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少女漫画みたいな恋に、人間牧場を混ぜるな  作者: 白瀬余白


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33/40

第33話言えない


「――それで、ここで暮らそうと思いました」


 千鶴さんは、そう言って話を終えた。


 声は、最後まで静かだった。


 泣いてはいなかった。


 途中で何度か、紅茶のカップへ手を伸ばした。けれど、ほとんど飲んでいなかった。カップの中の紅茶は、もう温かくないと思う。


 僕の前には、炭酸の瓶が置かれていた。


 まだ開けていない。


 最初に出された時、千鶴さんはいつものように、


「今日は、桃です」


 と言った。


 僕は、いつものように、


「また知らないやつ」


 と言った。


 その時は、まだ言えた。


 好きですと言ったあとで、断られて、それでも理由を聞こうとしていた。自分では、覚悟しているつもりだった。


 千鶴さんのことを知るつもりでいた。


 でも、瓶のふたは閉まったままだった。


 話が始まってから、一度も開けられなかった。


 瓶の外についていた水滴は、もう乾いていた。


 庭は静かだった。


 夕方の光が、白い壁に斜めに当たっている。


 丸いテーブルの上には、紅茶のカップと、白い皿と、開けていない炭酸の瓶があった。


 皿の上には、焼き菓子が二つ残っていた。


 千鶴さんが焼いたものだ。


 僕は昔から、それが好きだった。


 外はさくっとしていて、中は少しだけやわらかい。甘すぎなくて、いくつでも食べられそうな味がする。


 十一歳の頃、僕はそれを食べながら、この家は自分の秘密基地だったのに、と思っていた。


 それから、何度もここへ来た。


 庭に座った。


 炭酸を飲んだ。


 お菓子を食べた。


 千鶴さんの向かいで、どうでもいい話をした。


 学校の話。


 村の話。


 瓶のラベルが読めない話。


 千鶴さんが炭酸を飲まないくせに、僕のためだけに買っておく話。


 全部、ちゃんと覚えている。


 それなのに、今はその全部が、違うものみたいに見えた。


 白い家。


 大きな窓。


 庭の丸いテーブル。


 花のある皿。


 用意された炭酸。


 僕は、それを千鶴さんのきれいな暮らしだと思っていた。


 一人で静かに暮らすための家。


 僕が勝手に入って、許された場所。


 少し寂しそうで、でも穏やかで、僕には居心地のいい場所。


 でも、違った。


 違う、という言葉だけでは足りなかった。


 この家は、千鶴さんがひまわりと橋を見て選んだ家だった。


 黄色い花を見て。


 小さな橋を見て。


 子どもたちのことを抱えたまま暮らせるかもしれないと思って、選んだ家だった。


 僕は、二階の窓を見上げた。


 庭からだと、中は見えない。


 でも、あのどこかの窓から、ひまわり畑と橋が見えるのだと思った。


 千鶴さんは、そこから何度それを見たのだろう。


 朝に。


 雨の日に。


 何もすることがない日に。


 誰にも呼ばれない日に。


 誰にも「日向さん」と呼ばれない日に。


 僕は、その窓を見たことがあったはずだった。


 何度も。


 この家へ通っていたのだから。


 でも、見ていなかった。


 ただの窓だと思っていた。


 千鶴さんの家の、明るい窓だと思っていた。


 何も知らなかった。


 その言葉が、喉の奥に置かれたまま動かなかった。


 千鶴さんの方を見る。


 千鶴さんは、テーブルの上に両手を置いていた。


 指先はきちんと揃っている。


 その手で、子どもの髪を結んだのだと聞いた。


 水をゆっくり飲む子を見ていたのだと聞いた。


 暗い部屋を怖がる子に、灯りをつけてもらうよう言ったのだと聞いた。


 最後に、小さな指を一つずつ外したのだと聞いた。


 その手が今、僕の前にあった。


 何か言わなければと思った。


 ずっと黙っているわけにはいかない。


 千鶴さんは、僕に話してくれた。


 僕が聞きたいと言ったから。


 帰りたくなるかもしれないと言われても、帰らないと言ったから。


 なのに、聞き終えた僕は何も言えなかった。


 言葉はいくつか浮かんだ。


 大変でしたね。


 違う。


 それは、軽すぎる。


 つらかったですね。


 違う。


 僕が言っていい重さではない。


 かわいそうです。


 違う。


 絶対に違う。


 僕は気にしません。


 違う。


 気にするかどうかを、僕が決める話じゃない。


 それでも好きです。


 それも、今は違った。


 好きですと言うことだけならできる。


 さっきも言った。


 その気持ちが嘘になったわけではない。


 むしろ、消えていないことが怖かった。


 こんな話を聞いたあとでも、僕は千鶴さんを好きだった。


 でも、今それを言えば、千鶴さんが話してくれたものの上に、僕の気持ちを置くだけになる気がした。


 僕がまだ好きでいることを、千鶴さんに受け止めさせることになる。


 それは違う。


 何もかも違った。


「夏樹くん」


 千鶴さんが僕を呼んだ。


 僕は返事をしようとした。


 声が出なかった。


 千鶴さんは、少しだけ目を伏せた。


「今日は、帰ってください」


 その言葉は、思っていたより静かだった。


 冷たくはなかった。


 怒ってもいなかった。


 でも、動かせない言葉だった。


「……あの」


 何か言おうとして、止まった。


 あの、の続きを僕は持っていなかった。


 千鶴さんは、僕の言葉を待った。


 昔からそうだった。


 僕が名前を言わないと言った時も。


 お菓子を食べるか迷った時も。


 炭酸の味をうまく言えなかった時も。


 告白した時も。


 千鶴さんは、急かさずに待つ。


 だから余計に、何も言えないことが分かった。


「すみません」


 僕が言うと、千鶴さんは首を横に振った。


「謝ることではありません」


「でも」


「今、何かを言わなくていいです」


 千鶴さんは、テーブルの上のカップを見ました。


「言えないでしょう」


 僕は答えられなかった。


 否定したかった。


 言えます、と言いたかった。


 でも、言えなかった。


 千鶴さんは、少しだけ笑った。


 困ったような笑い方だった。


 僕が十一歳の頃から知っている笑い方。


 でも、今はその笑い方を見るのが苦しかった。


 僕は、今までその笑い方をどう見ていたのだろう。


 優しいと思っていた。


 少し寂しそうだと思っていた。


 何かを諦めているみたいだと、子どもの頃から思っていた。


 それなのに、その「何か」を知ろうとはしていなかった。


 知りたいと言っていたのに。


 好きだと言っていたのに。


 僕は、千鶴さんの笑い方を、ただ好きな人の癖みたいに見ていた。


「今日は、これ以上は」


 千鶴さんは、少しだけ言葉を探した。


「私も、聞けません」


 僕はようやく、うなずいた。


「……はい」


 それしか出てこなかった。


 椅子を引く音が、庭に小さく響いた。


 立ち上がると、足にうまく力が入らなかった。


 ずっと座っていたからかもしれない。


 違うかもしれない。


 千鶴さんも立ち上がった。


 僕は、テーブルの上の炭酸を見た。


 開けていない瓶。


 桃の味だと聞いた。


 飲めば、たぶんおいしいのだと思う。


 千鶴さんは、僕が来ると思って買っておいてくれた。


 いつものように。


 でも、僕は飲めなかった。


「ごちそうさまでした」


 口から出た言葉は、あまりにも普通だった。


 千鶴さんは一瞬だけ、瓶を見ました。


 それから僕を見ました。


「はい」


 それだけ言った。


 持って帰るかとは聞かれなかった。


 飲んでいくかとも聞かれなかった。


 僕も、開けていいかとは言えなかった。


 瓶はテーブルの上に残った。


 僕たちは庭を横切って、門の方へ歩いた。


 庭の芝生は、夕方の光で少し暗くなっていた。


 前に僕が勝手に基地の範囲を決めた場所も、もうどこだったのか分からない。


 木の枝で線を引いた。


 石を並べた。


 ここからここまでが自分の場所だと決めた。


 何も知らない子どもだった。


 いや、子どもだったからではない。


 知ろうとしなかった。


 空き家だったから自分のものだと思った。


 千鶴さんが来てからも、自分の場所を取られたと思った。


 その家を千鶴さんがどうして選んだのかなんて、考えたこともなかった。


 門の近くまで来ると、生け垣の隙間が見えた。


 昔、僕が通っていた入口。


 大人なら通れない。


 子ども一人なら、服を少し引っかけながら抜けられるくらいの隙間。


 まだ残っていた。


 少し狭くなったようにも見えた。


 僕が大きくなっただけかもしれない。


「そこから入れるのね」


 初めて見つかった時、千鶴さんはそう言った。


 怒らなかった。


 追い出さなかった。


 秘密の入口、と聞いた。


 僕は違うと言った。


 違わなかった。


 たぶん、僕にとっては本当に秘密の入口だった。


 でも今は、そこから入ることを考えられなかった。


 もう僕は、勝手に入っていい子どもではない。


 許されれば入れる場所と。


 自分の場所は違う。


 門の前で、千鶴さんが止まりました。


「気をつけて帰ってください」


「はい」


 また来てもいいですか。


 そう聞きたかった。


 でも、その言葉も出てこなかった。


 今それを聞くのは、千鶴さんに次の答えを求めることになる。


 今日は帰ってくださいと言われたばかりなのに。


 それなのに、僕は門の外へ出る前に、どうしても振り返ってしまった。


 千鶴さんは、門の内側に立っていた。


 白い家を背にしている。


 夕方の光が、千鶴さんの横顔にかかっていた。


 きれいだと思った。


 思ってしまった。


 それが自分で嫌になった。


 こんな時でも、僕は千鶴さんをきれいだと思う。


 好きだと思う。


 その気持ちは、消えてくれない。


 でも、消えないから正しいわけではなかった。


「あの」


 僕はもう一度言った。


 千鶴さんがこちらを見た。


 何か言うなら、今しかなかった。


 でも、言葉はやっぱり出てこなかった。


 好きです。


 また来ます。


 聞かせてくれてありがとうございます。


 どれも違った。


 僕は、唇を閉じた。


「……帰ります」


 やっと言えたのは、それだけだった。


 千鶴さんは、静かにうなずいた。


「はい」


 門を出ました。


 閉まる音がしました。


 僕は道を歩き出しました。


 何度も来た道です。


 小学生の頃は、走って帰ったこともありました。


 中学生の頃は、わざとゆっくり歩いたこともありました。


 高校に入ってからは、帰り道で次に来る理由を考えた。


 忘れ物。


 新しい炭酸の感想。


 学校の話。


 何でもよかった。


 白い家へ行く理由なら、いくらでも作れた。


 でも今は、戻る理由も、進む理由も分からなかった。


 足だけが道を覚えていました。


 少し歩いたところで、振り返りました。


 白い家が見えました。


 大きな窓が夕方の光を受けています。


 あの窓のどこかから、ひまわりと橋が見える。


 僕は、それを今日初めて知った。


 知らなかった頃の僕は、あの家を見て、ただ千鶴さんの家だと思っていた。


 秘密基地だった場所。


 お菓子を食べる場所。


 炭酸を飲む場所。


 千鶴さんに会える場所。


 でも、その前に。


 そのずっと前に。


 千鶴さんが、二人の子どもを失ったあとで、それでも覚えたまま暮らすために選んだ場所だった。


 僕はその家に、何年も通っていた。


 何年も。


 何も知らずに。


 胸の奥が苦しくなりました。


 泣きそうなのとは違う。


 怒りとも違う。


 恥ずかしいのに近いかもしれない。


 自分が知らなかったことが恥ずかしい。


 でも、知らなかっただけで悪かったと言うのも、何かが違う。


 僕は子どもだった。


 でも、もう子どもではない。


 だったら、これからどうすればいいのか。


 分からなかった。


 好きですと言った。


 断られた。


 理由を聞いた。


 聞いたら、何も言えなくなった。


 それだけです。


 それだけなのに、帰り道は前よりずっと長く感じました。


 家の近くまで来た時、ようやく気づきました。


 喉が渇いていました。


 結局、炭酸を飲んでいません。


 僕は自販機の前で立ち止まりました。


 見慣れた缶ばかり並んでいました。


 桃味はありませんでした。


 千鶴さんが出してくれるような、知らないラベルの瓶もありません。


 僕は何も買わずに通り過ぎました。


 頭の中で、瓶のふたを開ける音を想像しました。


 しゅ、と小さく炭酸が抜ける音。


 いつもなら、その音のあとに千鶴さんが聞きます。


「それ、好き?」


 僕は、まあまあ、と答える。


 千鶴さんは、そっか、と笑う。


 何度も繰り返したやり取りでした。


 でも今日、僕は瓶を開けなかった。


 だから、その音は鳴らなかった。


 僕は、千鶴さんが好きだった。


 その気持ちは、まだ消えていませんでした。


 でも、今の僕がその気持ちをそのまま差し出しても、千鶴さんの前にある何かを少しも動かせない気がしました。


 好きです。


 その一言で踏み込める場所ではありませんでした。


 白い家の門の向こうには、僕の知らなかった時間がありました。


 ひまわりがあって。


 橋があって。


 開けていない炭酸があって。


 千鶴さんがいました。


 僕は何も言えないまま、門から離れました。


 坂道を下りても、テーブルの上に残してきた桃の炭酸の瓶だけが、ずっと目の奥に残っていました。


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