第35話ラムネのビー玉
中学二年の夏、僕は少しだけ大人になった気でいました。
小学生の頃より背が伸びた。
声も少し低くなった。
母に言われなくても一人で遠くまで行けるようになったし、村の外れまで自転車で走ることも、もう冒険ではなくなっていました。
だから、白い家へ行く時も、前より少しだけ落ち着いた顔をするようにしていました。
門の前で息を整えてから、呼び鈴を押す。
庭へ入っても走らない。
椅子へ座る時も、なるべく音を立てない。
千鶴さんが出してくれる炭酸飲料を、初めて見た味でも驚かない。
そういう小さなことを、僕は勝手に気にしていました。
「今日は、ぶどう」
その日、千鶴さんはいつものように、僕の前へ瓶を置きました。
濃い紫色のラベルが貼ってありました。英語の文字は、半分くらいしか読めません。
「また知らないやつ」
「前にも似たようなのを出した気がするけど」
「たぶん違う」
「じゃあ、違う味」
「適当だな」
僕はそう言って、瓶のふたを開けました。
昔は、千鶴さんに開けてもらうこともありました。
瓶のふたが固かったり、炭酸が強くて少しこぼしたりすると、千鶴さんはすぐに布巾を持ってきました。
でも、もうそんなことはありません。
僕は自分でふたを開けられます。
強い炭酸が上がってきても、慌てずに少し待てます。
一口飲むと、舌がしびれるくらい甘い味がしました。
「どう?」
「まあまあ」
「夏樹くんのまあまあは、好きって意味だね」
「違う」
「違うの?」
「まあまあって意味」
「そっか」
千鶴さんは笑いました。
その笑い方は、昔とあまり変わりませんでした。
困ったようで、やわらかくて、でもどこか遠い。
僕はその笑い方を見るたびに、少しだけ胸の奥が落ち着かなくなりました。
テーブルの上には、焼き菓子の皿がありました。
白い皿。
銀色の小さなフォーク。
花柄のカップ。
いつもの庭。
いつもの午後。
でも、その日は少しだけ違いました。
僕の鞄の中には、祭りの紙が入っていました。
学校の帰りに、商店街の掲示板で見つけたものでした。
夏祭り。
神社の境内に屋台が並ぶ。
夜には小さな花火が上がる。
そんなことが書いてありました。
村の夏祭りには、毎年行っていました。
小学生の頃は、友達と走り回って、かき氷を食べて、くじを引いて、最後には小銭がなくなっていました。
中学生になっても、祭りは変わりません。
でも、僕の方が少し変わりました。
友達と行くのも悪くない。
でも、その紙を見た時、最初に思い浮かんだのは千鶴さんでした。
千鶴さんは、祭りに行くのだろうか。
白い家に一人でいて、夜になって、遠くの太鼓の音だけを聞くのだろうか。
そう思うと、なんだか嫌でした。
だから僕は、その紙を鞄に入れてきました。
でも、いざ目の前に座ると、何と言えばいいのか分からなくなりました。
誘う。
それだけのことなのに、喉の奥に変なものが引っかかっていました。
「夏樹くん?」
「え?」
「ぶどう、苦手だった?」
「別に」
「ずっと瓶を見てたから」
「見てない」
「見てたよ」
「見てただけ」
「そう」
千鶴さんはそれ以上聞きませんでした。
聞かれないと、それはそれで困りました。
僕は瓶を置きました。
鞄の中の紙が気になりました。
出すなら今です。
でも、紙を出して「一緒に行きませんか」と言うのは、どうにも子どもっぽい気がしました。
誘っている感じが強すぎる。
断られたら、それも恥ずかしい。
だから僕は、なるべく何でもないことのように言いました。
「千鶴さんって、祭りとか行くの?」
「祭り?」
「明日、神社の」
「ああ」
千鶴さんは少し考えました。
「そういえば、そんな時期だね」
「知らなかったの?」
「音が聞こえる年はあるけど、行ったことはないかな」
「一回も?」
「ここに来てからは」
「ふうん」
僕は少しだけ瓶のラベルを剥がしかけました。
すぐにやめました。
「夏樹くんは、友達と行くの?」
千鶴さんが聞きました。
それは普通の質問でした。
普通すぎて、僕は少しむっとしました。
「別に」
「行かないの?」
「行ってもいいけど」
「友達と?」
「そうじゃなくて」
言ってから、しまったと思いました。
千鶴さんがこちらを見ています。
僕は視線をそらしました。
「千鶴さんが、どうしても行きたいなら」
「私が?」
「一人だと行きにくいでしょ」
「そうだね」
「だから、まあ」
自分でも何を言っているのか、分からなくなってきました。
誘いたいのは僕です。
でも、誘ったことにしたくありませんでした。
僕が連れていく。
そういう形にしたかったのかもしれません。
千鶴さんは少しだけ黙って、それから笑いました。
「じゃあ、お願いしようかな」
その言い方に、僕は急に背筋が伸びました。
「うん」
「何時に行けばいい?」
「夕方。六時くらい」
「門の前で待っていればいい?」
「迎えに来る」
言ってから、また恥ずかしくなりました。
でも千鶴さんはからかいませんでした。
「うん。待ってるね」
その日の帰り道、僕は自転車をいつもより速く漕ぎました。
風が顔に当たりました。
ただ祭りに行くだけです。
でも、僕には何か特別なことのように思えました。
千鶴さんを誘った。
千鶴さんが、僕を待っている。
それだけで、少し大人になったような気がしました。
次の日、僕は早く家を出ました。
母にどこへ行くのか聞かれて、祭り、とだけ答えました。
「友達と?」
「まあ」
嘘ではありません。
千鶴さんが友達なのかは分かりませんでした。
でも、母にそれ以上聞かれたくありませんでした。
財布の中には、いつもより多めに小銭を入れていました。
十分だと思っていました。
何かひとつくらいなら、千鶴さんに買える。
ラムネでも。
焼きそばでも。
それくらいなら、僕でも払えるはずでした。
白い家の門の前に着くと、千鶴さんはもう待っていました。
いつもの白い服ではありませんでした。
薄い水色の、涼しそうな服を着ていました。
髪も少しだけ結んでいて、耳元が見えました。
僕は一瞬、何と言えばいいのか分からなくなりました。
「早かったね」
「別に」
「まだ六時前だよ」
「遅れるよりいいでしょ」
「うん。そうだね」
千鶴さんは門を閉めました。
鍵をかける音がしました。
それだけで、白い家が少し遠くなった気がしました。
「行こうか」
「うん」
僕たちは神社へ向かって歩きました。
夕方の道には、すでに祭りへ向かう人がいました。
浴衣を着た子ども。
手を引く母親。
自転車を押す中学生。
遠くから太鼓の音が聞こえました。
千鶴さんは、僕の少し横を歩きました。
早すぎず、遅すぎず。
僕が歩く速度に、自然に合わせていました。
そのことに気づいて、少し悔しくなりました。
僕が案内しているつもりでした。
でも本当は、千鶴さんの方が僕に合わせている。
神社に近づくと、屋台の明かりが見えました。
赤い提灯。
焼けたソースの匂い。
甘い綿あめの匂い。
人の声。
小さな子どもが走り、誰かに叱られていました。
僕はなるべく慣れている顔をしました。
「こっち」
「うん」
「人多いから」
「はぐれないようにしないとね」
千鶴さんがそう言いました。
その言葉に、僕は少しだけ期待しました。
手をつなぐのだろうか。
いや、そんなわけがない。
そんなことを一瞬でも考えた自分が恥ずかしくなりました。
千鶴さんは、僕の袖の端を軽くつまみました。
ほんの少しだけ。
子どもを連れている大人が、迷子にならないようにする時のように。
僕は動けなくなりそうでした。
「夏樹くん?」
「……別に」
「歩きにくい?」
「歩ける」
「そっか」
千鶴さんは袖を離しました。
離されたあとで、ほっとしたような、残念なような、よく分からない気持ちになりました。
最初に見たのは、ラムネの屋台でした。
氷水の中に、青い瓶がいくつも沈んでいました。
ビー玉の入った、昔からあるラムネです。
「飲む?」
僕は聞きました。
「夏樹くんが?」
「千鶴さんが」
「私は炭酸、あまり得意じゃないよ」
「知ってる」
「じゃあ、どうして」
「祭りだから」
自分でも理由になっていないと思いました。
でも、千鶴さんは少し笑いました。
「じゃあ、一本だけ」
「二本」
「夏樹くんも飲む?」
「飲む」
僕は財布を出しました。
屋台の札を見ると、思っていたより少し高かった。
二本分を払えることは払えます。
でも、そうすると後で何もできなくなりそうでした。
僕が少し迷った瞬間、千鶴さんが先にお金を出しました。
「二本ください」
「あ」
屋台のおじさんがラムネを二本取り出しました。
栓を開けるための道具を渡されます。
千鶴さんは一本を僕に渡しました。
「はい」
「僕が払うつもりだった」
「そうなの?」
「そう」
「じゃあ、次はお願いしようかな」
それは優しい言い方でした。
でも、僕は悔しくなりました。
千鶴さんは何も悪くありません。
僕が迷っただけです。
僕の財布の中身が足りないだけです。
それなのに、胸の奥が熱くなりました。
ラムネの栓を押すと、ビー玉が落ちる音がしました。
しゅわ、と泡が上がりました。
僕は慌てずに待とうとしました。
でも、少しだけこぼれました。
「大丈夫?」
「大丈夫」
千鶴さんは布巾を持っているわけではありませんでした。
屋台の横にあった紙を一枚取り、僕に渡しました。
「手、濡れてる」
「大丈夫だって」
「うん」
大丈夫。
その言葉を使うたびに、なんだか子どもっぽくなる気がしました。
千鶴さんのラムネは、僕が開けました。
「貸して」
「できる?」
「できる」
今度はこぼさないように、ゆっくり押しました。
ビー玉が落ちて、泡が瓶の口まで上がってきます。
僕は慌てずに待ちました。
少しだけ、成功した気がしました。
「どうぞ」
「ありがとう」
千鶴さんはラムネを受け取り、ほんの少しだけ飲みました。
すぐに目を細めました。
「やっぱり、強いね」
「だから言った」
「言ってないよ」
「知ってた」
「知ってたなら止めてくれてもよかったのに」
「祭りだから」
千鶴さんはまた笑いました。
僕はその笑い方を見て、少しだけ満足しました。
そのあと、射的をしました。
僕は千鶴さんにいいところを見せるつもりでした。
小さな景品の中に、花のついた髪飾りがありました。
別に欲しいわけではありません。
千鶴さんが付けるとも思っていません。
でも、取れたら渡せると思いました。
一回分のお金を払いました。
今度は自分で払えました。
それだけで、少し気分が戻りました。
銃を構えて、狙いました。
思っていたより難しかった。
一発目は、景品の横を通りました。
二発目は、少しかすっただけ。
三発目は、的に当たりましたが、倒れませんでした。
「惜しい」
千鶴さんが言いました。
「今のは倒れてもよかった」
「そうだね」
「重いんだよ、たぶん」
「うん」
千鶴さんは笑いませんでした。
からかいもしませんでした。
それが余計に悔しかった。
子ども扱いされたわけではない。
でも、大人として見られたわけでもない。
僕の失敗を、千鶴さんはやさしく受け止めました。
やさしくされるたびに、僕は自分がまだ何もできないことを思い知らされました。
人混みを抜けて、少し静かな場所へ出ました。
神社の石段の横に、古い木がありました。
提灯の明かりは届いていましたが、屋台の前ほど明るくはありません。
千鶴さんはそこで少し息をつきました。
「疲れた?」
「千鶴さんが?」
「私は少し」
「じゃあ、休めば」
「うん」
僕たちは石段の端に座りました。
遠くで太鼓が鳴っています。
子どもたちの笑い声がしました。
手の中のラムネは、もうぬるくなっていました。
瓶を傾けると、ビー玉が口のところで引っかかります。
飲みたいのに、すぐには飲めない。
少し角度を変えないといけない。
その面倒くささが、なんだか今の僕みたいでした。
「誘ってくれてありがとう」
千鶴さんが言いました。
僕は瓶から口を離しました。
「別に」
「久しぶりに来た」
「前は来てたの?」
「子どもの頃は」
「そうなんだ」
「うん」
千鶴さんは提灯の方を見ていました。
横顔に赤い光が少しだけ当たっていました。
「懐かしい?」
「少し」
「楽しい?」
「楽しいよ」
その答えは、嘘ではなさそうでした。
でも、全部ではないようにも聞こえました。
千鶴さんが楽しそうだと、僕は嬉しい。
でも、千鶴さんが何かを思い出していると、僕はそこに入れません。
子どもの頃の千鶴さん。
白い家へ来る前の千鶴さん。
僕が知らない千鶴さん。
そういうものが、この人の中にはたくさんある。
僕はその一つも守れません。
守るどころか、知らない。
ただ隣に座って、ぬるくなったラムネを持っているだけでした。
「夏樹くん」
「何」
「ラムネ、無理して飲まなくてもいいよ」
「無理してない」
「さっきから進んでない」
「ビー玉が邪魔なだけ」
「そっか」
千鶴さんは自分のラムネを見ました。
ほとんど減っていませんでした。
「私も、あんまり進んでない」
「千鶴さんは炭酸苦手だから」
「そうだね」
「じゃあ、なんで飲んだの」
「夏樹くんが勧めてくれたから」
それは嬉しい言葉のはずでした。
けれど、千鶴さんが来てくれたのは、僕が大人だからではありません。
子どもの誘いを、ちゃんと受け取ってくれる人だからです。
迎えに行き、屋台を案内し、払おうとしても、結局は千鶴さんに合わせてもらっていました。
僕はまだ、千鶴さんを連れていく側ではありませんでした。
連れてきてもらっている側でした。
「夏樹くん?」
「何でもない」
「眠くなった?」
「なってない」
「疲れた?」
「疲れてない」
「そっか」
千鶴さんは、それ以上聞きませんでした。
僕はその優しさにも、少しだけ腹が立ちました。
もっと聞いてほしいわけではありません。
でも、聞かれないと、子どものわがままみたいな気持ちだけが残りました。
花火は思っていたより小さかった。
神社の裏手から上がる、低い花火でした。
大きな音がして、夜空に色が広がり、すぐに消えました。
千鶴さんは空を見ていました。
僕は花火より、千鶴さんの横顔を見ていました。
一つ。
二つ。
三つ。
光が消えるたびに、千鶴さんの顔も少し暗くなりました。
でも最後の花火が終わると、千鶴さんは小さく拍手をしました。
「終わったね」
「うん」
「帰ろうか」
「うん」
帰り道は、来た時より静かでした。
祭りの明かりが少しずつ遠ざかります。
太鼓の音も、人の声も、背中の方へ置いていくみたいでした。
千鶴さんは空のラムネ瓶を二本、袋に入れて持っていました。
「持つ」
僕は言いました。
「大丈夫だよ」
「持つって」
「軽いよ」
「軽いから持つ」
千鶴さんは少し考えてから、袋を渡してくれました。
瓶が中で触れ合って、からん、と小さな音を立てました。
僕はそれを大事に持ちました。
たったそれだけのことで、少し救われた気がしました。
白い家に着く頃には、夜はすっかり濃くなっていました。
庭の白い壁が、月明かりでぼんやり見えました。
千鶴さんは門の鍵を開けました。
「今日はありがとう」
「別に」
「楽しかった」
「……なら、よかった」
言ってから、声が少し小さくなったことに気づきました。
千鶴さんは門の中に入り、振り返りました。
「夏樹くんも、楽しかった?」
「まあまあ」
「そっか」
「まあまあって意味だから」
「うん」
千鶴さんは笑いました。
その笑い方は、やっぱり困ったようでした。
僕は聞きたくなりました。
来年も行く、と。
来年は僕が払う、と。
来年は射的で何か取る、と。
来年は、もっとちゃんと隣を歩く、と。
でも、どれも言えませんでした。
来年の僕が本当に大人になっているわけではないことを、もう分かっていたからです。
代わりに、僕は袋を差し出しました。
「瓶」
「ありがとう」
千鶴さんが受け取ります。
袋の中で、ビー玉が小さく鳴りました。
「じゃあ」
僕は自転車の方へ向かいました。
「夏樹くん」
呼ばれて振り返ると、千鶴さんが門の内側に立っていました。
白い家を背にして。
薄い水色の服で。
祭りの明かりはもう届いていないのに、そこだけ少し明るく見えました。
「またね」
千鶴さんは言いました。
僕は少しだけ黙りました。
その言葉を聞くと、胸の奥が変なふうに鳴りました。
ただの挨拶です。
明日も、明後日も、僕はここに来られる。
千鶴さんも、ここにいる。
それなのに、その日の「またね」は、いつもより少しだけ遠く聞こえました。
「うん」
僕は答えました。
「また」
自転車に乗って、坂道を下りました。
手には、ラムネの瓶を持っていた時の感触がまだ残っていました。
千鶴さんに渡された袋。
千鶴さんに払ってもらったラムネ。
開ける時に少しこぼした炭酸。
倒せなかった射的の景品。
袖をつままれた感触。
言えなかった来年の話。
全部が、夜の風の中で混ざっていました。
僕は少しだけ大人になったつもりで、千鶴さんを祭りに誘いました。
帰る頃には、自分がまだ何かをもらう側にいると分かっていました。
そのことが悔しくて。
でも、千鶴さんと祭りに行けたことは嬉しくて。
どちらの気持ちも、うまく分けられませんでした。
家に帰って、母に祭りはどうだったと聞かれました。
僕は靴を脱ぎながら答えました。
「まあまあ」
母は、それ以上聞きませんでした。
僕は自分の部屋へ行き、窓を開けました。
遠くで、祭りの片づけをする音がまだ少しだけ聞こえていました。
机の上には、屋台でもらった紙の包みがありました。
中には、小さな丸い飴が一つ入っていました。
千鶴さんが、帰り際に買ってくれたものです。
僕はいらないと言ったのに、千鶴さんは笑って、祭りだから、と言いました。
僕はそれをしばらく見ていました。
食べる気にはなりませんでした。
捨てる気にもなりませんでした。
ただ、机の引き出しに入れました。
いつか見つけた時、自分がまだ子どもだったことを思い出す気がしました。
そして、その時にはもう少しだけ大人になっていたいと思いました。




