第27話選んだこと
それから数日、返事は時々遅れました。
毎回ではありません。
朝の挨拶はできます。
ご飯の支度もできます。
結衣さんの髪を整えることも、悠人さんの話にうなずくこともできます。
直哉も同じでした。
子どもたちに優しく返事をして、靴の向きを直して、落ちそうになったコップをそっと奥へ寄せました。
何もできなくなったわけではありません。
暮らしは続いていました。
四つの皿が並び、四人分の靴が玄関にあり、夜には子ども部屋の小さな灯りがつきました。
けれど、時々、ほんの少しだけ遅れます。
「日向さん、これでいい?」
そう聞かれた時。
「久世さん、見た?」
そう呼ばれた時。
私が遅れることもあれば、直哉が遅れることもありました。
子どもたちは、その一拍の理由までは知りません。
でも、子どもは大人が思うほど鈍くありません。
結衣さんは、前より少し何度も確認するようになりました。
「これ、いい?」
「ここ?」
「こぼれない?」
「怒ってない?」
悠人さんは、前より少し早く動くようになりました。
結衣さんのコップを机の真ん中へ寄せる。
積み木を踏まない位置へ動かす。
靴をそろえる。
私が何かを言う前に、できることを探す。
それは成長にも見えました。
優しさにも見えました。
けれど、そう見ようとするたびに、胸の奥が少しだけ苦しくなりました。
子どもたちまで、この部屋の空気を読もうとしている。
そう思ってしまうからです。
その日は、夕食のあとでした。
外は暗くなっていて、窓には部屋の灯りが映っていました。
結衣さんは両手でコップを持っていました。
最近は、そうすることが増えていました。
片手で持つとこぼれるかもしれないからです。
誰も怒っていないのに、結衣さんは自分でそう決めたようでした。
「ゆっくりでいいですよ」
私が言うと、結衣さんはうなずきました。
「ゆっくり」
それから、少しずつ水を飲みます。
飲み終わったあと、コップを置こうとして、底が机に当たる前に少し傾きました。
「あ」
水がこぼれました。
量は多くありません。
机の上に薄く広がっただけです。
でも結衣さんは、すぐに固まりました。
コップを持ったまま、両手を動かせなくなっています。
「こぼれた」
「こぼれましたね」
私はできるだけいつもの声で言いました。
「大丈夫ですよ」
「ごめんなさい」
「大丈夫です」
布巾を取ろうとして、私は立ち上がりました。
同じ時に、直哉も立ち上がりました。
「僕が」
「大丈夫です」
声が重なりました。
直哉の手が、椅子の背に触れたところで止まりました。
私の手も、布巾へ伸ばしかけたところで止まりました。
その一瞬だけ、机の上の水よりも、私たちの手の方が目立った気がしました。
結衣さんは私を見て、直哉を見ました。
コップを持ったまま、どうしていいか分からない顔をしています。
悠人さんが先に動きました。
「コップ、置いて」
結衣さんは悠人さんを見ました。
「置く?」
「うん。倒れないところ」
「ここ?」
「もっと真ん中」
悠人さんは、コップの場所を指で示しました。
結衣さんは慎重にコップを置きました。
今度は倒れませんでした。
「できた」
「うん」
悠人さんはそう言ってから、私を見ました。
「日向さん、布巾」
「はい」
私は布巾を取りました。
直哉は少し遅れて、もう一枚の布巾を取りました。
「床にも少し落ちてる」
悠人さんが言いました。
「そうだね」
直哉は床を見ました。
机の端から、ほんの少し水が落ちていました。
直哉はしゃがんで、それを拭きました。
私は机を拭きました。
結衣さんは濡れた指を見ています。
悠人さんはコップを押さえていました。
誰も怒っていません。
誰も大きな声を出していません。
それなのに、みんなが何かを間違えないようにしているようでした。
机の上の水は、すぐに消えました。
床の水も、すぐに消えました。
直哉が立ち上がり、布巾を洗いに行こうとしました。
結衣さんが小さく言いました。
「怒ってない?」
直哉が足を止めました。
私はすぐに答えようとしました。
「怒っていませんよ」
少し早すぎたかもしれません。
直哉も、ほとんど同時に言いました。
「怒ってないよ」
結衣さんは、二つの返事を聞いて、少しだけ目を丸くしました。
「ふたり?」
「二人ともです」
私が言うと、結衣さんはうなずきました。
「怒ってない」
「はい」
「こぼしただけ?」
「こぼしただけです」
直哉が言いました。
その声は優しかった。
優しくしようとしている声でした。
結衣さんはようやくコップから手を離しました。
けれど、悠人さんはまだコップの近くに手を置いていました。
「悠人さん」
私が呼ぶと、悠人さんは顔を上げました。
「もう大丈夫ですよ」
「うん」
悠人さんは手を引っ込めました。
でも、少しだけ遅れてからでした。
私はそれを見てしまいました。
直哉も見ていました。
そのあと、食卓はいつもより静かになりました。
結衣さんは、もう水を飲まないと言いました。
「喉が渇いたら飲みましょう」
「いらない」
「無理にとは言いません」
「いらない」
悠人さんは自分のコップを少し奥へ置きました。
それから、結衣さんのコップも机の真ん中へ寄せました。
「ここなら倒れにくい」
「たおれない?」
「倒れにくい」
「倒れないじゃない?」
「絶対じゃないから」
「ぜったい?」
「絶対はない」
悠人さんは真面目にそう言いました。
その言い方が、少し大人びて聞こえました。
私は笑えばよかったのかもしれません。
いつもなら、少しだけ笑って、難しい言葉を使いますね、と言ったかもしれません。
でもその時は、すぐに笑えませんでした。
直哉が先に笑いました。
「悠人さんは慎重だね」
「慎重?」
「ちゃんと考えてるってこと」
「日向さんも、考えてる」
悠人さんはそう言って、私を見ました。
私は一拍遅れずに答えようとしました。
「はい」
答えました。
間に合ったと思いました。
でも、間に合ったかどうかを考えている時点で、もう自然ではありませんでした。
結衣さんを寝かせる時、いつもより灯りを少し明るくしました。
結衣さんがそうしたがったからです。
「水、見える?」
結衣さんは布団の中で聞きました。
「水はもうありませんよ」
「また、ある?」
「今はありません」
「暗いと、わからない」
「では、少し明るくしておきましょう」
直哉が壁の灯りを調整しました。
前にも同じようなことがありました。
その時は、結衣さんが自分で決めた明るさを嬉しそうに見ていました。
今日は少し違いました。
明るさは、安心のためというより、確認のためのものになっていました。
「これくらい?」
直哉が聞きました。
「うん」
「まぶしくない?」
「まぶしくない」
「じゃあ、これで」
結衣さんはうなずきました。
悠人さんは隣で、布団の端を指で押さえていました。
「明日、水こぼさない?」
結衣さんが聞きました。
「気をつければ大丈夫」
悠人さんが答えました。
「こぼしたら?」
「拭けばいい」
「また?」
「また」
「日向さんも?」
「拭きますよ」
私は答えました。
「久世さんも?」
直哉はすぐに答えようとしました。
その気配がありました。
けれど声が出る前に、ほんの少しだけ止まりました。
「拭くよ」
直哉は言いました。
結衣さんは安心したように目を閉じました。
悠人さんも、それ以上は何も言いませんでした。
私は直哉を見ませんでした。
見れば、今の間を見たことを伝えてしまいそうでした。
子どもたちが眠ったあと、居間へ戻ると、机はもう乾いていました。
床も乾いています。
水をこぼした跡はありません。
布巾も洗われて、干してありました。
何も残っていないはずでした。
それなのに、居間は少し違う部屋のように見えました。
直哉は椅子に座っていました。
座っているだけで、何もしていませんでした。
私は向かいに座りました。
しばらく、どちらも話しませんでした。
時計の音が聞こえました。
台所の方から、水が一滴落ちる音がしました。
それだけで、結衣さんの顔を思い出しました。
怒ってない?
あの声が、まだ耳に残っています。
「さっき」
直哉が言いました。
私は顔を上げました。
「僕が拭くって言った時」
「はい」
「千鶴、すぐ大丈夫って言った」
「はい」
「大丈夫じゃなかっただろ」
声は強くありませんでした。
でも、薄く削れたような声でした。
「水を拭くだけです」
「そういう話じゃない」
直哉はすぐに言いました。
その速さに、私は少し黙りました。
直哉も、自分の声が早かったことに気づいたようでした。
目を伏せます。
「ごめん」
「謝らないでください」
「でも」
「水を拭くだけです」
私は同じ言葉を繰り返しました。
繰り返せば繰り返すほど、違う話になっていくのが分かりました。
水を拭くことではありません。
直哉も分かっています。
私も分かっています。
でも、そこから先の言葉を出すと、悠人さんの顔や、結衣さんの声や、三枝さんの名前まで一緒に出てきてしまう気がしました。
だから、水を拭く話にするしかありませんでした。
「千鶴」
「はい」
「一人で全部やろうとしなくていい」
「全部は、やっていません」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味ですか」
聞いたあとで、直哉が困るのが分かりました。
どういう意味かを、直哉も言えないからです。
私が一人で抱えている。
直哉が支えたい。
でも、直哉も支えられる側ではいられない。
私たち二人が、同じ子どもの前で一瞬ずつ遅れる。
それを言葉にできるはずがありません。
「僕ができることは、やらせてほしい」
直哉は言いました。
慎重な言い方でした。
壊れやすいものを持つ時のような声です。
「分かっています」
「分かってない」
直哉の声が少しだけ低くなりました。
私は目を上げました。
直哉はすぐに唇を結びました。
言いすぎたと思ったのだと思います。
「ごめん」
「謝らないでください」
「それも、さっきから言ってる」
「はい」
「謝らないでって言われると、僕は何も言えなくなる」
直哉はそこで、小さく息を吐きました。
「謝りたいわけじゃないんだと思う」
私は黙って聞いていました。
「謝れば済むと思ってるわけでもない」
「はい」
「でも、謝る以外の言葉が出てこない」
直哉の手が、机の上で少し動きました。
私に伸ばすのではなく、自分の指を押さえるように。
「僕は、ちゃんとやりたかった」
直哉は言いました。
「君たちをここに迎えて、普通に暮らして、普通に朝が来て、普通に夜になって」
「はい」
「それができると思ってた」
過去形でした。
私はそのことに気づきました。
直哉も気づいたようでした。
少しだけ、顔が歪みます。
「今も、できないって言いたいわけじゃない」
「はい」
「でも」
その先が続きませんでした。
直哉は、続ける言葉を探していました。
見つからないのではなく、見つけたくないようにも見えました。
きっと、その先には直哉自身が見たくないものがあります。
水城さんが言った言葉。
周りの目。
目を覚ませという声。
自分が三人を受け入れたという事実。
それを、これからもずっと抱えていけるのかという問い。
その全部を、直哉は部屋の外に置いてきたつもりだったのかもしれません。
でも、部屋の中にもありました。
悠人さんの返事の中に。
結衣さんの確認の中に。
私の沈黙の中に。
「直哉も、大丈夫ではありません」
私は言いました。
言うつもりではありませんでした。
でも、言いました。
直哉の顔が止まりました。
「私だけではありません」
続けてしまいました。
「直哉も、返事が遅れる時があります」
部屋が静かになりました。
言ってしまった。
触れないようにしていた場所に触れてしまった。
直哉は何も言いませんでした。
机の上を見ています。
さっきまで水が広がっていた場所です。
もう乾いている場所です。
「……ごめんなさい」
私は言いました。
「言うことではありませんでした」
「違う」
直哉は低く言いました。
「違わないです」
「違う」
直哉は顔を上げました。
「千鶴が謝ることじゃない」
「でも」
「僕がちゃんとできてないだけだ」
その言い方が、胸に刺さりました。
「ちゃんと、とは何ですか」
直哉は答えませんでした。
「直哉がちゃんとすれば、私が遅れなくなるんですか」
「そうじゃない」
「直哉がちゃんとすれば、直哉は遅れなくなるんですか」
「千鶴」
「直哉がちゃんとすれば、悠人さんも結衣さんも、何も気にしなくなるんですか」
直哉は唇を結びました。
私の声も、少し震えていました。
「そういう話ではないでしょう」
怒っているのではありません。
責めたいわけでもありません。
でも、直哉が自分だけを悪い場所に置くたびに、私はそこから引き離される気がしました。
この家を作ったのは直哉だけではありません。
私はここに来ました。
子どもたちも、ここで眠りました。
四つの皿を並べました。
名前を呼びました。
笑いました。
幸せだと思った日もありました。
それを全部、直哉の責任にされると、私は何も選んでいなかったことになる。
けれど、選んだと言い切ることもできません。
私は、直哉に迎えに来てもらったからここにいます。
その事実が、どこまでも残っています。
「このままだと」
私は言いました。
言ってから、止まりました。
直哉が私を見ました。
続きを待っていました。
私は続けるべきではなかったのかもしれません。
でも、もう止まれませんでした。
「直哉まで、壊れます」
直哉の表情が変わりました。
少しだけです。
けれど、確かに変わりました。
そこを見られたくなかったのだと、その瞬間に分かりました。
「それは」
直哉は言いました。
「僕が決めることだ」
「はい」
「僕は、千鶴たちと暮らすと決めた」
「はい」
「勝手に壊れるみたいに言わないでくれ」
「勝手にではありません」
「じゃあ何」
「見えます」
直哉が黙りました。
「直哉が、大丈夫ではないことが、見えます」
その言葉は、直哉を助けるためのものではありませんでした。
むしろ、逃げ場を奪う言葉だったのかもしれません。
直哉は目を伏せました。
何かを飲み込もうとしているようでした。
「見えないようにしてたんだよ」
小さな声でした。
「千鶴に、見えないように」
「はい」
「悠人さんと結衣さんにも、見えないように」
「はい」
「それくらい、させてくれよ」
その言葉に、胸が痛みました。
直哉は、怒鳴っていません。
責めてもいません。
ただ、疲れていました。
疲れた人の声で、そう言いました。
「直哉」
「僕は、そんなに頼りない?」
「そういう話ではありません」
「じゃあ、どういう話なんだ」
直哉の声が少しだけ強くなりました。
「千鶴が遅れるのを見て、僕は何も言わない方がいいのか」
「……」
「悠人さんがこっちを見る時、僕が遅れるのも、見なかったことにしてほしいのか」
直哉はそこまで言って、顔を歪めました。
自分でその言葉を言ってしまったことに、傷ついたようでした。
初めて、直哉自身の口からそこに触れました。
悠人さんを見る時に、直哉も遅れること。
それを、直哉も分かっていたこと。
「ごめん」
直哉は言いました。
「今のも、違う」
「違いません」
「違う」
「違わないです」
私は首を横に振りました。
「そこにあることを、ないことにはできません」
直哉は何も言いませんでした。
私は続けました。
「でも、言葉にしたくありませんでした」
「うん」
「言葉にしたら、悠人さんを傷つける形になるから」
直哉の目が少し揺れました。
「結衣さんも」
「うん」
「直哉も」
直哉は唇を結びました。
「千鶴もだろ」
私は答えられませんでした。
直哉は、それを見ていました。
「このまま続けたら」
私は言いました。
「直哉は、もっと大丈夫なふりをします」
「……」
「私も、もっと普通のふりをします」
「……」
「悠人さんは、もっと早く気づくようになります」
「やめてくれ」
直哉が言いました。
小さな声でした。
「それ以上、言わないでくれ」
私は口を閉じました。
直哉は片手で目元を押さえました。
泣いているわけではありません。
ただ、見られたくない顔を隠すような動きでした。
「分かってる」
直哉は言いました。
「分かってるんだよ、そんなこと」
私は息を止めました。
「でも、分かってたらどうしたらいいんだ」
直哉の声が震えました。
「僕は、連れてきたんだ」
「はい」
「迎えに行った」
「はい」
「ここに住めるようにした」
「はい」
「家具も、服も、子どもたちの寝る場所も、全部」
「はい」
「それで、三ヶ月も経たないうちに、やっぱり無理でしたって言えばいいのか」
私は何も言えませんでした。
直哉の言葉は、責めているようで、半分は自分に向いていました。
自分で自分を殴るように、直哉は言葉を続けていました。
「そんなの」
直哉は言いました。
「僕が一番、嫌だった形だ」
「直哉」
「救ったつもりになって、結局できませんでしたって」
その言葉は、直哉の中にずっとあったのかもしれません。
誰かに言われたのではなく。
直哉自身が、どこかで恐れていた言葉。
「そんなこと、千鶴に言わせたくなかった」
「私は」
「言わせたくなかったんだよ」
直哉は私を見ました。
その目は苦しそうでした。
怒っているというより、もう自分で止められなくなっている目でした。
「僕が選んだんだ」
直哉は言いました。
「僕が、千鶴たちをここに連れてきた」
「はい」
「だから、僕がちゃんとしないといけない」
「それは違います」
「違わない」
「違います」
「じゃあ何なんだよ」
直哉の声が、少し大きくなりました。
すぐに子ども部屋の方を見ます。
二人とも起きてはいませんでした。
直哉は声を落としました。
けれど、落としきれないものが残っていました。
「僕が決めたことだろ」
「はい」
「僕が選んだことだろ」
「はい」
「なのに、千鶴が、僕のためにやめた方がいいみたいに言うのは」
「直哉のためだけではありません」
私も、もう止まれませんでした。
「悠人さんと結衣さんのためでもあります」
直哉の顔が止まりました。
「ここで、みんなが気を遣いながら暮らすことが、あの子たちのためになるとは思えません」
「千鶴」
「私のためでもあります」
言ってから、胸の奥が痛みました。
でも、言わなければなりませんでした。
「私は、直哉に選ばれてここにいるだけでは、立てません」
直哉は、何か言おうとして止まりました。
それから、顔を歪めました。
「そういう言い方をするのか」
「……」
「僕が、千鶴をただ選んだだけみたいに」
「そうは言っていません」
「聞こえる」
「直哉」
「聞こえるんだよ」
直哉は苦しそうに笑いました。
笑いではありませんでした。
「僕は、そんなつもりじゃなかった」
「分かっています」
「分かってない」
「分かっています」
「分かってないだろ」
直哉の声が低くなりました。
「分かってたら、そんなふうに言わない」
私は何も言えませんでした。
「僕が、どれだけ」
そこで一度、直哉は止まりました。
本当に止まろうとしました。
目を閉じて、息を吸って、言葉を飲み込もうとしました。
でも、飲み込めませんでした。
「選んでやったのに」
部屋が止まりました。
その言葉だけが、机の上に落ちました。
直哉の顔から、血の気が引いていくのが分かりました。
「違う」
直哉はすぐに言いました。
「今のは違う」
私は何も言えませんでした。
「千鶴、違う。違うんだ」
直哉が立ち上がりかけました。
でも、すぐに止まりました。
近づいていいのか、分からなかったのだと思います。
「ごめん」
直哉は言いました。
「今のは、本当に違う」
私は直哉を見ていました。
怒りは、すぐには来ませんでした。
涙も出ませんでした。
ただ、耳に残っていました。
選んでやったのに。
その言葉が、部屋の中にありました。
消えませんでした。
「……聞こえました」
私が言うと、直哉の顔が固まりました。
「千鶴」
「聞こえました」
もう一度言うと、それ以上の言葉は出ませんでした。
直哉は立ったまま、何もできない顔をしていました。
私も座ったまま、動けませんでした。
子ども部屋の方では、小さな灯りがついています。
悠人さんと結衣さんは眠っています。
水をこぼしたことを気にしていた結衣さん。
明日も拭くのかと聞いた結衣さん。
大丈夫だと言っていた悠人さん。
その二人が眠っている部屋のすぐ隣で、今の言葉が落ちました。
「今日は」
私は言いました。
声が、自分のものではないみたいでした。
「もう、聞けません」
「千鶴、待って」
直哉が言いました。
私は立ち上がりました。
「今日は、聞けません」
「ごめん」
「分かっています」
「違うんだ」
「分かっています」
分かっていました。
直哉が今の言葉を言いたかったわけではないこと。
言ってすぐに後悔していること。
本当に違うと思っていること。
全部、分かっていました。
でも、聞こえたことは、聞こえなかったことにはなりません。
「今日は、聞けません」
私はもう一度言いました。
直哉は、それ以上追ってきませんでした。
私は子ども部屋の前で足を止めました。
中には入りませんでした。
扉の向こうに、小さな寝息があります。
灯りがあります。
私はその前に少しだけ立って、それから自分の部屋へ向かいました。
扉を閉めても、部屋は静かになりませんでした。
耳の奥に、まだ言葉が残っていました。
選んでやったのに。
直哉の声でした。
直哉の声で、聞こえました。




