第28話三ヶ月
あれから数日が経っても、あの夜の言葉は消えていませんでした。
選んでやったのに。
直哉の声でした。
直哉が言いたかった言葉ではないことは、分かっています。
あの瞬間に、自分でも取り消そうとしていたことも。
言った直後の顔も。
全部、覚えています。
それでも、聞こえました。
聞こえたものは、何日経っても、聞こえたままでした。
子ども部屋へ行くと、悠人さんはもう起きていました。
布団の中で横になったまま、天井を見ています。
「日向さん」
「はい」
「朝?」
「朝です」
「今日、雨?」
「今は降っていません」
「じゃあ、外?」
「まだ分かりません」
「分からないか」
「はい」
悠人さんは、それ以上聞きませんでした。
結衣さんは布団の端を握って、まだ眠っていました。
あの夜、水をこぼしたことを気にしていた結衣さん。
拭けばいいと言われて、少し安心して眠った結衣さん。
その顔は、いつもより少し幼く見えました。
「結衣さん、起きる?」
悠人さんが小さな声で聞きました。
「もう少し寝かせてあげましょう」
「うん」
悠人さんは、布団からそっと出ました。
足音を小さくしようとしているのが分かります。
以前より、こういうことが増えました。
誰かを起こさないようにする。
何かを倒さないようにする。
先に気づく。
先に動く。
それは優しさでした。
でも、その優しさが少し早すぎることを、私はもう見ないふりができませんでした。
居間へ行くと、直哉は起きていました。
台所に立っています。
あの夜と同じ人でした。
けれど、あの夜から数日分だけ、少し削れた顔をしていました。
眠れていない日が続いた顔です。
それでも、悠人さんを見ると、直哉はいつものように声をやわらかくしました。
「おはよう」
「おはよう」
悠人さんは返事をしました。
「結衣さん、まだ寝てる」
「そっか」
「起こさない」
「うん。ありがとう」
直哉の返事は遅れませんでした。
遅れないようにしているのだと、私には分かりました。
直哉も、私がそれに気づいたことを分かっていたと思います。
でも、子どもたちの前では何も言いません。
朝食は、いつものように並びました。
四つの皿。
四つのコップ。
子ども用の小さな器。
直哉はいつものように手を動かし、私はいつものように子どもたちの様子を見ました。
結衣さんは途中で起きてきて、まだ少し眠そうな顔で椅子に座りました。
「水、こぼさない?」
「今日はゆっくり飲みましょう」
「ゆっくり」
「はい」
結衣さんは両手でコップを持ちました。
悠人さんが横から言います。
「机の真ん中」
「まんなか」
「そう」
直哉はそれを見ていました。
少しだけ何かを言いたそうにして、それから言いませんでした。
私も言いませんでした。
子どもたちの前では、朝を朝のまま終わらせる必要がありました。
直哉が何かを言いたがっていることは、何度も分かりました。
朝食のあと、結衣さんの口元を拭いた時。
悠人さんが食器を運ぶのを手伝った時。
私が台所で手を洗っている時。
直哉は一度こちらを見て、それから視線を下げました。
私も、今はまだ聞けないと思いました。
あの夜、「今日は聞けません」と言いました。
数日経っても、その言葉の端はまだ残っていました。
けれど、ずっと聞かないでいられる話ではありませんでした。
昼過ぎ、結衣さんは眠くなりました。
朝が少し早かったからかもしれません。
子ども部屋で横になり、丸いタオルを抱えたまま目を閉じました。
悠人さんは居間で絵本を読んでいました。
読むというより、絵を見て、分かる文字だけを拾っていました。
雨の日の橋の本です。
「ここ、ゆっくり」
悠人さんが小さく言いました。
「滑るから」
「そうですね」
「急いだら、落ちる」
「はい」
「ゆっくりなら、大丈夫」
「そうですね」
私は返事をしました。
悠人さんは、絵本の中の人を指でゆっくり動かしました。
直哉は台所の方にいました。
その声を聞いていたのかどうかは分かりません。
でも、しばらくして、静かに居間へ戻ってきました。
「千鶴」
小さな声でした。
悠人さんは絵本を見ています。
私は立ち上がりました。
「はい」
「少し、話せる?」
直哉は、私を見ていました。
あの夜からずっと、言えなかった言葉を抱えている顔でした。
私はうなずきました。
悠人さんに声をかけます。
「悠人さん、少しだけ向こうにいます。何かあったら呼んでください」
「うん」
「結衣さんが起きたら、教えてください」
「分かった」
悠人さんは絵本から顔を上げました。
私と直哉を見て、それからまた絵本へ視線を戻しました。
何かに気づいたかもしれません。
でも聞きませんでした。
そのことが、胸に刺さりました。
隣の部屋へ入ると、直哉は扉を完全には閉めませんでした。
子どもたちの声が聞こえる程度に、少しだけ開けてあります。
それが直哉らしいと思いました。
そして、それすら少し痛いと思いました。
「あの夜は」
直哉が言いました。
「ごめん」
私はうなずきました。
「はい」
「言っていい言葉じゃなかった」
「はい」
「取り消せると思ってない」
「はい」
「千鶴に、あんなふうに言いたかったわけじゃない」
「分かっています」
直哉は顔を歪めました。
その言葉を聞くのがつらいのだと思いました。
あの夜も、私は同じことを言いました。
分かっています。
けれど、その言葉は直哉には届かなかった。
届いていたとしても、違う形で刺さっていた。
「本当に、分かっています」
私はもう一度言いました。
「直哉が、私たちを傷つけたくて言ったわけではないことは」
「うん」
「言ってすぐ、違うと思ったことも」
「うん」
「後悔していることも」
直哉はうなずきました。
何度も、浅くうなずきました。
「でも、聞こえました」
私が言うと、直哉は目を閉じました。
「うん」
「聞こえたことは、なかったことにはなりません」
「うん」
部屋は静かでした。
隣の居間から、悠人さんがページをめくる音が聞こえます。
その小さな音があるから、私たちは声を荒げずにいられるのかもしれません。
「あの夜の言葉だけではありません」
私は言いました。
直哉が顔を上げました。
「たぶん、私は前から少し分かっていました」
「何を」
「この暮らしは、長くは続かないのだと」
直哉の唇が少しだけ動きました。
否定しようとしたのかもしれません。
でも、言葉は出ませんでした。
「私は、センターから出た人間です」
「千鶴」
「直哉は、久世家の人です」
「それは」
「分かっています。直哉がそういう言い方をしたくないことも」
私は直哉を見ました。
「でも、なくなるわけではありません」
直哉は何も言いませんでした。
「この部屋では、私たちは四人で暮らしました」
「うん」
「朝ご飯を食べて、洗濯物を畳んで、結衣さんの灯りを決めて、悠人さんの橋を見ました」
「うん」
「名前も呼びました」
直哉の目元が揺れました。
「直哉」
私は名前を呼びました。
「はい」
「幸せでした」
直哉は、息を止めたように見えました。
「それは、嘘ではありません」
「千鶴」
「この三ヶ月弱は、私にとって本当に幸せでした」
言葉にすると、胸の奥が痛みました。
幸せでした。
過去形にするには早すぎる言葉です。
でも、今ここで現在形にすることは、もうできませんでした。
「過去形にしないでくれ」
直哉が言いました。
声が小さく震えていました。
「嘘にしたくないんです」
私は答えました。
「続けられないからといって、なかったことにはしたくありません」
「続けられないって、決めるのか」
「はい」
直哉は私を見ました。
あの夜なら、そこですぐに何かを言ったかもしれません。
引き止める言葉。
否定する言葉。
自分が決めたのだと言う言葉。
でも今日は、直哉はすぐには言いませんでした。
その沈黙で、私は分かりました。
直哉も、もう分かっているのだと。
「私は」
私は膝の上で手を重ねました。
「直哉に選ばれて、ここにいるだけでは、立てません」
直哉は目を伏せました。
「あの夜の言葉のせいだけではありません」
「うん」
「前から、少しずつ分かっていました」
「うん」
「直哉が悪いという話ではありません」
「でも、僕が言った」
「はい」
「言ったのは、僕だ」
「はい」
「出てきたのも、僕の中からだ」
直哉はそう言いました。
自分で言うには、とても痛い言葉だったと思います。
私は何も言えませんでした。
「自分でも、嫌だった」
直哉は続けました。
「言った瞬間に、違うと思った」
「はい」
「でも、どこにもない言葉なら、出てこない」
直哉は両手を握りました。
「それが、一番嫌だった」
私は黙って聞いていました。
「僕は、千鶴たちを大事にしたかった」
「はい」
「本当にそう思ってた」
「分かっています」
「でも、どこかで」
直哉は言葉を探しました。
今度は、逃げるためではなく、ちゃんと自分の中を見ようとしているように見えました。
「自分が連れてきた、って思ってた」
「はい」
「僕が決めたんだから、僕が守らないといけないって」
「はい」
「それは、優しさみたいな顔をしてたけど」
直哉は苦しそうに笑いました。
「選ぶ側の考え方だったんだと思う」
その言葉は、静かでした。
でも、重かった。
直哉がそれを自分で言ったことが、私は悲しかった。
言わせたかったわけではありません。
でも、言わなければ、終われなかったのかもしれません。
「私は」
私は言いました。
「選ばれたかったわけではありません」
直哉は、目を閉じました。
「うん」
「一緒に選びたかったんです」
「うん」
「でも、それができる場所ではなかったのだと思います」
この部屋は、直哉の部屋でした。
温かい部屋でした。
私の服もありました。
子どもたちの寝具もありました。
絵本も、積み木も、歯ブラシも、タオルもありました。
それでも、始まりは直哉が私たちを迎えに来たことでした。
直哉が決めて、直哉が整えて、直哉が守ろうとした場所でした。
私は救われました。
そのことを否定したくありません。
でも、救われた場所に、そのままずっと立つことはできませんでした。
「三ヶ月」
直哉が小さく言いました。
「三ヶ月も、経ってない」
「はい」
「それだけしか、もたなかったのか」
「それだけ、ではありません」
私は首を横に振りました。
「三ヶ月弱、続きました」
直哉は顔を上げました。
「それは、短いです」
「うん」
「でも、何もなかった時間ではありません」
「うん」
「悠人さんも、結衣さんも、ここを覚えています」
「うん」
「私も、覚えています」
直哉はうなずきました。
目元が赤くなっていました。
「僕も」
直哉は言いました。
「覚えてる」
「はい」
「忘れない」
「はい」
隣の部屋から、悠人さんの声がしました。
「日向さん」
私たちは同時に顔を上げました。
「はい」
「結衣さん、起きた」
私は立ち上がりました。
直哉も立ち上がりかけて、止まりました。
私は直哉を見ました。
「行ってきます」
「うん」
居間へ戻ると、結衣さんが目をこすりながら起き上がっていました。
「日向さん」
「はい」
「寝た?」
「寝ていましたね」
「おきた」
「起きました」
「水」
「飲みますか」
「こぼさない」
「ゆっくり飲みましょう」
私はコップに水を入れました。
結衣さんは両手で持ちます。
悠人さんは横で見ていました。
私は何も言いませんでした。
結衣さんは少しずつ飲みました。
こぼしませんでした。
「できた」
「できましたね」
結衣さんはほっとしたように笑いました。
その笑顔を見て、胸の奥が痛みました。
この部屋で、結衣さんは水を飲むことを覚えました。
こぼしたあと、また飲むことも。
それは小さなことです。
でも小さなことばかりが、家を家にしていたのだと思いました。
その日の夕方、子どもたちが絵本を見ている間に、直哉は一度自分の部屋へ入りました。
しばらくして戻ってきた時、手には薄い書類がありました。
私はそれを見て、すぐに分かりました。
この部屋に来た時、最初に渡された書類と同じ種類のものです。
受け入れに関する書類。
試用期間。
継続確認。
返還時の手続き。
私は、読んでいました。
読んで、分かっていました。
分かっていながら、三ヶ月弱を過ごしました。
「試用期間内なら」
直哉は言いました。
「手続きは早いと思う」
「はい」
「久世家側の都合にする」
その言葉は、さっきまでの会話と違って、急に冷たく聞こえました。
直哉の声が冷たくなったわけではありません。
言葉そのものが冷たかったのです。
久世家側の都合。
試用期間内。
返還。
私たちの三ヶ月弱は、そこではそう呼ばれるのだと思いました。
「千鶴にも、悠人さんと結衣さんにも、瑕疵はない形にする」
「はい」
「待遇が悪くならないようにする。センターへの記録も、そういう形で通す」
「ありがとうございます」
お礼を言うと、直哉は少し苦しそうにしました。
「お礼を言われることじゃない」
「でも、ありがとうございます」
「うん」
直哉は書類を机に置きました。
そこには、まだ何も書かれていません。
ただの空欄です。
でも、空欄があるということは、そこに何かを書けば進んでしまうということでした。
「いつ」
私は聞きました。
「早ければ、数日で」
「そうですか」
「千鶴が望むなら、もう少し」
「長くしても、同じだと思います」
直哉は目を伏せました。
「うん」
「子どもたちには」
言いかけて、声が止まりました。
直哉も何も言いませんでした。
その話は、まだ今はできませんでした。
でも、しなければなりません。
悠人さんと結衣さんに、ここを出ることを伝えなければなりません。
またセンターへ戻ることを。
この部屋の灯りも、積み木も、皿も、靴の場所も、全部がここに残ることを。
「明日」
直哉が言いました。
「一緒に話そう」
私はうなずきました。
「はい」
その返事は、遅れませんでした。
遅れなかったことが、少し悲しかった。
夜、子どもたちが眠ったあと、私はもう一度居間に戻りました。
書類は机の端に寄せられていました。
直哉はそれを見ていませんでした。
私も見ませんでした。
「千鶴」
「はい」
「幸せだったって、言ってくれて」
直哉はそこで言葉を止めました。
「うん」
それだけ言いました。
私は小さくうなずきました。
「幸せでした」
もう一度言いました。
直哉は目を閉じました。
「僕も」
その言葉を聞いて、私は少しだけ泣きそうになりました。
でも泣きませんでした。
泣けば、何かを間違えてしまいそうでした。
この三ヶ月弱は、間違いではありませんでした。
けれど、続けることはできませんでした。
その二つを、同じ場所に置かなければなりませんでした。
机の端には、書類があります。
子ども部屋には、小さな灯りがあります。
私たちにとっては、三ヶ月でした。
でも、記録の上では、試用期間でした。




