第37話知らなくていい
高校二年の春、僕はもう、白い家へ行くことを誰にも言わなくなっていました。
母に聞かれれば、図書館とか、友達のところとか、適当なことを言いました。嘘をつくことに慣れたわけではありません。ただ、白い家のことを説明するのが、だんだん難しくなっていたのです。
小学生の頃なら、まだ簡単でした。
お菓子をもらった。
庭で本を読んだ。
炭酸を飲んだ。
千鶴さんは、近所の少し変わった大人の人。
それで済みました。
でも、高校生になった僕が同じことを言うと、少し違って聞こえます。
学校帰りに、二十代の女の人が一人で暮らす家へ通っている。
その言い方だけで、何かが変わってしまう気がしました。
だから、誰にも言いませんでした。
白い家へ行くことは、僕の中で、だんだん説明できないものになっていました。
その日、学校では公民の授業がありました。
制度と家族についての単元でした。
教科書には、少子化対策、出産支援、育成保障、そういう言葉が並んでいました。
そして、その中に、国立次世代育成センターの名前がありました。
知らない言葉ではありません。
何度も聞いたことがあります。
ニュースでも、役所の掲示板でも、母の口からも。
千鶴さんがそこを出た人だということも、僕はずっと前から知っていました。
でも、教室でその名前を聞いた時、なぜか胸の奥がざらつきました。
教師は黒板に、制度の仕組みを書きました。
選定。
入所。
業務。
修了。
保障。
言葉だけが、きれいに並びました。
線で結ばれて、矢印で次へ進みました。
それはあまりにも整っていて、僕が知っている千鶴さんとは結びつきませんでした。
白い家の庭で、炭酸を用意してくれる人。
雨の日にミルクティーを出してくれた人。
僕が途中まで読んだ本を、棚に戻さず置いておいてくれた人。
困ったように笑う人。
その人の過去が、黒板の上ではただの矢印になっていました。
「国立の修了者は、一代限りの特権身分を得る」
教師が言いました。
「補償も大きく、本人および家族の生活水準は大きく改善される。非常に限られた選定者に与えられる、国家的な役割だ」
誰かが後ろの席で、小さく言いました。
「当たったら勝ちじゃん」
別の誰かが笑いました。
「国立ならな」
声は大きくありませんでした。
教師に聞こえるほどでもありません。
たぶん、本気で言ったわけでもないのでしょう。
教科書に載っている制度を、少し軽い言葉でからかっただけ。
それだけのことでした。
でも、僕はその言葉を聞いた瞬間、椅子の脚を蹴りそうになりました。
何が勝ちなんだ。
そう思いました。
でも、言いませんでした。
僕には、何も言う資格がない気がしました。
僕は制度を知っている。
でも、千鶴さんが何をされたのかは知らない。
知っているふりをして怒ることも、知らないくせに黙っていることも、どちらも気持ち悪かった。
授業が終わっても、黒板の文字が頭から離れませんでした。
選定。
入所。
業務。
修了。
保障。
千鶴さんの人生が、そんな順番で片づけられているようで、腹が立ちました。
その日の帰り道、僕はいつもより少し遅く白い家へ向かいました。
春の夕方は、まだ明るさが残っていました。
坂道の横には、白い小さな花が咲いていました。
風が吹くと、花が一斉に揺れました。
白い家は、いつも通りそこにありました。
門の向こうの庭には、丸いテーブルが出ていました。
千鶴さんはそこに座っていました。
僕に気づくと、少しだけ笑いました。
「遅かったね」
「授業が長かった」
「高校生は大変だ」
「別に」
「今日は何か、疲れてる?」
「疲れてない」
「そっか」
千鶴さんは、テーブルの上に瓶を置きました。
透明な瓶でした。
中の炭酸は淡い黄色をしていました。
「今日は、レモン」
「普通だね」
「普通の日もあるよ」
「普通の日じゃないのに?」
言ってから、しまったと思いました。
千鶴さんは少しだけ瞬きをしました。
「何かあった?」
「別に」
僕は椅子に座りました。
瓶のふたを開けると、しゅ、と短い音がしました。
炭酸の泡が瓶の内側を上がっていきます。
僕はそれをしばらく見ていました。
「夏樹くん」
「何」
「本当に、何かあった?」
千鶴さんは静かに聞きました。
その声は、いつものようにやわらかかった。
だから、余計に逃げられませんでした。
「今日、学校で」
「うん」
「センターの話をした」
千鶴さんの手が、少しだけ止まりました。
テーブルの上には、白い皿がありました。
焼き菓子が三つ並んでいます。
その横で、千鶴さんの指先だけが、ほんの少し止まりました。
「そう」
「教科書に載ってた」
「載ってるね」
「千鶴さんも、そこにいたんだよね」
言った瞬間、空気が変わりました。
大きな音がしたわけではありません。
千鶴さんが怒ったわけでも、顔色を大きく変えたわけでもありません。
でも、庭の空気が一枚薄くなったような気がしました。
さっきまで聞こえていた鳥の声が、遠くなりました。
「いたよ」
千鶴さんは答えました。
声は静かでした。
「国立の方?」
「うん」
「教科書だと、すごいことみたいに書いてあった」
「そうだね」
「本当に?」
「何が?」
「すごいことなの?」
千鶴さんはすぐには答えませんでした。
風が吹いて、庭の木の葉が揺れました。
テーブルの上の紙ナプキンが少し浮きました。
千鶴さんはそれを指で押さえました。
「制度の説明なら、教科書に書いてあると思うよ」
「そうじゃなくて」
「うん」
「千鶴さんは、どうだったの」
言ってしまった。
そう思いました。
聞きたかったことでした。
ずっと、聞けなかったことでした。
白い家に初めて来た日から。
炭酸を飲んだ日も。
夏祭りに行った日も。
雨の日に家へ入れてもらった日も。
ずっと、千鶴さんの中にある知らない場所が気になっていました。
でも、聞かなかった。
聞けなかった。
それを、とうとう口にしてしまいました。
千鶴さんは、困ったように笑いました。
いつもの笑い方でした。
僕は、その顔を見た瞬間、少しだけ腹が立ちました。
まただ、と思いました。
また、その顔で隠す。
笑って、遠くに置く。
こっちがそれ以上踏み込めないようにする。
「夏樹くん」
「何」
「それは、知らなくていいよ」
静かな声でした。
やさしい声でした。
怒っていない。
突き放しているわけでもない。
でも、はっきり線がありました。
そこから先へ来ないで、と言われた気がしました。
「なんで」
僕は聞きました。
声が、思ったより低く出ました。
「なんで知らなくていいの」
「夏樹くんには、関係のないことだから」
胸の奥が、強く痛みました。
関係ない。
そう言われることは、思っていたよりずっと痛かった。
「関係ないって」
「ごめん」
「謝らなくていい」
「うん」
「そうやってすぐ謝るの、やめてよ」
言ってから、しまったと思いました。
千鶴さんの顔が、ほんの少しだけ揺れました。
でも、僕は止まれませんでした。
「千鶴さん、いつもそうだよね」
「夏樹くん」
「大丈夫とか、ごめんとか、そういうのばっかり言う」
手の中の瓶が冷たかった。
指先に水滴がついていました。
僕は瓶をテーブルに置きました。
「何もない顔じゃないのに、何もないみたいに笑う」
千鶴さんは黙っていました。
「僕が子どもだから?」
言った瞬間、自分が一番言いたくなかったことを言ってしまったと思いました。
夏祭りの夜。
ラムネを買ってもらって、自分がまだ子どもだと思い知らされた時。
雨の日の部屋で、白い家の中には入れたのに、千鶴さんの中には入れないと分かった時。
その時から、ずっと引っかかっていたことでした。
僕が子どもだから。
千鶴さんは教えてくれない。
千鶴さんは笑って、線を引く。
そう思いたくありませんでした。
でも、思っていました。
「違うよ」
千鶴さんは言いました。
「じゃあ、なんで」
「夏樹くんが子どもだからじゃない」
「じゃあ何」
「私のことだから」
その言葉に、僕は何も返せませんでした。
千鶴さんは、僕を見ていました。
やさしい顔ではありませんでした。
困った顔でもありませんでした。
少しだけ、疲れた顔でした。
「私のことだから、私が話さないって決めてもいいでしょう」
それは、当たり前のことでした。
誰かの過去を、こちらが知りたいからといって聞いていいわけではありません。
千鶴さんが話したくないなら、話さなくていい。
そんなことは分かっています。
分かっているのに、胸の中がぐちゃぐちゃになりました。
「でも」
僕は言いました。
そのあとが続きませんでした。
でも、何。
知りたい。
僕には知る権利がある。
千鶴さんがそんな顔をするのが嫌だ。
僕だけ外に置かれるのが嫌だ。
どの言葉も、口に出すと自分勝手に聞こえました。
千鶴さんのためではなく、自分が苦しいから聞きたいだけみたいでした。
実際、そうだったのかもしれません。
僕は千鶴さんを助けたいと思っていたのか。
それとも、千鶴さんの知らない部分に入れないことが悔しかっただけなのか。
自分でも分かりませんでした。
「夏樹くん」
千鶴さんは言いました。
「ごめんね」
「だから、謝らなくていいって」
「うん」
千鶴さんは、そこで少しだけ笑いました。
でも、その笑い方はいつもより弱かった。
「今日のお菓子、口に合わなかった?」
「そういう話じゃない」
「うん」
「分かってるなら、そうやってごまかさないでよ」
言葉が強くなりました。
自分でも分かりました。
千鶴さんは何も言いませんでした。
風が吹きました。
白い皿の上の焼き菓子は、ひとつも減っていませんでした。
いつもなら、僕はすぐに食べていました。
千鶴さんが少し笑って、夏樹くんは甘いもの好きだね、と言う。
僕が、別に、と返す。
そういう時間のはずでした。
でも、その日は何も進みませんでした。
炭酸の泡だけが、瓶の中で少しずつ消えていきました。
「帰る」
僕は立ち上がりました。
千鶴さんは止めませんでした。
帰って、とは言いませんでした。
いて、とも言いませんでした。
ただ、僕を見ていました。
「夏樹くん」
「何」
「気をつけて」
「うん」
僕は門へ向かいました。
背中に千鶴さんの視線を感じました。
振り返りませんでした。
振り返ったら、何かを言ってしまいそうでした。
知りたい。
関係ないって言わないで。
僕にも、少しは関係あるって言って。
そう言ってしまいそうでした。
でも、言えませんでした。
それを言ったら、千鶴さんを困らせる。
千鶴さんが話したくないことを、無理にこじ開けることになる。
それが分かっていたからです。
僕は門を出ました。
門の金具は、まだ春の空気の中で少し冷たかった。
道に出てから、ようやく振り返りました。
千鶴さんは庭のテーブルのそばに立っていました。
白い家を背にして。
皿の上の焼き菓子も、僕の飲みかけの瓶も、そのままでした。
その光景を見た時、胸の奥が苦しくなりました。
僕は、あの場所に言葉を置いてきた。
食べなかったお菓子みたいに。
飲み終えなかった炭酸みたいに。
言いかけて、やめた言葉を、白い皿の横へ置いてきた。
そう思いました。
帰る道でも、「知らなくていい」という声が残っていました。
それが優しさでも、線であることに変わりはありませんでした。
家に帰って、制服を脱ぎました。
机の引き出しを開けると、夏祭りの時の飴がまだありました。
包み紙は少し古くなっていました。
その横には、雨の日に途中まで読んだ本の題名を、忘れないように書いた小さな紙が入っていました。
僕はそれをしばらく見ていました。
祭りの飴。雨の日に途中まで読んだ本。今日、飲み終えなかった炭酸。
どれも白い家で途中になったものでした。言葉も同じでした。
その夜、布団に入っても、なかなか眠れませんでした。
千鶴さんの「知らなくていいよ」という声が、何度も耳の奥で繰り返されました。
知らなくていい。
でも、知りたいと思いました。
知りたいというより、知らないまま笑っていたくないと思いました。
千鶴さんが困ったように笑うたびに、僕も何も知らない顔で炭酸を飲む。
そういう自分が、急に嫌になりました。
でも、次の日になっても、僕は白い家へ行けませんでした。
その次の日も。
行けば、何を話せばいいか分からなかったからです。
謝るのか。
昨日のことをなかったことにするのか。
もう一度聞くのか。
どれも違う気がしました。
三日目の夕方、僕はようやく白い家へ行きました。
門の前に立つと、庭の丸いテーブルが見えました。
千鶴さんはいませんでした。
でも、テーブルの上には白い皿が置いてありました。
皿の上には、焼き菓子が二つ。
その横に、レモンの炭酸の瓶が一本。
開けられていない瓶でした。
僕はしばらく、それを見ていました。
千鶴さんが玄関から出てきました。
僕を見ると、少しだけ笑いました。
いつもの、困ったような笑い方でした。
「来たんだね」
「うん」
「炭酸、冷えてるよ」
「うん」
僕は庭へ入りました。
椅子に座りました。
瓶のふたを開けると、しゅ、と音がしました。
泡が上がって、すぐに落ち着きました。
千鶴さんは向かいに座りました。
何も言いませんでした。
僕も言いませんでした。
あの日の話は、そこでは続きませんでした。
なかったことになったわけではありません。
ただ、白い皿の横に置かれたままになったのだと思いました。
僕は焼き菓子をひとつ食べました。
いつもの味でした。
「おいしい?」
千鶴さんが聞きました。
「まあまあ」
「そっか」
「好きって意味じゃない」
「うん」
千鶴さんは小さく笑いました。
僕も、少しだけ笑いました。
でも、胸の奥にはまだ、言えなかった言葉が残っていました。
知らなくていい。
そう言われても、知りたいと思ったこと。
関係ないと言われたくなかったこと。
千鶴さんが遠くを見る時、自分もその隣にいたいと思ったこと。
全部、言えませんでした。
その日も、僕は夕方になると自分から帰りました。
門を出る時、千鶴さんが言いました。
「またね」
僕は振り返りました。
白い家の庭で、千鶴さんがこちらを見ていました。
「うん」
僕は答えました。
「また」
今度は、少しだけちゃんと言えた気がしました。
でも、それだけでした。
僕はまだ、何も伝えていませんでした。
何も伝えられないまま、白い家へ通い続けていました。
いつか、その言葉を飲み込まずに済む日が来るのかどうか。
その時の僕には、まだ分かりませんでした。
けれど、今なら分かります。
あの時の僕は、「知らなくていい」と引かれた線の前で言いたいことを飲み込み、自分から帰りました。
そして今日も、千鶴さんの過去を聞いて何も言えなくなり、「帰ってください」と言われて白い家を離れました。
理由は違っても、門の外で何も言えなかったことは同じでした。
白い家から続く道を、どれくらい歩いたのか分かりませんでした。
気づいた時には、空は暗くなっていました。
昼に見たひまわり畑は、もう黒い影のかたまりに見えました。
家の近くまで来て、ようやく足が止まりました。
喉が渇いていました。
そう思ってから、今日、炭酸を飲んでいないことに気づきました。
千鶴さんが用意してくれていた、桃の炭酸。
白いテーブルの上に置かれたままの瓶。
僕は、ふたを開けませんでした。
開けられませんでした。
自販機の前に立ちました。
中には、いくつも飲み物が並んでいました。
水。
お茶。
缶コーヒー。
炭酸。
どれでも買えました。
小銭を入れれば、すぐに落ちてくる。
喉を潤すだけなら、それで足ります。
でも、僕が飲みたいものは、そこにはありませんでした。
飲みたかったのは、白い家に残してきた桃の炭酸でした。
それを飲みたいと思いました。
それだけではありません。
あの瓶を、自分の手で開けたいと思いました。
十一歳の頃、千鶴さんに開けてもらった瓶。
中学生の頃、大人ぶって飲みきれなかったラムネ。
雨の日の部屋で、温かいものを飲みながら聞けなかった言葉。
高校二年の春、知りたいと言えないまま残したレモンの炭酸。
今日も、開けていない瓶と言えなかった言葉を残したまま、千鶴さんの前からいなくなるところでした。
僕は自販機から手を離しました。
何も買いませんでした。
喉は渇いたままでした。
でも、それでよかった。
この渇きは、自販機の飲み物で消してはいけない気がしました。
白い家へ戻ろう。
そう思いました。
千鶴さんを助けに行くのではありません。
千鶴さんの過去を、もう一度聞き出しに行くのでもありません。
知らなくていいと言われた線を、無理に踏み越えに行くのでもありません。
ただ、僕が言えなかったことを、今度は飲み込まないために。
帰されて終わるのではなく、自分の足でもう一度、門の前に立つために。
僕は白い家へ向かって歩き出しました。
坂道を上る頃には、息が少し乱れていました。
昼に帰った時と同じ服です。
けれど、裾は少し崩れていました。
髪も、風で乱れていました。
それでも、歩きました。
白い家の灯りが見えた時、胸の奥が強く鳴りました。
門の前に立ちます。
生け垣の隙間は、もう影の中に沈んでいました。
十一歳の僕なら、そこから入ったかもしれません。
でも、今の僕は入りませんでした。
門の前で立ち止まりました。
勝手に入るためではなく。
開けてもらうために。
千鶴さんが、開けるかどうかを選べる場所で。
僕は呼び鈴を押しました。




