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少女漫画みたいな恋に、人間牧場を混ぜるな  作者: 白瀬余白


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32/40

第32話ひまわり


 指定された住居での朝は、いつも同じ音から始まりました。


 何の音もしない音です。


 目を覚ましても、隣に寝息はありません。


 誰かが布団を蹴っている音もありません。


 小さな手が袖をつかむ感触もありません。


 起きなければいけない時間は決まっていませんでした。


 職員が来る予定もありません。


 食事が部屋へ運ばれてくることもありません。


 それなのに、私はいつもセンターにいた頃と同じくらいの時間に目を覚ましました。


 起き上がって、まず部屋の中を見ます。


 寝具。


 机。


 棚。


 窓。


 どれも昨日と同じ場所にあります。


 昨日と同じまま、少しも乱れていません。


 私は寝具を整えました。


 誰にも確認されません。


 記録する端末もありません。


 整えなくても、誰かに注意されることはありません。


 それでも、整えました。


 次に台所へ行きます。


 水を出し、コップを一つ取ります。


 棚には、コップがいくつも並んでいました。


 どれも同じ形で、まだ新しいものでした。


 一つだけ取る。


 それだけのことに、毎朝少しだけ時間がかかりました。


 水を入れて、机へ持っていきます。


 机の真ん中に置きます。


 そのあと、無意識に少し端へ寄せました。


 倒しても、誰も濡れません。


 こぼしても、自分で拭けばいいだけです。


 それなのに、端へ寄せました。


 私はしばらくコップを見ていました。


 水面は揺れていませんでした。


 朝食は、自分で用意しました。


 といっても、簡単なものでした。


 パンを焼く。


 卵を温める。


 果物を切る。


 最初の数日は、量をよく間違えました。


 皿を一枚だけ出すつもりで、二枚取ってしまう。


 匙を一つだけ置けばいいのに、手がもう一本探す。


 果物を小さく切りすぎる。


 食べやすい大きさにしてから、自分しか食べないのだと気づく。


 小さく切られた果物が、皿の上で余りました。


 私はそれを一つずつ食べました。


 甘いかどうか、よく分かりませんでした。


 食事のあと、皿を洗います。


 水を止めると、家の中はすぐ静かになりました。


 洗濯をして、乾いたものを畳みます。


 自分の服は少ししかありません。


 畳み終わるまで、時間はかかりませんでした。


 掃除もすぐに終わります。


 汚す人がいないからです。


 片づけるものもありません。


 黄色い髪留めを探す必要もありません。


 積み木を踏まないように歩く必要もありません。


 絵本が開いたまま床に置かれていることもありません。


 午前中が終わる頃には、その日にすることのほとんどが終わっていました。


 時計を見ると、まだ昼前でした。


 私は椅子に座ります。


 座って、窓の外を見ます。


 庭には、低い木が何本か植えられていました。


 きれいに刈られていて、雑草もほとんどありません。


 手入れを頼めば、誰かが来てくれるのでしょう。


 何もしなくても、家は整っていきます。


 私はその庭を見ながら、自分の手を膝の上で重ねました。


 何もしていない手でした。


 抱くものがありません。


 拭くものがありません。


 結ぶ髪もありません。


 私は、何もしない時間の使い方を知りませんでした。


 数日に一度、実家へ行きました。


 最初は、母が何度も電話をくれました。


「今日、来られる?」


「無理しなくていいのよ」


「夕飯だけでも」


 私は、行ける日は行きました。


 行けない理由も、行く理由も、どちらもあまりありませんでした。


 ただ、母の声を聞くと、少しだけ家を出る理由ができました。


 駅に着くと、弟が待っていました。


 最初に迎えに来ると言った時、私は断りました。


「一人で行けるよ」


「知ってる」


「じゃあ」


「駅まで行けるから行く」


 弟はそう言いました。


 本当に来ました。


 改札の外で、少し背を伸ばすようにして立っていました。


 私を見つけると、手を上げました。


「姉ちゃん」


 その呼び方は昔と同じでした。


 でも、人混みの中から聞こえる声は、もう子どもの声ではありませんでした。


「こっち」


「待たせた?」


「別に。早く来すぎただけ」


 弟は歩き出しました。


 歩幅が大きくなっていました。


 私は一歩だけ遅れました。


 弟はそれに気づいて、少しだけ速度を落としました。


 何も言いませんでした。


 昔なら、私が弟の歩幅に合わせていたのだと思います。


 今は、弟が私に合わせています。


 そのことに気づくたび、時間が確かに進んでいたのだと分かりました。


「駅前、変わったでしょう」


 弟が言いました。


「うん」


「あそこ、前は本屋だった」


「本屋」


「姉ちゃん、よく寄ってた」


「そうだったね」


「今は薬局」


「そう」


 弟は、町の変わったところを一つずつ教えてくれました。


 新しい店。


 閉まった店。


 道が広くなった場所。


 信号が増えた角。


 私は相づちを打ちました。


 知っている町のはずなのに、弟に案内されていました。


 家に着くと、母が台所から顔を出しました。


「おかえり」


 その言葉は温かいものでした。


 私は少し遅れて答えました。


「ただいま」


 言ってから、胸の奥が少しだけ引っかかりました。


 ただいま。


 その言葉は、合っているようで、少しだけずれていました。


 母は私の分の箸を並べていました。


 父は居間に座っていました。


 湯飲みに手を添えたまま、新聞を読んでいるふりをしていました。


 私が座ると、父は新聞を畳みました。


「家の方は、困ってないか」


「うん」


「足りないものは」


「大丈夫」


「そうか」


 父はそれ以上、聞きませんでした。


 聞きたいことは、たぶん他にあったのだと思います。


 センターのこと。


 子どものこと。


 これからのこと。


 でも、父は湯飲みを少し回しただけでした。


 母は、食事を多めに作りました。


 いつも、少し多すぎました。


「残ったら持って帰りなさい」


「そんなに食べられないよ」


「明日も食べられるでしょう」


「うん」


 持って帰る容器を、母は食事の前から用意していました。


 弟はそれを見て、笑いました。


「母さん、毎回多い」


「足りないよりいいでしょう」


「姉ちゃん一人なのに」


 言ってから、弟は少し黙りました。


 私は気づかないふりをしました。


「一人でも食べるよ」


「うん」


 弟は箸を動かしました。


「じゃあ、姉ちゃん、これも持っていけば。俺、あんまり食べないし」


「食べなさい」


 母に言われて、弟は黙って食べました。


 そのやり取りは、昔と少し似ていました。


 私が学校から帰ってきて。


 弟が宿題をしていなくて。


 母が台所で怒って。


 父が新聞の向こうで笑っていた頃。


 似ているのに、同じではありません。


 弟の箸を持つ手は大きくなっていました。


 父の髪には白いものが増えていました。


 母は、私の皿が空く前に次を勧めるようになっていました。


 私は食べました。


 食べながら、食事量を記録しなくていいことを思い出しました。


 誰も記録しません。


 母だけが、


「ちゃんと食べてる?」


 と聞きます。


「食べてる」


「本当に?」


「本当」


 そう答えると、母は少し安心した顔をしました。


 帰る時、弟はまた駅まで送ると言いました。


「暗いし」


「一人で大丈夫」


「知ってる」


「じゃあ」


「駅まで行けるから行く」


 同じ言い方でした。


 私は断るのをやめました。


 駅までの道で、弟は学校の話をしました。


 友人の話。


 先生の話。


 試験の話。


 私の知らない名前がいくつも出てきました。


 弟の中には、私の知らない五年分の毎日がありました。


 私は聞きました。


 うなずきました。


 笑うところでは笑いました。


 けれど、少しずつ分かっていきました。


 私は、弟の日常に帰ってきたのではありません。


 途中から、客として聞いているだけでした。


 改札の前で、弟は立ち止まりました。


「次、いつ来る?」


「まだ決めてない」


「決まったら言って」


「うん」


「迎えに来るから」


「無理しなくていいよ」


「無理じゃない」


 弟は、少しだけ目を逸らしました。


「姉ちゃん、急に帰るって言うから」


「うん」


「駅にいる方が、なんか、ほんとに帰ってきた感じする」


 私は返事ができませんでした。


 弟も、少し困った顔をしました。


「変なこと言った」


「ううん」


「また」


「うん。また」


 改札を通って振り返ると、弟はまだ立っていました。


 手を振ると、弟も振り返しました。


 私は電車に乗りました。


 母が持たせてくれた容器が、膝の上にありました。


 指定された住居に戻る頃には、容器は少し冷めていました。


 台所で温め直して、一人で食べました。


 母の味でした。


 実家の味でした。


 でも、食べている机は指定された住居の机でした。


 向かい側には誰もいません。


 弟が余計なことを言う声もありません。


 母が台所からもう少し食べるかと聞く声もありません。


 父が新聞を畳む音もありません。


 私は箸を置きました。


 食事はまだ残っていました。


 明日も食べられるでしょう。


 母の言葉を思い出しました。


 明日。


 次の日も、その次の日も、私は同じ家で目を覚ましました。


 何も不足していない家。


 何も乱れない家。


 誰かに与えられた家。


 時間だけが、静かに余っていきました。


 ある日、雨が降りました。


 外へ出る理由がなくなり、私は朝から居間にいました。


 テレビをつけました。


 音があれば、少しは家の中が広すぎなくなる気がしたからです。


 画面の中では、知らない人たちが笑っていました。


 料理の話をしていました。


 夏の旅行先を紹介していました。


 海。


 山。


 温泉。


 祭り。


 画面が明るい色に変わっていきます。


 私は、内容をほとんど聞いていませんでした。


 雨の音と、テレビの音が混ざっていました。


 しばらくして、画面いっぱいに黄色い花が映りました。


 ひまわりでした。


 一面の花が、風に揺れています。


 私はリモコンを持ったまま、手を止めました。


 画面の端に、町の名前が出ていました。


 聞いたことのない場所でした。


 小さな駅。


 丘の上の畑。


 夏の名所。


 そういう言葉が流れていきます。


 私は画面を見ていました。


 ひまわりは、雨の音の中でも明るく見えました。


 結衣さんの髪留めの色でした。


 外へ行く日は、必ず付けたがった小さな黄色。


 自分で選んだ花。


 センターから支給されたものではない、自分のもの。


 テレビの中のひまわりは、同じ方向を向いていました。


 大きすぎるくらい明るくて、少し怖いほどでした。


 番組はすぐに次の場所へ移りました。


 海の店が映りました。


 誰かが笑いました。


 私はテレビを消しました。


 家の中はまた静かになりました。


 雨の音だけが残りました。


 それから、机の端に置かれていた地域案内の冊子を取りました。


 以前、住居と一緒に用意されていたものです。


 生活に必要な窓口や施設の案内ばかりだと思って、あまり見ていませんでした。


 後ろの方に、近隣の観光地を紹介するページがありました。


 テレビで見た町の名前を探しました。


 ありました。


 夏のひまわり畑。


 写真は小さなものでした。


 けれど、黄色だけははっきりしていました。


 最寄り駅。


 バスの時間。


 開花時期。


 見頃。


 私はそのページを開いたまま、しばらく座っていました。


 行ってどうするのかは分かりませんでした。


 誰かと行くわけではありません。


 ひまわりを見たところで、何かが変わるわけでもありません。


 それでも、ページを閉じることができませんでした。


 次の日も、そのページを開きました。


 晴れていました。


 窓から入る光が、机の上の冊子を照らしていました。


 ひまわりの写真は、昨日より少しだけ明るく見えました。


 私は台所で水を飲みました。


 コップを洗いました。


 寝室へ戻り、服を選びました。


 外へ行く服。


 誰かに会うためではなく。


 何かの手続きでもなく。


 ただ、出かけるための服です。


 鞄には、財布とハンカチだけを入れました。


 途中で、何か忘れている気がして、部屋の中を見回しました。


 持っていくべきものはありません。


 申請書もありません。


 識別証もありません。


 帰る時間を書いた紙もありません。


 私は玄関で靴を履きました。


 扉を開ける前に、少しだけ立ち止まりました。


 誰にも言わずに外へ出る。


 それだけのことが、まだ少し怖かった。


 私は鍵を持っていることを確認しました。


 そして、外へ出ました。


 駅で切符を買う時、少し手間取りました。


 行き先の名前を探すのに時間がかかりました。


 後ろに人が並んでいないか気になって、一度振り返りました。


 誰もいませんでした。


 改札を通る時も、足が少し遅くなりました。


 電車は、思っていたより空いていました。


 窓際に座ると、町の景色が少しずつ変わっていきました。


 大きな建物が減り、田んぼが増えました。


 遠くに山が見えました。


 駅をいくつも過ぎるうちに、乗っている人の数も少なくなりました。


 私は膝の上で鞄を押さえていました。


 誰も私を見ていません。


 どこへ行くのか聞く人もいません。


 戻る時間を確認する人もいません。


 自由なのだと思いました。


 その言葉は、まだ少し扱いにくいものでした。


 小さな駅で降りました。


 ホームには屋根が短く、日差しが足元まで来ていました。


 改札の横に、手書きの案内板がありました。


 ひまわり畑行き。


 矢印の先に、バス乗り場がありました。


 バスは古い車体で、窓が少し曇っていました。


 乗客は数人だけでした。


 観光に来たらしい人たちが、帽子を持って話していました。


 私は一人で席に座りました。


 バスが動き出すと、窓の外に畑が続きました。


 途中で、小さな川を渡りました。


 橋の上で、バスが少し揺れました。


 私は窓枠をつかみました。


 川は浅く、光を受けて細く光っていました。


 橋を渡り終えると、道は少し上りになりました。


 停留所の名前が告げられました。


 ひまわり畑前。


 私は降りました。


 バスが走り去ると、急に音が少なくなりました。


 蝉の声がしました。


 風がありました。


 土の匂いと、草の匂いが混ざっていました。


 道の向こうに、黄色が見えました。


 近づく前から、もう分かりました。


 ひまわり畑でした。


 私はゆっくり歩きました。


 一歩ごとに、黄色が増えていきます。


 畑の前に立つと、思っていたよりずっと広く見えました。


 花は同じ方向を向いていました。


 背の高いものも。


 少し傾いたものも。


 まだ開ききっていないものも。


 全部、夏の光を受けていました。


 花びらは、結衣さんの髪留めよりずっと大きくて、ずっと強い色でした。


 私は日傘を持っていませんでした。


 額に汗がにじみました。


 首の後ろが熱くなりました。


 それでも、すぐには日陰へ入りませんでした。


 眩しくて、目が痛くなるくらいでした。


 でも、見ていたかった。


「はな」


 声が聞こえた気がしました。


 もちろん、結衣さんはいません。


 ここにはいません。


 私は、呼びかけそうになった口を閉じました。


 隣に誰もいないことを、確認しなくても分かっていました。


 でも、手は少しだけ空いている場所を探しました。


 小さな手を握っていない手。


 私はその手を、鞄の紐へ戻しました。


 畑の横には、細い道が続いていました。


 観光に来た人たちは、入口の近くで写真を撮っていました。


 子どもが花の高さを比べています。


 誰かが、こっちを向いて、と言いました。


 笑い声がしました。


 私はその声から少し離れるように、道を歩きました。


 花の間から、遠くの川が見えました。


 さっきバスで渡った川かもしれません。


 そこに、小さな橋がかかっていました。


 車が一台、ゆっくり渡っていきました。


 私は足を止めました。


 橋は、特別なものではありませんでした。


 欄干の低い、古い橋です。


 歩いて渡る人も、自転車も通るような、普通の橋。


 それでも、私はしばらく見ていました。


 ここ、ゆっくり。


 滑るから。


 急いだら落ちる。


 でも、渡れる。


 悠人さんの声が、静かに戻ってきました。


 積み木で作った橋。


 紙に描いた橋。


 センターでも作ると言った橋。


 見ます、と言えなかった橋。


 私は橋を見ていました。


 車が渡り終え、道の向こうへ消えました。


 橋には誰もいなくなりました。


 それでも、橋はそこにありました。


 渡る人がいない間も、ずっとそこにありました。


 私は、少しだけ息を吸いました。


 吸った息が、胸の奥まで入りました。


 それは久しぶりの感覚でした。


 ひまわり畑の端まで歩くと、小さな休憩所がありました。


 木の屋根の下に、ベンチが置かれています。


 観光案内の紙が何枚か貼られていました。


 地元の店。


 祭り。


 移住相談。


 空き家活用。


 私はその文字を、最初はただ眺めました。


 空き家。


 その言葉に、少し遅れて目が戻りました。


 貼り紙には、町に残る空き家を活用したい人向けの相談窓口が書かれていました。


 古い民家。


 畑つきの家。


 改修が必要な家。


 その中に、小さな写真がありました。


 丘の上に建つ白い家。


 大きな窓。


 庭。


 私は写真を見ました。


 白い家でした。


 でも、指定された住居のような白さではありませんでした。


 整えられた、冷たい白ではありません。


 日に焼けて、雨に濡れて、少し古くなった白でした。


 問い合わせ先の下に、案内所の場所が書いてありました。


 休憩所から少し歩いたところでした。


 私は貼り紙の前で立っていました。


 ひまわりを見に来ただけです。


 家を探しに来たわけではありません。


 住む場所なら、もうあります。


 指定された住居があります。


 鍵もあります。


 住所もあります。


 暮らすのに困ることはありません。


 それでも、私は貼り紙から目を離せませんでした。


 案内所へ行くと、年配の女性が受付にいました。


「ひまわり、見に来られたんですか」


「はい」


「今日はよく咲いてますよ」


「きれいでした」


「暑かったでしょう。お水、ありますよ」


「ありがとうございます」


 紙コップに水をもらいました。


 冷たい水でした。


 私は両手で持って、少しずつ飲みました。


 ゆっくり飲めば、大丈夫です。


 また同じ言葉が浮かびました。


 私は紙コップを置きました。


「あの」


「はい」


「空き家の案内を見たんですが」


 受付の女性は、少しだけ目を丸くしました。


「ああ、丘の上の家ですか」


「白い家の写真の」


「そうです。あそこは大きいですからね。見るだけならできますよ」


「今日ですか」


「鍵を預かっている者が近くにいますから、呼べば来ます。遠くから来られたんでしょう?」


「はい」


「せっかくなら、見ていかれますか」


 私はすぐには答えませんでした。


 見たら、何が変わるのでしょう。


 何も変わらないかもしれません。


 ただの古い家かもしれません。


 大きすぎて、住みにくい家かもしれません。


 修理が必要で、現実的ではないかもしれません。


 それでも、見ずに帰ったら、きっと何度も思い出す気がしました。


「お願いします」


 私は言いました。


 鍵を持った男性が来るまで、案内所の外で待ちました。


 日陰に立っていると、ひまわり畑の向こうに橋が見えました。


 橋のさらに向こう、少し高い場所に白い家の屋根が見えました。


 私はそれを見ていました。


 鍵を持った男性は、軽トラックで来ました。


「見学の方?」


「はい」


「暑い中、大変ですね。歩きますか? 乗っていきます?」


「歩けます」


「じゃあ、ゆっくり行きましょう」


 男性は、細い道を案内してくれました。


 ひまわり畑から少し離れると、人の声が遠くなりました。


 蝉の声が近くなりました。


 道の端には、背の低い草が生えていました。


 坂は急ではありません。


 でも、日差しの中を歩くと少し息が上がりました。


 男性は時々振り返りました。


「無理しないでくださいね」


「大丈夫です」


 言ってから、自分で少しだけ苦笑しました。


 大丈夫。


 私はまた、その言葉を使っていました。


 坂の途中で、橋がよく見える場所がありました。


 私は足を止めました。


 男性も立ち止まりました。


「あの橋、古いんですけどね。まだ使われてます」


「車も通るんですね」


「細いから、みんなゆっくりです」


「ゆっくり」


「急ぐと危ないですから」


 男性は何気なく言いました。


 私は、もう一度橋を見ました。


 ゆっくりなら、渡れる。


 そう思いました。


 丘の上の白い家は、近くで見ると写真より大きく見えました。


 門は古く、少し錆びていました。


 庭の草は伸びています。


 でも、荒れ放題ではありませんでした。


 誰かが時々、最低限の手入れをしているのでしょう。


 玄関までの石の道は、ところどころ草に隠れていました。


 庭の隅には、丸い石のテーブルがありました。


 椅子が二脚。


 一つは立っていて、一つは横に倒れていました。


 男性が門を開けました。


 小さく軋む音がしました。


「しばらく人は住んでいません」


「そうですか」


「大きい家なので、管理も大変で。前の方が亡くなってから、ずっと空いているんです」


 私は庭へ入りました。


 足元で、乾いた草が音を立てました。


 石のテーブルの上には、薄く埃が乗っていました。


 手で払えば、まだ使えそうでした。


 そこに皿を置くところを想像しました。


 白い皿。


 紅茶のカップ。


 焼き菓子。


 誰かのために買っておく飲み物。


 まだ知らない誰か。


 そう思って、自分で少し驚きました。


 この家に、誰かが来ることを想像していました。


 指定された住居では、一度もできなかったことでした。


 玄関の扉は重く、開く時に低い音がしました。


 中は少し埃っぽい匂いがしました。


 でも、嫌な匂いではありませんでした。


 古い木と、閉じていた部屋の匂い。


 男性が窓を開けると、風が入りました。


 埃が光の中で細かく舞いました。


 居間は広い部屋でした。


 大きな窓が庭に向かって開いています。


 床は少しきしみました。


 壁は白く、ところどころに小さな傷がありました。


 完璧ではありません。


 そのことに、私は少し安心しました。


 指定された住居には、傷がありませんでした。


 すべて最初から整っていました。


 この家には、誰かが暮らした跡がありました。


 置き忘れられたような古い棚。


 窓際の色の薄くなった床。


 柱に残る小さなへこみ。


 何の跡なのかは分かりません。


 でも、ここで誰かが暮らしていたのだと分かりました。


「水回りは手を入れた方がいいです」


 男性が言いました。


「屋根は大きな問題はないと聞いていますが、住むなら一度きちんと見てもらった方がいいですね」


「はい」


「冬は寒いですよ。このあたり、朝晩冷えますから」


「はい」


「町からは少し離れています。車があった方が便利です」


「はい」


 私はうなずきました。


 聞いているつもりでした。


 でも、風の音の方を強く聞いていました。


 二階へ上がる階段は、少し急でした。


 一段ずつ足を置くたびに、木が小さく鳴りました。


「気をつけてください」


「はい」


 二階には部屋がいくつかありました。


 どの部屋も空でした。


 何も置かれていない部屋。


 でも、何もないのに、冷たくはありませんでした。


 最後に入った部屋は、窓が大きく開けられる部屋でした。


 男性が窓を開けると、風が入ってきました。


 カーテンはありません。


 そのまま外の景色が見えました。


 ひまわり畑。


 黄色い花が、丘の下で揺れていました。


 その向こうに、小さな橋が見えました。


 川の上にかかった、細い橋。


 さっきより少し遠く、けれどよく見えました。


 私は窓の前に立ちました。


 風が髪を揺らしました。


 遠くで、ひまわり畑にいる人たちの声が小さく聞こえました。


 車が一台、橋の手前で速度を落としました。


 ゆっくり橋へ入り、ゆっくり渡っていきます。


 落ちませんでした。


 当たり前です。


 橋なのだから。


 でも私は、その車が渡り終えるまで見ていました。


 渡れる。


 その言葉が、胸の奥に残りました。


「ここは、前の方が書斎にしていたみたいです」


 男性が言いました。


「窓が大きいから、夏は暑いですけど、景色はいいでしょう」


「はい」


「ひまわりの時期は特にね」


 私は返事をしませんでした。


 できませんでした。


 結衣さんに、この花を見せたかった。


 悠人さんに、この橋を見せたかった。


 そう思いました。


 思ってしまいました。


 もう見せられないのに。


 でも、その思いは、指定された住居で感じたものとは違いました。


 あそこでは、思い出すたびに空白が広がりました。


 ここでは、思い出しても、風が入りました。


 痛いのに、息ができました。


 私は窓枠に手を置きました。


 古い木でした。


 少しざらついていました。


 完璧に磨かれたものではありません。


 触れると、手のひらに小さな感触が残りました。


 ここなら。


 そう思いました。


 ここなら、二人のことを家の外へ追い出さずにいられる。


 忘れるためではなく。


 思い出に閉じこもるためでもなく。


 朝、窓を開けたらひまわりが見える。


 雨の日も、橋がそこにある。


 誰かが渡る日も。


 誰も渡らない日も。


 私はそれを見ながら暮らせる。


 暮らす、という言葉が、初めて少しだけ形を持ちました。


「どうされますか」


 男性が聞きました。


「もちろん、すぐに決めることではありません。修繕も必要ですし、手続きもありますから」


「はい」


 私は窓の外を見たまま答えました。


「一度、戻って考えていただいても」


「ここがいいです」


 言ってから、自分でも驚きました。


 声が、思っていたよりはっきり出ました。


 男性が少し黙りました。


「本当に?」


「はい」


「大きい家ですよ」


「はい」


「一人で住むには、広すぎるかもしれません」


「広い方がいいです」


 なぜそう答えたのか、分かりませんでした。


 でも、本当でした。


 広すぎる家。


 静かすぎる家。


 そう思うはずなのに、この家の広さは、指定された住居とは違っていました。


 何もない広さではありません。


 いつか何かを置ける広さでした。


 誰かを待つためではなく。


 誰かに用意されたからでもなく。


 私が、ここを選ぶための広さでした。


「ひまわりが見えるので」


 私は言いました。


 男性は窓の外を見ました。


「そうですね」


「橋も」


「橋?」


「あの橋です」


「ああ」


 男性は少し笑いました。


「あれは、ただの古い橋ですけど」


「はい」


「でも、ここからはよく見えますね」


「はい」


 私はもう一度、橋を見ました。


 古い橋。


 ただの橋。


 それでよかった。


 特別な橋ではなくていい。


 毎日そこにあって、誰かがゆっくり渡っていく橋でいい。


「ここにします」


 私は言いました。


 今度は、窓の外ではなく、男性の方を見て言いました。


「この家に住みたいです」


 男性は少し困ったように笑いました。


「では、案内所へ戻って、詳しい話をしましょう」


「はい」


 階段を下りる時、足元の木がまた小さく鳴りました。


 玄関を出ると、庭の空気が少し涼しくなっていました。


 さっき倒れていた椅子を、男性が起こしました。


「これは、あとで片付けますね」


「そのままで大丈夫です」


「え?」


「いえ」


 私は少しだけ笑いました。


「後で、自分で見ます」


 自分で。


 その言葉が、口の中で少し不思議でした。


 門を出る前に、私は振り返りました。


 白い壁。


 大きな窓。


 庭の石のテーブル。


 二階の部屋。


 ひまわりと橋が見える家。


 指定された住居ではありません。


 実家の自室でもありません。


 センターでも、直哉の部屋でもありません。


 私は、誰かにそこへ置かれたのではありませんでした。


 自分で歩いてきて、自分で見つけて、自分で選びました。


 丘の下では、ひまわりが風に揺れていました。


 その向こうで、橋が夕方の光を受けていました。


 私はもう一度、その家を見上げました。


 ここで暮らそう。


 そう思いました。


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