第30話朝
翌朝、私は一人で呼び出されました。
昨夜は、センターへ戻ってから、悠人さんと結衣さんとは別の部屋で眠りました。
手続きがあるから、と説明されました。
結衣さんは少し不安そうにしていましたが、私が「明日は、また会えますよ」と言うと、丸いタオルを抱えたままうなずきました。
悠人さんは、何も言いませんでした。
ただ、私を見ていました。
その目が、夜の白い廊下に残っていました。
朝になれば会える。
そう思っていました。
だから、職員に呼ばれた時も、私はすぐに終わる確認だと思っていました。
育児担当者用の小さな面談室ではなく、案内されたのは別棟の応接室でした。
壁は白く、机は広く、椅子はやわらかいものでした。
センターの中に、こんな部屋があったことを私は知りませんでした。
職員は、扉の前で私に頭を下げました。
「日向千鶴様。こちらへどうぞ」
その呼び方に、私は少しだけ足を止めました。
昨日までと同じ建物です。
同じ制服の職員です。
けれど、声の向けられ方だけが違っていました。
私が椅子に座ると、向かいに二人の職員が座りました。
一人は記録用の端末を置き、もう一人は薄い書類の束を机の上にそろえました。
「本日は、日向様の業務満了に関するご説明を行います」
職員は、丁寧にそう言いました。
私は言葉の意味をすぐには受け取れませんでした。
「業務、満了」
「はい」
職員はうなずきました。
「日向千鶴様につきましては、本日付で国立次世代育成センターにおける全業務を満了と認定いたします」
全業務。
満了。
認定。
言葉はきれいに並んでいました。
きれいに並びすぎていて、どこから聞けばいいのか分かりませんでした。
「私は」
私は声を出しました。
「今日から、悠人さんと結衣さんのところへ戻るのではないのですか」
職員は、表情を変えませんでした。
「児童二名につきましては、引き続きセンターにて養育管理を行います」
「引き続き」
「はい」
「私は、育児担当者では」
「日向様の育児業務は、満了となります」
丁寧な声でした。
それ以上でも、それ以下でもありませんでした。
私は机の上の書類を見ました。
白い紙。
黒い文字。
どこにも、昨日の公園はありません。
結衣さんの笑い声も、悠人さんがブランコを押す手も、ありません。
ただ、私の名前と、満了という言葉がありました。
「これまでの日向様の業務態度は、極めて模範的であったと記録されています」
職員は説明を続けました。
「出産業務、育児業務、児童二名への日常的対応、健康管理補助、情緒安定への寄与。いずれも良好です」
私は黙って聞いていました。
「また、今回の返還につきましては、久世家側の都合によるものと処理されています」
返還。
その言葉は、昨日直哉の口から聞いた時よりも、さらに軽く聞こえました。
「日向様および児童二名に瑕疵は認められません」
「はい」
「加えて、久世家より、日向様への不利益処理を望まない旨の申し出がありました」
直哉の顔が浮かびました。
昨日の公園の入口で、何かを言いかけて、やめた顔。
遊んでおいで、と言った声。
あのあと、直哉は職員と話していました。
私は見ていません。
見ないようにしていました。
その場所で、こういう話がされていたのかもしれません。
「当該申し出、および日向様のこれまでの業務実績を総合し、満了予定の繰り上げが承認されました」
「繰り上げ」
「はい。本来の満了予定より早い認定となりますが、日向様の業務内容に問題はなく、満了者としての登録に支障はないと判断されています」
私は、その説明を聞いていました。
本来なら、まだ続くはずだったもの。
私が二人のそばにいるはずだった時間。
それが、良好な業務実績として認められ、前倒しで終わる。
職員はそれを、整った言葉で説明しました。
「私は、もう」
言葉が続きませんでした。
職員は、私が言葉を探すのを待っていました。
待つ姿勢まで丁寧でした。
その丁寧さが、かえって遠く感じられました。
「センターでの業務に戻ることはない、ということですか」
「その通りです」
職員は言いました。
「日向様は、本日付で満了者として登録区分が変更されます」
「登録区分」
「はい。一代限りではありますが、今後は特権階級に準じた扱いとなります」
職員は書類を一枚めくりました。
「住居、基礎資産、生活補助、医療、教育、移動、各種施設利用資格について、順次説明をいたします」
別の職員が端末を操作しました。
机の上に、私の名前が表示されました。
日向千鶴。
その横に、新しい区分名がついていました。
私はそれを見ていました。
自分の名前なのに、知らない誰かの名前のようでした。
「住居につきましては、指定地区内の戸建てが用意されます」
「戸建て」
「はい。詳細な住所は退所時にお渡しいたします」
職員は滑らかに説明を続けます。
「基礎資産については、登録口座に一括付与されます。以後の生活維持に必要な補助も、一定期間支給されます。納税区分、移動許可、購入制限の解除、医療利用枠については、こちらの資料にまとめております」
紙が一枚、私の前に置かれました。
数字が並んでいました。
単位がついていました。
私はそれを見ました。
多いのか少ないのかも、すぐには分かりませんでした。
これで、私は生きていけるのだと思いました。
センターの外で。
一人で。
「日向様は、今後、センターの管理対象ではなくなります」
職員は言いました。
「ただし、一定期間は生活状況の確認があります。不明点がある場合は、専用窓口をご利用ください」
「はい」
返事はできました。
できたのに、意味は少しも追いついていませんでした。
「何かご質問はありますか」
私はすぐに言いました。
「悠人さんと結衣さんには、会えますか」
職員は、端末を見ました。
それから、隣の職員と短く確認しました。
「数分であれば可能です」
数分。
私はその言葉を聞いて、手を握りました。
「数分」
「はい。児童の情緒安定のため、長時間の接触は推奨されません」
「私は、二人に」
何を言うつもりだったのか、自分でも分かりませんでした。
明日はまた会えますよ。
昨日、私はそう言いました。
結衣さんは安心したようにタオルを抱き直しました。
悠人さんは何も言いませんでした。
その明日が、今です。
「準備の時間は」
私は聞きました。
「現在、児童二名は面会室へ移動可能です」
職員は丁寧に言いました。
「ご希望であれば、ただちにご案内いたします」
ただちに。
私はうなずくしかありませんでした。
「お願いします」
立ち上がる時、椅子の脚が少しだけ床をこすりました。
その音が、やけに大きく聞こえました。
廊下は白く、朝の光が細く入っていました。
窓の外に空は見えません。
見えるのは、向かいの棟の壁だけです。
職員は私の少し前を歩きました。
昨日までなら、私を連れていくための歩き方でした。
今は、案内するための歩き方でした。
同じ廊下なのに、私の扱いだけが変わっていました。
私はもう管理される側ではない。
そう説明されたばかりです。
でも、私は今も職員の後ろを歩いています。
会える時間も、歩く場所も、扉を開ける順番も、自分では決められません。
面会室の前で、職員が足を止めました。
「こちらです」
扉が開きました。
中に、悠人さんと結衣さんがいました。
結衣さんは丸いタオルを抱えています。
悠人さんは椅子に座って、膝の上で両手を握っていました。
二人とも、私を見ると顔を上げました。
「日向さん」
結衣さんが立ち上がりました。
私はしゃがみました。
結衣さんが小さく駆け寄ってきます。
抱きつかれて、私はその背中に手を回しました。
昨日の夕暮れと同じ体温でした。
同じ子どもでした。
でも、時間だけが違っていました。
「日向さん、来た」
「はい」
「今日?」
「はい」
「いっしょ?」
私は答えられませんでした。
結衣さんの背中を撫でました。
いつものように。
眠る前と同じように。
「結衣さん」
「はい」
「水は、ゆっくり飲めば大丈夫です」
口から出たのは、そんな言葉でした。
結衣さんは不思議そうに私を見ました。
「水?」
「はい」
「こぼさない?」
「こぼしても、大丈夫です」
「拭く?」
「拭いてもらってください」
言ってから、胸が詰まりました。
拭きます、と言えませんでした。
「日向さんは?」
結衣さんが聞きました。
私は答えられませんでした。
悠人さんが椅子から立ち上がりました。
「日向さん」
「はい」
「行くの?」
悠人さんの声は、思っていたより静かでした。
分かっていたのかもしれません。
分かりたくなかっただけかもしれません。
私は悠人さんを見ました。
「はい」
「どこ」
「センターの外です」
「戻る?」
私は息を吸いました。
嘘をつけませんでした。
でも、本当のことを全部言う時間もありませんでした。
「すぐには、戻れません」
悠人さんは私を見ていました。
泣きませんでした。
怒りませんでした。
ただ、見ていました。
「じゃあ」
悠人さんは言いました。
「橋、作る」
「はい」
「覚えたから」
「はい」
「センターでも、作る」
「はい」
「日向さん、見る?」
私はうなずこうとして、できませんでした。
その代わりに言いました。
「きっと、上手に作れます」
悠人さんの顔が、少しだけ変わりました。
それは答えになっていないと分かった顔でした。
私は手を伸ばしました。
悠人さんは少し迷ってから、近づいてきました。
私は二人を抱き寄せました。
結衣さんの髪に、昨日の髪留めがついていました。
夕暮れの中できらりと光った髪留めです。
今日は白い部屋の灯りを受けて、少しだけ鈍く見えました。
「灯りは」
私は言いました。
「暗かったら、つけてもらってください」
「うん」
結衣さんが言いました。
「靴は、急がなくていいです」
「うん」
「ご飯は、ゆっくり食べてください」
「うん」
「分からないことがあったら、聞いてください」
「日向さんに?」
結衣さんが聞きました。
私は言葉に詰まりました。
悠人さんが、結衣さんの肩に手を置きました。
「職員さんに」
悠人さんが言いました。
結衣さんは悠人さんを見ました。
「職員さん?」
「うん」
「日向さんじゃない?」
悠人さんは答えませんでした。
私も答えられませんでした。
時間は、ずっと減っていました。
壁の時計が見えました。
見たくないのに、見えてしまいました。
「日向さん」
悠人さんが言いました。
「昨日、三人だった」
「はい」
「ブランコ」
「はい」
「三人で笑った」
「はい」
声が震えました。
「笑いました」
結衣さんが顔を上げました。
「また、三人?」
私は二人を抱く手に力を入れました。
「覚えています」
「覚えてる?」
「はい」
「三人?」
「三人で笑ったことを、覚えています」
結衣さんは、少しだけ安心したようにうなずきました。
悠人さんは、私の服を握りました。
「忘れない?」
「忘れません」
その言葉だけは、迷わず言えました。
「忘れません」
もう一度言いました。
職員が扉の近くで、小さく声をかけました。
「日向様」
様。
その呼び方が、白い部屋に落ちました。
結衣さんが職員を見て、それから私を見ました。
「日向さん、様?」
「……日向さんでいいですよ」
私は言いました。
「結衣さんは、日向さんと呼んでください」
「日向さん」
「はい」
結衣さんはもう一度抱きついてきました。
私はその小さな背中を撫でました。
「日向さん」
「はい」
「明日は?」
昨日の続きの言葉でした。
私は、すぐには答えられませんでした。
答えられないまま、職員がもう一度、少しだけ頭を下げました。
「お時間です」
悠人さんの手が、私の服から離れませんでした。
私はその手に、自分の手を重ねました。
「悠人さん」
「うん」
「結衣さんを、お願いします」
言ってから、違うと思いました。
それは子どもに言うことではありません。
でも、もう言ってしまいました。
悠人さんは、真面目な顔でうなずきました。
「うん」
「結衣さん」
「はい」
「悠人さんの言うことを、聞いてください」
「うん」
「でも、怖い時は怖いと言っていいです」
「うん」
「泣いてもいいです」
「うん」
結衣さんの目に涙がたまりました。
でも、まだ泣いてはいませんでした。
「日向さんは?」
結衣さんが聞きました。
「日向さんも、泣く?」
私は笑おうとしました。
うまく笑えたかは分かりません。
「少しだけ」
「こわい?」
「少し」
昨日のブランコと同じ言葉でした。
結衣さんは、泣きそうな顔のまま、少しだけ笑いました。
「日向さん、こわい」
「はい」
「結衣さんの方が強いですね」
結衣さんは首を横に振りました。
「つよくない」
「では、一緒ですね」
「いっしょ?」
「はい」
職員が近づいてきました。
私は二人から手を離しました。
結衣さんの手が、最後まで私の袖をつかんでいました。
職員が無理に引き離すことはありませんでした。
ただ、待っていました。
丁寧に。
時間だけを奪いながら、丁寧に待っていました。
私は結衣さんの指を一本ずつ外しました。
「また」
結衣さんが言いかけました。
私はその続きを聞けませんでした。
「覚えています」
私は言いました。
「三人で笑ったことを、覚えています」
悠人さんは唇を結んでいました。
結衣さんは、丸いタオルを抱きしめました。
私は立ち上がりました。
扉の外へ出る前に、もう一度振り返りました。
二人はそこにいました。
白い面会室の中に。
昨日の夕暮れとは違う光の中に。
それでも、二人でした。
悠人さんと、結衣さんでした。
扉が閉まりました。
閉まる音は、とても小さかった。
小さすぎて、終わったことが分からないくらいでした。
そのあと、手続きは驚くほど早く進みました。
署名。
確認。
身分証の受け取り。
住所の記載された封筒。
登録口座の説明。
専用窓口の案内。
私は指示された場所に名前を書きました。
日向千鶴。
何度も書いた名前です。
でも、そのたびに少しずつ、センターの中の私から離れていくようでした。
「以上で、退所手続きは完了です」
職員は言いました。
「日向様。本日までの業務、誠にお疲れさまでした」
深く頭を下げられました。
私は立っていました。
どう返せばいいのか分かりませんでした。
「ありがとうございます」
そう言いました。
言うしかありませんでした。
センターの出口まで、職員が案内しました。
外には車が待っていました。
私のための車です。
新しい住居へ向かうための車です。
門の外の空は、朝の色をしていました。
明るくて、まぶしくて、何も知らないような空でした。
私は一度だけ振り返りました。
白い建物がありました。
その中に、悠人さんと結衣さんがいます。
私はもう、そこへ戻る人間ではありません。
今日から、私はセンターの管理対象ではなくなりました。
満了者として、外で生活する人間です。
車の扉が開きました。
職員が丁寧に頭を下げました。
「お気をつけてお帰りください」
帰る。
その言葉が、私の前に置かれました。
私はうなずきました。
車に乗ると、扉が静かに閉まりました。
窓の向こうで、センターの門が少しずつ遠くなっていきます。
昨日の夕暮れ、三人で笑っていました。
今朝、私は一人でセンターを出ました。




