第33話言えない
「――それで、ここで暮らそうと思いました」
千鶴さんは、そう言って話を終えた。
声は、最後まで静かだった。
泣いてはいなかった。
途中で何度か、紅茶のカップへ手を伸ばした。けれど、ほとんど飲んでいなかった。カップの中の紅茶は、もう温かくないと思う。
僕の前には、炭酸の瓶が置かれていた。
まだ開けていない。
最初に出された時、千鶴さんはいつものように、
「今日は、桃です」
と言った。
僕は、いつものように、
「また知らないやつ」
と言った。
その時は、まだ言えた。
好きですと言ったあとで、断られて、それでも理由を聞こうとしていた。自分では、覚悟しているつもりだった。
千鶴さんのことを知るつもりでいた。
でも、瓶のふたは閉まったままだった。
話が始まってから、一度も開けられなかった。
瓶の外についていた水滴は、もう乾いていた。
庭は静かだった。
夕方の光が、白い壁に斜めに当たっている。
丸いテーブルの上には、紅茶のカップと、白い皿と、開けていない炭酸の瓶があった。
皿の上には、焼き菓子が二つ残っていた。
千鶴さんが焼いたものだ。
僕は昔から、それが好きだった。
外はさくっとしていて、中は少しだけやわらかい。甘すぎなくて、いくつでも食べられそうな味がする。
十一歳の頃、僕はそれを食べながら、この家は自分の秘密基地だったのに、と思っていた。
それから、何度もここへ来た。
庭に座った。
炭酸を飲んだ。
お菓子を食べた。
千鶴さんの向かいで、どうでもいい話をした。
学校の話。
村の話。
瓶のラベルが読めない話。
千鶴さんが炭酸を飲まないくせに、僕のためだけに買っておく話。
全部、ちゃんと覚えている。
それなのに、今はその全部が、違うものみたいに見えた。
白い家。
大きな窓。
庭の丸いテーブル。
花のある皿。
用意された炭酸。
僕は、それを千鶴さんのきれいな暮らしだと思っていた。
一人で静かに暮らすための家。
僕が勝手に入って、許された場所。
少し寂しそうで、でも穏やかで、僕には居心地のいい場所。
でも、違った。
違う、という言葉だけでは足りなかった。
この家は、千鶴さんがひまわりと橋を見て選んだ家だった。
黄色い花を見て。
小さな橋を見て。
子どもたちのことを抱えたまま暮らせるかもしれないと思って、選んだ家だった。
僕は、二階の窓を見上げた。
庭からだと、中は見えない。
でも、あのどこかの窓から、ひまわり畑と橋が見えるのだと思った。
千鶴さんは、そこから何度それを見たのだろう。
朝に。
雨の日に。
何もすることがない日に。
誰にも呼ばれない日に。
誰にも「日向さん」と呼ばれない日に。
僕は、その窓を見たことがあったはずだった。
何度も。
この家へ通っていたのだから。
でも、見ていなかった。
ただの窓だと思っていた。
千鶴さんの家の、明るい窓だと思っていた。
何も知らなかった。
その言葉が、喉の奥に置かれたまま動かなかった。
千鶴さんの方を見る。
千鶴さんは、テーブルの上に両手を置いていた。
指先はきちんと揃っている。
その手で、子どもの髪を結んだのだと聞いた。
水をゆっくり飲む子を見ていたのだと聞いた。
暗い部屋を怖がる子に、灯りをつけてもらうよう言ったのだと聞いた。
最後に、小さな指を一つずつ外したのだと聞いた。
その手が今、僕の前にあった。
何か言わなければと思った。
ずっと黙っているわけにはいかない。
千鶴さんは、僕に話してくれた。
僕が聞きたいと言ったから。
帰りたくなるかもしれないと言われても、帰らないと言ったから。
なのに、聞き終えた僕は何も言えなかった。
言葉はいくつか浮かんだ。
大変でしたね。
違う。
それは、軽すぎる。
つらかったですね。
違う。
僕が言っていい重さではない。
かわいそうです。
違う。
絶対に違う。
僕は気にしません。
違う。
気にするかどうかを、僕が決める話じゃない。
それでも好きです。
それも、今は違った。
好きですと言うことだけならできる。
さっきも言った。
その気持ちが嘘になったわけではない。
むしろ、消えていないことが怖かった。
こんな話を聞いたあとでも、僕は千鶴さんを好きだった。
でも、今それを言えば、千鶴さんが話してくれたものの上に、僕の気持ちを置くだけになる気がした。
僕がまだ好きでいることを、千鶴さんに受け止めさせることになる。
それは違う。
何もかも違った。
「夏樹くん」
千鶴さんが僕を呼んだ。
僕は返事をしようとした。
声が出なかった。
千鶴さんは、少しだけ目を伏せた。
「今日は、帰ってください」
その言葉は、思っていたより静かだった。
冷たくはなかった。
怒ってもいなかった。
でも、動かせない言葉だった。
「……あの」
何か言おうとして、止まった。
あの、の続きを僕は持っていなかった。
千鶴さんは、僕の言葉を待った。
昔からそうだった。
僕が名前を言わないと言った時も。
お菓子を食べるか迷った時も。
炭酸の味をうまく言えなかった時も。
告白した時も。
千鶴さんは、急かさずに待つ。
だから余計に、何も言えないことが分かった。
「すみません」
僕が言うと、千鶴さんは首を横に振った。
「謝ることではありません」
「でも」
「今、何かを言わなくていいです」
千鶴さんは、テーブルの上のカップを見ました。
「言えないでしょう」
僕は答えられなかった。
否定したかった。
言えます、と言いたかった。
でも、言えなかった。
千鶴さんは、少しだけ笑った。
困ったような笑い方だった。
僕が十一歳の頃から知っている笑い方。
でも、今はその笑い方を見るのが苦しかった。
僕は、今までその笑い方をどう見ていたのだろう。
優しいと思っていた。
少し寂しそうだと思っていた。
何かを諦めているみたいだと、子どもの頃から思っていた。
それなのに、その「何か」を知ろうとはしていなかった。
知りたいと言っていたのに。
好きだと言っていたのに。
僕は、千鶴さんの笑い方を、ただ好きな人の癖みたいに見ていた。
「今日は、これ以上は」
千鶴さんは、少しだけ言葉を探した。
「私も、聞けません」
僕はようやく、うなずいた。
「……はい」
それしか出てこなかった。
椅子を引く音が、庭に小さく響いた。
立ち上がると、足にうまく力が入らなかった。
ずっと座っていたからかもしれない。
違うかもしれない。
千鶴さんも立ち上がった。
僕は、テーブルの上の炭酸を見た。
開けていない瓶。
桃の味だと聞いた。
飲めば、たぶんおいしいのだと思う。
千鶴さんは、僕が来ると思って買っておいてくれた。
いつものように。
でも、僕は飲めなかった。
「ごちそうさまでした」
口から出た言葉は、あまりにも普通だった。
千鶴さんは一瞬だけ、瓶を見ました。
それから僕を見ました。
「はい」
それだけ言った。
持って帰るかとは聞かれなかった。
飲んでいくかとも聞かれなかった。
僕も、開けていいかとは言えなかった。
瓶はテーブルの上に残った。
僕たちは庭を横切って、門の方へ歩いた。
庭の芝生は、夕方の光で少し暗くなっていた。
前に僕が勝手に基地の範囲を決めた場所も、もうどこだったのか分からない。
木の枝で線を引いた。
石を並べた。
ここからここまでが自分の場所だと決めた。
何も知らない子どもだった。
いや、子どもだったからではない。
知ろうとしなかった。
空き家だったから自分のものだと思った。
千鶴さんが来てからも、自分の場所を取られたと思った。
その家を千鶴さんがどうして選んだのかなんて、考えたこともなかった。
門の近くまで来ると、生け垣の隙間が見えた。
昔、僕が通っていた入口。
大人なら通れない。
子ども一人なら、服を少し引っかけながら抜けられるくらいの隙間。
まだ残っていた。
少し狭くなったようにも見えた。
僕が大きくなっただけかもしれない。
「そこから入れるのね」
初めて見つかった時、千鶴さんはそう言った。
怒らなかった。
追い出さなかった。
秘密の入口、と聞いた。
僕は違うと言った。
違わなかった。
たぶん、僕にとっては本当に秘密の入口だった。
でも今は、そこから入ることを考えられなかった。
もう僕は、勝手に入っていい子どもではない。
許されれば入れる場所と。
自分の場所は違う。
門の前で、千鶴さんが止まりました。
「気をつけて帰ってください」
「はい」
また来てもいいですか。
そう聞きたかった。
でも、その言葉も出てこなかった。
今それを聞くのは、千鶴さんに次の答えを求めることになる。
今日は帰ってくださいと言われたばかりなのに。
それなのに、僕は門の外へ出る前に、どうしても振り返ってしまった。
千鶴さんは、門の内側に立っていた。
白い家を背にしている。
夕方の光が、千鶴さんの横顔にかかっていた。
きれいだと思った。
思ってしまった。
それが自分で嫌になった。
こんな時でも、僕は千鶴さんをきれいだと思う。
好きだと思う。
その気持ちは、消えてくれない。
でも、消えないから正しいわけではなかった。
「あの」
僕はもう一度言った。
千鶴さんがこちらを見た。
何か言うなら、今しかなかった。
でも、言葉はやっぱり出てこなかった。
好きです。
また来ます。
聞かせてくれてありがとうございます。
どれも違った。
僕は、唇を閉じた。
「……帰ります」
やっと言えたのは、それだけだった。
千鶴さんは、静かにうなずいた。
「はい」
門を出ました。
閉まる音がしました。
僕は道を歩き出しました。
何度も来た道です。
小学生の頃は、走って帰ったこともありました。
中学生の頃は、わざとゆっくり歩いたこともありました。
高校に入ってからは、帰り道で次に来る理由を考えた。
忘れ物。
新しい炭酸の感想。
学校の話。
何でもよかった。
白い家へ行く理由なら、いくらでも作れた。
でも今は、戻る理由も、進む理由も分からなかった。
足だけが道を覚えていました。
少し歩いたところで、振り返りました。
白い家が見えました。
大きな窓が夕方の光を受けています。
あの窓のどこかから、ひまわりと橋が見える。
僕は、それを今日初めて知った。
知らなかった頃の僕は、あの家を見て、ただ千鶴さんの家だと思っていた。
秘密基地だった場所。
お菓子を食べる場所。
炭酸を飲む場所。
千鶴さんに会える場所。
でも、その前に。
そのずっと前に。
千鶴さんが、二人の子どもを失ったあとで、それでも覚えたまま暮らすために選んだ場所だった。
僕はその家に、何年も通っていた。
何年も。
何も知らずに。
胸の奥が苦しくなりました。
泣きそうなのとは違う。
怒りとも違う。
恥ずかしいのに近いかもしれない。
自分が知らなかったことが恥ずかしい。
でも、知らなかっただけで悪かったと言うのも、何かが違う。
僕は子どもだった。
でも、もう子どもではない。
だったら、これからどうすればいいのか。
分からなかった。
好きですと言った。
断られた。
理由を聞いた。
聞いたら、何も言えなくなった。
それだけです。
それだけなのに、帰り道は前よりずっと長く感じました。
家の近くまで来た時、ようやく気づきました。
喉が渇いていました。
結局、炭酸を飲んでいません。
僕は自販機の前で立ち止まりました。
見慣れた缶ばかり並んでいました。
桃味はありませんでした。
千鶴さんが出してくれるような、知らないラベルの瓶もありません。
僕は何も買わずに通り過ぎました。
頭の中で、瓶のふたを開ける音を想像しました。
しゅ、と小さく炭酸が抜ける音。
いつもなら、その音のあとに千鶴さんが聞きます。
「それ、好き?」
僕は、まあまあ、と答える。
千鶴さんは、そっか、と笑う。
何度も繰り返したやり取りでした。
でも今日、僕は瓶を開けなかった。
だから、その音は鳴らなかった。
僕は、千鶴さんが好きだった。
その気持ちは、まだ消えていませんでした。
でも、今の僕がその気持ちをそのまま差し出しても、千鶴さんの前にある何かを少しも動かせない気がしました。
好きです。
その一言で踏み込める場所ではありませんでした。
白い家の門の向こうには、僕の知らなかった時間がありました。
ひまわりがあって。
橋があって。
開けていない炭酸があって。
千鶴さんがいました。
僕は何も言えないまま、門から離れました。
坂道を下りても、テーブルの上に残してきた桃の炭酸の瓶だけが、ずっと目の奥に残っていました。




