭のテーブルへ戻りました。
昼と同じ席です。
ただ、空の色だけが違いました。
白い家の窓から漏れる灯りが、テーブルの上を薄く照らしています。
桃の炭酸の瓶は、もう冷えてはいないでしょう。
水滴もありません。
ただ、ふただけが閉まったままです。
「冷たくないと思います」
私が言うと、夏樹くんは瓶を手に取りました。
「いいです」
「新しいものを出しましょうか」
「これがいいです」
夏樹くんは、そう言いました。
その声は、昼よりもはっきりしていました。
けれど、無理に強くしているのではありませんでした。
怖がっていない声ではなく。
怖がったまま、出している声でした。
私は栓抜きを取ろうとしました。
けれど、夏樹くんが先に瓶を持ち直しました。
「自分で開けます」
昔からそうでした。
高校生になった頃から、夏樹くんは瓶を自分で開けるようになりました。
私は手を止めました。
夏樹くんの指が、ふたにかかります。
少し力を入れて、回しました。
しゅ、と音がしました。
小さな音でした。
昼には鳴らなかった音でした。
私は、その音を聞いただけで、喉の奥が詰まりました。
夏樹くんは瓶を見ました。
それから、一口飲みました。
すぐに眉を寄せました。
「ぬるいです」
「……でしょうね」
「でも、飲めます」
夏樹くんは、もう一口飲みました。
私は向かいの椅子に座りました。
昼と同じ場所です。
けれど、昼と同じではありませんでした。
瓶は開きました。
音は鳴りました。
夏樹くんは、戻ってきました。
「さっき」
夏樹くんが言いました。
「何も言えませんでした」
「はい」
「言えなかったのは、帰りたかったからじゃありません」
「……分かっています」
「分かるなんて、言えませんでした」
夏樹くんは瓶を両手で持っていました。
その手は、もう子どもの手ではありませんでした。
瓶の口に残った炭酸の泡が、灯りを受けて消えていきます。
「千鶴さんの話を聞いて、何か言わなきゃと思いました。でも、何を言っても違う気がしました」
「はい」
「大変でしたね、とか。つらかったですね、とか。僕は気にしません、とか」
私は、指先を膝の上で重ねました。
夏樹くんが昼に何を飲み込んでいたのか、その一つずつを聞いている気がしました。
「言わなくて、よかったです」
私がそう言うと、夏樹くんは少しだけ目を伏せました。
「言えなかっただけです」
「それでも」
「でも、何も言えなかったから、何もなかったことにして帰るのも違うと思いました」
夏樹くんは、私を見ました。
「聞かなかったことには、したくありませんでした」
私は返事をしませんでした。
夜の庭は、昼よりもずっと静かでした。
虫の声がしています。
遠くで車が橋を渡る音がしました。
その音はすぐに消えました。
「違って見えたでしょう」
私は言いました。
自分の声が、思ったより低く聞こえました。
「この家も、私も」
「はい」
夏樹くんは、すぐに答えました。
その答えの速さに、胸が少し痛みました。
分かっていたことなのに。
そうでしょうね、と笑えばいいのに。
指先に力が入りました。
「でも」
夏樹くんは続けました。
「嫌になったんじゃありません」
私は顔を上げました。
夏樹くんは、まっすぐこちらを見ていました。
「何も知らなかったことが、恥ずかしかっただけです」
「恥ずかしいことではありません」
「あります」
「夏樹くん」
「僕は、ここに何年も来ていました」
夏樹くんの視線が、庭を一度だけ巡りました。
丸いテーブル。
白い家。
生け垣。
窓。
それから、私へ戻ります。
「秘密基地だとか言って。炭酸を飲んで。お菓子を食べて。千鶴さんに会って。何年も来ていました」
「はい」
「何も知らなかった」
「話していませんでしたから」
「でも、知らなかっただけです」
夏樹くんは、そこで一度言葉を切りました。
瓶をテーブルに置きます。
置く音は、小さく、はっきりしていました。
「僕がここで会っていた千鶴さんが、嘘だったわけじゃないでしょう」
私は、すぐには答えられませんでした。
嘘。
その言葉を、私は自分に何度も向けたことがありました。
白い家で暮らす私。
炭酸を出す私。
焼き菓子を作る私。
庭で夏樹くんの話を聞く私。
それは、センターで子どもたちと別れた私とは別の人間のように見えるのではないかと思っていました。
夏樹くんが好きだと言った私は、過去を知らないから好きになれた人なのだと。
知れば、壊れるのだと。
壊れて当然なのだと。
「嘘では、ありません」
私は言いました。
それだけ言うのに、少し時間がかかりました。
夏樹くんは、うなずきました。
「なら、僕が好きになったのは、やっぱり千鶴さんです」
胸の奥が、強く揺れました。
夏樹くんは、言葉を探すように視線を落としました。
けれど、逃げてはいませんでした。
「ここで炭酸を出してくれた千鶴さんです」
「……」
「焼き菓子を作ってくれた千鶴さんです」
「夏樹くん」
「僕が勝手に生け垣から入っても、怒らずに待ってくれた千鶴さんです」
声が少しだけ震えていました。
でも、止まりませんでした。
「その人が、今日聞いた話を持ったまま、ずっとここにいたなら」
夏樹くんは、私を見ました。
「僕が好きになったのは、最初からその人です」
私は、息を吸いました。
吸った息が、胸の奥で止まりました。
言葉にすれば、簡単なことかもしれません。
過去を持った私。
それでも、ここにいた私。
夏樹くんが会っていた私。
けれど私は、その三つを同じものだと思えずにいました。
センターにいた私。
子どもたちの母親だった私。
白い家で夏樹くんを待っていた私。
それぞれ別々の場所に置いておかなければ、立っていられない気がしていました。
夏樹くんは、それを一つの私だと言いました。
乱暴にではありません。
分かったふりでもありません。
ただ、自分が見てきた時間の方から、そう言いました。
「でも」
私は言いました。
その先を言わなければいけないと思いました。
ここで止めなければいけない。
夏樹くんが戻ってきたからこそ。
言葉を選んできたからこそ。
止めなければいけない。
「夏樹くんは、まだ若いです」
「はい」
「これから、いくらでも」
「それを」
夏樹くんが、私の言葉を遮りました。
強い遮り方ではありませんでした。
でも、はっきりしていました。
「それを、僕より先に決めないでください」
私は口を閉じました。
夏樹くんは、少しだけ苦しそうに笑いました。
「怒ってるわけじゃないです」
「……はい」
「千鶴さんが、僕を守ろうとしてくれてるのは分かります」
「守るなんて」
「守ろうとしてます」
夏樹くんは言いました。
「昼も、そうでした。帰してくださいって言ったんじゃなくて、帰ってくださいって言いました」
「それは」
「僕に何か言わせないためでしょう」
私は答えられませんでした。
その通りでした。
夏樹くんに言葉を選ばせるのが怖かった。
間違った言葉を言わせるのも。
正しい言葉を探させるのも。
私を好きだと言ったばかりの夏樹くんに、私の過去の前で立たせ続けるのが怖かった。
だから帰したのです。
夏樹くんのためのように。
そして、自分のために。
「でも、それで帰されたら」
夏樹くんは、門の方を少しだけ見ました。
「あの生け垣から入ってきた子どものままです」
私は、思わず生け垣を見ました。
暗がりの中で、隙間はほとんど見えません。
でも、そこにあることは分かりました。
十一歳の夏樹くんが通った場所。
子どもだった夏樹くん。
私が安全だと思えた夏樹くん。
私が大人の顔をしていられた夏樹くん。
「僕のこれからを、僕より先に決めないでください」
夏樹くんは言いました。
「千鶴さんの責任に、しないでください」
「責任」
「僕が戻ってきたことを」
夏樹くんの声が、少し低くなりました。
「僕が勝手に来ました。帰ってくださいって言われたのに、戻ってきました」
「はい」
「だから、これは千鶴さんの責任じゃありません」
私は、膝の上で重ねていた手を握りました。
責任。
その言葉は、私の中に深く残っているものでした。
誰が選んだのか。
誰の都合なのか。
誰に瑕疵があるのか。
誰の責任ではない形にするのか。
ずっと、そういう言葉で運ばれてきました。
私の人生も。
子どもたちとの別れも。
直哉との暮らしも。
終わったことも。
責任の置き場を決められ、書類の上で処理されてきました。
夏樹くんは、書類の言葉ではなく、自分の言葉で言いました。
これは、千鶴さんの責任ではありません。
「僕が好きなのは、僕の責任です」
夏樹くんは言いました。
その言葉は、少し不器用でした。
でも、逃げていませんでした。
「千鶴さんに、責任を取ってほしいわけじゃありません」
「夏樹くん」
「過去を聞いたから好きになったわけでもありません」
夏樹くんは、ゆっくりと言いました。
「でも、聞いたあとで、好きじゃなくなることもできませんでした」
私は視線を下げました。
テーブルの上の桃の瓶が、灯りの中で小さく光っています。
中身は少し減っていました。
まだ半分以上残っています。
ぬるくなった炭酸。
昼に開けられなかった瓶。
夜になって、ようやく開いた瓶。
それを夏樹くんは、飲めると言いました。
「私は」
声が掠れました。
私は一度口を閉じ、もう一度言いました。
「私は、あなたを遠ざけるべきだと思っていました」
「はい」
「今も、そう思う私がいます」
「はい」
「あなたには、私ではない人の方がいい」
夏樹くんは、何か言いかけて、止まりました。
すぐに否定しませんでした。
そのことが、また私を揺らしました。
夏樹くんは、考えてから言いました。
「それは、あるかもしれません」
私は目を上げました。
「あるんですか」
「あると思います」
夏樹くんは少しだけ困った顔をしました。
「千鶴さんじゃない人を好きになった方が、たぶん簡単です」
「……」
「でも、簡単な方を選べば正しいなら、僕は今日戻ってきてません」
夏樹くんは瓶を手に取りました。
けれど、飲みませんでした。
ただ、両手で持っていました。
「楽なことと、なかったことにすることは、違うと思いました」
その言葉で、私はもう一度、昼の夏樹くんの顔を思い出しました。
何も言えずに立ち上がった顔。
帰ります、と言った顔。
門の外へ出る前に振り返った顔。
きれいだと思ってしまったことを、自分で責めているような顔。
私は、それを見ていました。
見て、帰したのです。
「……どうして、戻ってきたんですか」
分かっているはずなのに、聞いてしまいました。
夏樹くんは、桃の瓶を見ました。
少しだけ笑いました。
「最初は、炭酸を飲みに来ました」
「最初は」
「はい」
「今は?」
「今も、炭酸は飲みに来ました」
「そうですか」
「でも、それだけじゃありません」
夏樹くんは、瓶をテーブルへ戻しました。
今度は、私から目を逸らしませんでした。
「昼に何も言えなかったまま、帰って終わりにしたくありませんでした」
「はい」
「分かったなんて言えません」
「はい」
「救えるとも言えません」
「はい」
「支えますって言うのも、たぶん違うと思いました」
「……はい」
「でも」
夏樹くんは、少しだけ息を吸いました。
「逃げないことだけは、僕が決められると思いました」
私は、何も言えませんでした。
言えば、崩れてしまいそうでした。
夏樹くんは、私を助けるとは言いませんでした。
過去を消すとも言いませんでした。
全部を受け止めるとも言いませんでした。
ただ、逃げないと言いました。
それだけの言葉が、どうしてこんなに重いのか分かりませんでした。
私は、ずっと逃がそうとしていました。
直哉も。
子どもたちも。
夏樹くんも。
自分のそばにいると壊れるのではないかと思って、遠ざけようとしてきました。
でも、逃げるかどうかを決めるのは、私ではない。
夏樹くんは、それを言いに戻ってきたのだと思いました。
夜の庭に、風が通りました。
ひまわり畑の方から来る風です。
夏樹くんの髪が少し揺れました。
私は、その髪に葉がついていないことを見ていました。
もう、取ってあげる葉はありません。
目の前にいるのは、あの時の子どもではありません。
でも、あの時から続いている人でした。
「明日のことは」
私は言いました。
声が、少し震えました。
「分かりません」
夏樹くんは、黙って聞いていました。
「明日になったら、私はまた怖くなるかもしれません」
「はい」
「今日のことを、後悔するかもしれません」
「はい」
「あなたを、遠ざけるかもしれません」
夏樹くんは、少しだけ目を伏せました。
それでも、うなずきました。
「はい」
「それでも?」
聞いてはいけないことかもしれません。
でも、聞いてしまいました。
夏樹くんは、すぐには答えませんでした。
考えているのだと分かりました。
私のために正しい答えを探しているのではなく。
自分の中にある言葉を探している顔でした。
「明日のことを、今ここで千鶴さんに決めてほしいわけじゃありません」
夏樹くんは言いました。
「でも」
私は息を止めました。
「今夜、ここにいたいと思ったことまで、なかったことにしたくありません」
その言葉で、胸の奥に置いていたものが静かに崩れました。
大きな音はしませんでした。
涙も、すぐには出ませんでした。
ただ、今まで固く閉じていた場所に、少しだけ隙間ができたようでした。
今夜。
それは未来の約束ではありません。
一生でもありません。
責任でもありません。
今、この夜に、ここにいたい。
その小さな選択を、なかったことにしたくない。
夏樹くんは、そう言いました。
私は桃の瓶を見ました。
「それ」
「はい」
「好きですか」
夏樹くんは一瞬、驚いた顔をしました。
それから、瓶を見て、少しだけ笑いました。
「まあまあ」
「そうですか」
「嘘です」
夏樹くんは、私を見ました。
「好きです」
炭酸の話なのか。
そうではないのか。
聞かなくても分かりました。
私は笑おうとしました。
でも、うまく笑えませんでした。
目の奥が熱くなりました。
「ずるいですね」
「はい」
「昔から、そういうところがあります」
「そうですか」
「そうです」
夏樹くんは、少し困ったように笑いました。
その顔は、十一歳の頃と少し似ていました。
でも、同じではありません。
私は、テーブルの上に置かれた夏樹くんの手を見ました。
少し大きな手。
瓶のふたを自分で開けた手。
昼には何も言えずに膝の上で握られていた手。
私は、自分の手を伸ばしました。
途中で止まりそうになりました。
それでも、止めませんでした。
夏樹くんの指先に触れました。
葉を取るためではありません。
子どもに触れるためでもありません。
帰すためでもありません。
夏樹くんの手は、少しだけ震えました。
でも、逃げませんでした。
「千鶴さん」
名前を呼ばれました。
私は、うなずきました。
何に対してうなずいたのか、自分でもすぐには分かりませんでした。
でも、夏樹くんには伝わったようでした。
彼は、私の手を握り返しました。
強すぎない力でした。
確かめるように。
いつでも離せるように。
それでも、ちゃんとそこにいるように。
「嫌なら」
夏樹くんが言いかけました。
私は首を横に振りました。
「嫌では、ありません」
その言葉を口にした瞬間、頬が熱くなりました。
私は目を伏せました。
大人の顔をすることは、もうできませんでした。
夏樹くんが息を呑む気配がしました。
私は手を離しませんでした。
「入ってください」
声は小さくなりました。
でも、ちゃんと聞こえたはずです。
夏樹くんは、すぐには返事をしませんでした。
庭の空気が、少しだけ止まったようでした。
それから、
「はい」
と答えました。
私たちは立ち上がりました。
桃の炭酸の瓶は、丸いテーブルの上に置いたままでした。
中身はまだ残っています。
ふたは開いています。
昼には鳴らなかった音が、夜になって鳴りました。
私は夏樹くんの手を引きました。
ゆっくりと。
玄関の灯りが、足元を照らしています。
庭を横切る間、夏樹くんは何も言いませんでした。
私も何も言いませんでした。
生け垣の隙間を通った子どもではなく。
門から戻ってきた人を。
私は、白い家の中へ招き入れました。
玄関の扉が、静かに閉まりました。
外の虫の声が、少し遠くなりました。
夏樹くんの手は、まだ私の手を握っていました。
強くはありません。
私が離そうと思えば、すぐに離せる力でした。
そのことに、私は少しだけ息を吐きました。
靴を脱ぐ音が、玄関に小さく響きます。
夏樹くんは、私より一歩後ろで止まりました。
急かしませんでした。
背中に触れることもしませんでした。
ただ、待っていました。
その待ち方を、私は知っていました。
庭で炭酸の味を聞かれる前の沈黙。
祭りに誘ったあと、私の返事を待っていた沈黙。
昼に何も言えず、それでも言葉を探していた沈黙。
同じ人の沈黙でした。
「夏樹くん」
名前を呼ぶと、夏樹くんが顔を上げました。
「はい」
「怖くないわけではありません」
「……はい」
「明日のことも、分かりません」
「はい」
「でも」
私は、握っていた手に少しだけ力を込めました。
夏樹くんの指が、驚いたように動きました。
「今、あなたを帰したいとは思いません」
言ってから、顔が熱くなりました。
大人の顔は、もうできませんでした。
夏樹くんは、何か言おうとして、やめました。
その代わりに、私の手を握り返しました。
やはり、強すぎない力でした。
私は、居間の灯りを消しました。
玄関の灯りだけが残りました。
白い壁に、私たちの影が並びました。
夏樹くんの方が、少し高い影でした。
いつの間にか、そうなっていました。
私はその影を見て、初めてきちんと分かった気がしました。
生け垣から入ってきた子どもは、もうここにはいません。
けれど、その子がいなくなったのではありません。
あの子が時間をかけて、今ここに立っているのです。
私は振り返りました。
夏樹くんが、息を止めたのが分かりました。
「千鶴さん」
呼ばれた名前が、胸の奥に落ちました。
私はうなずきました。
帰すためではなく。
待たせるためでもなく。
自分で選ぶために。
私は、夏樹くんの手を引きました。
その夜、桃の炭酸の瓶は、庭の丸いテーブルの上に置かれたままでした。
ふたの開いた瓶の中で、残った泡が、ゆっくり消えていきました。




