第26話返事
雨はやんでいました。
けれど、窓の外はまだ白く曇っていて、道の端には水たまりが残っていました。
結衣さんは窓のそばに立って、それを見つけるたびに指をさしました。
「みず」
「水たまりですね」
「あめ、ない?」
「今は降っていません」
「じゃあ、そと?」
「今日は、まだ様子を見ましょう」
「ようす」
「地面が濡れていますから」
「ぬれてる」
結衣さんは窓に額がつきそうなほど近づいて、外を見ていました。
悠人さんは部屋の真ん中に積み木を出していました。
昨日の絵本に出てきた橋を作るのだと言っていました。
四角い積み木を二つ置いて、その上に細長い積み木を渡します。
けれど、少し触るとすぐに落ちました。
「落ちる」
「支えるところが細いのかもしれません」
「じゃあ、ここ」
悠人さんは積み木を一つ増やしました。
結衣さんも窓から離れて、積み木の方へ来ます。
「はし?」
「橋」
「わたる?」
「まだ落ちる」
「だめ?」
「直す」
悠人さんは真剣な顔で積み木を並べ替えていました。
その顔を見ていると、何も考えずにいられる時もあります。
ただ、悠人さんが何かを作っている。
結衣さんがそれを見ている。
私はそばにいる。
それだけの時間として、そこにいられる時もあります。
でも、その日は、まだ少し息の仕方を探していました。
直哉は台所で水を入れていました。
コップの音がして、こちらへ近づいてきます。
「橋?」
直哉が聞きました。
「うん」
悠人さんは積み木から目を離さずに答えました。
「落ちる」
「じゃあ、強くしないとね」
「ここ?」
悠人さんは積み木を一つ手に取って、私の方を見ました。
「日向さん、ここでいい?」
その声はいつも通りでした。
私に聞いている声。
答えを待っている声。
私は積み木を見ました。
悠人さんの手。
積み木を持つ指。
少し曲げた膝。
真剣な横顔。
返事をしようとしました。
「そこなら、いいと思うよ」
先に直哉の声がしました。
悠人さんは直哉を見ました。
それから、私を見ました。
私は一拍遅れて、うなずきました。
「はい。そこなら、いいと思います」
「じゃあ、ここ」
悠人さんは積み木を置きました。
橋は少しだけ安定しました。
結衣さんが指でつつこうとして、悠人さんに止められます。
「まだ」
「まだ?」
「できてから」
「できてない?」
「まだ」
「じゃあ、待つ」
結衣さんはしゃがんで、両手を膝に置きました。
待っているつもりなのだと思います。
直哉はコップを机に置きました。
何も言いませんでした。
私も何も言いませんでした。
さっきの返事は、ただ少し重なっただけです。
子どもたちには、何も変わっていないように見えたと思います。
けれど私は、直哉の声の速さを覚えていました。
直哉が、私より先に答えたことを。
直哉も、自分の声が先に出たことを覚えているようでした。
「できた」
悠人さんが言いました。
積み木の橋は、少し傾いていましたが、落ちてはいません。
結衣さんが顔を近づけます。
「わたる?」
「まだ車がない」
「くるま」
「これ」
悠人さんは小さな木の車を持ってきました。
いつか買ったものです。
青い線が入っています。
その車を橋の手前に置き、慎重に押しました。
車は橋の上で少し止まりました。
悠人さんは息を詰めるようにして見ています。
結衣さんも口を開けたまま見ていました。
車は、ゆっくり橋を越えました。
「通った」
悠人さんが言いました。
「通りましたね」
「おちない」
「落ちませんでした」
「久世さん、見た?」
悠人さんが振り返りました。
直哉はすぐ近くにいました。
見ていました。
けれど返事が、ほんの少しだけ遅れました。
「……見たよ」
直哉は言いました。
「うまくできたね」
悠人さんはうれしそうに橋を見ました。
私は直哉を見ていました。
直哉の顔は、いつもと同じように見えました。
子どもたちに向ける、やわらかい顔です。
でも今の返事が少し遅れたことを、私は見ていました。
直哉も、分かっているようでした。
視線が一瞬だけ合って、すぐに外れました。
「もう一回」
結衣さんが言いました。
「次は結衣さん」
「押すだけ」
「おす」
「強くしない」
「つよくしない」
結衣さんは慎重に車を押しました。
慎重すぎて、橋の手前で止まります。
「動かない」
「もう少し」
「ちょっと?」
「ちょっと」
悠人さんが隣から指を出そうとして、途中で止めました。
「自分でやる?」
「やる」
結衣さんは舌を少し出して、車を押しました。
車は橋を渡る前に横へ曲がり、積み木の土台にぶつかりました。
橋は落ちませんでした。
「ぶつかった」
「橋は無事です」
「むじ」
「壊れていません」
「もう一回」
「はい」
結衣さんは何度も車を押しました。
悠人さんは、そのたびに橋の位置を直しました。
直哉は少し離れたところから見ていました。
私はその横に座っていました。
部屋の中はいつも通りです。
子どもたちの声。
積み木の音。
車が橋を通る小さな音。
直哉の気配。
私の返事。
何も崩れていないように見えるのに、返事の順番だけが少しずつ気になりました。
昼食の支度をする頃になって、積み木はいったん片づけることになりました。
結衣さんは、まだ車を橋に通したがりました。
「あとで」
「あとでできますよ」
「はし、なくなる?」
「片づけたらなくなります」
「いや」
「ご飯のあとで、また作れます」
「同じ?」
「同じにはならないかもしれません」
「じゃあ、いや」
結衣さんは橋の前に座り込みました。
悠人さんが隣にしゃがみます。
「写真みたいに覚えればいい」
「しゃしん?」
「ここが二つで、上が長いやつ」
「ふたつ」
「そう。あとで作れる」
「悠人さん、できる?」
「できる」
「じゃあ、いい」
結衣さんはあっさり納得しました。
私は小さく笑いました。
「悠人さんは頼りにされていますね」
そう言うと、悠人さんは少し照れたようにしました。
「覚えてるだけ」
「それがすごいです」
「日向さんも覚えた?」
「少しだけ」
「じゃあ、あとで一緒に作る」
「はい」
返事は、今度は遅れませんでした。
遅れなかったことに、少しだけ安心しました。
けれど安心したこと自体が、どこか不自然でした。
積み木を箱に戻してから、食事の支度を始めました。
結衣さんは、まだ橋のことを気にしていました。
「あとで、はし?」
「あとで作りましょう」
「くるま、通る?」
「通る橋にしましょう」
「日向さんも?」
「はい」
結衣さんはそれで少し安心したようでした。
悠人さんは皿を並べるのを手伝いました。
「これは、こっち?」
「それは結衣さんの分ですね」
「こっちは久世さん?」
「はい」
「日向さんは?」
「私の分は、こちらです」
悠人さんは皿を一枚ずつ置いていきました。
結衣さんの場所。
悠人さんの場所。
直哉の場所。
私の場所。
「四つ」
「四つです」
「いち、に、さん、よん」
「合っています」
「今日も四つ」
「はい」
「明日も?」
「明日も、四つです」
悠人さんは、それで満足したようにうなずきました。
数を確かめたかっただけなのだと思います。
いつも通りに四つあることを。
結衣さんは箸を持ちたがりましたが、途中で一本を落としました。
「あ」
「落ちましたね」
「洗う?」
「洗いましょう」
私が手を伸ばすより先に、直哉が拾いました。
「僕が洗ってくるよ」
「ありがとうございます」
「これくらい」
直哉はそう言って、台所へ向かいました。
落ちた箸を拾って、洗う。
それは本当に、何でもないことでした。
結衣さんは、直哉の手元を追いかけるように見ていました。
「ぬれた?」
「濡れたよ」
「ふく?」
「拭いてから戻す」
「じゃあ、まつ」
結衣さんは、一本だけ空いた場所を見ていました。
そこに直哉が戻ってくるのを待っています。
悠人さんは、机の上を見てから私を見ました。
「日向さん」
「はい」
「あとで作る橋、さっきと同じ?」
さっきの形を覚えているかを、確かめるような顔でした。
私はすぐに答えました。
「同じにはならないかもしれません」
「でも、橋?」
「はい。橋です」
「車、通る?」
「通るように作りましょう」
悠人さんはうなずきました。
直哉が、拭いた箸を持って戻ってきました。
「はい」
「ありがと」
結衣さんは小さく言いました。
「どういたしまして」
直哉は箸を元の場所に置きました。
机の上に、皿が四つ、箸が四膳並びました。
いつもの数です。
「久世さんも、あとで橋見る?」
悠人さんが聞きました。
直哉は一瞬だけ、箸を置いた手を止めました。
それから、悠人さんを見ました。
「見るよ」
ほんの少しだけ間がありました。
けれど悠人さんは、気にしていないようでした。
「じゃあ、あとで」
「うん」
直哉はそう答えました。
私はその横顔を見ました。
何かを言う場所ではありませんでした。
食事の支度は、まだ途中です。
結衣さんは椅子に座ろうとして、少し椅子を引きすぎています。
悠人さんは皿がずれていないかを見ています。
直哉は台所へ戻り、残りのものを運ぼうとしています。
私は布巾を取りました。
机の端を拭いて、皿の位置を少しだけ直しました。
食事の支度は、そのまま続きました。
食事の間、子どもたちは橋の話をしていました。
結衣さんは、車が曲がったことを何度も言いました。
「ぶつかった」
「でも壊れなかった」
悠人さんが言います。
「つよい?」
「橋が強い」
「結衣さんも?」
「結衣さんは押すのが強い」
「つよい」
結衣さんは少し誇らしそうでした。
直哉はそれを聞いて笑いました。
私も笑いました。
笑うことはできました。
返事もできました。
けれど、笑ったあとで、少しだけ息が浅くなることがありました。
直哉も、時々水を飲む間が長くなりました。
誰もそれを指摘しませんでした。
午後、結衣さんは少し眠そうにしていました。
悠人さんは橋をもう一度作ると言って、積み木を出しました。
午前中と同じように作るつもりでしたが、少しだけ形が違いました。
「ここ、違う」
悠人さんが言いました。
「さっきはどうでしたか」
「もっと、こっち」
「覚えていますね」
「でも、同じにならない」
「同じでなくても大丈夫です」
「でも、結衣さんが同じって言った」
結衣さんは半分眠そうな顔で言いました。
「おなじ」
「同じにする」
悠人さんは少し焦ったように積み木を動かしました。
細長い積み木が落ちました。
音がして、結衣さんがびくっとします。
「あ」
「大丈夫ですよ」
私は言いました。
「落ちただけです」
悠人さんは落ちた積み木を持っていました。
口を結んでいます。
また同じ顔だと思いました。
その瞬間、返事が必要なわけではなかったのに、私は少し動けませんでした。
直哉が近づきました。
「焦らなくていいよ」
直哉の声は穏やかでした。
悠人さんは直哉を見ました。
「同じにならない」
「同じじゃなくても、橋にはなる」
「でも」
「さっきの橋じゃなくても、今の橋でいいと思う」
直哉はそう言いました。
悠人さんはしばらく積み木を見ていました。
「今の橋」
「うん」
「日向さんも?」
悠人さんが私を見ました。
私は、今度こそすぐに答えようとしました。
直哉も、私を見ていました。
私が答えるのを待っている。
そう分かりました。
「はい」
私は言いました。
「今の橋でいいと思います」
悠人さんはうなずきました。
それから、積み木をもう一度置き直しました。
橋は午前中より低くなりました。
でも、車は通れました。
「通った」
「通りましたね」
「低いけど」
「低い橋ですね」
「低い橋でも、通る」
「はい」
結衣さんは寝具の方へ連れていくと、すぐに横になりました。
眠くないと言いましたが、目はほとんど閉じています。
悠人さんは、低い橋をしばらく残しておきたいと言いました。
「結衣さん、起きたら見る」
「そうしましょう」
「壊さない?」
「壊しません」
「久世さんも?」
「壊さないよ」
直哉が答えました。
悠人さんは安心したように、橋の周りを少し片づけました。
橋だけを残して、ほかの積み木を箱に入れます。
低い橋が、部屋の真ん中に残りました。
夕方まで、その橋はそこにありました。
誰も踏まないように、少し遠回りをしました。
結衣さんは起きてすぐに見に行きました。
「あった」
「ありましたね」
「ひくい」
「低い橋です」
「くるま?」
「あとで通しましょう」
「あとで」
結衣さんは満足したようでした。
悠人さんも、少し誇らしそうにしていました。
私はその橋を見るたびに、今日の返事を思い出しました。
直哉が先に答えたこと。
私が遅れて答えたこと。
直哉が遅れて答えたこと。
私がそれを見たこと。
それらは、どれも小さなことです。
小さすぎて、誰かに説明すると、きっと大げさに聞こえます。
でも部屋の真ん中に残った低い橋のように、避けようと思えば避けられるのに、そこにあることだけは分かりました。
夜、子どもたちはいつもより早く眠りました。
結衣さんは眠る前に、橋を片づけたかどうかを気にしました。
「はし?」
「箱に入れました」
「なくなった?」
「今日は片づけました」
「また?」
「また作れます」
「ひくい?」
「低くても、高くても」
「くるま、通る?」
「通る橋にしましょう」
結衣さんはそれで安心しました。
悠人さんは隣で、静かに聞いていました。
「明日も、作る」
「はい」
「日向さんも見る?」
「見ます」
「久世さんも?」
「見るよ」
直哉が入口から答えました。
悠人さんはうなずきました。
「じゃあ、いい」
それから、子どもたちは眠りました。
居間へ戻ると、直哉は椅子に座っていました。
机の上には何もありません。
積み木も、車も、片づけてあります。
部屋は広く見えました。
私は向かいに座りました。
直哉は少しだけ顔を上げました。
「今日は」
直哉が言いかけました。
その先は続きませんでした。
私は、続きを待ちました。
でも直哉は言いませんでした。
「疲れましたね」
私が言うと、直哉は少し遅れてうなずきました。
「うん」
それだけでした。
今日、何に疲れたのか。
どの返事が遅れたのか。
誰が何を見たのか。
そういうことは、何も言いませんでした。
言えば、形になってしまいます。
形になれば、それは部屋の中に残ります。
もう残っているのに、さらに言葉まで置くことが、今はできませんでした。
「休みましょうか」
私は言いました。
「そうだね」
直哉は答えました。
椅子を引く音が、少し大きく聞こえました。
直哉は立ち上がって、でもすぐには部屋を出ませんでした。
「千鶴」
「はい」
返事は、遅れませんでした。
直哉は少しだけ私を見ました。
それから、困ったように笑いました。
「おやすみ」
「おやすみなさい、直哉」
今度も、返事は遅れませんでした。
遅れなかったことに安心しかけて、私はその安心を飲み込みました。
子ども部屋の方には、小さな灯りがついています。
居間の灯りを消すと、廊下の向こうにそれだけが残りました。
今日作った橋は、もう箱の中です。
低くても、車は通りました。
でも、明日も同じように通れるかは分かりません。
私はしばらく、暗くなった部屋に立っていました。
返事ができることと、間に合うことは、同じではないのだと思いました。




