第34話残った瓶
門が閉まる音がしました。
小さな音でした。
それでも、庭の中ではよく響きました。
夏樹くんの足音が、門の向こうへ離れていきます。
私はしばらく、その場に立っていました。
追いかけるつもりはありませんでした。
呼び止める言葉もありませんでした。
帰ってください。
そう言ったのは、私です。
言ったあとで、取り消せる言葉ではありません。
夏樹くんは、うなずきました。
帰ります、と言いました。
それしか言わせられませんでした。
足音が遠くなって、やがて聞こえなくなりました。
それでも私は、すぐには動けませんでした。
夕方の光が、門の金具に細く残っていました。
生け垣の隙間が、影の中に沈んでいます。
あそこから、夏樹くんは初めて入ってきました。
子どもの体で、服に葉をつけながら。
自分の秘密基地だと言い張って。
私の家ではないみたいな顔をして。
私はその隙間を見ました。
今の夏樹くんは、もうそこを通れないでしょう。
体が大きくなったから。
それだけではありません。
あの隙間を通って入ってきた子どもは、もういません。
私は庭へ戻りました。
丸いテーブルの上には、まだすべて残っていました。
紅茶のカップ。
白い皿。
焼き菓子。
桃の炭酸の瓶。
瓶のふたは閉まったままです。
今日のために買ったものでした。
夏樹くんが来るから、冷やしておいたものです。
桃味は、たぶん好きだと思いました。
夏樹くんは、知らない味を嫌がります。
けれど、甘いものは嫌いではありません。
最初は眉を寄せて、ラベルを見て、それから一口飲んで、たぶんこう言うはずでした。
まあまあ。
気に入っている時ほど、そう言うのです。
私はカップを手に取りました。
紅茶は冷めていました。
台所へ持っていき、流しへ捨てます。
茶色い水が排水口へ消えていきました。
カップを洗って、伏せました。
皿の上の焼き菓子は、二つ残っていました。
一つは夏樹くんの分。
もう一つは私の分。
私は自分で作ったものを、あまり食べません。
作る時間の方が好きでした。
粉を量る。
バターを切る。
生地をまとめる。
焼き色を見る。
冷めるまで待つ。
その一つずつが、誰かを待つ時間になりました。
私は焼き菓子を容器に戻しました。
蓋を閉めます。
乾いた音がしました。
テーブルへ戻ると、桃の炭酸だけが残っていました。
瓶の外側には、もう水滴はありません。
触れると、冷たさは少しだけ残っていました。
冷蔵庫へ戻せばいい。
そう思いました。
けれど、手は動きませんでした。
私は瓶を持ったまま、庭の椅子に座りました。
初めて夏樹くんに炭酸を出した時、彼は瓶を疑うように見ていました。
「これ、なに」
「炭酸です」
「知ってる」
「では、なぜ聞いたんですか」
「見たことないから」
その時の夏樹くんは、まだ十一歳でした。
足は地面に届いていたけれど、椅子に深く座ると少し膝が上がりました。
生け垣から入ってきた葉が、髪についていました。
私はそれを取ろうとして、途中で手を止めました。
急に触れたら、きっと怒ると思ったからです。
「髪に葉がついています」
「知ってる」
「本当に?」
「……どこ」
「右側です」
夏樹くんは自分で取ろうとして、反対側を払いました。
「そちらではありません」
「じゃあ、取って」
そう言われて、私は葉を取りました。
小さな葉でした。
夏樹くんは、何でもない顔をしていました。
でも、耳だけ少し赤かった。
そのあと、私は瓶のふたを開けました。
しゅ、と小さな音がしました。
夏樹くんは一瞬、目を大きくしました。
「びっくりしました?」
「してない」
「そうですか」
「今の音、なに」
「炭酸が抜けた音です」
「逃げたの?」
「そうですね。少しだけ」
夏樹くんは瓶を受け取りました。
恐る恐る口をつけて、すぐにむせました。
「苦い」
「甘いですよ」
「痛い」
「それは炭酸です」
「なんで痛い飲み物出すの」
「嫌なら、残してもいいですよ」
夏樹くんは瓶を見ました。
それから、私を見ました。
「残さない」
「無理しなくても」
「残さない」
そう言って、時間をかけて全部飲みました。
最後の方は、痛いとは言いませんでした。
おいしいとも言いませんでした。
飲み終えたあと、空になった瓶をテーブルに置いて、
「まあまあ」
と言いました。
私は笑いました。
夏樹くんはむっとしました。
「なに」
「いいえ」
「笑った」
「笑っていません」
「笑った」
「少しだけ」
「なんで」
「まあまあ、という顔ではなかったので」
「じゃあ、どういう顔」
「気に入った顔です」
「気に入ってない」
「そうですか」
「まあまあ」
「はい」
その日は、りんごの炭酸でした。
それから、私は夏樹くんが来る日に、知らない味の炭酸を用意するようになりました。
最初は、子どもの客に何を出せばいいのか分からなかったからです。
お菓子だけでは、秘密基地を取った大人のようで。
お茶では、かしこまりすぎていて。
水では、あまりにも何もなかった。
だから炭酸にしました。
少しだけ子どもっぽくて。
少しだけ特別で。
瓶を開ける音がして。
飲むたびに、必ず何か言うもの。
夏樹くんは、知らない味を嫌がりました。
でも、来るたびに飲みました。
中学生になる頃には、もう生け垣の隙間からは入りませんでした。
門の前に立って、呼び鈴を鳴らします。
初めて呼び鈴を鳴らした日、私は少し驚きました。
玄関を開けると、夏樹くんは門の外ではなく、きちんと玄関の前に立っていました。
背が伸びていました。
制服の肩が、まだ少し余っています。
手には鞄を持っていました。
「どうしたんですか」
「どうしたって」
「今日は、生け垣ではないんですね」
「もう、あそこ通らないし」
「そうなんですか」
「子どもじゃないから」
夏樹くんはそう言いました。
言ったあとで、少し恥ずかしそうに目を逸らしました。
「では、玄関からどうぞ」
「……うん」
家へ入る時、夏樹くんは靴をそろえました。
以前は、庭からそのまま入ってきて、土を落とすのを忘れることもありました。
その日から、夏樹くんは客の顔をするようになりました。
庭へ行っても、最初に座っていいかと聞く。
炭酸を出しても、ありがとうございますと言う。
焼き菓子を取る前に、食べていいかと目で確認する。
それが少し寂しいと思ったことを、私は誰にも言いませんでした。
その頃の夏樹くんは、学校の話をよくしました。
先生の話。
友人の話。
部活に入るか迷っている話。
宿題を忘れて怒られた話。
私は聞きました。
時々、笑いました。
夏樹くんは、昔より少しだけ言葉を選ぶようになっていました。
でも、炭酸の味を聞くと、たいてい同じ答えでした。
「それ、好き?」
「まあまあ」
「そうですか」
「前のよりは好き」
「前の、何でしたっけ」
「ぶどう」
「ああ」
「あれは変だった」
「全部飲みましたよ」
「残すのも変だし」
「嫌いだったんですね」
「まあまあ」
私はまた笑いました。
夏樹くんは、少しだけ不機嫌そうに瓶を持ち上げました。
その手が、前より大きくなっていることに気づきました。
瓶を持つ指が、細いまま長くなっていました。
子どもの手ではなくなっていました。
それでも、私の中の夏樹くんは、まだ庭に迷い込んできた十一歳のままでした。
そう思っていたかったのかもしれません。
高校生になった夏樹くんは、瓶のふたを自分で開けるようになりました。
私が開けようとすると、
「自分でやります」
と言います。
最初は固いふたに少し手間取っていました。
それでも、渡そうとはしませんでした。
何度か力を入れて、ようやく開く。
しゅ、と音がする。
その音を聞いて、夏樹くんは何でもない顔をします。
昔は目を大きくしていたのに。
「慣れましたね」
「何が」
「瓶を開けるの」
「そりゃ、開けますよ」
「そうですね」
「いつまでも開けてもらうわけじゃないし」
「はい」
私はそう答えました。
何でもない会話でした。
でも、その日、私は夏樹くんの手元を少し長く見てしまいました。
瓶を開ける手。
少し日に焼けた指。
昔より低くなった声。
椅子に座った時、膝の位置が変わっていること。
テーブルの向こうにいる人の高さが、以前と違うこと。
夏樹くんは、私よりずっと若い人でした。
でも、もう子どもではありませんでした。
私はそのことを、少しずつ知っていました。
知っていながら、知らないふりをしていました。
それからも、夏樹くんは白い家へ来ました。
炭酸を出しました。
焼き菓子を出しました。
学校の話を聞きました。
進路の話を聞きました。
背が伸びたことに気づいても、言いませんでした。
声が低くなったことに気づいても、言いませんでした。
私を見る時間が少し長くなったことに気づいても、気づかないふりをしました。
大人の余裕のように。
そう見えるように。
本当は、余裕などありませんでした。
私は恋愛の仕方を、学校で止めたままでした。
誰かに好きだと言われること。
誰かと待ち合わせること。
手が触れるかもしれない距離を歩くこと。
そういうものを、十分に知らないままセンターへ行きました。
知っているふりだけが、少しずつ上手くなりました。
夏樹くんが背伸びをするたび、私はさらに背伸びをしました。
大人の顔をして。
受け取らない人の顔をして。
それが正しいと思っていました。
今日までは。
私は桃の炭酸の瓶を見ました。
今日の夏樹くんは、瓶を開けませんでした。
十一歳の頃は、痛いと言いながら飲みました。
中学生の頃は、子どもではない顔をして飲みました。
高校生になってからは、自分でふたを開けるようになりました。
それなのに今日は、開けませんでした。
開けられなかった。
私が、そうさせました。
私は瓶を持って、台所へ行きました。
冷蔵庫を開けます。
冷たい空気が手に触れました。
中に戻せばいい。
また来るか分からない人のために、テーブルへ置いておく必要はありません。
そう思ったのに、瓶を置けませんでした。
冷蔵庫の中には、他の飲み物もありました。
水。
お茶。
まだ開けていない炭酸が数本。
夏樹くんが来た時のために、いつも少しだけ用意しているものです。
私は冷蔵庫の扉を閉めました。
瓶を持ったまま、庭へ戻りました。
桃の炭酸を、元の場所に置きました。
白い皿はもうありません。
カップもありません。
焼き菓子も片づけました。
テーブルの上には、桃の瓶だけが残りました。
夕方の光は、もう薄くなっていました。
ひまわり畑の方から、風が来ました。
二階の窓へ行けば、橋が見えます。
でも、私は庭に座っていました。
夏樹くんが座っていた椅子を見ます。
少し前まで、そこにいました。
何も言えない顔で。
私の話を聞き終えて。
私の過去を知って。
それでも、きれいだと思ってしまったような顔で。
私は目を閉じました。
言えない方が、正しいのだと思いました。
すぐに慰める人ではなくてよかった。
すぐに救うと言う人ではなくてよかった。
気にしないと言う人ではなくてよかった。
夏樹くんは、何も言えませんでした。
それを私は、悲しいと思いました。
同時に、少しだけ安心しました。
何も言えないほど、ちゃんと聞いてくれたのだと思ってしまったからです。
空が暗くなっていきました。
庭の白いテーブルが、少しずつ灰色に沈みます。
私は立ち上がり、家の灯りをつけました。
台所の灯り。
居間の灯り。
玄関の灯り。
庭に面した窓から、淡い光が外へ漏れました。
それでも、テーブルの上の桃の瓶は少し暗く見えました。
冷えていたはずの瓶は、もうぬるくなっているでしょう。
私はそれを片づけませんでした。
片づけられませんでした。
夜が来ました。
虫の声が聞こえます。
遠くの道を車が通り過ぎました。
橋の方から、たまに細い音が響きます。
私は庭の椅子に座り直しました。
何を待っているのか、自分でも分かりませんでした。
夏樹くんは帰りました。
私が帰したのです。
戻ってくる理由はありません。
戻ってきてはいけないのだと、昼の私は思いました。
でも、夜の私は、桃の瓶を片づけていません。
そのことを、自分で知っていました。




