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少女漫画みたいな恋に、人間牧場を混ぜるな  作者: 白瀬余白


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31/40

第31話家


 車は、知らない道を走っていました。


 窓の外には、センターの白い壁ではなく、家並みが流れていました。


 店の前を歩く人。


 信号で止まる車。


 制服を着た学生。


 買い物袋を持つ人。


 どれも、センターの外にある普通の景色でした。


 私はそれを見ていました。


 見ているだけでした。


 職員は前の席で、私に何かを説明していました。


 新しい住居の場所。


 登録された住所。


 今後の連絡窓口。


 生活に必要な手続き。


 どれも、たぶん大事なことでした。


 私は返事をしました。


「はい」


「分かりました」


「ありがとうございます」


 言葉は出ました。


 けれど、意味は遅れていました。


 窓の外に、小さな公園が見えました。


 ブランコがありました。


 誰も乗っていませんでした。


 私はそれを目で追いました。


 車は止まりませんでした。


 公園はすぐに後ろへ流れていきました。


 門の前で、車が止まりました。


 白い家でした。


 塀も、壁も、門も、きれいに整えられていました。


 庭には低い木が植えられていて、玄関までの石畳もまっすぐでした。


 大きすぎる家だと思いました。


 一人で入るには、静かすぎる家だとも思いました。


「こちらが、本日より日向様の住居となります」


 職員が言いました。


「住居」


「はい」


 門が開きました。


 玄関の前まで案内され、鍵を渡されました。


 金属の小さな鍵です。


 それを受け取っても、何かが変わった感じはしませんでした。


 職員が扉を開けます。


 中は明るく、きれいでした。


 靴箱。


 廊下。


 居間。


 台所。


 寝室。


 使っていない部屋がいくつか。


 家具はもう置かれていました。


 食器も、寝具も、最低限の服も、すべて用意されていました。


「不足がありましたら、こちらの窓口へご連絡ください」


「はい」


「初回確認は一週間後となります」


「はい」


「生活に不安がある場合は、随時相談が可能です」


「はい」


 私は返事をしました。


 職員は、丁寧でした。


 最後まで丁寧でした。


 玄関で頭を下げられた時も、私は同じように頭を下げました。


「本日は、ゆっくりお休みください」


「ありがとうございます」


 扉が閉まりました。


 車の音が遠ざかっていきます。


 白い家の中に、私だけが残りました。


 玄関には、私の靴が一足だけありました。


 一足だけ。


 それを見て、ようやく少し変だと思いました。


 靴は一足で足りるはずです。


 ここで暮らすのは私だけです。


 でも、玄関は広すぎました。


 四人分の靴が並んでいた場所を、私は思い出しました。


 直哉の靴。


 私の靴。


 悠人さんの靴。


 結衣さんの小さな靴。


 結衣さんは左右を間違えずに履きました。


 ここには、間違える靴がありませんでした。


 私は居間へ入りました。


 大きな机がありました。


 椅子は二脚置かれていました。


 必要なら増やせるのだと思います。


 でも、今は二脚でした。


 私は一つの椅子に座りました。


 机の上には何もありません。


 水の跡もありません。


 布巾もありません。


 コップを倒さないように真ん中へ寄せる手もありません。


 私は台所へ行きました。


 棚を開けると、皿が並んでいました。


 白い皿。


 深い器。


 コップ。


 全部、きれいでした。


 どれも使われていませんでした。


 私はコップを一つ取りました。


 水を入れました。


 それから、ゆっくり飲みました。


 ゆっくり飲めば、大丈夫です。


 そう言ったのは、いつだったでしょう。


 昨日です。


 昨日の朝です。


 それとも、もっと前だったでしょうか。


 結衣さんは両手でコップを持っていました。


 水をこぼさないように、慎重に。


 こぼしても大丈夫だと、私は言いました。


 拭いてもらってください、とも言いました。


 拭きますとは言えませんでした。


 コップを置いた時、手が震えていることに気づきました。


 私は椅子に戻りました。


 座って、何もない机を見ました。


 家はありました。


 鍵もありました。


 資産も、住所も、窓口も、生活に必要なものもありました。


 私はセンターの管理対象ではなくなりました。


 私は自由になったのだと、説明されました。


 でも、自由という言葉の中に、悠人さんと結衣さんはいませんでした。


 私は、業務を終えたのだと思っていました。


 職員もそう言いました。


 業務満了。


 満了者。


 登録区分の変更。


 外での生活。


 きれいな言葉でした。


 でも、ここに座っていると、少しずつ違うことが分かってきました。


 私は、業務を終えたのではありませんでした。


 朝を失いました。


 結衣さんの水を見ている時間を失いました。


 悠人さんが橋を作るのを見る時間を失いました。


 灯りを少し明るくする時間を失いました。


 靴を急がなくていいと言う時間を失いました。


 泣いてもいいと言う時間を失いました。


 それは、業務ではありませんでした。


 私は、担当者だったはずです。


 センターでは、そう呼ばれていました。


 育児担当者。


 業務担当者。


 日向千鶴。


 でも、私が失ったものは、担当者の仕事ではありませんでした。


 私は、二人の母親でした。


 そのことが、遅れて分かりました。


 分かった瞬間、息ができなくなりました。


 声は出ませんでした。


 泣くことも、すぐにはできませんでした。


 ただ、体の中のどこかが、静かに崩れていくようでした。


 私は机に手を置きました。


 何もない机です。


 水の跡も、絵本も、積み木も、丸いタオルもありません。


 何もありません。


 それなのに、そこに全部あった気がしました。


 結衣さんの笑い声。


 悠人さんの小さな返事。


 ブランコのきしむ音。


 三人で笑った夕暮れ。


 全部、ここにはありませんでした。


 私はどれくらい座っていたのか分かりません。


 窓の外の光が少しだけ傾いていました。


 時間は進んでいました。


 私だけが、朝の面会室の前に残っているようでした。


 それでも、動かなければと思いました。


 このままここにいると、何もない家に飲み込まれてしまいそうでした。


 私は立ち上がりました。


 顔を洗いました。


 用意されていた服に着替えました。


 鏡の中にいる私は、知らない服を着ていました。


 センターの服ではありません。


 直哉の部屋で着ていた服でもありません。


 新しく用意された、外で暮らすための服です。


 似合っているのかどうかも分かりませんでした。


 家族に会いに行こう。


 そう思いました。


 思ったというより、それしか思いつきませんでした。


 私には、家族がいました。


 父がいて、母がいて、私がいた家がありました。


 センターに入る前まで、そこに住んでいました。


 そこへ行けば、少しは息ができるかもしれない。


 そう思いました。


 連絡を入れると、母はしばらく黙りました。


 それから、何度も同じことを聞きました。


「本当に、来られるの?」


「はい」


「今から?」


「うん」


 途中から、私は少しだけ昔の言い方に戻っていました。


 母もそれに気づいたのかもしれません。


 電話の向こうで、息を吸う音がしました。


「待ってる」


 母は言いました。


 実家までの道は、知っている道のはずでした。


 でも、車の窓から見える町は、少しずつ変わっていました。


 新しい店がありました。


 なくなった店もありました。


 塀の色が変わった家もありました。


 でも、角を曲がる場所や、坂のゆるさや、近くの電柱は覚えていました。


 家の前で車を降りると、玄関が開きました。


 母が立っていました。


 父も、その後ろにいました。


 二人とも、少し年を取っていました。


 それを見た瞬間、胸の奥が痛みました。


 当たり前のことです。


 時間は経っています。


 私だけが止まっていたわけではありません。


「千鶴」


 母が言いました。


 その声を聞いて、私は少しだけ泣きそうになりました。


「ただいま」


 口から出た言葉は、とても小さかった。


 母は私に近づいて、少しためらってから、抱きしめました。


 私はその腕の中に入りました。


 母のにおいがしました。


 懐かしいにおいでした。


 でも、そこに入った瞬間、私は思ってしまいました。


 結衣さんは、今どうしているだろう。


 悠人さんは、結衣さんのそばにいるだろうか。


 私は母に抱きしめられながら、別の子どもたちのことを考えていました。


「よく帰ってきた」


 父が言いました。


 父の声も、少し低くなっていました。


「うん」


 私はうなずきました。


 家の中は、覚えているままでした。


 廊下の幅。


 台所から聞こえる音。


 居間の机。


 窓際の鉢植え。


 変わっているところもありました。


 でも、変わっていないところの方が、かえって目立ちました。


 母はお茶を出しました。


 父は、何から聞けばいいか分からない顔をしていました。


 私は椅子に座りました。


 昔、毎日座っていた椅子です。


 でも、座り心地が少し違いました。


 椅子が変わったのではありません。


 私が変わったのだと思いました。


「疲れたでしょう」


 母が言いました。


「うん」


「ちゃんと食べてる?」


「食べてる」


「今日は、泊まっていくの?」


 自然な言い方でした。


 普通の家族の声でした。


 その普通さに、私は少し救われました。


 同時に、少し苦しくなりました。


「少し、部屋を見てもいい?」


 私は聞きました。


「もちろん」


 母はすぐにうなずきました。


「掃除はしてるから」


「うん」


 階段を上がる足音が、昔より大きく聞こえました。


 自分の部屋の前で、私は少しだけ立ち止まりました。


 扉の取っ手に手をかけます。


 開けると、部屋は静かでした。


 自室は、掃除されていました。


 机の上に埃はありません。


 本棚の角も、窓の桟も、きれいに拭かれていました。


 床も整えられていました。


 でも、置かれているものは、ほとんど変わっていませんでした。


 机の横の鞄。


 本棚の教科書。


 途中まで使っていたノート。


 窓際の小さな置物。


 全部、そこにありました。


 センターに呼ばれた日の朝から、少しも動いていないように見えました。


 私は机に近づきました。


 ノートを開きかけて、やめました。


 そこには、たぶん授業の字が残っています。


 あの日の私の字です。


 それを読むのが怖くなりました。


 私はクローゼットの前に立ちました。


 扉を開けました。


 学校の制服が、ハンガーに掛かっていました。


 きれいに整えられていました。


 白いブラウス。


 スカート。


 上着。


 リボン。


 あの日まで、私のものだった服です。


 あの日の朝も、たぶん着るはずだった服です。


 もう一度袖を通すことのなかった服です。


 私はその前で動けなくなりました。


 時間が経ったのか、あの日の続きなのか、分からなくなりました。


 玄関の前でセンターの職員を見た日。


 学校へ行くはずだった朝。


 直哉に、またねと言った時間。


 全部が、制服の前に戻ってきました。


 制服は、私を待っていたように見えました。


 でも、待っていたのは今の私ではありませんでした。


 あの日の私です。


 センターに入る前の私。


 子どもを産むことも、育てることも、別れることも知らなかった私。


 私は手を伸ばしました。


 制服の袖に触れました。


 布は少し硬く、きれいに保管されていました。


 母が、時々風を通してくれていたのかもしれません。


 捨てずにいてくれたのだと思いました。


 それは、ありがたいことでした。


 ありがたいのに、胸が苦しくなりました。


 私はもう、この制服を着ていた私ではありませんでした。


 悠人さんと結衣さんの朝を知っています。


 水をゆっくり飲む結衣さんを知っています。


 橋を作る悠人さんを知っています。


 暗い部屋を怖がることを知っています。


 ブランコで笑う声を知っています。


 結衣さんの小さな手が、最後まで私の袖をつかんでいたことを知っています。


 悠人さんが、答えになっていない答えを聞いて、顔を少し変えたことを知っています。


 私は、知ってしまいました。


 だから、戻れません。


 あの日の朝には戻れません。


 この部屋は、私の部屋でした。


 家族は、私のために残してくれていました。


 掃除して、整えて、捨てずに置いてくれていました。


 でも、ここに残っていたのは、あの日の私の場所でした。


 今の私の場所ではありませんでした。


 私はクローゼットを閉めました。


 ゆっくり閉めました。


 制服が見えなくなるまで。


 扉が閉まる音は、とても小さかった。


 下へ戻ると、母がお茶を入れ直していました。


 父は窓の外を見ていました。


 私に聞きたいことは、たくさんあるのだと思います。


 でも、二人とも何も急ぎませんでした。


 その優しさが、ありがたくて、苦しかった。


「今日は、泊まっていくの?」


 母がもう一度聞きました。


 私は少し黙りました。


 泊まっていけばいいのだと思います。


 ここは私の家でした。


 母がいて、父がいて、自分の部屋も残っています。


 夕飯を食べて、昔の布団で眠ればいい。


 そうすれば、少しだけ戻れるのかもしれません。


 でも、私はあの部屋で眠れないと思いました。


 クローゼットの中にある制服の隣で、眠ることはできません。


 あの日の私に見られながら、今の私が眠ることはできません。


「……今日は、帰るね」


 私が言うと、母は少しだけ目を伏せました。


「そう」


「うん」


「無理しないでね」


「うん」


 父が言いました。


「また来ればいい」


「うん」


「いつでも」


「ありがとう」


 いつでも。


 その言葉は温かいものでした。


 でも、私には少し遠く聞こえました。


 いつでも来られる場所と、帰れる場所は、同じではありませんでした。


 玄関まで送ってくれた母は、私の手を少し握りました。


「千鶴」


「うん」


「ちゃんと食べてね」


 私はうなずきました。


「うん」


 その言葉を、私は今日、自分も誰かに言いました。


 ご飯は、ゆっくり食べてください。


 水は、ゆっくり飲めば大丈夫です。


 灯りは、つけてもらってください。


 母の手を握り返しながら、私は自分が同じことをしていたのだと気づきました。


 私は、娘として心配されていました。


 同時に、私は誰かを心配する側でもありました。


 その二つは、同じ体の中にありました。


 それが苦しくて、少しだけ支えにもなりました。


「また来る」


 私は言いました。


「うん。待ってる」


 母はそう言いました。


 私は実家を出ました。


 振り返ると、玄関の明かりがついていました。


 あの家は、私を拒んでいませんでした。


 家族も、私を拒んでいませんでした。


 それでも、私はそこへ戻ったわけではありませんでした。


 車は、また白い家へ戻りました。


 門を開け、玄関の鍵を差し込みます。


 鍵は、問題なく回りました。


 ここは、私の家として用意された場所です。


 私の名前で登録された住居です。


 鍵も、住所も、生活も、ここにあります。


 扉を開けました。


 中は暗く、静かでした。


「ただいま」


 言いかけて、声が止まりました。


 誰もいません。


 返事をする人はいません。


 靴箱の前には、私の靴を置く場所だけがあります。


 私は靴を脱ぎました。


 一足分の音が、玄関に小さく響きました。


 居間へ行くと、机は朝と同じように空でした。


 コップも、布巾も、絵本もありません。


 窓の外はもう暗くなっていました。


 私は灯りをつけました。


 部屋は明るくなりました。


 明るくしても、誰も安心しませんでした。


 暗いと言う子はいません。


 こわいと笑う子もいません。


 私は椅子に座りました。


 新しい家。


 帰ってきたはずの実家。


 どちらにも、私はいました。


 でも、どちらにも、まだ私の場所はありませんでした。


 それでも、今日からここで暮らさなければなりません。


 私は満了者として、外で生きる人間になりました。


 母親だったことを抱えたまま。


 母親ではいられなくなった体で。


 私は、新しい部屋の中で一人、夜を迎えました。


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