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少女漫画みたいな恋に、人間牧場を混ぜるな  作者: 白瀬余白


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第29話夕暮れ


 翌朝、結衣さんはいつもより早く起きました。


 子ども部屋の灯りは、まだ小さくついていました。


 結衣さんは布団の上に座って、丸いタオルを抱えています。


 悠人さんはその隣で、膝を抱えていました。


「日向さん」


「はい」


「今日、外?」


 結衣さんが聞きました。


 私は少しだけ返事に遅れました。


 でも、遅れた理由は、もう昨日までとは違いました。


 今日、伝えなければならないことがありました。


「外には、行けると思います」


「公園?」


「はい」


「ブランコ?」


「行けたら、乗りましょう」


 結衣さんは少しだけ笑いました。


 悠人さんは、私を見ていました。


 何かを待っている顔でした。


 子どもは、大人が思うより鈍くありません。


 いつもと違う朝だと、もう分かっているのかもしれません。


 朝食のあと、直哉と私は子どもたちを居間に呼びました。


 四つの皿は片づけられています。


 机の上には、何もありません。


 昨日置かれていた書類も、もうありませんでした。


 けれど、私にはそこにまだ白い紙があるように見えました。


 直哉は、子どもたちと同じ高さになるように膝をつきました。


 私もその隣に座りました。


 結衣さんは丸いタオルを抱いたまま、私と直哉を交互に見ています。


 悠人さんは、少し背筋を伸ばしていました。


「悠人さん、結衣さん」


 直哉が言いました。


 声は静かでした。


「今日で、この部屋で暮らすのは終わりになります」


 結衣さんは瞬きをしました。


 悠人さんは、すぐには何も言いませんでした。


「センターに戻ります」


 私が続けました。


 結衣さんはタオルを抱く手に力を入れました。


「センター?」


「はい」


「ここは?」


「ここは、今日で終わりです」


「夜は?」


「センターで眠ります」


 結衣さんは私を見ました。


「日向さんも?」


 私は答えようとして、息を吸いました。


「今日は、一緒に戻ります」


「いっしょに寝る?」


「今日は、手続きがあるので、同じ部屋では眠れないかもしれません」


「明日は?」


「明日は、また会えますよ」


「ほんと?」


「はい」


 結衣さんは、少し安心したようにタオルを抱き直しました。


 悠人さんが口を開きました。


「久世さんは?」


 直哉の顔が少しだけ動きました。


「僕は、ここに残る」


「来ない?」


「うん」


「あとで?」


 直哉は少し黙りました。


 嘘をつかないための沈黙でした。


「あとで、すぐに会えるとは言えない」


 悠人さんは、直哉を見ていました。


 その言葉の全部が分かったわけではないと思います。


 でも、何かが終わることは分かったのだと思います。


「久世さん、怒った?」


「怒ってない」


 直哉はすぐに答えました。


 今度は遅れませんでした。


「悠人さんにも、結衣さんにも、怒ってない」


「日向さんは?」


「怒っていません」


 私は言いました。


「誰も、怒っていません」


 結衣さんは下を向きました。


「水?」


「水のことではありません」


「こぼした?」


「違います」


 私は首を横に振りました。


「結衣さんがこぼしたからではありません」


「じゃあ」


 結衣さんは言葉を探していました。


 うまく見つからないようでした。


「ここ、終わり?」


「はい」


「ブランコは?」


「今日、行きましょう」


「今日?」


「はい」


「最後?」


 その言葉を、結衣さんがどこまで分かって言ったのかは分かりません。


 でも、部屋の空気が少し止まりました。


 直哉も、悠人さんも、私も、すぐには答えられませんでした。


 私が答えました。


「今日は、行きましょう」


 結衣さんは不思議そうに私を見ました。


 答えになっていないことに、気づいたかもしれません。


 それでも、それ以上は聞きませんでした。


 荷物は多くありませんでした。


 この部屋に来た時、私たちはほとんど何も持っていませんでした。


 でも、三ヶ月弱の間に、ものは少しずつ増えていました。


 結衣さんの髪留め。


 悠人さんが選んだ絵本。


 小さな歯ブラシ。


 色の違うタオル。


 部屋着。


 公園で拾った、形のきれいな葉。


 持っていけるものと、置いていくものを分けなければなりませんでした。


 直哉は、必要なものは全部持っていけるようにすると言いました。


 けれど、全部を持っていくことはできません。


 積み木はこの部屋のものです。


 ブランコは公園のものです。


 子ども部屋の灯りは壁についています。


 四つ並んだ皿も、ここに残ります。


 結衣さんは丸いタオルを両手で持っていました。


「これは?」


「持っていきましょう」


「これも?」


 小さな髪留めを差し出します。


「持っていきましょう」


「これも?」


 公園で拾った葉でした。


 少し乾いて、端が丸まっています。


「それも、大事なら」


「だいじ」


「では、持っていきましょう」


 結衣さんは小さな袋に葉を入れました。


 袋の中で、葉はかさりと音を立てました。


 悠人さんは、積み木の箱の前に座っていました。


 手は出していません。


 ただ、見ています。


「悠人さん」


 私が呼ぶと、悠人さんは顔を上げました。


「橋」


「はい」


「持っていけない?」


「積み木は、この部屋のものです」


「うん」


「でも」


 私は少し考えました。


「橋は、また作れます」


 悠人さんは私を見ました。


「また?」


「はい」


「センターでも?」


「作れます」


 その返事は、遅れませんでした。


 悠人さんは少しだけうなずきました。


「じゃあ、覚える」


「何をですか」


「作り方」


 悠人さんは積み木を一つ持ちました。


 それから、床の上に橋を作り始めました。


 いつものように、慎重に。


 左右の高さを合わせて、真ん中に少しだけ隙間を作って、上に平たい積み木を置きます。


 結衣さんも横から覗きました。


「橋?」


「橋」


「渡る?」


「渡る」


 悠人さんは小さな車を取ろうとして、手を止めました。


 その車も、この部屋のものでした。


 私は引き出しから紙を一枚出しました。


「描きましょうか」


「橋を?」


「はい」


 悠人さんは少し考えて、うなずきました。


 私は鉛筆を持ちました。


 でも、線を引く前に悠人さんが言いました。


「僕が描く」


「はい」


 悠人さんは鉛筆を受け取りました。


 紙の上に、ゆっくり橋を描きました。


 まっすぐではありません。


 少し曲がった線でした。


 でも、左右に柱があって、真ん中に道がありました。


「ここ、ゆっくり」


 悠人さんが言いました。


「滑るから」


「そうですね」


「急いだら落ちる」


「はい」


「でも、渡れる」


 私はうなずきました。


「渡れます」


 悠人さんは、その紙を小さく折りました。


 袋に入れる前に、一度だけ直哉を見ました。


「久世さん」


「うん」


「橋、覚えた」


 直哉は少し笑いました。


「うん」


「また作る」


「うん」


 それ以上、直哉は言いませんでした。


 言えば、声が崩れると分かっていたのかもしれません。


 昼は、残っていた材料で簡単に済ませました。


 結衣さんは、いつもよりゆっくり食べました。


 水も、ゆっくり飲みました。


 こぼしませんでした。


 飲み終わると、私を見ます。


「できた」


「できましたね」


「センターでも?」


「ゆっくり飲めば、大丈夫です」


「日向さん、見る?」


「見ます」


 そう答えたあと、胸の奥が痛みました。


 私はいつまで見ることができるのか。


 それは、まだ言えませんでした。


 夕方になる前に、荷物はまとまりました。


 袋は二つだけでした。


 結衣さんの丸いタオルが片方から少し見えています。


 悠人さんの橋の絵は、もう片方の袋の内側にしまいました。


 直哉は玄関で靴を並べました。


 四人分の靴が、最後にもう一度並びました。


 結衣さんは自分の靴を見て、私を見ました。


「これも?」


「履いていきましょう」


「ここに置かない?」


「履いていきます」


「じゃあ、ない?」


「ここには、ありません」


 結衣さんは少し考えました。


「センターにある?」


「はい」


「じゃあ、履く」


 結衣さんは靴を履きました。


 左右を間違えませんでした。


 悠人さんは黙って靴を履きました。


 いつもより少し早く履き終わりました。


 でも、立ち上がるのは少し遅れました。


 玄関の中を見ていたからです。


 子ども部屋の方。


 居間の方。


 台所の方。


 四つの皿があった場所。


 積み木の箱が置かれていた場所。


 悠人さんは、全部を目でなぞっていました。


「行きましょう」


 私が言うと、悠人さんはうなずきました。


「うん」


 直哉が扉を開けました。


 外の空気は、少し冷たくなっていました。


 公園へ向かう道は、何度も通った道でした。


 結衣さんは私の手を握りました。


 悠人さんは、袋を一つ持ちたがりました。


「重いですよ」


「持つ」


「少しだけですよ」


「うん」


 悠人さんは袋を持ちました。


 中には、橋の絵が入っています。


 紙一枚なのに、悠人さんは大事そうに持っていました。


 公園に着くと、夕方の光が遊具の影を長く伸ばしていました。


 砂場には誰もいません。


 滑り台も静かでした。


 ブランコだけが、風でほんの少し揺れていました。


 センターの職員が迎えに来る時間まで、少しだけありました。


 直哉は公園の入口の方で足を止めました。


「千鶴」


「はい」


「少し、向こうにいる」


「はい」


 直哉は悠人さんと結衣さんを見ました。


 何かを言いかけて、やめました。


 それから、いつもの声で言いました。


「遊んでおいで」


 結衣さんはうなずきました。


「ブランコ」


「うん」


 悠人さんは、直哉を見ました。


「久世さんは?」


「ここにいるよ」


「乗らない?」


「今日は、見てる」


 悠人さんは少しだけうなずきました。


 私は二人の手を取りました。


 ブランコの方へ歩きました。


 夕暮れの光が、足元に伸びていました。


「日向さんも乗る?」


 結衣さんが聞きました。


「私もですか」


「乗る」


「では、少しだけ」


 私はブランコに座りました。


 大人が座るには少し低くて、膝が曲がります。


 結衣さんは隣のブランコに座ろうとして、少し苦戦しました。


 悠人さんが横から支えます。


「足、こっち」


「こっち?」


「うん。手、ここ」


「ここ?」


「そう」


 結衣さんは鎖を握りました。


 座れたあと、少し得意そうに私を見ます。


「できた」


「できましたね」


「押して」


「強くない方がいいですよ」


「強くない」


 悠人さんが結衣さんの後ろに立ちました。


「少しだけ」


「うん」


 悠人さんは、そっとブランコを押しました。


 結衣さんの足が少し浮きます。


「うわ」


「怖い?」


「こわくない」


「もう少し?」


「もう少し」


 悠人さんはまた押しました。


 今度は少しだけ大きく揺れました。


 結衣さんの髪が夕方の光の中で揺れました。


 小さな髪留めが、きらりと光ります。


「日向さん」


「はい」


「見てる?」


「見ています」


「できてる?」


「できています」


「悠人さん、押してる」


「押していますね」


「じょうず?」


「とても上手です」


 悠人さんは少しだけ口元を緩めました。


「強くしない」


「はい。上手です」


「落ちない」


「はい」


 結衣さんは笑いました。


 その笑い声につられて、私も少し笑いました。


 ブランコに座ったまま、足先で地面を軽く押します。


 私のブランコも、少しだけ揺れました。


「日向さんも」


 結衣さんが言いました。


「揺れてる」


「少しだけです」


「もっと」


「怖いので、少しだけ」


「日向さん、こわい?」


「少し」


 結衣さんは目を丸くしました。


 それから、嬉しそうに笑いました。


「日向さん、こわい」


「笑わないでください」


「こわい」


「結衣さんの方が強いですね」


「つよい」


 結衣さんは足を少し伸ばしました。


 悠人さんがすぐに言います。


「急に伸ばすと危ない」


「危ない?」


「そう」


「じゃあ、ゆっくり」


「うん」


 結衣さんは、ゆっくり足を伸ばしました。


 悠人さんはその後ろで、真剣な顔をしています。


 私はそれを見ていました。


 少し前まで、悠人さんはブランコを押される側だった気がします。


 今は、結衣さんの背中を見ながら、押す強さを考えています。


 早く動きすぎることもあります。


 大人びすぎることもあります。


 でも今は、ただ妹のブランコを押していました。


「悠人さんも乗りますか」


 私が聞くと、悠人さんは首を横に振りました。


「あとで」


「今でもいいですよ」


「今は、押す」


「そうですか」


「結衣さん、笑うから」


 悠人さんはそう言いました。


 結衣さんは振り返ります。


「笑う?」


「前見て」


「前」


 結衣さんは前を向きました。


 また少し揺れます。


 夕方の空は、少しずつ色を変えていました。


 昼の明るさが薄くなって、遊具の影が長くなります。


 風は冷たくありませんでした。


 結衣さんの笑い声が、ブランコのきしむ音に混ざりました。


「日向さん」


「はい」


「三人」


「はい」


「三人でブランコ」


 結衣さんはそう言いました。


 私は隣のブランコに座っています。


 悠人さんは結衣さんの後ろに立っています。


 確かに、三人でした。


「三人ですね」


 私が答えると、結衣さんは満足そうに笑いました。


「三人」


 悠人さんも、小さく言いました。


「うん。三人」


 私は足先で地面を押しました。


 ほんの少しだけ、ブランコが揺れます。


 結衣さんがまた笑いました。


「日向さん、ちょっと」


「ちょっとです」


「もっと」


「少しだけ」


「こわい?」


「少し」


 悠人さんが笑いました。


 声を出して笑ったのは、久しぶりのような気がしました。


 結衣さんも笑います。


 私も笑いました。


 笑ってから、胸の奥が痛みました。


 でも、その痛みごと、今はここに置いておきたいと思いました。


 結衣さんの髪留めが揺れています。


 悠人さんの手が、ブランコの背をそっと押しています。


 私の足先が、夕方の砂を少しだけこすっています。


 何も特別なことはありません。


 ただ、公園でブランコに乗っているだけです。


 それだけのことが、こんなに大事になる日が来るとは思っていませんでした。


「もう一回」


 結衣さんが言いました。


「もう一回だけですよ」


「もう一回」


 悠人さんが、そっと押しました。


 結衣さんが笑いました。


 その笑い声に、悠人さんも笑いました。


 私も笑いました。


 夕暮れの中で、三人で笑っていました。


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