第36話雨の日の部屋
夏祭りから、いくつか季節が過ぎた頃でした。
正確には、次の年の梅雨だったと思います。
僕は中学三年になっていて、制服の袖も少し短くなっていました。背が伸びたせいで、去年までちょうどよかったものが、急に子どもっぽく見えるようになっていました。
でも、新しい制服を買ってもらうほどではない。
まだ着られる。
母はそう言いました。
僕も、そうだと思いました。
まだ着られる。
まだ子ども扱いされるほどではない。
でも、大人と同じ場所に立てるほどでもない。
そういう、半端な時期でした。
その日は朝から空が重く、昼を過ぎる頃には細い雨が降り始めていました。
学校が終わる頃には、雨は少し強くなっていました。
傘は持っていました。
けれど、風が横から吹くせいで、制服の裾も鞄も濡れました。靴の中まで少し水が入って、歩くたびに気持ちの悪い音がしました。
まっすぐ家に帰ればよかったのだと思います。
でも、足は白い家の方へ向かっていました。
雨の日の白い家は、いつもより静かに見えました。
白い壁は水を含んだみたいに少し暗くなっていて、大きな窓には細い雨の線が何本もついていました。庭の芝生は濡れて、丸いテーブルの上にも水たまりができていました。
いつもなら、千鶴さんは庭にいる時間でした。
でも、その日は誰もいませんでした。
当たり前です。
雨なのだから。
僕は門の前で少しだけ立ち止まりました。
ここまで来たけれど、帰った方がいい。
呼び鈴を押すほどの用事はありません。
今日はお菓子を食べに来たわけでもない。
炭酸を飲みに来たわけでもない。
ただ、雨の日の白い家を見てみたかっただけでした。
そう自分に言い訳して、帰ろうとした時でした。
玄関の扉が開きました。
「夏樹くん?」
千鶴さんが顔を出しました。
白い服ではなく、薄い灰色の上着を羽織っていました。髪はゆるく結ばれていて、いつもより少しだけ生活している人みたいに見えました。
「何してるの」
「別に」
「雨だよ」
「知ってる」
「濡れてる」
「濡れてない」
「濡れてるよ」
千鶴さんは少し困ったように笑いました。
雨の音のせいか、その笑い方も少しだけ薄く見えました。
「入って」
「いい」
「風邪ひくよ」
「ひかない」
「それは、夏樹くんが決めることじゃないと思う」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないから」
千鶴さんはそう言って、玄関の扉をもう少し大きく開けました。
僕は少し迷いました。
白い家の中には、前にも入ったことがありました。
でも、それは小学生の頃の話です。
急に降り出した雨から逃げるみたいに入って、タオルを借りて、お菓子を食べて、夕方には帰りました。
あの時は、家の中に入ることをそれほど意識していませんでした。
でも、今は違いました。
千鶴さんの家に入る。
その言葉だけで、胸のあたりが少し落ち着かなくなりました。
「早く」
千鶴さんが言いました。
「玄関が濡れるから」
「もう濡れてる」
「じゃあ、これ以上濡れないうちに」
僕は門を開け、庭を通って玄関へ向かいました。
敷石の上に雨が跳ねていました。靴の裏が少し滑りました。
玄関に入ると、外の雨音が少し遠くなりました。
白い家の中は、雨の日でも明るかった。
窓から入る光は少ないのに、壁や床が白いせいで、外よりも静かな光が残っていました。
千鶴さんはすぐにタオルを持ってきました。
「はい」
「自分でできる」
「うん。知ってる」
それでも千鶴さんは、タオルを僕の頭にかけました。
僕は少しむっとして、自分でそれをつかみました。
「だから、自分でできるって」
「うん」
「子どもじゃないし」
言ってから、少し後悔しました。
そんなふうに言うこと自体が、子どもっぽい気がしたからです。
千鶴さんは、怒りもせず、からかいもせず、ただ静かにうなずきました。
「そうだね」
そう言われると、今度は何も言えませんでした。
僕はタオルで頭を拭きました。
濡れた前髪が額に張りついていました。
「制服、だいぶ濡れてるね」
「すぐ乾く」
「そんなにすぐは乾かないよ」
「帰れば着替える」
「今、帰ったらもっと濡れるよ」
「雨、弱くなるかもしれない」
「じゃあ、それまで中にいて」
千鶴さんはそう言って、僕を居間へ案内しました。
居間は、前に入った時とあまり変わっていませんでした。
大きな窓。
白い壁。
明るい床。
棚には本が並び、花瓶には小さな花が生けてありました。
テーブルの上には、読みかけの本と、空のカップが置かれていました。
そのカップは一つだけでした。
僕がいつも庭で見ていた花柄のカップです。
でも、棚の中には同じようなカップが何客も並んでいました。
一人で暮らしているのに、どうしてこんなにあるのだろう。
そう思って、すぐに目をそらしました。
聞くことではない気がしました。
「座って」
「濡れる」
「タオル敷くから」
「いい」
「じゃあ、立ってる?」
「座る」
結局、僕は千鶴さんが出してくれたタオルの上に座りました。
制服が椅子を濡らさないように、少し浅く腰をかけます。
その座り方も落ち着かなくて、僕は何度も膝の上で手を組み直しました。
「何か飲む?」
「炭酸?」
「今日は温かいものにしようか」
「炭酸でいい」
「濡れて帰ってきた中学生に炭酸を出すのは、どうなんだろう」
「いつも出してる」
「今日は雨だから」
「雨だと炭酸じゃないの?」
「雨の日は、温かいものの方がいい気がする」
「千鶴さんが飲みたいだけじゃないの」
「それもある」
千鶴さんは少し笑って、台所へ行きました。
僕は一人で居間に残されました。
外では雨が降り続いています。
窓に当たった雨粒が、ゆっくり下へ流れていきました。
庭の丸いテーブルには、誰もいません。
いつも僕が座っている椅子も、千鶴さんが座っている椅子も、濡れたまま置かれていました。
家の中から見る庭は、少し違って見えました。
僕は今まで、外からこの家を見ていました。
庭の椅子に座って、窓の向こうにある明るい部屋を見ていた。
でも今は、部屋の中から庭を見ています。
それだけのことなのに、何かが少し変わったような気がしました。
自分が、白い家の内側にいる。
そのことが、妙にくすぐったかった。
でも同時に、落ち着きませんでした。
棚の本。
花瓶の花。
カップ。
畳まれた膝掛け。
窓辺の椅子。
どれもきれいに置かれていました。
人が暮らしている家のはずなのに、使ったものがそのまま散らかっている感じがありません。
片づきすぎている。
誰かが来る前に整えた部屋みたいでした。
でも、誰も来ない。
そんなふうに見えました。
「お待たせ」
千鶴さんが戻ってきました。
盆の上には、湯気の立つカップが二つありました。
「何これ」
「ミルクティー」
「甘いやつ?」
「少し甘い」
「子どもっぽい」
「じゃあ、苦い方がよかった?」
「別に、これでいい」
カップを受け取ると、指先が温まりました。
雨で冷えていたのだと、その時初めて気づきました。
僕は少し口をつけました。
熱くて、甘かった。
炭酸みたいに喉で弾けない。
でも、口の中にゆっくり残る味でした。
「どう?」
「まあまあ」
「それは好きって意味?」
「まあまあって意味」
「そっか」
千鶴さんは自分のカップに口をつけました。
外の雨音が、少し強くなりました。
僕は窓の方を見ました。
「やみそうにないね」
千鶴さんが言いました。
「別に、走れば帰れる」
「走らなくていいよ」
「遅くなると母さんがうるさい」
「連絡は」
千鶴さんはそう言いかけて、少しだけ止まりました。
何かを思い出したような顔でした。
僕はその顔を見ました。
「何?」
「ううん」
「何か言いかけた」
「家に戻ったら、怒られないようにね」
「たぶん怒られる」
「ごめんね」
「千鶴さんが謝ることじゃない」
「そうだけど」
千鶴さんはカップを両手で持ちました。
その手の形が、なぜか少し寂しそうに見えました。
「でも、雨の日に誰かが帰ってこないと、心配する人はいるでしょう」
その言い方が、少し変でした。
僕の母の話をしているようで、別の誰かの話をしているようにも聞こえました。
「千鶴さんは?」
「私?」
「雨の日に、誰かが帰ってこないと心配するの?」
言ってから、踏み込みすぎたかもしれないと思いました。
千鶴さんはすぐには答えませんでした。
カップの中の湯気を見ていました。
ミルクティーの表面が、ほんの少し揺れていました。
「昔は、そういうこともあったかな」
「昔?」
「うん」
「家族?」
千鶴さんは、少しだけ目を伏せました。
「そうだね」
それだけでした。
僕は続きを聞けませんでした。
家族はいるのか。
どこにいるのか。
なぜこの家にはいないのか。
どうして千鶴さんは一人なのか。
聞きたいことは、いくつもありました。
でも、どれも口から出ませんでした。
聞いたら、千鶴さんが困ったように笑う気がしました。
そして僕は、その笑い方を見るのが少し怖くなっていました。
「夏樹くん」
「何」
「濡れたままだと本当に風邪をひくから、上着だけでも乾かそうか」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「またそれ」
「今日は言うよ」
千鶴さんは立ち上がりました。
「脱げる?」
「脱げるに決まってる」
「じゃあ、ハンガー持ってくるね」
僕は制服の上着を脱ぎました。
シャツも少し濡れていましたが、上着ほどではありません。
千鶴さんがハンガーを持って戻ってきて、僕の上着を受け取りました。
その時、千鶴さんの手が一瞬だけ僕の手に触れました。
冷たい手でした。
カップを持っていたのに、まだ冷たい。
僕は何も言えませんでした。
「乾くまで、少し時間かかるね」
「うん」
「寒かったら言って」
「寒くない」
「はいはい」
「適当に流した」
「流してないよ」
千鶴さんは上着を窓際の椅子の背にかけました。
雨で濡れた制服が、白い部屋の中で妙に目立ちました。
僕がここにいる証拠みたいでした。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
白い家の中に、僕のものがある。
ほんの少しの間だけでも。
でも、同時に思いました。
乾いたら、持って帰る。
ここに置いていけるものではない。
僕は客です。
雨がやむまでの客。
千鶴さんが親切に入れてくれたから、ここにいるだけです。
「何か読む?」
千鶴さんが聞きました。
「本?」
「うん」
「千鶴さんの本、難しい」
「そうでもないのもあるよ」
「前もそう言って難しかった」
「じゃあ、これは?」
千鶴さんは棚から一冊の本を取ってきました。
表紙には、家と庭の絵が描いてありました。
「小説?」
「短い話がいくつか入ってる」
「面白い?」
「私は好き」
「じゃあ、読む」
僕は本を受け取りました。
ページを開くと、最初の話は、ある人が遠くの町で家を借りる話でした。
古い家。
庭。
知らない土地。
手紙。
そういう言葉が出てきました。
僕は数ページ読んで、手が止まりました。
「つまらない?」
千鶴さんが聞きました。
「つまらなくはない」
「難しい?」
「難しくもない」
「じゃあ?」
「なんか、千鶴さんみたいだと思った」
言った瞬間、空気が少し変わりました。
千鶴さんは何も言いませんでした。
僕は慌てて本を見ました。
「家とか、庭とか。そういうのが」
「うん」
「別に、変な意味じゃなくて」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
千鶴さんはゆっくりうなずきました。
「私も、その話が好き」
「なんで」
「帰る場所がある話だから」
帰る場所。
その言葉が、雨音の中で少しだけ重く聞こえました。
「この家があるじゃん」
僕は言いました。
「千鶴さんの家でしょ」
「うん」
「じゃあ、帰る場所あるじゃん」
「そうだね」
千鶴さんは笑いました。
でも、その笑い方は、いつもの困ったような笑い方でした。
僕は少しだけ腹が立ちました。
「違うの?」
「違わないよ」
「じゃあ、なんでそんな顔するの」
言ってしまってから、今度こそ踏み込みすぎたと思いました。
千鶴さんは僕を見ました。
怒ってはいませんでした。
困っていました。
やっぱり。
その顔を見ると、胸の奥がざらざらしました。
「ごめん」
僕は先に言いました。
「今のなし」
「夏樹くん」
「忘れて」
「忘れないよ」
千鶴さんの声は静かでした。
「でも、今はうまく答えられない」
「……うん」
「ごめんね」
「謝らなくていいって」
「うん」
そこで会話は終わりました。
僕は本へ視線を戻しました。
けれど、「帰る場所」という言葉と、千鶴さんの困ったような顔ばかりが残って、文字はほとんど頭に入りませんでした。
雨はなかなかやみませんでした。
千鶴さんは途中で焼き菓子を出してくれました。
雨の日なのに、いつも通り白い皿に並んでいました。
「これ、いつも作ってるの?」
「作れる時に」
「一人で食べるのに?」
また余計なことを言いました。
千鶴さんは、皿を置く手を少し止めました。
「一人で食べることもあるよ」
「僕が来ない日も?」
「うん」
「ふうん」
「でも、夏樹くんが来るかもしれない日には、多めに作る」
その言葉に、僕は何も言えなくなりました。
来るかもしれない日。
千鶴さんは、僕が来るかどうか分からない日に、僕の分を用意している。
炭酸だけではなくて。
焼き菓子も。
僕は皿の上の菓子を見ました。
食べたらなくなる。
でも、食べなければ残る。
どうすればいいのか、少し分からなくなりました。
「食べないの?」
「食べる」
僕はひとつ取って、口に入れました。
いつもと同じ味でした。
甘くて、外は少しさくっとしていて、中はやわらかい。
雨の日でも、味は変わりませんでした。
「おいしい?」
「まあまあ」
「そっか」
「好きって意味じゃない」
「今日は言ってないよ」
「言いそうだった」
「言いそうだったね」
千鶴さんは少し笑いました。
その笑い方は、さっきより少しだけ普通に見えました。
僕はほっとしました。
ほっとした自分に、また少し腹が立ちました。
僕は何もできていないのに。
ただ、千鶴さんが笑うと安心する。
それだけでした。
夕方になって、ようやく雨が弱くなりました。
窓の外が少し明るくなり、庭の芝生に残った雨粒が光っていました。
僕の制服の上着は、完全には乾いていませんでした。
でも、着られないほどではありません。
「もう帰る」
僕は言いました。
「送ろうか」
「いい」
「道、滑るよ」
「大丈夫」
「また大丈夫」
「今度は本当に大丈夫」
「そう」
千鶴さんは上着を渡してくれました。
少し湿っていました。
袖を通すと、ひやっとしました。
「風邪ひいたら、ちゃんと休んでね」
「ひかない」
「ひいたら?」
「ひいたら休む」
「よし」
「子ども扱いしてる」
「してないよ」
「してる」
「心配してる」
僕は返事に困って、靴を履きました。
玄関の扉を開けると、雨上がりの匂いがしました。
庭の土と、濡れた草と、遠くの道の匂い。
白い家の外へ出ると、さっきまでいた居間が窓の向こうに見えました。
カーテン。
テーブル。
花瓶。
椅子。
そこに千鶴さんが立っている。
僕は今、その中から出てきたのだと思いました。
でも、外に立つと、もう中が少し遠く見えました。
「夏樹くん」
千鶴さんが玄関から声をかけました。
「何」
「本、途中だったね」
「ああ」
「また読みに来る?」
「別に、読んでもいいけど」
「じゃあ、置いておくね」
「うん」
本が残る。
僕ではなく、僕が途中まで読んだ本が、この家に残る。
それだけのことで、少し胸が軽くなりました。
「あと」
千鶴さんが言いました。
「今日は、ありがとう」
「何が」
「雨の日に来てくれて」
「たまたま」
「うん。たまたまでも」
「千鶴さんこそ、入れてくれてありがとう」
言ってから、恥ずかしくなりました。
でも、言い直しませんでした。
千鶴さんは少しだけ目を細めました。
「うん」
それだけでした。
僕は門へ向かいました。
濡れた敷石を踏むと、靴の裏で水が鳴りました。
門を出て振り返ると、千鶴さんはまだ玄関に立っていました。
「またね」
千鶴さんは言いました。
雨上がりの空気の中で、その声は少しだけ柔らかく聞こえました。
「うん」
僕は答えました。
「また」
家へ帰る道で、途中まで読んだ本と、「帰る場所」という言葉を何度も思い出しました。
僕は白い家の中に入った。
でも、千鶴さんの中には入れなかった。
そのことが、はっきり分かりました。
玄関を開けると、母がすぐに顔を出しました。
「遅かったじゃない」
「雨宿りしてた」
「どこで?」
「白い家」
母は少しだけ黙りました。
それから、ため息をつきました。
「風邪ひかないようにしなさい」
「ひかない」
「その返事、信用できない」
「着替える」
「そうしなさい」
僕は部屋へ行き、濡れた制服を脱ぎました。
シャツも少し湿っていました。
机の引き出しを開けると、去年の祭りで千鶴さんが買ってくれた飴がまだ入っていました。
包み紙は少ししわになっていました。
僕はそれを見てから、引き出しを閉めました。
雨の日の白い家。
ミルクティーの甘さ。
帰る場所という言葉。
それらも、いつかこの引き出しに入るのだと思いました。
食べられない飴みたいに。
捨てられないまま、残っていくのだと思いました。
その夜、布団に入ってからも、雨の音が耳に残っていました。
本当はもう、雨はやんでいました。
でも、白い家の窓を流れていた雨粒の線が、何度も頭に浮かびました。
僕は目を閉じました。
白い家の中にいる千鶴さんを思いました。
そう思うと、胸の奥が少し痛くなりました。
僕はまだ、千鶴さんに何も聞けません。
聞いても、答えてもらえるとは限りません。
でも、今日初めて分かりました。
白い家は、外から見るよりずっと静かでした。
そして千鶴さんは、その静けさの中で笑っていました。
困ったように。
やわらかく。
まだどこかへ帰れていない人みたいに。
僕は、その顔を忘れたくないと思いました。
忘れたくないと思ったことが、少し怖くもありました。




