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少女漫画みたいな恋に、人間牧場を混ぜるな  作者: 白瀬余白


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30/40

第30話朝


 翌朝、私は一人で呼び出されました。


 昨夜は、センターへ戻ってから、悠人さんと結衣さんとは別の部屋で眠りました。


 手続きがあるから、と説明されました。


 結衣さんは少し不安そうにしていましたが、私が「明日は、また会えますよ」と言うと、丸いタオルを抱えたままうなずきました。


 悠人さんは、何も言いませんでした。


 ただ、私を見ていました。


 その目が、夜の白い廊下に残っていました。


 朝になれば会える。


 そう思っていました。


 だから、職員に呼ばれた時も、私はすぐに終わる確認だと思っていました。


 育児担当者用の小さな面談室ではなく、案内されたのは別棟の応接室でした。


 壁は白く、机は広く、椅子はやわらかいものでした。


 センターの中に、こんな部屋があったことを私は知りませんでした。


 職員は、扉の前で私に頭を下げました。


「日向千鶴様。こちらへどうぞ」


 その呼び方に、私は少しだけ足を止めました。


 昨日までと同じ建物です。


 同じ制服の職員です。


 けれど、声の向けられ方だけが違っていました。


 私が椅子に座ると、向かいに二人の職員が座りました。


 一人は記録用の端末を置き、もう一人は薄い書類の束を机の上にそろえました。


「本日は、日向様の業務満了に関するご説明を行います」


 職員は、丁寧にそう言いました。


 私は言葉の意味をすぐには受け取れませんでした。


「業務、満了」


「はい」


 職員はうなずきました。


「日向千鶴様につきましては、本日付で国立次世代育成センターにおける全業務を満了と認定いたします」


 全業務。


 満了。


 認定。


 言葉はきれいに並んでいました。


 きれいに並びすぎていて、どこから聞けばいいのか分かりませんでした。


「私は」


 私は声を出しました。


「今日から、悠人さんと結衣さんのところへ戻るのではないのですか」


 職員は、表情を変えませんでした。


「児童二名につきましては、引き続きセンターにて養育管理を行います」


「引き続き」


「はい」


「私は、育児担当者では」


「日向様の育児業務は、満了となります」


 丁寧な声でした。


 それ以上でも、それ以下でもありませんでした。


 私は机の上の書類を見ました。


 白い紙。


 黒い文字。


 どこにも、昨日の公園はありません。


 結衣さんの笑い声も、悠人さんがブランコを押す手も、ありません。


 ただ、私の名前と、満了という言葉がありました。


「これまでの日向様の業務態度は、極めて模範的であったと記録されています」


 職員は説明を続けました。


「出産業務、育児業務、児童二名への日常的対応、健康管理補助、情緒安定への寄与。いずれも良好です」


 私は黙って聞いていました。


「また、今回の返還につきましては、久世家側の都合によるものと処理されています」


 返還。


 その言葉は、昨日直哉の口から聞いた時よりも、さらに軽く聞こえました。


「日向様および児童二名に瑕疵は認められません」


「はい」


「加えて、久世家より、日向様への不利益処理を望まない旨の申し出がありました」


 直哉の顔が浮かびました。


 昨日の公園の入口で、何かを言いかけて、やめた顔。


 遊んでおいで、と言った声。


 あのあと、直哉は職員と話していました。


 私は見ていません。


 見ないようにしていました。


 その場所で、こういう話がされていたのかもしれません。


「当該申し出、および日向様のこれまでの業務実績を総合し、満了予定の繰り上げが承認されました」


「繰り上げ」


「はい。本来の満了予定より早い認定となりますが、日向様の業務内容に問題はなく、満了者としての登録に支障はないと判断されています」


 私は、その説明を聞いていました。


 本来なら、まだ続くはずだったもの。


 私が二人のそばにいるはずだった時間。


 それが、良好な業務実績として認められ、前倒しで終わる。


 職員はそれを、整った言葉で説明しました。


「私は、もう」


 言葉が続きませんでした。


 職員は、私が言葉を探すのを待っていました。


 待つ姿勢まで丁寧でした。


 その丁寧さが、かえって遠く感じられました。


「センターでの業務に戻ることはない、ということですか」


「その通りです」


 職員は言いました。


「日向様は、本日付で満了者として登録区分が変更されます」


「登録区分」


「はい。一代限りではありますが、今後は特権階級に準じた扱いとなります」


 職員は書類を一枚めくりました。


「住居、基礎資産、生活補助、医療、教育、移動、各種施設利用資格について、順次説明をいたします」


 別の職員が端末を操作しました。


 机の上に、私の名前が表示されました。


 日向千鶴。


 その横に、新しい区分名がついていました。


 私はそれを見ていました。


 自分の名前なのに、知らない誰かの名前のようでした。


「住居につきましては、指定地区内の戸建てが用意されます」


「戸建て」


「はい。詳細な住所は退所時にお渡しいたします」


 職員は滑らかに説明を続けます。


「基礎資産については、登録口座に一括付与されます。以後の生活維持に必要な補助も、一定期間支給されます。納税区分、移動許可、購入制限の解除、医療利用枠については、こちらの資料にまとめております」


 紙が一枚、私の前に置かれました。


 数字が並んでいました。


 単位がついていました。


 私はそれを見ました。


 多いのか少ないのかも、すぐには分かりませんでした。


 これで、私は生きていけるのだと思いました。


 センターの外で。


 一人で。


「日向様は、今後、センターの管理対象ではなくなります」


 職員は言いました。


「ただし、一定期間は生活状況の確認があります。不明点がある場合は、専用窓口をご利用ください」


「はい」


 返事はできました。


 できたのに、意味は少しも追いついていませんでした。


「何かご質問はありますか」


 私はすぐに言いました。


「悠人さんと結衣さんには、会えますか」


 職員は、端末を見ました。


 それから、隣の職員と短く確認しました。


「数分であれば可能です」


 数分。


 私はその言葉を聞いて、手を握りました。


「数分」


「はい。児童の情緒安定のため、長時間の接触は推奨されません」


「私は、二人に」


 何を言うつもりだったのか、自分でも分かりませんでした。


 明日はまた会えますよ。


 昨日、私はそう言いました。


 結衣さんは安心したようにタオルを抱き直しました。


 悠人さんは何も言いませんでした。


 その明日が、今です。


「準備の時間は」


 私は聞きました。


「現在、児童二名は面会室へ移動可能です」


 職員は丁寧に言いました。


「ご希望であれば、ただちにご案内いたします」


 ただちに。


 私はうなずくしかありませんでした。


「お願いします」


 立ち上がる時、椅子の脚が少しだけ床をこすりました。


 その音が、やけに大きく聞こえました。


 廊下は白く、朝の光が細く入っていました。


 窓の外に空は見えません。


 見えるのは、向かいの棟の壁だけです。


 職員は私の少し前を歩きました。


 昨日までなら、私を連れていくための歩き方でした。


 今は、案内するための歩き方でした。


 同じ廊下なのに、私の扱いだけが変わっていました。


 私はもう管理される側ではない。


 そう説明されたばかりです。


 でも、私は今も職員の後ろを歩いています。


 会える時間も、歩く場所も、扉を開ける順番も、自分では決められません。


 面会室の前で、職員が足を止めました。


「こちらです」


 扉が開きました。


 中に、悠人さんと結衣さんがいました。


 結衣さんは丸いタオルを抱えています。


 悠人さんは椅子に座って、膝の上で両手を握っていました。


 二人とも、私を見ると顔を上げました。


「日向さん」


 結衣さんが立ち上がりました。


 私はしゃがみました。


 結衣さんが小さく駆け寄ってきます。


 抱きつかれて、私はその背中に手を回しました。


 昨日の夕暮れと同じ体温でした。


 同じ子どもでした。


 でも、時間だけが違っていました。


「日向さん、来た」


「はい」


「今日?」


「はい」


「いっしょ?」


 私は答えられませんでした。


 結衣さんの背中を撫でました。


 いつものように。


 眠る前と同じように。


「結衣さん」


「はい」


「水は、ゆっくり飲めば大丈夫です」


 口から出たのは、そんな言葉でした。


 結衣さんは不思議そうに私を見ました。


「水?」


「はい」


「こぼさない?」


「こぼしても、大丈夫です」


「拭く?」


「拭いてもらってください」


 言ってから、胸が詰まりました。


 拭きます、と言えませんでした。


「日向さんは?」


 結衣さんが聞きました。


 私は答えられませんでした。


 悠人さんが椅子から立ち上がりました。


「日向さん」


「はい」


「行くの?」


 悠人さんの声は、思っていたより静かでした。


 分かっていたのかもしれません。


 分かりたくなかっただけかもしれません。


 私は悠人さんを見ました。


「はい」


「どこ」


「センターの外です」


「戻る?」


 私は息を吸いました。


 嘘をつけませんでした。


 でも、本当のことを全部言う時間もありませんでした。


「すぐには、戻れません」


 悠人さんは私を見ていました。


 泣きませんでした。


 怒りませんでした。


 ただ、見ていました。


「じゃあ」


 悠人さんは言いました。


「橋、作る」


「はい」


「覚えたから」


「はい」


「センターでも、作る」


「はい」


「日向さん、見る?」


 私はうなずこうとして、できませんでした。


 その代わりに言いました。


「きっと、上手に作れます」


 悠人さんの顔が、少しだけ変わりました。


 それは答えになっていないと分かった顔でした。


 私は手を伸ばしました。


 悠人さんは少し迷ってから、近づいてきました。


 私は二人を抱き寄せました。


 結衣さんの髪に、昨日の髪留めがついていました。


 夕暮れの中できらりと光った髪留めです。


 今日は白い部屋の灯りを受けて、少しだけ鈍く見えました。


「灯りは」


 私は言いました。


「暗かったら、つけてもらってください」


「うん」


 結衣さんが言いました。


「靴は、急がなくていいです」


「うん」


「ご飯は、ゆっくり食べてください」


「うん」


「分からないことがあったら、聞いてください」


「日向さんに?」


 結衣さんが聞きました。


 私は言葉に詰まりました。


 悠人さんが、結衣さんの肩に手を置きました。


「職員さんに」


 悠人さんが言いました。


 結衣さんは悠人さんを見ました。


「職員さん?」


「うん」


「日向さんじゃない?」


 悠人さんは答えませんでした。


 私も答えられませんでした。


 時間は、ずっと減っていました。


 壁の時計が見えました。


 見たくないのに、見えてしまいました。


「日向さん」


 悠人さんが言いました。


「昨日、三人だった」


「はい」


「ブランコ」


「はい」


「三人で笑った」


「はい」


 声が震えました。


「笑いました」


 結衣さんが顔を上げました。


「また、三人?」


 私は二人を抱く手に力を入れました。


「覚えています」


「覚えてる?」


「はい」


「三人?」


「三人で笑ったことを、覚えています」


 結衣さんは、少しだけ安心したようにうなずきました。


 悠人さんは、私の服を握りました。


「忘れない?」


「忘れません」


 その言葉だけは、迷わず言えました。


「忘れません」


 もう一度言いました。


 職員が扉の近くで、小さく声をかけました。


「日向様」


 様。


 その呼び方が、白い部屋に落ちました。


 結衣さんが職員を見て、それから私を見ました。


「日向さん、様?」


「……日向さんでいいですよ」


 私は言いました。


「結衣さんは、日向さんと呼んでください」


「日向さん」


「はい」


 結衣さんはもう一度抱きついてきました。


 私はその小さな背中を撫でました。


「日向さん」


「はい」


「明日は?」


 昨日の続きの言葉でした。


 私は、すぐには答えられませんでした。


 答えられないまま、職員がもう一度、少しだけ頭を下げました。


「お時間です」


 悠人さんの手が、私の服から離れませんでした。


 私はその手に、自分の手を重ねました。


「悠人さん」


「うん」


「結衣さんを、お願いします」


 言ってから、違うと思いました。


 それは子どもに言うことではありません。


 でも、もう言ってしまいました。


 悠人さんは、真面目な顔でうなずきました。


「うん」


「結衣さん」


「はい」


「悠人さんの言うことを、聞いてください」


「うん」


「でも、怖い時は怖いと言っていいです」


「うん」


「泣いてもいいです」


「うん」


 結衣さんの目に涙がたまりました。


 でも、まだ泣いてはいませんでした。


「日向さんは?」


 結衣さんが聞きました。


「日向さんも、泣く?」


 私は笑おうとしました。


 うまく笑えたかは分かりません。


「少しだけ」


「こわい?」


「少し」


 昨日のブランコと同じ言葉でした。


 結衣さんは、泣きそうな顔のまま、少しだけ笑いました。


「日向さん、こわい」


「はい」


「結衣さんの方が強いですね」


 結衣さんは首を横に振りました。


「つよくない」


「では、一緒ですね」


「いっしょ?」


「はい」


 職員が近づいてきました。


 私は二人から手を離しました。


 結衣さんの手が、最後まで私の袖をつかんでいました。


 職員が無理に引き離すことはありませんでした。


 ただ、待っていました。


 丁寧に。


 時間だけを奪いながら、丁寧に待っていました。


 私は結衣さんの指を一本ずつ外しました。


「また」


 結衣さんが言いかけました。


 私はその続きを聞けませんでした。


「覚えています」


 私は言いました。


「三人で笑ったことを、覚えています」


 悠人さんは唇を結んでいました。


 結衣さんは、丸いタオルを抱きしめました。


 私は立ち上がりました。


 扉の外へ出る前に、もう一度振り返りました。


 二人はそこにいました。


 白い面会室の中に。


 昨日の夕暮れとは違う光の中に。


 それでも、二人でした。


 悠人さんと、結衣さんでした。


 扉が閉まりました。


 閉まる音は、とても小さかった。


 小さすぎて、終わったことが分からないくらいでした。


 そのあと、手続きは驚くほど早く進みました。


 署名。


 確認。


 身分証の受け取り。


 住所の記載された封筒。


 登録口座の説明。


 専用窓口の案内。


 私は指示された場所に名前を書きました。


 日向千鶴。


 何度も書いた名前です。


 でも、そのたびに少しずつ、センターの中の私から離れていくようでした。


「以上で、退所手続きは完了です」


 職員は言いました。


「日向様。本日までの業務、誠にお疲れさまでした」


 深く頭を下げられました。


 私は立っていました。


 どう返せばいいのか分かりませんでした。


「ありがとうございます」


 そう言いました。


 言うしかありませんでした。


 センターの出口まで、職員が案内しました。


 外には車が待っていました。


 私のための車です。


 新しい住居へ向かうための車です。


 門の外の空は、朝の色をしていました。


 明るくて、まぶしくて、何も知らないような空でした。


 私は一度だけ振り返りました。


 白い建物がありました。


 その中に、悠人さんと結衣さんがいます。


 私はもう、そこへ戻る人間ではありません。


 今日から、私はセンターの管理対象ではなくなりました。


 満了者として、外で生活する人間です。


 車の扉が開きました。


 職員が丁寧に頭を下げました。


「お気をつけてお帰りください」


 帰る。


 その言葉が、私の前に置かれました。


 私はうなずきました。


 車に乗ると、扉が静かに閉まりました。


 窓の向こうで、センターの門が少しずつ遠くなっていきます。


 昨日の夕暮れ、三人で笑っていました。


 今朝、私は一人でセンターを出ました。


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