表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
少女漫画みたいな恋に、人間牧場を混ぜるな  作者: 白瀬余白


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/40

第35話ラムネのビー玉


 中学二年の夏、僕は少しだけ大人になった気でいました。


 小学生の頃より背が伸びた。


 声も少し低くなった。


 母に言われなくても一人で遠くまで行けるようになったし、村の外れまで自転車で走ることも、もう冒険ではなくなっていました。


 だから、白い家へ行く時も、前より少しだけ落ち着いた顔をするようにしていました。


 門の前で息を整えてから、呼び鈴を押す。


 庭へ入っても走らない。


 椅子へ座る時も、なるべく音を立てない。


 千鶴さんが出してくれる炭酸飲料を、初めて見た味でも驚かない。


 そういう小さなことを、僕は勝手に気にしていました。


「今日は、ぶどう」


 その日、千鶴さんはいつものように、僕の前へ瓶を置きました。


 濃い紫色のラベルが貼ってありました。英語の文字は、半分くらいしか読めません。


「また知らないやつ」


「前にも似たようなのを出した気がするけど」


「たぶん違う」


「じゃあ、違う味」


「適当だな」


 僕はそう言って、瓶のふたを開けました。


 昔は、千鶴さんに開けてもらうこともありました。


 瓶のふたが固かったり、炭酸が強くて少しこぼしたりすると、千鶴さんはすぐに布巾を持ってきました。


 でも、もうそんなことはありません。


 僕は自分でふたを開けられます。


 強い炭酸が上がってきても、慌てずに少し待てます。


 一口飲むと、舌がしびれるくらい甘い味がしました。


「どう?」


「まあまあ」


「夏樹くんのまあまあは、好きって意味だね」


「違う」


「違うの?」


「まあまあって意味」


「そっか」


 千鶴さんは笑いました。


 その笑い方は、昔とあまり変わりませんでした。


 困ったようで、やわらかくて、でもどこか遠い。


 僕はその笑い方を見るたびに、少しだけ胸の奥が落ち着かなくなりました。


 テーブルの上には、焼き菓子の皿がありました。


 白い皿。


 銀色の小さなフォーク。


 花柄のカップ。


 いつもの庭。


 いつもの午後。


 でも、その日は少しだけ違いました。


 僕の鞄の中には、祭りの紙が入っていました。


 学校の帰りに、商店街の掲示板で見つけたものでした。


 夏祭り。


 神社の境内に屋台が並ぶ。


 夜には小さな花火が上がる。


 そんなことが書いてありました。


 村の夏祭りには、毎年行っていました。


 小学生の頃は、友達と走り回って、かき氷を食べて、くじを引いて、最後には小銭がなくなっていました。


 中学生になっても、祭りは変わりません。


 でも、僕の方が少し変わりました。


 友達と行くのも悪くない。


 でも、その紙を見た時、最初に思い浮かんだのは千鶴さんでした。


 千鶴さんは、祭りに行くのだろうか。


 白い家に一人でいて、夜になって、遠くの太鼓の音だけを聞くのだろうか。


 そう思うと、なんだか嫌でした。


 だから僕は、その紙を鞄に入れてきました。


 でも、いざ目の前に座ると、何と言えばいいのか分からなくなりました。


 誘う。


 それだけのことなのに、喉の奥に変なものが引っかかっていました。


「夏樹くん?」


「え?」


「ぶどう、苦手だった?」


「別に」


「ずっと瓶を見てたから」


「見てない」


「見てたよ」


「見てただけ」


「そう」


 千鶴さんはそれ以上聞きませんでした。


 聞かれないと、それはそれで困りました。


 僕は瓶を置きました。


 鞄の中の紙が気になりました。


 出すなら今です。


 でも、紙を出して「一緒に行きませんか」と言うのは、どうにも子どもっぽい気がしました。


 誘っている感じが強すぎる。


 断られたら、それも恥ずかしい。


 だから僕は、なるべく何でもないことのように言いました。


「千鶴さんって、祭りとか行くの?」


「祭り?」


「明日、神社の」


「ああ」


 千鶴さんは少し考えました。


「そういえば、そんな時期だね」


「知らなかったの?」


「音が聞こえる年はあるけど、行ったことはないかな」


「一回も?」


「ここに来てからは」


「ふうん」


 僕は少しだけ瓶のラベルを剥がしかけました。


 すぐにやめました。


「夏樹くんは、友達と行くの?」


 千鶴さんが聞きました。


 それは普通の質問でした。


 普通すぎて、僕は少しむっとしました。


「別に」


「行かないの?」


「行ってもいいけど」


「友達と?」


「そうじゃなくて」


 言ってから、しまったと思いました。


 千鶴さんがこちらを見ています。


 僕は視線をそらしました。


「千鶴さんが、どうしても行きたいなら」


「私が?」


「一人だと行きにくいでしょ」


「そうだね」


「だから、まあ」


 自分でも何を言っているのか、分からなくなってきました。


 誘いたいのは僕です。


 でも、誘ったことにしたくありませんでした。


 僕が連れていく。


 そういう形にしたかったのかもしれません。


 千鶴さんは少しだけ黙って、それから笑いました。


「じゃあ、お願いしようかな」


 その言い方に、僕は急に背筋が伸びました。


「うん」


「何時に行けばいい?」


「夕方。六時くらい」


「門の前で待っていればいい?」


「迎えに来る」


 言ってから、また恥ずかしくなりました。


 でも千鶴さんはからかいませんでした。


「うん。待ってるね」


 その日の帰り道、僕は自転車をいつもより速く漕ぎました。


 風が顔に当たりました。


 ただ祭りに行くだけです。


 でも、僕には何か特別なことのように思えました。


 千鶴さんを誘った。


 千鶴さんが、僕を待っている。


 それだけで、少し大人になったような気がしました。


 次の日、僕は早く家を出ました。


 母にどこへ行くのか聞かれて、祭り、とだけ答えました。


「友達と?」


「まあ」


 嘘ではありません。


 千鶴さんが友達なのかは分かりませんでした。


 でも、母にそれ以上聞かれたくありませんでした。


 財布の中には、いつもより多めに小銭を入れていました。


 十分だと思っていました。


 何かひとつくらいなら、千鶴さんに買える。


 ラムネでも。


 焼きそばでも。


 それくらいなら、僕でも払えるはずでした。


 白い家の門の前に着くと、千鶴さんはもう待っていました。


 いつもの白い服ではありませんでした。


 薄い水色の、涼しそうな服を着ていました。


 髪も少しだけ結んでいて、耳元が見えました。


 僕は一瞬、何と言えばいいのか分からなくなりました。


「早かったね」


「別に」


「まだ六時前だよ」


「遅れるよりいいでしょ」


「うん。そうだね」


 千鶴さんは門を閉めました。


 鍵をかける音がしました。


 それだけで、白い家が少し遠くなった気がしました。


「行こうか」


「うん」


 僕たちは神社へ向かって歩きました。


 夕方の道には、すでに祭りへ向かう人がいました。


 浴衣を着た子ども。


 手を引く母親。


 自転車を押す中学生。


 遠くから太鼓の音が聞こえました。


 千鶴さんは、僕の少し横を歩きました。


 早すぎず、遅すぎず。


 僕が歩く速度に、自然に合わせていました。


 そのことに気づいて、少し悔しくなりました。


 僕が案内しているつもりでした。


 でも本当は、千鶴さんの方が僕に合わせている。


 神社に近づくと、屋台の明かりが見えました。


 赤い提灯。


 焼けたソースの匂い。


 甘い綿あめの匂い。


 人の声。


 小さな子どもが走り、誰かに叱られていました。


 僕はなるべく慣れている顔をしました。


「こっち」


「うん」


「人多いから」


「はぐれないようにしないとね」


 千鶴さんがそう言いました。


 その言葉に、僕は少しだけ期待しました。


 手をつなぐのだろうか。


 いや、そんなわけがない。


 そんなことを一瞬でも考えた自分が恥ずかしくなりました。


 千鶴さんは、僕の袖の端を軽くつまみました。


 ほんの少しだけ。


 子どもを連れている大人が、迷子にならないようにする時のように。


 僕は動けなくなりそうでした。


「夏樹くん?」


「……別に」


「歩きにくい?」


「歩ける」


「そっか」


 千鶴さんは袖を離しました。


 離されたあとで、ほっとしたような、残念なような、よく分からない気持ちになりました。


 最初に見たのは、ラムネの屋台でした。


 氷水の中に、青い瓶がいくつも沈んでいました。


 ビー玉の入った、昔からあるラムネです。


「飲む?」


 僕は聞きました。


「夏樹くんが?」


「千鶴さんが」


「私は炭酸、あまり得意じゃないよ」


「知ってる」


「じゃあ、どうして」


「祭りだから」


 自分でも理由になっていないと思いました。


 でも、千鶴さんは少し笑いました。


「じゃあ、一本だけ」


「二本」


「夏樹くんも飲む?」


「飲む」


 僕は財布を出しました。


 屋台の札を見ると、思っていたより少し高かった。


 二本分を払えることは払えます。


 でも、そうすると後で何もできなくなりそうでした。


 僕が少し迷った瞬間、千鶴さんが先にお金を出しました。


「二本ください」


「あ」


 屋台のおじさんがラムネを二本取り出しました。


 栓を開けるための道具を渡されます。


 千鶴さんは一本を僕に渡しました。


「はい」


「僕が払うつもりだった」


「そうなの?」


「そう」


「じゃあ、次はお願いしようかな」


 それは優しい言い方でした。


 でも、僕は悔しくなりました。


 千鶴さんは何も悪くありません。


 僕が迷っただけです。


 僕の財布の中身が足りないだけです。


 それなのに、胸の奥が熱くなりました。


 ラムネの栓を押すと、ビー玉が落ちる音がしました。


 しゅわ、と泡が上がりました。


 僕は慌てずに待とうとしました。


 でも、少しだけこぼれました。


「大丈夫?」


「大丈夫」


 千鶴さんは布巾を持っているわけではありませんでした。


 屋台の横にあった紙を一枚取り、僕に渡しました。


「手、濡れてる」


「大丈夫だって」


「うん」


 大丈夫。


 その言葉を使うたびに、なんだか子どもっぽくなる気がしました。


 千鶴さんのラムネは、僕が開けました。


「貸して」


「できる?」


「できる」


 今度はこぼさないように、ゆっくり押しました。


 ビー玉が落ちて、泡が瓶の口まで上がってきます。


 僕は慌てずに待ちました。


 少しだけ、成功した気がしました。


「どうぞ」


「ありがとう」


 千鶴さんはラムネを受け取り、ほんの少しだけ飲みました。


 すぐに目を細めました。


「やっぱり、強いね」


「だから言った」


「言ってないよ」


「知ってた」


「知ってたなら止めてくれてもよかったのに」


「祭りだから」


 千鶴さんはまた笑いました。


 僕はその笑い方を見て、少しだけ満足しました。


 そのあと、射的をしました。


 僕は千鶴さんにいいところを見せるつもりでした。


 小さな景品の中に、花のついた髪飾りがありました。


 別に欲しいわけではありません。


 千鶴さんが付けるとも思っていません。


 でも、取れたら渡せると思いました。


 一回分のお金を払いました。


 今度は自分で払えました。


 それだけで、少し気分が戻りました。


 銃を構えて、狙いました。


 思っていたより難しかった。


 一発目は、景品の横を通りました。


 二発目は、少しかすっただけ。


 三発目は、的に当たりましたが、倒れませんでした。


「惜しい」


 千鶴さんが言いました。


「今のは倒れてもよかった」


「そうだね」


「重いんだよ、たぶん」


「うん」


 千鶴さんは笑いませんでした。


 からかいもしませんでした。


 それが余計に悔しかった。


 子ども扱いされたわけではない。


 でも、大人として見られたわけでもない。


 僕の失敗を、千鶴さんはやさしく受け止めました。


 やさしくされるたびに、僕は自分がまだ何もできないことを思い知らされました。


 人混みを抜けて、少し静かな場所へ出ました。


 神社の石段の横に、古い木がありました。


 提灯の明かりは届いていましたが、屋台の前ほど明るくはありません。


 千鶴さんはそこで少し息をつきました。


「疲れた?」


「千鶴さんが?」


「私は少し」


「じゃあ、休めば」


「うん」


 僕たちは石段の端に座りました。


 遠くで太鼓が鳴っています。


 子どもたちの笑い声がしました。


 手の中のラムネは、もうぬるくなっていました。


 瓶を傾けると、ビー玉が口のところで引っかかります。


 飲みたいのに、すぐには飲めない。


 少し角度を変えないといけない。


 その面倒くささが、なんだか今の僕みたいでした。


「誘ってくれてありがとう」


 千鶴さんが言いました。


 僕は瓶から口を離しました。


「別に」


「久しぶりに来た」


「前は来てたの?」


「子どもの頃は」


「そうなんだ」


「うん」


 千鶴さんは提灯の方を見ていました。


 横顔に赤い光が少しだけ当たっていました。


「懐かしい?」


「少し」


「楽しい?」


「楽しいよ」


 その答えは、嘘ではなさそうでした。


 でも、全部ではないようにも聞こえました。


 千鶴さんが楽しそうだと、僕は嬉しい。


 でも、千鶴さんが何かを思い出していると、僕はそこに入れません。


 子どもの頃の千鶴さん。


 白い家へ来る前の千鶴さん。


 僕が知らない千鶴さん。


 そういうものが、この人の中にはたくさんある。


 僕はその一つも守れません。


 守るどころか、知らない。


 ただ隣に座って、ぬるくなったラムネを持っているだけでした。


「夏樹くん」


「何」


「ラムネ、無理して飲まなくてもいいよ」


「無理してない」


「さっきから進んでない」


「ビー玉が邪魔なだけ」


「そっか」


 千鶴さんは自分のラムネを見ました。


 ほとんど減っていませんでした。


「私も、あんまり進んでない」


「千鶴さんは炭酸苦手だから」


「そうだね」


「じゃあ、なんで飲んだの」


「夏樹くんが勧めてくれたから」


 それは嬉しい言葉のはずでした。


 けれど、千鶴さんが来てくれたのは、僕が大人だからではありません。


 子どもの誘いを、ちゃんと受け取ってくれる人だからです。


 迎えに行き、屋台を案内し、払おうとしても、結局は千鶴さんに合わせてもらっていました。


 僕はまだ、千鶴さんを連れていく側ではありませんでした。


 連れてきてもらっている側でした。


「夏樹くん?」


「何でもない」


「眠くなった?」


「なってない」


「疲れた?」


「疲れてない」


「そっか」


 千鶴さんは、それ以上聞きませんでした。


 僕はその優しさにも、少しだけ腹が立ちました。


 もっと聞いてほしいわけではありません。


 でも、聞かれないと、子どものわがままみたいな気持ちだけが残りました。


 花火は思っていたより小さかった。


 神社の裏手から上がる、低い花火でした。


 大きな音がして、夜空に色が広がり、すぐに消えました。


 千鶴さんは空を見ていました。


 僕は花火より、千鶴さんの横顔を見ていました。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 光が消えるたびに、千鶴さんの顔も少し暗くなりました。


 でも最後の花火が終わると、千鶴さんは小さく拍手をしました。


「終わったね」


「うん」


「帰ろうか」


「うん」


 帰り道は、来た時より静かでした。


 祭りの明かりが少しずつ遠ざかります。


 太鼓の音も、人の声も、背中の方へ置いていくみたいでした。


 千鶴さんは空のラムネ瓶を二本、袋に入れて持っていました。


「持つ」


 僕は言いました。


「大丈夫だよ」


「持つって」


「軽いよ」


「軽いから持つ」


 千鶴さんは少し考えてから、袋を渡してくれました。


 瓶が中で触れ合って、からん、と小さな音を立てました。


 僕はそれを大事に持ちました。


 たったそれだけのことで、少し救われた気がしました。


 白い家に着く頃には、夜はすっかり濃くなっていました。


 庭の白い壁が、月明かりでぼんやり見えました。


 千鶴さんは門の鍵を開けました。


「今日はありがとう」


「別に」


「楽しかった」


「……なら、よかった」


 言ってから、声が少し小さくなったことに気づきました。


 千鶴さんは門の中に入り、振り返りました。


「夏樹くんも、楽しかった?」


「まあまあ」


「そっか」


「まあまあって意味だから」


「うん」


 千鶴さんは笑いました。


 その笑い方は、やっぱり困ったようでした。


 僕は聞きたくなりました。


 来年も行く、と。


 来年は僕が払う、と。


 来年は射的で何か取る、と。


 来年は、もっとちゃんと隣を歩く、と。


 でも、どれも言えませんでした。


 来年の僕が本当に大人になっているわけではないことを、もう分かっていたからです。


 代わりに、僕は袋を差し出しました。


「瓶」


「ありがとう」


 千鶴さんが受け取ります。


 袋の中で、ビー玉が小さく鳴りました。


「じゃあ」


 僕は自転車の方へ向かいました。


「夏樹くん」


 呼ばれて振り返ると、千鶴さんが門の内側に立っていました。


 白い家を背にして。


 薄い水色の服で。


 祭りの明かりはもう届いていないのに、そこだけ少し明るく見えました。


「またね」


 千鶴さんは言いました。


 僕は少しだけ黙りました。


 その言葉を聞くと、胸の奥が変なふうに鳴りました。


 ただの挨拶です。


 明日も、明後日も、僕はここに来られる。


 千鶴さんも、ここにいる。


 それなのに、その日の「またね」は、いつもより少しだけ遠く聞こえました。


「うん」


 僕は答えました。


「また」


 自転車に乗って、坂道を下りました。


 手には、ラムネの瓶を持っていた時の感触がまだ残っていました。


 千鶴さんに渡された袋。


 千鶴さんに払ってもらったラムネ。


 開ける時に少しこぼした炭酸。


 倒せなかった射的の景品。


 袖をつままれた感触。


 言えなかった来年の話。


 全部が、夜の風の中で混ざっていました。


 僕は少しだけ大人になったつもりで、千鶴さんを祭りに誘いました。


 帰る頃には、自分がまだ何かをもらう側にいると分かっていました。


 そのことが悔しくて。


 でも、千鶴さんと祭りに行けたことは嬉しくて。


 どちらの気持ちも、うまく分けられませんでした。


 家に帰って、母に祭りはどうだったと聞かれました。


 僕は靴を脱ぎながら答えました。


「まあまあ」


 母は、それ以上聞きませんでした。


 僕は自分の部屋へ行き、窓を開けました。


 遠くで、祭りの片づけをする音がまだ少しだけ聞こえていました。


 机の上には、屋台でもらった紙の包みがありました。


 中には、小さな丸い飴が一つ入っていました。


 千鶴さんが、帰り際に買ってくれたものです。


 僕はいらないと言ったのに、千鶴さんは笑って、祭りだから、と言いました。


 僕はそれをしばらく見ていました。


 食べる気にはなりませんでした。


 捨てる気にもなりませんでした。


 ただ、机の引き出しに入れました。


 いつか見つけた時、自分がまだ子どもだったことを思い出す気がしました。


 そして、その時にはもう少しだけ大人になっていたいと思いました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ